高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








男の役割と女の役割 - 1 ・・・・・ キリストの言葉から





 1.心温まる話
 2.心が寒くなる話、恐ろしくなる話
 3.結婚・離婚
 4.なぜ、女は長い髪を誇りとするのであるか
 5.聖書と私
 6.男女は平等ではないのか






 1.心温まる話

 昨年11月、筑波の研修会が終わって私はある所に行った。
 その時そこのご主人が次のような話をして下さった。

 そこの家族構成は次の通りである。
父/母/長男-高校1年/長女-小学校6年/次女-小学校4年/三女-小学校2年 ・・・ 合計6人
今頃子供4人はめずらしい方である。
「家内が研修会に行ったその翌日、長男はいつも弁当を持って行くんですが家内がいないので、「お前は明日はパンでも買って食べなさい」と言ったら、あの女の子たちが、「お父さん、それはダメ、私達がお弁当作る」と言うんです。「いや、お兄ちゃんは朝が早いから、お前達は寝ていなさい」と言ったんですが、あの三人が六時に起きてお兄ちゃんの弁当を作って持たしてやったんです。我が子ながら立派なものだと思いました。そうして言うのです。「女は男に、お昼にパンを食べさせるようじゃダメ、朝もチャンとご飯を食べさせてやらなければ」そのお母さんは言われた。「長男は、あの小さな妹達が弁当を作ってくれたことにすっかり感激して、学校で「俺はいい妹達を持って幸せだ。妹達が弁当作ってくれた」と言ったら同級生達が「その弁当を見せろ」とみんな寄って来たと言うのです」と。私が泊まったその日の夕食も、その女の子達が作ってくれたのであった。

 そのお母さんという人は、高校二年生までは、お父さんが早く亡くなられたせいもあって親に反抗期であったのが、私が研修会を開いて「汝の父母に感謝せよ」という話をして以来、すっかり考え方を変えて、結婚してからはずっと「女の正しい生き方とは」ということを追及して来て四人の子の母親である。

 そのお母さんは言うのである。
 「今のお母さんたちの考えは間違っていると思うのです。子供が小学校へ行くようになったから暇になったから働きに出ると言っている。子供が小学校、中学校へ行っている時分が一番家庭的な躾や家事、特に女の子は女の役割を教える時期だと思うのです。PTAの役員を今しているんですが、殆んどのお母さんたちが働きに行っていて、働きに出ていないのは私だけです。少しばかりの金を求めて家を出て子供を台なしにする。私は主人の給料はそんなに多くないですが、それでも結構家族六人が幸せにやって行けます。

 ある時、私の家にPTAの婦人幹部四人が集まったのです。その中に一人、ご主人が一流商社に勤めている人があったんですがその集まりが終わった後、その人から電話があったんです。
 「あなたの家は瞬間湯沸かし器もないし電気炊飯器もないし、あなたのバイタリティーは全く魅力的だわ」と。女というものは、夫を生かし子供を生かして行く事の中に女の幸せはあると思うのです」と。
 その人は、夫や四人の子供にかかりきりでいる訳ではない。PTAの役員もすれば勿論正法会で世話もして、人が集まる時には二十人分位の昼飯は電気炊飯器なしでもサッと作って出すし、趣味として絵や刺しゅうなども立派に勉強しているし全く感心する。

 そのご主人は言われる。
 「男が客を連れて帰った時、女に嫌な顔をされることほど癪に障ることはないと思うのですが、
  その点うちの家内は感心ですな。何人連れて帰っても、ひとつも嫌な顔をせずもてなしてくれますから、
  これはありがたいです」



 2.
心が寒くなる話、恐ろしくなる話

 結婚してまだ半年にもならないというのにその妻は、朝の食事も作らず寝床の中から「行ってらっしゃい」と言うということである。駅で牛乳瓶を片手にパンの立ち喰いをやったり、ソバをすすったりしている人が相当に多いのは、殆んどがそういう奥さんを持っているのではなかろうか。夫にそんなことをやらせていたのでは、若いうちこそそれでいいかもしれないが夫の体は早くくたびれてしまうのではなかろうか。夫が早くダメになって困るのはその妻なのではなかろうか。

 夫のことも考えないエゴの固まりである若い妻たちに、お兄ちゃんに朝の食事をさせてちゃんと弁当を持たせてやった三人の小学生の話を聞かせてやりたい。

 私は今の若い妻たちが吸血鬼に見えたことがあった。
 ある所へ講演に行った。その時に聞いた話である。その人は長男に嫁をもらった。その奥さんは銀行に十年勤めていた人だそうであるが、新婚旅行から帰って来たその翌日、そのお母さんに「あの人の生命保険はいくら描けてあるんですか」と聞いたのだそうである。生命保険というものは、夫の側が、もし万一ということを考えて妻への愛情として自発的に掛けるのは美しいと思うが、妻の側から要求するのは夫の心を寒くさせるのではなかろうか。気の強い妻から強制的に保険を掛けさせられて「私は生命保険を掛けるために働いているようなものです」とやけ酒を飲んでいる人の話を聞いた事がある。その人の奥さんはそのご主人の身内の人達に「うちのお父ちゃんが死んでも保険が何千万円掛けてあるから、私は生活に困らないからいいですよ」と言っているのだそうである。無神経というのか非常識さにも程がると思うことであった。

 もっと腹立たしい悲しい思いをしたのはある新聞の「定年前の夫を持った妻の中には夫の退職金を目当てに離婚をして、その退職金を慰謝料としてもらって優雅な暮らしをしようと待ち構えている妻が増えつつある」という記事を読んだ時であった。定年で仕事も辞め、退職金を妻に巻き揚げられた男はその後の人生をどうやって生きて行くのであろうか。

 ある人達は「そんな女はごく僅かですよ、気にすることはないですよ」と言うかも知れない。しかし、私は全国を歩いて、そういう妻が増えている事を聞いているのである。ある人も言っておられた。「応接セットを動かして掃除しているうちに、ギックリ腰になって動けなくなってしまった。近所にいる長男の嫁に電話して「ちょっと鍼灸医の所まで連れて行ってくれない」と言ったら、「私はお母さんのために嫁に来たんじゃありません。私は○○さんの嫁に来たんです。私は○○さんを独占したいんです」それを聞いて私は悲しくて悲しくて、嫁が私の家に来た時は、その日の夕方の分にと買って来た野菜や缶詰めも持たせてやったりしていたのに」と嘆いていられた。

 
どうしてこういう若い女達が増えて来たのであろうか。終戦後の民主主義、男女平等という風潮の中で、学校教育でも男の役割と女の役割は教育されず、特に家庭において、親は子供を甘やかすだけで女の役割が躾けられていない結果だとしか言いようがない。

 こんな話を聞かされるたびに昔の人が「嫁を貰うなら親を貰え」と言った言葉は真実だと思うことであった。

 そういう若い女の人達が増えて来ているのは、その人達が悪いというよりも、その人達は女の役割というものを教えられていないからだと思う。知っていればそういう事はなかったのに知らなかったばかりに不幸になった失敗したということは沢山ある。だからお釈迦さまは、「無明」即ち「知らない」と言うことが苦しみの根源であると説かれたのである。キリストは男と女の役割についてどのように教えていられたかを考えてみたい。



 3.結婚 離婚


 
マタイ伝 第十九章
 「人を造り給いしもの、元始より之を男と女とに造り、而(しか)して、かかる故に、人は父母を離れ、その妻に合いて、二人のもの一體(いったい)となるべし。されば、はや二人にはあらず一體なり。この故に神の合わせ給いし者は、人これを離すべからず」


 コリント前書 第七章
 「われ婚姻したる者に命ず、命ずるものは我(キリスト)に非ず主(神)なり、妻は夫と別れるべからず。もし別れる事あらば、嫁がずしているか、又は夫と和らげ。夫もまた妻を去るべからず。女に不信者なる夫ありて偕(とも)にいることを可(よし)とせば、之を去るな。そは不信者なる夫は妻により潔(きよ)くなり、不信者なる妻は夫によりて潔くなりたればなり、然(さ)なくば汝らの子供は潔からず。然れば今は潔きものなり。不信者みずから離れ去らば、その離るるに任せよ。斯(かく)のごとき事あらば、兄弟または姉妹、もはや繋(つな)がるる所なし。神の汝らを召し給へるは平和を得させん為なり。妻よ、汝いかで夫を救い得るや否やを知らん、夫よ、汝いかで妻を救い得るや否やを知らん。唯おのおの主の分ち賜ふところ、神の召し給ふところに循(したが)ひて歩むべし」



 キリストは独身であって夫婦生活の経験はない。聖書を読んで思うことは、夫婦生活の経験を持たれなかったキリストが、夫と妻の在り方について実に的確な教えをしていられることである。そうしてその教えられる所は、お釈迦様が説かれたことと全く一致していることである。またそれは、日本の古神道が教えている男女の在り方、夫婦の在り方とも一致している事である。この男女・夫婦の在り方の一致点から見ても神理は一つであるといえるのである。


 
キリストの言葉を解説してみよう。

 マタイ伝 第十九章
 人を造り給いしものとは神のことである。神は元始にこの世界を陽と陰とに分けて造られ、人を男と女とに造られた。その男と女は夫となり妻となり、子を産んで父母となり子は成長して親と離れて結婚をし、二人は一体となる。だからその二人はもはや個々別々の二人ではなく一体である。このように結婚というものは、神のみ心によって結ばれたものなのであるから、自我をむき出しにして離婚をしてはならない。
 二人は一体となるということは、夫と妻とは心を一つにして生きなくてはならないということで、夫と妻の心が個々バラバラでいつも争い対立しているような事ではいけないということである。夫が出掛けるのに朝食も準備せず寝床の中から「いってらっしゃい」という妻は、夫の心と一つになっていない利己主義者で自我ばかりが強い女である。

 ともかく夫婦というものは心を一つにして生きて行かなければならないので、結婚というものは縁によって神が自然に結ばせられるのであるから、人が勝手に離縁させるという様な事はしてはならない。

 コリント前書 第七章
 「われ婚姻したる者に命ず、命ずるものはキリストにあらず、神なり」
 この言葉の中に私はキリストが神の権威を持ってこれこそが神理であるといっていられるその権威を感ずる。
 妻は夫と別れてはならない。解れる位だったら最初から結婚しなければいいのである。結婚というものは、夫と心を一つにして、この人生の目的を果たして行く事を決心してするものなのであるから、一旦、そう決心して結婚したからには妻は別れてはならない。だから必ず夫と調和しなさい。夫もまた勝手に妻を離婚するというようなことをしてはならない。

 妻が信仰を持っていて夫が信仰しない場合は、不信仰の夫は信仰している妻によって救われて行かなければならないのであり、また、夫が信仰していて妻が不信仰である場合は、その妻は夫の姿を見て救われて行かなければならないのである。そのようにして、お互いに相手の姿を見て心の勉強、救いの体験によって魂を成長させて行かなければならないのであるが、そういう事をせずお互いに反目ばかりしていると子供が色々と問題を起こして子供のことで困らされることになる。だから相手の良きを素直に認めて向上を心掛けるならば必ず救われて幸せになるのである。

 一方は正しい信仰をしているのに、一方は不信仰であるという場合、その不信仰をしている者が自ら進んで魂の勉強をしようとはせずに別れて行こうとする場合は、それは別れたいと言うままに分かれさせた方がよい。


 
キリストは先に、別れるくらいだったら結婚しない方が良いのだし結婚した以上はどんなことがあっても夫婦和解しなさいと教えられたのであるが、信仰していない者が信仰している者の足を引っ張って信仰している者の向上意欲を阻害し、その不信仰者が別れると言い出した場合は、その夫婦は一緒にいる限りお互いの魂を傷つけ合っていささかも人間性の向上にならないのであるから、そういう場合は離婚してもいいと言っていられるのである。

 新婚旅行から帰ってくるとすぐ夫の母に、「あの人はいくら生命保険を掛けているんですか」と言ったその新妻の夫は、結婚してまだそう長くならないのに、「わしは男として色々夢があったが、あいつに足を引っ張られてもうなんにも出来ない」と嘆いているというのである。私はこれを聞いた時、交尾が終わると雄を食い殺す雌のカマキリを連想した。昔は「弱き者よ、汝の名は女なり」と言ったが最近は「汝の名は男なり」と言わなければならないようになって来たようである。ともに極端から極端でよろしくない。中道でなければいけないのである。

 魂を傷つけ合って結婚以前よりは心を暗くして一生を終わりそうであったら別れて独身でまた縁があったら再婚して、少なくとも結婚する以前よりは心を明るく大きくして一生を終わらないと生きていた甲斐がないのである。
 たとえ夫婦の一方が信仰していないからと言って嘆く必要はないのである。もし不信仰の夫を持っているという人達は、そういう夫と結婚したことを嘆く必要はないのである。あなた方には、あなた方の心遣いと生活行為を通して如何にして夫を信仰の世界へ導くかという大事業が与えられてあるのである。その大事業に挑戦する事によってその妻の魂は向上していくのである。

 
神が人を造られたのは、神は争いを起こすことを欲していられるのではなくして、平和を招来せんことを望んでいられるのであるから、妻である方々よ、あなた方はどうして夫の心を平和にして上げられるのであろうか。また、信仰を持つ夫よ、あなたはどうして自分の妻の心を平和にしてやることが出来るのであろうか。それは唯々、神が定められた男女・夫婦の役割に従って行く以外にないのである。



 
4.なぜ、女は長い髪を誇りとするのであるか

 女は古代から長い髪の毛を持つことを誇りとしてきた。女は生まれながらにして長い髪の毛を持つものだと自然にそう思って誰も「なぜ女は男よりも長い髪の毛をしているのか」ということに疑問を持たなかった。

 日本では昔から「丈なす黒髪」とか「ぬば玉の黒髪」といって女は髪の毛を大事にして来た。昔の女性は、「夫に寝乱れた顔を見せてはならない」と、いつも夫より早く起きて寝乱れた髪をつくろい、ほんのりと薄化粧をして夫の起きるのを待ったものである。

 終戦後、男女平等と言うようになって女はみどりの黒髪をバッサリと切ってしまった。その黒髪と共に切り捨ててはならない大事なものまで切り捨ててしまったようである。その切り捨てた物は何かとこの文の中から読み取って欲しいと思う。

 女が男よりも長い髪の毛を持つことについてキリストは次のように言っていられる。
女が永い髪の毛を持っていることについて書かれたものは、このキリストの言葉以外には見当たらない。


 
コリント前書 第十一章
 我がキリストにならふ者なる如く、汝ら我にならふ者となれ。汝らは凡(すべ)ての事につきて我を憶え、且つ我が傳えし所をそのまま守るに因(よ)りて、我汝らを誉(ほ)む。されど我汝らが之を知らんことを願ふ。
凡ての男の頭(かしら)はキリストなり、女の頭(かしら)は男なり、キリストの頭(かしら)は神なり。全ての男は祈りを為し、予言を為す時、頭に物を被るは其の頭を辱(はずかし)むるなり。全ての女は祈りをなし、予言を為す時、頭に物を被らぬは其の頭を辱むるなり。これ薙髪(ていはつ)と異なる事なし、女もし物を被らずば、髪をも剪(き)るべし。されど髪を剪り或いは薙(そ)ることを女の恥とせば、物を被るべし。男は神の像(かたち)、神の栄光なれば、頭に物を被るべきにあらず、されど女は男の光栄なり。男は女より出でずして、女は男より出で、男は女の為に造られずして、女は男の為に造られたればなり。この故に女は御使(みつか)い達の故によりて頭に権(けん)の徴(しるし)を戴(いただ)くべきなり。されど主に在りては、女は男に由(よ)らざるなく、男は女に由らざるなし。女の男より出でし如く、男は女によりて出づ。而(しか)して万物は皆神より出ずるなり。汝等(なんじら)自ら判断せよ。女の物を被らずして神に祈るは宜(よろ)しき事なのか。汝ら自然に知るにあらずや。
男、もし長き髪の毛あらば恥ずべきことにして、女もし長き髪の毛あらばその光栄なるを。それ女の髪の毛は被り物として賜りたるなり。


 釈迦、キリストといわれる方は、神のみ心を誰よりも一番よく知って、その神の心を全人類に伝える使命を持たれた方であった。

 多くの宗教指導者達は誰々はこう言った。あの人はこう言ったといういい方をする。

 しかし釈迦、キリストは、それが神理である。神のみ心であると神の権能を持って言われるのである。それはまごう方なき(間違えようのない・確かな)絶対の神理である。

 
我がキリストとは、イエス自身の内に内在する神であり全知全能である宇宙の創造主である神である。その神の前に私が願うと同じように、私がいうことは神のみ心なのであるからあなた方はまた私に願いなさい。
 あなた方は、私が知っていることを皆あなた方に伝えたように、そのことを守って実行してゆくならば私はあなた方を祝福する。色々と私が教えたうちで特に次のことは良く知ってもらいたい。

 男の頭(かしら)の上には救世主があり、女の頭の上には男がある。救世主の上には全知全能の神がある。男は神に祈る時、また予言をする時頭にかむりものを被るということは男の頭であるキリストを辱めることになるのである。だから男は、そのままの心を持ってじかにキリストに、神に祈り且つまた予言をしなければいけない。

 しかし、女は祈りをしたり予言をしたりする時に、頭にかむりものを被らないということは、キリストを汚し、神を汚すことになるのである。それは頭をつるつる坊主に剃ったことと同じことになるのであるから女はかむりものを被らなければならない。もし、かむりものを被るということが出来ないならば髪を剪(き)ってつるつる坊主にするべきである。しかし、髪の毛を剪ってつるつる坊主に男のようにすることは女として恥ずかしいことだと思うのであったならばかむりものを被りなさい。

 男は神の姿に似せてつくられ、神の栄光を現わすためにつくられたのであるから頭にかむりものを被る必要はない。女は男の生命の栄光、尊厳の存在であって、男が女のために造られたことはないが、女は男のために造られたのである。


 キリストが出られたのはユダヤ教が大きな歪を持って説かれていた時代である。ユダヤ教では最初に男を造り、その男の肋骨を一本とって女をつくられたと説いていた。その為にこのような説き方をされたのである。しかしこの人間創造説は、男女の役割について説かれたものであって、男女ともに神の創造であり平等であることは直ぐ次にキリストが、男が女から生まれたということもなければ、女が男から生まれたということもない。女は男から生まれて来たのであるとこれまで永く伝えられてきたが、男もまた女からつくられたのであり、万物は皆神によってつくられたものであると言っていられることでわかる。

 キリストが出られた時代は、ユダヤ教が大きく歪められていて、キリストはそれを修正されるために出てこられたのであった。しかしやがてキリストはユダヤ教のラビの策略とローマ法王の命を奉ずる者によって磔刑になられるのである。そういう状勢の中で説かれたのであったから、なるべくユダヤ教徒達の反発を招かないように、かといって間違ったユダヤ教説に追随しないように苦心して説かれなければならなかった。だから、「されど主にありては」と前提して説かれなければならなかったのである。だからしてまた、「汝ら自ら判断せよ」と言わなければならなかったのである。

 
女の頭は男なりということは、妻という者は、神に祈る時に、自分の夫の生命を通し、夫に感謝し、夫を尊敬して祈らないと、その妻の祈りは効かれない。妻が夫を馬鹿にして夫を尻に敷いて祈ってもその祈りが効かれることは絶対にないということであり、それがウソであるかホントであるかは自分の廻りを見渡して見よ、そうすれば自然にそのことが判るであろうと言われるのである。

 女という者は、必ず夫の生命を通して祈らなければならないものであることの象徴として女は長い髪の毛を生まれながらにして自然に尊んで大事にすることになっているのである。だから、男が女みたいに長い髪の毛をしているということは男として恥ずべきことであるが、女が長い髪の毛を持っていることは誇りであり光栄とすべきであり、女は髪の毛を切るのを恥とするのである。


 女が夫を無視して何かを為したとしてもそのことの成功に反比例して、そのことの成功では償うことの出来ない不幸を背負い込んでしまっている例は私達の周りに沢山ある。
 子供は親の後ろ姿を見ている。父を無視して何でもやってしまう母を子供は絶対にいい母とは思わないのである。また子供が小さいうちは良いが、その子供が一人前になって来るとその子供は必ずそういう母親に反抗するようになる。

 終戦後、女が短く髪を切るようになって女らしくない女が増え、男が髪を長く伸ばすようになって男らしくない女みたいな男が増えてきた。女らしくない女は、夫や子供をダメにして自分が不幸になっているし、男らしくない女らしい男は女に甘えて女をダメにしている。自分は働かないで年上の女に働かせている女々しい男が増えて来ているがなまじっか男らしく振る舞って優しい男を食べさせている内に、子供まで出来てからその年下の優しい男に捨てられて泣いている年上の女を私は沢山知っている。

 男女平等と言う言葉に騙されて男が男らしさを、女が女らしさを捨ててしまった代償は余りにも大きかった。

 やる気のある能力を持った男が魅力を感ずるのは女らしい優しさを持った女である。まじめな女の人はまた、男らしさのない女々しい男には魅力を感じない筈である。

 夫と別れてもいいと思っている女の人はやる必要はないが、夫と共に生きたいと思っていられる女の人はキリストが教えていられるように、夫の生命を拝み、キリストの生命を拝み、そうして大宇宙大神霊たち神に祈って見られることである。その結果は必ず出て来る筈である。


 
子供のことで悩んでいるという女の人は、その子供を妊娠した時から現在まで、夫を夫として、親を親として立てなかったことを反省しなければならないのである。そのことに気づいて反省し、すべてに感謝できるようになれば治るべき病気は治るし勉強嫌いな子供は分相応に勉強もするようになるし家庭が明るくなり夫も生き甲斐を感ずるようになって来るのである。


 研修会の帰りに寄ったその人にとっては、子供が四人あっても、湯沸かし器や炊飯器はなくても、夫がお客を連れて来ても、とにかく何が起ころうと、ひとつも苦にならないばかりか、むしろ一つ一つが人生勉強として楽しみなのである。

 
釈迦・キリストが説かれた正法は、この人生を楽しみながら生きて行く極意の教えなのである。

 「女の頭は男なり」と言われたキリストの教えが間違いである。男女同権だからそんなバカなことはないと言われる人々は、この神理が事実であるかないか実験してみられるといいと思う。

 夫をバカにし、夫の言うことを聞かず、夫を軽蔑して祈って見られるといいのである。どう結果が出て来るか。それに反して、夫に感謝し、夫の心を尊重し、夫の意見に素直になって祈った時にどういう結果が出て来るか
正法は日常生活を大事にして行くのであるから事実を以て知ることである。



 
5.聖書と私

 私が教会の門をくぐったのは十八歳の時であった。
 父の病気によって向学の想いは断念しなければならなかった。鹿児島商業を卒業した仲間達はそれぞれ進学し就職して行った。病気の父を抱え、七人の弟妹たちを養ってゆかなければならない責任が小さな肩にのしかかっていた。その責任の重大さは感じていても、同級生達はそれぞれ飛び立って行ったのに、自分だけが鹿児島に残って家を継がなければならないことが、何か自分一人だけが取り残されたような気がして淋しかった。

 潜在的には鹿児島商業三年の時、女をこしらえて家を出た父を旅先で発見して背負い投げで投げつけた親不孝の罪の呵責があり、思秋期ではあるし恋愛、結婚という問題も考えない訳にはゆかなかった。病気の父と七人の弟妹を抱えて私の人生には絶対に失敗は許されないのであった。もし失敗すれば私は父の病気を治してやることが出来ないのは勿論、弟妹達を一人前にしてやることは出来ないのである。どうして自分だけがこんな運命に生まれついたのであろうか。運命はどうして決めらえるのであろうか。絶対に失敗しない生き方はどうすればいいのであろうか。この心の重荷を軽くする方法はないのであろうか。得意先の大人達に「人間は何のために生きるのか」を聞いてみても誰一人としてはっきり教えてくれる人はなく「まあ生まれて来たから死ぬ訳にはゆかないし、仕方なしに生きているのだ」

 そうした人生の悩みを求めて教会へ行ったのであった。
 牧師さんは主としてマタイ伝の山上の垂訓「幸いなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり、幸福なるかな、悲しむ者、その人は慰められん・・・・・・」と「天にいます我らの父よ、願わくば御名の崇められんことを・・・・・・」という主の祈りをせよと教えられ、キリスト教以外の宗教は邪教である。キリストを信じない者は永遠の地獄の火に投ぜられるのであると説かれるのであった。私は次のことに疑問を持った。「キリストだけが、人類の罪を贖うことが出来る救世主であったとしたら、神はなぜ人類がこの地上に誕生したその最初にキリストを降誕せしめなかったのであろうか。長い年月、人類が罪を犯すままに放置して置いて、なぜ今から二千年前にキリストを出して罪を救おうということをされたのであろうか。

 キリストが誕生する以前の人類の罪はどうしたら救われるのであろうか。キリスト教が日本に入ってきてから五百年にしか過ぎない。そうすれば我々日本人の祖先の全部はみな地獄だということになる・・・・・・」

「私が教会に行くことには父はご先祖様に申し訳ないと言って反対した。 するとこの父もキリストによって地獄へ堕とされるのか」「キリストを信ずる者は天国へ救うが、信じない者は永遠のゲヘナの火に投ずるという愛憎のはげしい神を自分は神とするわけに行かぬ」。

 キリスト教で説く神とキリストの愛が私には納得できなかった。私が求めている神はどんな人でも救う普遍的な愛の神であった。だから私は教会で説くキリスト教に疑問を持ってやめた。

 それから間もなく父のすすめで軍隊に行くことになって聖書を読む機会もなくなった。再び聖書を読み始めたのは、昭和二十一年四月に戦地から復員し、廃墟となった鹿児島市の露店で大正十二年印刷の小型の聖書を買った時からであった。今も私はこの古びてすり切れた聖書を大事にしている。

 復員してみたら父母も弟妹も米軍の空襲で全部死んでしまっていた。孤独のさみしさに堪え難くなると私は聖書の中から本当のキリストの愛を見出そうとひたすらに読んだ。読んで行く内に私には現在キリスト教会で説いている教えの中に大きな誤りがあるのがわかってきた。そうして牧師の人達がどんなに聖書を読んでいないかがわかってきた。日本のクリスチャンは本当はキリストの教えを知っていないといえる。

 家庭生活の経験を持たないキリストが、夫婦の道をはっきりと説いていられることに驚いた。
 キリストが説かれたその夫婦の道は東洋の道徳とも一致するのである。夫婦の道だけではない親子の道も一致するのである。

 東洋と西洋と、悉(ことごとく)正反対の立場に立つと思われていたものが、神理の面においては一致するものであることをはっきり知ったのは二十九才の時であった。この考えが間違いなく正しいものであることをはっきりと知ることが出来たのは、昭和四十三年三月、高橋信次先生の教えを受けた時であった。

 神道と仏教とキリスト教が同じ神理を説いているのである。

 「男と女の役割」の中で私はそのことをお知らせしようと思うのである。

 はっきりいえることは現在キリスト教会で説いているものは真のキリスト教ではない。

 仏教とキリスト教が一致していることについて、ある有名な仏教学者が書いていられるものがあるが、これはパウロと親鸞聖人の言行が一致点が多いことを書いたもので真の意味において仏教とキリスト教の一致を説いたものとはいい難い。

 高橋信次先生が、説かれた転生輪廻の話しを聞かれた方には、キリストの弟子であったパウロが後に日本に親鸞聖人として生まれられたのであることを知っていられるであろう。パウロと親鸞聖人といってもそれは同一人物であったのであるから、説いたことが同一であるのは当然のことである。

 キリストは「天にいます我らの父よ」と、じかに神に祈ることを教えられたが、パウロは、イエス・キリストという個人のみ名を通さなければ救われないと説いた。これは親鸞聖人が、念仏を唱えるという手段を通して阿弥陀如来に頼まないと救われないといわれたことと同じである。

 お釈迦さまは夫婦の道をどのように説かれたかはキリストが説かれた夫婦の道が終わってから書くことにする。この文を読んで行かれるうちに仏教とキリスト教は違うということで閉ざされていたあなた方の心は大きく開かれていくであろう。



 
6.男女は平等ではない

 「女は、夫の生命を拝んで神に祈らないと女の祈りは効かれないのである」と前に書いたことに対して、 男女平等が正しいと主張する人達は正法は男女を差別すると思われたかもしれない。

 キリストはどのように教えていられるのかを見てみよう。


 
エペソ書 第五章
 「詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、また主に向かいて心より且(かつ)うたひ、かつ賛美せよ、
  凡(すべ)ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを
  畏(かしこ)みて互いに服(したが)へ。 妻たる者よ、主に服ふごとく己の夫に服へ。教会のキリストに
  服ふがごとく、妻も凡てのこと夫に服へ。夫たる者よ、キリストの教会を愛し、之(これ)がために己を
  捨て給いしごとく、汝らも妻を愛せよ。夫はその妻を己の體(からだ)のごとく愛すべし。妻を愛するは己を
  愛するなり」


 コロサイ書 第三章
 「妻たる者よ、その夫に服へ、これ主にある者のなすべき事なり。
  夫たる者よ、その妻を愛せよ、苦(にが)きをもて之をあしらふな」


 テトス書 第二章
 「若き女に夫を愛し、子を愛し、謹慎(つつしみ)と貞操(みさお)とを守り、家の務めをなし、
  仁慈(なさけ)をもち、己が夫に服はんことを教えしめよ。これ神の言葉の汚されざらん為なり」


 コリント前書 第七章
 「夫はその分を妻に尽くし、妻もまた夫に然(しか)すべし。妻は己が身を支配する権をもたず、
  之(これ)を持つ者は夫なり。斯くの如く夫も己が身を支配する権を有(も)たず、之を有(も)つ者は妻なり」


 
神理を求めるお互いの間で話し合われ、語り合われるものは、自然の美と真実とが言葉となって迸(ほとばし)り出た詩と、その自然の神秘さを讃える言葉と、天上界より発する霊の啓示の歌とでなければならない。
イエス・キリストが説かれたものは父なる神、宇宙の大神のみ心なのであるから、キリストの言葉に服従して実行しなさい。
 妻たる者は、人々が主なる神のみ心に素直に従うと同じように自分の夫に素直に従いなさい。
夫たる者は、キリストが多くの人々のために自分を捧げられたと同じようにあなた方も自分の妻を愛しなさい。夫が妻を愛するのは、夫が自分の身体を大事にいたわると同じように妻を愛しなさい。妻を愛するということは実際は夫が自分を愛し大事にすると同様であって同じことなのである。

 男といえども精神異常者でない限り、自分で自分の身体を傷つける者はいない。みな自分の身体を大事にする。妻を愛するということは自分で自分の身体を大事にするのと同じであるということはもっとはっきり言えば、妻を愛するということは自分を愛することであり、夫が自分を愛するというその愛の心と、妻を愛するという心に距(へだた)りがあってはならない。妻もまた自分であるということである。
 だからしてコロサイ者の中では、夫たる者は、妻の心を悲しませたり、怒らせたり、不安にしたり、ともかく妻が苦い思いをするようなことはしてはならないというのである。


 多くの夫婦の不調和というものが従来は夫が妻を苦しめるというものが多かった。男子中心の武家政治の社会体制は、女に忍従を強いることが多かった。女は男の横暴に堪えることが女の徳とされた。このようなあり方は夫が我が身の如く妻を愛するということにならない。終戦時の民主主義、男女平等が確かに女性の心を開放させたという事実は否定できない。女性の心、立場を無視した男性の横暴は批判されても仕方のないものがあった。「二号、三号持つのは男の甲斐性だ」ということによってどれだけ妻が悲しい思いをさせられてきたか。終戦前は夫が二号を連れて来ても本妻はニコニコして出迎えるのがいい妻だといわれていたが、顔で笑って心で泣いてということも辛かったことであろう。

 しかし終戦後の女性解放が行き過ぎて、現在は女が強くなって男が弱くなり、子供まで巻き添えにして大きな社会問題となって来た。右に大きく振れていた振り子が反動的に大きく左へ振れたままであっては中道ではない。現在の男女夫婦のあり方が行き過ぎだからといって戦前の状態に戻していいとは誰も考える人はあるまい。

 ではどうすればいいのか。

 それにはコリント前書の言葉を味わうべきである。

 「夫はその分を妻に尽くし、妻もまた夫に然かすべし」
戦前は、夫がたとえどんな無理難題を言おうと、妻はただ黙って一切逆らわずにハイハイと素直に従うことが女の美徳とされた。こうした戦前型の女の美徳が正しいものであると説いているある教団では「夫が泥棒するといったら妻も一緒に泥棒すればよい」と教えていた。

 
「夫はその分を・・・」と書いてあるがその分をということはどんなことであろうか。
 夫婦の縁は天上界からこの地上界に生まれて来る時の待機所で結ばれる。夫の魂は今度は地上に出て行ってどういう勉強をしなければならぬかをよく知っている。その魂の勉強をするのに一番ふさわしい人を自分の妻として選ぶのである。夫にとっては、妻のいい所、悪い所の全てが夫の魂を磨く勉強の資料なのである。いい所は愛するが、悪い所は愛さないというのであってはいけないのである。いい所も悪い所も全て含めてそのまま愛して行かなければならないのである。その分をとは、是非善悪、愛憎も全て超えた所の愛を以ってということであり、妻もまた夫をそうしなければならないというのである。

 私が不調和であった時、妻のいい所はいいとしても、妻の欠点が鼻持ちならないほど嫌であった。だから、その悪い所を指摘してそこを良くさせようとしていた。そういう気持ちでいる間は上手く行かなかった。

 所がある時、妻が悪いと言っているのは実は私自身の心の中に妻を裏切っている心があることの、反省であるということに気がついたのであった。

 私には妻と結婚する前に初恋の人があった。婚約までしていたのであったが、私はその人を忘れることが出来ないでいた。事毎にその人と妻とを比較していた。

 妻を愛せないという原因は実は自分自身の心の中にあることに気づいたあのであった。

 だから相手を愛せないという人は、その原因は自分自身の心の中にもあるのであることを反省しなければならないのである。

 私が沢山の人をこれまで個人指導した体験では、夫婦の不調の原因の80%は結婚前に好きな人があってその人のことを忘れられないということにあった。後の20%は、嫁と姑との関係で夫に不信感を持っているとか、金の問題、子供の問題等であった。しかしそれらの問題も夫婦がしっかり愛し合っていさえすれば解決できる問題である。

 初恋の人の写真やラブレターを、夫に隠してこっそり持っているという人もあった。
 私自身の体験と、私が指導した体験から知ったことは愛情は純粋でなっければならないということであった。純粋に愛し切った時、人間はその人の為には命を捧げても悔いはないと思うものであるし、純粋に愛する男性は、愛する女に自分の子供を産ませたいと思うし、純粋に愛する女性は、愛する人の子供を生みたいと思うものである。

 
その分を尽くし・・・とは、全身全霊を持って純粋にということである。
 しかし最近はこうした愛の自覚なしに性の享楽遊戯が行われている。

 
「妻は己が身を支配する権を持たず これを持つものは夫なり」とあるが、妻は自分の身体は自分のものだと思って、夫の心を無視して自分の好き放題に勝手に自分の身体を使ってはならない。妻は自分自身の身体を動かす時、その行為は夫の心に叶うものであるかを考え、夫の心に添うようにしなければならない。何かをしようとするときは常に、夫に聞いて夫の心に添う形で行為しなければならないというのである。

 妻が夫の心を無視して働きに出たために、家族が滅茶苦茶になってしまったという例は沢山ある。夫だけではない、少しばかりの金を欲したばかりに子供をダメにしてしまったという例も多い。
 これだけだとキリストの教えは戦前の封建的な婦徳(ふとく・女子の守るべき道徳)と同じだということになる。

 しかしキリストはまた次のように言っておられるのである。
 
「斯くの如く、夫も己が身を支配する権を持たず、之を有(も)つものは妻なり」と、だから夫は何かをしようとする時は、そのことが妻の心に叶うものであるかどうかを考えなければならないのである。自分がしたいからといって妻の考えを無視し、妻が喜ばないことを夫はしてはならないのであるということである。

 鹿児島は封建制の極端に強い所であったし、私自身軍隊生活が長いこともあって、今まで書いたような聖書の言葉はよく知っていても、実際生活となると妻の心を無視した横暴なことが多かった。そんなことは失敗するといえばなお反動的に意地を張って、今にもの見せてやると強行した。妻が言う通り失敗すると「お前が失敗すると思っているから失敗したんだ」となお意地を張った。結果は妻のいう通り全部失敗したのであった。そうして裸一貫になってやっと目が覚めたのであった。

 妻の心を無視してやることで成功することは一つもない。一時成功するかのように見えたとしても、それは尚一掃手痛い打撃を受けて大きく反省しなければならないためのものでしかなかった。こうした失敗の反省から夫というものは妻の心を無視し、妻の心を苦しめては何事も成功しないとキリストが言われた神理の正しさを知らされたのであった。嘘だと思う人は妻の反対を押し切ってやってみられるといい。どういう結果が出るか。

 
かくして夫と妻とは平等にお互いに愛し合わなければならないのであるが、妻の役割については、女というものは夫を愛し、子供を愛し、貞操を守り、慎み深く、慈しみをもって家事万端を整え、夫をして家のことは心配させないようにしなければならぬ。それが神が定め給うた他女の道だというのである。

 昔から妻が夫に従うのは女の道として当然だという考え方があった。キリストはそれだけではいけないのである。夫もまた妻の心に従わなければならないと教えていられるのである。

 
「不信者なる夫は妻によりて潔くなり、不信者なる妻は夫によりて潔くなりたればなり、然なくば汝らの子供は潔からず」とあるように、お互いが共に向上することをせず争ってばかりいたならば「汝らの子供は潔からず」とあるように、子供が病気をするか死ぬか、また子供が健康で元気であれば非行暴力というようなことで子供のことで苦労することになるというのである。

 子供が大きな病気をした時、子供が思いがけず死んだりケガをしたりした時、夫婦が調和していたかどうかを考えて見られるといい。キリストの言葉がまさしく真実であることを知られるであろう。

 この世の中に偶然ということは絶対にないのである。そのことが起こる為には必ずそのことの原因があるのである。ただ原因と結果との関係を知らないために偶然といっているだけのことである。



 
テモテ前書 第二章
 「神は凡ての人の救われて、真理を悟るに至らんことを欲し給ふ。この故にわれ望む、男は怒(いか)らず争わず、何れの処にても潔き手をあげて祈らんことを。また女は恥を知り、慎みて宜(よろ)しきに合(かな)う衣にて己を飾り、編みたる頭髪(かみのけ)に金と真珠と値貴き衣とを飾とせず、善き業をもて飾りとせんことを。これ神を敬はんと公言する女に適える事なり。女は凡てのこと従順にして静かに道を学ぶべし。われ女の教ふることと男の上に権を執ることを許さず、ただ静かに為すべし。それアダムは前に造られ、エバは後に造られたり。アダムは惑わされず、女は惑わされて罪に陥りたるなり。然れど女もし慎みて信仰と愛と潔とに居らば、子を生むことによりて救はるべし」



 「神は凡ての人の救われて、真理を悟るに至らんことを欲し給ふ」とあるようにキリストを信ずる人だけを救えばいいとはいっていられないのであるが、しかしそれには真理を正しく知らなければいけないので、間違ったことを信じていたのでは救われないのである。

 
キリストの弟子達がキリストを信ぜよといったのは、当時においてはキリストのみが正しい真理を説いていたからであるが、我々が救われるのは、キリストという人を通して救われるのではなくて、キリストが説かれた神理を信じ実践した時に救われるというのである。

 それ故に、男は怒ってはならず、争ってもいけない。どこにいようが潔らかな心で神に祈りなさい。

 しかし、女は女としての分を知ってそれを逸脱せず、慎ましやかな自分に相応(ふさわ)しい衣服を身に着けて、髪の毛を編んで、その髪に金や真珠の高価な飾りをつけたり、またきらびやかな高価な衣服を着て派手に振舞ったりせず、善い行いをすることによってそれを自分の飾りとすればよいのである。

 それが神を正しく信ずる女のあり方である、というのである。女というものはいつも慎ましやかに従順で、立居振舞も静かにして神理を学ぶべきである。


 ここでキリストがまたはっきり言っていられることがある。

 それは、女が男の上に立って権力を握って男を自分の思うままに支配しようとしたり、また、男の上に立って女が神理を説くというようなことは絶対にしてはならないというのである。この二つのことを犯すことは「われ、これを許さず」という当非常に強い言葉を以って言っていられることに注目すべきである。

 キリストのこの言葉に照らして見る時に、女が教祖になっていたり、女が実験を握っている宗教団体は、神の意志に叛いているのであるということであり、ましてその女達が、きらびやかな服装をして信者の前に表れることなどは全く神を無視した行為であるというのである。

 日本の宗教界の現状を見る時に、女が実権を握っている教団がいくつかある。男の教祖が亡くなって、その未亡人が、または娘が跡を継いでいる教団もある。そういう所は必ず混乱分裂が起こっている。
女が教祖になって男が組織指導の責任者を持っている教団もあるがその教団も分裂している。こうした実情を見る時に、キリストが説かれたことは真実であると信じない訳にゆかないのである。

 
どうして女が男の上に立って権力を握るということはいけないのであるか。
それは、神が人をつくられる時に、神はまずアダム(男)を先につくられ、そののちにエバ(女)をつくられたからであり、アダムは蛇の誘惑に惑わされなかったが、エバは惑わされて罪に陥(お)ちたからであると。

 蛇は地を這うもの、地に密着して生きるものである。だから蛇とは、物質に対する欲望、執着を意味するのである。物質的な欲望や執着を持った女が上に立つと、その欲望執着があるために正しい判断ができず、まして神理を説くというようなことは絶対に出来ないのであるという事である。

 そうして最後にキリストは、女はどうあるべきかを説いていられる。
女は慎み深くして、心を潔くし、愛深くあり、そうして正しい信仰をして、そうした心で、子供を生み育ててゆくならば女は救われるのであると。即ち女の役割は、家を守り立派な子供を育てることにあるというのである。


 女が子供を育てることはいらない、女も男と同様に社会の第一線立って活動すべきであるという女があるが、特別の使命と才能を持った女が男に伍(くみ)して活動することはいいが、だからといって世界中の女がみな子供を産むことを放棄して男と同様に働くということになったら、子供は一人も生まれないから世界は破滅することになる。

 男と同様に働くという女よりも、慎ましく家庭を守り、子供を育てることに喜びを感ずる女の人の方がずっと多いのであるから、新聞や婦人雑誌などで、特殊な例外的存在である一部の婦人活動家だけのことを載せないようにすべきである。

 
男が現実の社会を改造し建設してゆくこともすばらしいことであるが、女が子供を生み、その子供がやがて成長して社会とどう関わってゆくか、未来社会を理想的に建設する人間をつくり上げることは、男が現実社会に関わる以上にすばらしいことなのである。

 子供が小学校に上がるようになって暇になったからといって、少しばかりの金を目当てに職を求めると、やがてその子供のために泣かなければならないことも起こって来るであろう。

 では母子家庭はどうすればいいのか。母子家庭では母親が働きに出ない訳にはゆかない。こういう場合にこそ、援護は政府の仕事だといわないで、夫が働いている家庭の主婦達が同じ女性の立場として、その母親を援助してやればよいのである。

 ところが本来愛が深いとされ、またそう思われている女が、同性の弱い人、恵まれない人を見ると、以上に興奮して惨虐性(さんぎゃくせい・むごたらしくいじめること)をむき出しにしてそれらの同性を虐めて、自分よりもすぐれて恵まれて才能があるという女性に対しては全く猫みたいに柔順になって奉仕するという傾向があるように思える場合がある。

 弱い人、恵まれない人々をこそ助けてやるべきである。しかしまた反面、女性は、同じ女性から助けられることを望まないようにも見える。同じ同性から助けられることは軽蔑侮辱されていると思うのであろうか。そうした意固地な心が実際は自分を不幸にしているのであるから、そういう心をなくしてもっと素直にすべてに感謝できるようにならないといけないのである。

 新年号では「女の頭は男なり、されば女は長き髪の毛を賜りたるなり」とうことで、男と女の縦の役割を主として書き、この二月号では「夫は己の身体を愛するが如く妻を愛し、妻もまた然かすべし」という男女平等のあり方を書いた。

 これが正しいかどうかは実践してみればわかるし、また何もわざわざ間違ったことを実践しなくとも、周囲の人を見れば成る程とわかられるであろう。

 
男は男として女は女としての役割を果たす時に幸福になるのであり、その役割を怠り逸脱する時に不幸になるのである。それが神理なのである。


- 以上 -



 月刊誌 正法29号 (1981.01月)
 月刊誌 正法30号 (1981.02月) より



2013.07.10 UP

2013.7.13-14 hwan san kensyukai sanka









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