高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








を 入 れ る



光を入れる ・・・ その1

  はしがき
1.肉体細胞には心がある
2.臓器には臓器の集団精神がある
3.現在意識と潜在意識
4.後光、オーラーについて
5.バイオプラズマ体について
6.光を入れること
7.人によって効果が違うのはなぜか
8.光を入れた後でひどく疲れたという人がある
9.光を入れてやることはいいことだからといって無暗によると危険である
10.生命エネルギーを補給するための禅定
11.奇跡は自分が起すのではない 神が直接起されるのでもない



光を入れる ・・・ その2

12.念が通ずるということ
13.念の速度は光より速い
14.心は念の発信源であり、受信源である
15.あの世とこの世のしくみ
16.病気とは細胞震動のアンバランスである
17.病気を治すのは本人の心と、肉体に備わっている自然治癒能力である
18.光を入れても治らない場合
19.光を入れる実際の方法
20.体験例 ・・・ 逆児を正常分娩した
21.病気平癒祈願



光を入れる ・・・ その1

はしがき

 長崎、鹿児島の講演を終わって帰宅してみると、手紙や入会申込など二十通くらい来ていた。その中に、子供が体が弱いのでどうしたらいいでしょうかという手紙があった。鹿児島では孫がアレルギー体質ですがという質問があった。
 千葉からのその人に手紙を書きながらふと思ったことは「今すぐ必要なことは、今すぐ知らせてあげよう」ということであった。
 正法誌を毎月出版するのに、私は信仰上の基本的な大事な問題から筆をすすめて、その次に「では正法をどのように具体的に実践し応用するか」ということを書こうと思っていたのであったが、考えてみると多くの人々が望んでいられるのは今すぐよくなることであって、私が順序を立てて書いていたのでは、それまでに待ちきれない想いをされるであろう人々が多いという事であった。特に子供を持っていられるお母さん達はそうであるという事であった。
 五月二十日に七月号の原稿を書き終わって、二十一日に長崎に行ったのであったが、そのことを思って急遽、七月号は「光りを入れる特輯号」にしようと思った。高橋信次先生が研修会の時に「光りを入れる」と言うことを指導されたことがあった。昭和四十八年十二月、福岡の津屋崎で九州で初めての研修会の時にも指導をされたのであったが「光りを入れる」ことの根本原理をみながよく理解しなかったために、形だけは「光りを入れる」形になっていても、その精神が失われているから効果を挙げる人はなかった。

 高橋信次先生が「光りを入れる」と言われる方法は、民間の手掌療法とか、世界救世教などが教えている方法とは根本的に違うのである。

 昭和四十八年四月、私が過去世を思い出して霊道を開いた時である。高橋信次先生の所に個人指導を受けに来た人があった。高橋先生はその人に光を入れられた。終わられて先生は私に言われた。
「園頭さん、あなたもインドの時は手を当ててよく病人を治しましたね。あなたは過去で力を持っているんだから、今度も自信を持ってその力を出しなさいよ」
 そういわれてハッと思い出したのは、私が事業に失敗して宗教家への道を志してはじめて伝道の旅に出て、鹿児島の指宿温泉の近くの前ヶ浜という所に行った時のことである。
「明日、鹿児島市の県立病院に入院することになっているのですが、その前に話を聞いておきたいと思いまして」と右膝関節が紫色に腫れ上がった十才の子供を連れて来られた夫婦があった。一時間ばかり話をした後、私の手は自然にその子供の足のところに行って私はそこに神の光りが注がれることを祈った。ひと晩明けると不思議にその子供の足は治っていた。
 その奇跡が私をして伝道への自信を得させることになったのであった。その時私はその力が私自身の力ではないことを知っていた。私は五人の子供を育ててきて、急激な症状で医者の手当を必要とする時以外は、少々具合が悪いのはみな光りを入れて治してきた。だから私の子供たちはほとんど医者を知らない。また戦地で医者も薬もない時、部下の兵隊さんに光を入れて治してやったこともある。

 病気の治療をすることを「手当てする」と言う。それは昔から掌を当てることによって病気を治していたからである。戦争中、中国の奥地へ行った時、病人を家族が手を当てて治療しているのを見たことがあった。
 手掌療法が一時流行したことがあったが今は余り聞かなくなった。

 光りを入れる時、掌を身体から五cm位離しなさいと高橋先生がいっていられたのは、掌が直接肌にふれることは医師法違反に問われるからであって、別にそうしなければ効果がないとかいうものではない。



1.肉体細胞には心がある

 医学的には肉体は単なる物質と見ているから心があるということは認めていない。お釈迦さまが出られる以前のインドの人々には、肉体細胞には細胞としての霊があると認めていた。人間が死ぬと、その細胞はみな空となって霊となる。善いことをした人の細胞は善なる霊となり、悪いことをした人の細胞は悪い霊となる。そこでこのつぎに生れ変ってくる場合に、前世で善いことをしていた人は、善なる細胞の霊がその人の肉体細胞となり、悪いことをしていた人は、悪の細胞の霊が肉体細胞となるのであるから、人間は善いことをしないといけないのだという考え方があった。単細胞動物の実験で知ることが出来るが、栄養が自分に近づいてくると、それを感知して触手を伸ばして吸収し、自分に適さないものは反撥し排斥する。細胞には目がないが、栄養物質が近づいてくるとそれを知っている「心」があるという証拠である。

 ドイツのゲーツ博士は、指を一本立てて、その指先に念を集中し「熱くなれ、熱くなれ」というと、一℃は温度が高くなるという実験をやって有名になった。催眠術で「痛くない」と念ずると、その部分が痛覚を失って、針を刺しても痛くないというのも細胞が心を感ずる、心を持っているということの証拠である。

 
高橋信次先生は、「光りを入れる」時に次のようにいわれていた。
 「○○○細胞よ、あなたたちも神の子として神の世界より使命を持ってきた筈であります。この場所に於いてこ  のような不調和を起してはならない。本来の使命を自覚して本来の機能を回復しなさい」


 
このようにいわれたのは、我々が細胞に向って想念し、話しかけると、細胞はそれを聞くのであるからである。



2.臓器には臓器の集団精神がある

 細胞が集まって胃なら胃、腸なら腸をつくると、胃の集団精神、腸の集団精神が生まれる。

 
我々の意識は、肉体の凡ゆる細胞精神を統制し支配しなければならない。「大なる生命は、小なる生命をコントロールしなければならない」というのが「生命の法則」「心の法則」である。肉体は、我々の意識と関係なしに、肉体が勝手に動いているということはないのであって、必らずその人の心の影響で動いているのである。

 我々の肉体細胞は一分間に三〇〇万づつ、古い細胞は死んで新しい細胞がつくられるという。即ち新陳代謝するのである。肉体という面からのみ見た場合、四年以上古い人間は一人もいないのである。全身の肉体細胞は六〇兆あるといわれるが、やわらかいところの細胞は一年以内に全部入れ替るし、替らないと見ている硬い骨の細胞でも四年以内には全部入れ替るというのである。だから「四才以上の古い人間は一人もいない」ということになる。常に新しい細胞によってつくられている人間であるが、本当なら四才位の身体をした人間ばかりがいなければならないということになるが、背は伸びるし、身体全体が大きくなるし、社会生活の調和を保つために年相応に年を取るようにつくられている。

 しかし、年より老けている人がいる。その人はいつも心が老け込んで「年を取った」と思っているからであって「自分は若い」と想念すれば年相応に若くなることもできるのである。

 私が生長の家をやめたのは昭和四十六年であった。昭和三十七年、八年頃から生長の家の教義の矛盾に悩み始めて、心を明るくして置こうと思っても遂々心は重苦しく暗くなっていった。生長の家をやめてトウルース教に一時、身を置き、昭和四十八年三月に高橋信次先生にお逢いし、心は非常に明るくなった。しかし、暫らくして私の心が重くなっていたのは、今のGLAのあり方では高橋信次先生の説かれる正法を大きく発展させることはできないということであった。例えば昭和四十八年八月、はじめて志賀高原の研修会に参加した。研修会の計画は全部東京の本部で立てたのであるが、高橋信次先生以外の各講師の指導内容の不足と、やたらに休憩が多くて時間のムダの多いこと、自分に計画と指導をやらせてくれたらもっと立派な研修にできるのにと思ったが、私には発言の機会は全然与えられなかった。だからいつも研修は東京本部の計画であったから、私は研修会のたびに、仕事を休んで高い旅費を出して集まって下さったのに申訳ないことであるという気持ちになっていた。
 GLA誌に投稿しても没にされて載せてもらえない。果ては、九州以外の地区で講演をしてはならぬ。GLAの組織以外で正法の話を聞きたいという所があっても、そこへ行って話をしてはならぬといってくるということで私の気持ちは重くならざるを得なかった。だから私の顔が少し老けてしまったのも無理もない。

 GLAをやめて私は自分の計画通り研修会をやれるし、書くこともできるようになった。私の研修を受けて下さった方には、みな「今までのどの研修よりもよかった。特に反省禅定の仕方がよくわかった」といって下さるし、また正法誌を読んで下さる方々がみな喜んで下さる。「GLAの混乱があって、やめてよかった」「やめたために、かえって多くの人に喜んでもらえる」という喜びがだんだん大きくなってきた。その心の喜びは当然、顔に表れないわけにはゆかない。だから最近、私が若くなったとみなさんがいって下さるようになった。
 即ち、
心が肉体細胞に影響するということなのである。



3.現在意識と潜在意識


 
我々の心は現在意識と潜在意識の二つに分かれている。潜在意識の中心に我々の本当の自分、神の子の意識がある。

 現在意識
は五官によって外界の事を認識する心である。目で見て、きれいであるとか、きれいでないとか、耳で聞いて、いい音だとか、わるい音だとか、その外界の刺激よって働くのが現在意識である。

 
潜在意識の中には、その人の過去世からの記憶と心の習慣性即ち業と、その人がこの世に生まれてからの記憶と心の習慣性と、その人が心に強く印象したものとがある。

 普通は現在意識だけが強く働いて潜在意識は隠れていて表面化しない。しかし大事な時になると潜在意識が表面に顔を出してくる。

運命を作るのは現在意識よりも潜在意識である。

 例えば人間は誰しもが幸福になりたいと思い不幸になりたい人は一人もいない。「心が運命をつくる」というのであるから人は誰しもが「幸福になりたい」と思っているのであるから、心の通りになるのであったら不幸な人は一人もいないということにならなければならない。しかし現実には不幸の人も多い。病気でもそうである。病気になりたいと思っている人は一人もいないのに病人は一ぱい居る。多くの人が不可解に思うのは「あんなにいい人が、どうしてあんなに不幸なのだろうか」とか「あんなに信仰深い人が、どうしていつも病気ばかりしていられるのだろうか」という人がいられることである。だから「神も仏もないのか」ということになる。これらはみな潜在意識のせいなのである。これまで多くの人は、この潜在意識の働きを知らないがために人生がわからなくなってきた。


例えばノイローゼに例をとってみよう。 ノイローゼになる原因に三つある。

1 霊的原因、憑依によって起るノイローゼ
2 心の原因、劣等感、罪悪感等によって起るノイローゼ
3 社会的に無知であることから起るノイローゼ


 昭和三十二、三年頃から、それ以前はなかった新らしい形のノイローゼが出てきた。これは日本が高度成長の波に乗って、経済的に裕福になるに従って尚一層多く現れるようになった。それは3のノイローゼである。大学を卒業して社会人になったが、さて社会人になってみると、一人前の大人としてどうして生きて行ったらよいのか、人生の生き方がわからないというものである。戦前は、学校で家庭で人間としての生き方、道徳教育が行われていた。しかし戦後は、家庭教育の責任者である父親が父親としての権威を失い、学校では文部省は道徳教育をするように指示しているにも拘らず、先生達はまた道徳教育をする程の指導力を持たない。唯、いかにして学科の勉強をさせるかということに終始し、進学がそれに拍車を掛け、父親が権威を失って家庭に於ける教育権を放棄したのに代わって母親が家庭の主導権を握り、子供を甘やかしてしまった結果、勉強はよく出来るが社会人としては欠陥人間である、無知であるという人間がつくられてきたということである。このようなノイローゼは、人間としての生き方を教えればよいということになる。

 1の霊的原因も結局は心が暗くて憑依霊、地獄霊と波長が合ってしまったのだから、やはり心が原因である。
 
あなたは一日二十四時間中、明るい心と暗い心とどちらが長かったでしょうか。

 2の劣等感、罪悪感も心の問題である。劣等感、罪悪感を持っている人は、幸せになるチャンスが与えられても「わたしみたいなものが、そんなに幸福になる資格はない」という心が潜在意識の中にあるから、現在意識では「幸福になりたい」と思っているのに、つい反対のことをいってしまって、折角のチャンスを自分でぶち壊してしまうのである。

 
あんな人がと思うような信仰深い人がしよっ中病気するのも、人間は罪の子だ、罪悪深重の凡夫だという誤った人間観を持って、いつも心の中で即ち潜在意識で「わたしは悪い、わたしは悪い人間だ」と思い続けているので心はいつも暗くなる、心が暗くなると「こういう病気になりたい」と思うことは絶対になくても、肉体細胞に暗い印象を与え、身体全体のバランスが崩れ生理作用に変調を来たして病気をするのである。

 
絶対に悪いことはしない、悪いことは思わないのに、いつも正しいことをいい、正しいことをしていて、多くの人から「あんなよい人がどうしてあんなに病気をするのであろうか」とか「どうしてあんなに運がわるいのだろうか」という人がある。みなさんの周りを見て頂きたい。正義感の非常に強い人で、曲がったことは絶対に嫌いだという人で運がわるいという人がいられる筈である。
 それは、その人は自分では曲がったことは絶対にしない。いうこともやることもいつも正しいのであるが、自分が正しいことをしているだけに、人が少しでも間違ったことをすると、それだけに「あいつも、こいつもけしからん」といって心を暗くしてしまって人を心の中で裁いてばかりいるからである。自分の心を暗くしないようにして、なにが善であり、なにが悪であるかということがはっきりわからなければいけないのである。


 生長の家のように、心を暗くしてはいけない、心はいつも明るくしていなければいけないということで、善悪の判断もつかなくなり、見て見ぬふりをするということも正しくないのである。

 正義感の強い人が、よく高血圧などで中風になって倒れたり、心臓疾患で狭心症や心筋梗塞などで倒れたりするのは、自分は正しいことをしているのに、相手があゝだこうだといって、いつも腹を立てて怒っている。表面ではやはり怒ってはいけないと思っているから怒ってないようなふりをしていても内心では怒っているから血圧も高くなってくるのである。

 高血圧や心臓疾患の人を指導する場合に一番厄介なのは、腹が立ってもそれを感情に表すことははしたないことであるといって、感情を抑えてこらえて我慢している人の場合である。日本人は永い間、儒教が教えてきた「喜怒哀楽を色に表さず」ということを徳としてきた。確かに、嬉しいといっては飛び上がり、悲しいといっては泣き、くやしいといっては歯ぎしりするという感情的な人間は良識的とはいえない。しかし、嬉しいことがあってもうれしそうな顔もしない。悲しいといっても涙一つこぼさないという、いつも能面みたいな顔をしていて、いつも心をこらえているというのも極端で人間味がない。だから極端から極端はいけないので中道でなければいけない。嬉しい時にはうれしいといい、嬉しそうな顔をすればよい。すればよいからといって悲しい出来事があって悲しんでいる人の前で、自分に嬉しいことがあったからといってうれしそうな顔をするのは良識がない、智慧がない、思いやりがないといわなければならない。

 生長の家では「人間は生き通しであって死はない」という。これは正しい。また「光明面のみを見よ」ということで心をいつも明るくしてニコニコ笑うようにしなさいといっているがこれも間違いではない。

 ある時幹部の人が亡くなった。葬式に行った夫人会長が、大事なご主人を亡くして悲しんでいられる奥さんの前で、「人間は死んでも死なないのですよ。悲しんではいけないのです。生長の家は光明思想ですからいつも笑っていなければいけないのです。アハハハー」と笑ったので大問題になり、その娘さんが「馬鹿にしないで下さい」と大立廻りになったことがある。これなど全く智慧の無い話である。このことがあって私は、生長の家が説いている光明思想には、ちょっと間違うと真理でなくなる危険性があると思ったのであった。

 信仰することで良識に反したり、人間性に反して悟り澄まして泣きも笑いもしない人間になったりしたのでは中道でない。その人の心から染み出る教養と良識は大事である。私が前にいた生長の家はその点矛盾があった。

 感情は余りこらえることもいけないし、病気や不幸な原因になるし、かといってむき出しにそのまゝ発散することも調和を乱すことになる場合がある。悲しい時には泣けばいい。

 私が「悲しい時には思い切り泣きなさい。涙が涸れるまで泣きなさい。泣いて泣いて泣き切って涙が涸れたら、その心の底から「いつまでもこんなに悲しんでいてはならない」という心が起ってくる筈です」という話をしたら「生長の家は涙を流してはならないのです」と谷口総裁から注意されたこともあった。

 悲しいことがあって涙を流すことがあっても、いつまでもその悲しみにとらわれない。怒ることがあっても、いつまでも腹を立てて怒っていてはならない。うれしいことがあったら素直に喜べばいい。だからといって有頂天になって足元が見えないようになってはいけない。即ち喜怒哀楽は喜怒哀楽として感じながら、それに執着せずに心が安らかに調和して生きて行くということが大事なのである。

 以上の事で大体お分かりのように、
高橋信次先生が「心が運命をつくる」「心がモノを創造する」といわれた心は、我々が「あゝしたい、こうしたい」とか、「好きだとか、嫌い」というような現在意識だけを示していられるのではないのであって、現在意識プラス潜在意識をいっていられたのである。

 
現在意識ではいくら幸福になりたいと思っていても、潜在意識が幸福になることを拒否していると幸福になれない。例えば過去に罪を犯していると強い罪悪感が起り、現在意識では幸福になりたいと思うのに、潜在意識は「自分のような罪を犯した者が幸福になるのはおこがましい」とか「幸福になっては申し訳ない」と思い、一方では幸福になりたいと願いながら、一方では自分が不幸であることにほっとするという心が働きます。だから幸福になるためには、現在意識、潜在意識ともに幸福を願う心にならなければいけないのであって、潜在意識の中にあるところの自分が幸福になることを否定している暗い心をなくするのが反省である。



4.後光、オーラーについて


 人間の身体からだけでなく、すべての生物がオーラーを出していることは今日ではもはや常識として知っている。お釈迦様やキリスト、或はその弟子達の像や絵にオーラーが描かれている。大きさは霊の段階よって違うが色は鮮やかで透きとおるような黄金色である。心が乱れるとオーラーも変化し、その人が怒ると、赤に黒を交ぜたような色の炎のようなオーラーにかわる。

 オーラーを写真でとらえたのは南ロシアのクラスノダールに住んでいたキルリアンであったので、オーラーを写した写真を一般にキルリアン写真というようになった。一九六〇年代初期、ソ連公衆衛生省が研究資金を与え、アメリカの科学界でも研究が進んでいる。日本でも日本PS学会の人達が研究しており、PS学会理事の坂本邁氏著「マイナスの科学」に次のように書いてある。

 倫理測定器としてのオーラーメーター
 内田秀男工学博士の創られたオーラー測定器では、昔からいわれてきた後光が測定できるようになった。しかも、盲腸の手術をした人、子供を堕した人、現在心に悩みのある人、怒っている人等がわかるのである。心の悩みや精神のあり方が、電気現象と関係があることは嘘発見器などでも想像がつく。同博士の統計で、傲慢、尊大、我欲の強い人のオーラーは、後ろにそり返り、謙虚、親切、奉仕、愛に満ちた人のオーラーは、前の方にお辞儀をしたみたいに傾いている。氏はこのオーラーの研究で、社団邦人日本学士会から一九七六年(昭和五十一年)アカデミー賞を受賞された。また一九七八年(昭和五十三年)、イタリア・ミラノで開かれた国際超心理学会で発表されたが、欧州各国からのマスコミ取材の異常さ、アンコール講演とトップ賞、そうしてガラテヤ伯爵は招待晩餐会の席でいわれた。
「人間の心が判るという画期的発明、或はこんなものは発明すべきではなかったかもしれない。しかし造ってしまった」

 心の研究に最初に政府資金を出したのはソ連である。ついでアメリカも出している。日本の代議士達は無神論、無霊魂論者が多いから、内田博士のような研究に政府資金を出して助成するということはしない。ソ連、アメリカだけでなく先進諸国はみな政府が助成している。また先進諸国の各大学には「心霊科学科」という科があるが、日本にはこれだけ沢山の大学ができたのに「心霊科学科」があるところは一校もない。

 坂本邁氏は、オーラー測定器で合格した者を入試資格者としたらと書いていられるが、その測定器で、先ず宗教家を、次に政治家、次に大学教授、学校教師と測定して、後ろにそり返るようなオーラーを出している傲慢、尊大、我欲の強い、権力欲、金銭欲、名誉欲の強い者はみな失格者として、前にお辞儀をしているような形でオーラーを出している謙虚、親切、奉仕、愛に満ちた人だけを適格者とするということにしたら、一ぺんでこの日本は理想国家になるであろう。早く正法会が全国に普及し、正法会の会員が与論をつくり出して宗教家、政治家、教育者、できれば官公吏は、オーラー測定器にかけて、合格した者だけを適格者とする、という法律をつくりたいものだと思うことである。

 聖書に、病人がキリストの衣のふさにふれたら病人が治ったと書いてある。
「力われより流入りて汝に入れり」とキリストがいわれたのは、キリストのオーラーの雰囲気の中に入った時に感動をうけたのである。

 
全身から出ているオーラーを心で手に集中して、そのオーラーが手を通して相手に集中されると大きな力を発揮するのである。医薬のなかった大昔は、直感的に、またそれを霊視する人があって、病気の場合は手を当てて癒していた。そういうことが人類の潜在意識の中にあるから、人間は誰でも腹が痛いというと無意識のうちに手で腹を押さえるし、歯が痛いというと頬っぺたに手を当てる。そうすると、手を当てなかった時よりも確実に痛みがやわらぐのである。

 
息にも癒す力がある。古神道では「息吹き祓」といって呼吸で罪穢れを祓うということをやるが、息=イキ=生き=生命力であるから、単に呼吸よって払うということではなくて、生命力を振起させれば罪穢れは祓われるということである。すべて物ごとは、形だけを見てはいけないので、その「精神」を大事にしなければいけない。やはり中国の奥地であるが、頭の痛い病人の額に、息をハアッと吹きかけているのを見たことがある。みなさんにはこういう体験はなかったでしょうか。釘を打ち損ねて拇指の頭を叩いた。「あ、痛っ」と思った瞬間にその拇指を口にふくんでいたということを。これは息の中に癒す力があるということを本能的に直感的に知っているからである。子供が頭に瘤をこしらえたりする。母親が息を吹きかけて「もう治った、治った」というのもそれである。

 心が大きく広く豊かに愛深くなると、後光、オーラーも大きくなるし、心が狭く小さく貧しく我慾に満たされると、後光、オーラーは小さくしか出ずその色は汚い。身体の小さい人で大きく見える人がある。その反対に大きな人で小さく見える人がある。それはその人の心がオーラーとなり雰囲気となって出るからである。愛の深い人の傍に行くと、なんとなく心がほのぼのと温かくなってくるが、愛のない心の狭い人の傍に行くと、何となく冷たい寒々とした感じがしてくる。口でいくら「愛だ」といっても、その人の雰囲気が冷たかったら、それは言葉だけであって、心がそうなってないのである。愛の深い人の温かい大きな雰囲気の中に包まれると、心が楽しくて仕方がないから、その人の傍からは離れたくない心がして、いつまでもその人の傍にいたいと思うものである。



5.バイオプラズマ体について

 アメリカのテルマ・モス教授は、キルリアン写真を六年間研究しているうちに、人体の特別の部分が特徴のある色彩を表すことに気づいた。モス教授がアルマ・アタにいる間に、有名なアメリカの精神分析医アルマンは、モスクワでアダメンコと逢ってバイオプラズマ体のことで話合ったという。
 アメリカとソ連の学者は、心の研究で交流をしているのに、日本の医学者はほとんどが無神論であるから困ったものである。中国のハリ治療が盛んになってきた。中国では何千年も昔から生命力が通過する道として皮膚の上にツボを発見していた。キルリアン写真でとると、このツボのところは外の皮膚の部分に比べて光りが強いというのである。そのツボの部分をバイオプラズマ体という。ソ連の電気生理学者アナトリ・ポドシビャキン博士は、太陽から出た宇宙分子が、地球に到達するまでに約二日かかるのに、バイオプラズマ体は、太陽表面の変化を瞬間に感ずることを発見し、この発見に、全米超心理研究会会長アルマン博士は大変に興味を持っている。そうして超心理学者たちは、人間は体内のバイオプラズマ体を通じて宇宙とつながっており、それゆえに星の変化にも反応するし、他人の気分や病気にも反応するし、考え、感情、音、光、色、磁場、季節、月の満ち欠け、潮の干満、雷雨、風、騒音にも反応し、宇宙や天体に変化があると、人体の生命力に反響が起こり、それが肉体に影響を与えることになると。
(オーラー、バイオプラズマ体について、竹村健一訳「サボテン人心感知法」から引用しました。宗教の世界で、直感的に神秘的だとして考えられてきていたことが、既にこのようにして科学的にとらえられてきていることに注目下さい。神の名に於て神秘的だと教え、それによって無知な信者から多額の寄付を集めていたことが、どんなに法に叛いているかを科学が解明してくれます)

 我々が感ずるということは、心から心へ直接に感ずるものと、全身に散在しているバイオプラズマ体、即ちツボを通して感ずるものがあるわけである。天気が悪くなる前になると神経痛が痛くなるというのもそれであるが、外からの刺激に対して我々の心が自主性を持たずに無関心であると、我々の心はいつも環境の変化に引きずり廻されて心がくるくるかわるということになるから、引きずり廻されないように自己を確立しなければいけないのである。
 こういうことからして「肌で感ずる」「全身で感ずる」という言葉では具体的に説明することのできなかった感じ方が、科学的に説明がつくようになってきたのである。



6.光りを入れること

 
光りを入れるということは次の二つのことが同時に行われるのである。

1.我々の心が直接細胞精神に通ずる。
2.手を当てることによって、オーラー即ち生命エネルギーが直接に細胞に注入され、特に皮膚上に散在するバイオプラズマ体即ちツボからは多く注入され、弱った細胞は活力を与えられる。

 人は誰しもがオーラーが出ているのであるから、どこかの教団の会員になって、「光」と書いたお守りをもらわないと、オーラーが出ないというものではない。
オーラーは自分の心のあり方によってその力は違うのであるが、オーラーを出すのには一銭の金もいるわけではない。それなのに、何も知らない人達は、そこの神さまを拝んで、ペンダントを首に掛けると手からオーラーが出ると信じて何千円も何万円も奉納するのであるが、そのように信じさせる指導者もどうかと思う。

 私は光りを入れて治すという方法は誰からも教えられず自分で自然にそうしたのであった。高橋信次先生にそれは「光りを入れる」ということであると教えられて、それは古い昔から人類がやってきていたことだということを教えられたのであった。なんとかという神さまを拝んで、そこの教団で出しているペンダントを掛けなければ、その力が出ないというのであったとしたら、私が手を当てても治るということはなかった筈である。
無知ほど恐ろしいことはない。

 ある教団では、その人の額に手をかざして光りを入れると憑依霊が浮き出すという指導をしている。これは高橋先生が教えられた光りを入れるのとは全く違うことである。子供がぜんそくだというのでその教団に行っていた人があった。その教団の講師が手をかざすとその子供が暴れ出す。大人が四、五人かかっても押さえ切れない程の力が出るという。いくら「おしづまり」といっても静かにならない。その後はぐったり死んだようになる。いくら続けて行っても、暴れるのが益々激しくなるだけで一向によくならないといって来た人があった。高橋信次先生はその教団を支配しているのは動物霊であるといっていられた。動物霊にも大将・親分がいて、幹部講師にはその子分がつくのである。動物霊の世界では力の強い霊が弱い霊を支配する。「その子供の場合は、その子供の霊が目覚めていたから、動物霊に支配された講師の邪悪な波動に、拒絶反応を示したのである」

 
小児ぜんそくというのは親の心の不調和であるから、親が不調和である限りどんなに他の治療法をとっても一時よくなったように見えていても根本的に治るということはむずかしい。別に意識して調和を図ろうとしているわけではないが、子供がぜんそくで苦しんでいるのを見たりして、どうにかして治さなければいけないということで子供を治療しているうちに、知らず知らずのうちに夫婦が調和して、その結果よくなったという人がある。その人は正法を知って親自身が心の調和を図っているうちに子供のぜんそくは治った。

 口で愛を説きながら、どうして教団に金を集めようかと、いろいろ手段を尽して信者会員から金を集めることを考えている宗教指導者は、動物霊に支配されていると見て間違いはない。その指導者がどんな立派なことをいってもである。

 正法を説くことを使命として現れてきた光の指導霊は、神の名を利用して教団の財産を増やしたりすることは絶対にしないのである。勿論、神殿をつくって神を祭るということもしない。信仰することによって何かの益を得ようとか、人の持たない霊力を持ちたいという欲望を持っている人は、本人は無意識のうちに動物霊に支配されてゆく。そういう人達は自分では正しい信仰をしていると思っているけれども、冷静な第三者から見ると必ず非常識な理解し難い言動をするものである。



7.人によって効果が違うのはなぜか


 人によって効果が強烈であったり、薄弱であったりするのは事実である。
 それは光りを入れる人の心と、受ける人の心の状態によって大きく違ってくる。光りを入れる人が「果してこんなことでよいのだろうか」という疑いの心を持っていればオーラーが弱くなるし、また光りを入れる人の念が強烈であったとしても、受ける人がこころのなかでその効果を否定していたとしたらまた効果が少なくなる。大人よりも子供に効果が大きいのは、大人は疑う心が強い場合が多いし、子供は心に邪念がなく素直であるからである。光りを入れればよいからといって、誰でも彼でもむやみにやればいいというものではない。

 
病気は心でつくるのであるから、心でつくったものなら心を変えれば病気も治るわけである。病気は心ではどうしようもない固定的なものであるという観念が強ければ強いほどよくなりにくいということになる。だから、心の底から即ち潜在意識の底から信じてやるということが大事で、現在意識でいくら力んでやっても効果は上らない。潜在意識で信じていると、現在意識では特別に強く念じなくても、雑談をしていながらでもよくなるのである。



8.光りを入れた後でひどく疲れたという人がある

 それは現在意識で力んでやっているからである。それともう一つは病人は多くの場合悪霊の憑依をうけているので、その霊の憑依をうけるからである。医者とか治療師の人達で身体の調子がどうもすっきりしないという人達は知らず知らずのうちに影響をうけているのである。

 そこで
高橋信次先生が「誰でも愛の心を強く持てばよいのです。そうすれば誰でも力が出るのです」といわれた言葉に注目しなければならないのである。
 
愛の心を持てば光りが強く出るし、また相手がどんなに憑依されていたとしても、こちらに愛の心があれば波長が合わないから憑(つ)かれるということは絶対にないのである。要はいかにして深い愛の心を持つかということである。
 また病人は生体エネルギーが弱っているのであるから、こちらの生体エネルギーが病人の身体に伝えられると、それだけエネルギーが吸収されるのであるから身体が疲れるのである。



9.光りを入れてやることはいいことだからといってむやみにやると危険である

 
病気になったのは、その人に病気になるような心の原因があったのであり、また憑依されたのは、憑依されるにふさわしい心を持っていたからであって、その人が病気になるとか不幸になっているのは、どうしてそうなったかを反省して、その心の原因を取除くことをしなければならないということなのであって、だから高橋信次先生は「反省は神の慈悲である」といっていられたのである。人間は反省するということによって次第に心を大きく成長させて行かなければならないのであって、折角反省する機会を与えられながら、その病人に反省することをさせずに病気だけを治してやろうとすることは、その人から反省の機会を奪って、霊の進歩を阻害することになるのであるから、本当にその人に親切であり、愛が深いというわけにゆかないのである。
 その人に反省をさせず霊の進歩のチャンスを奪ってしまったということは、神がつくられた霊の進歩のルールを阻害するわけであるから、病気だけを治すということはいけないのである。大抵の医者が三代続かずといわれるのは心の救いをせずに病気だけを治そうとして、折角、反省を通して霊の進歩を図らなければならないのに、その進歩のルールに反したという罪をうけなければならないからである。


 このことは他力信仰についてもいえることである。他力信仰はその人の心をかえさせることよりも、拝ませたり、お経をあげさせたり、会員を増やさせ、金を上げさせ、本や新聞を売らせたりする。医者と宗教家と立場や手段は違うが、反省のチャンスを奪って霊の進歩を阻害したということは同じである。だから
光りを入れてあげる場合はその前によく正法の話をして、反省する心を起させてからしなければいけないのである。

 
大体十五歳以下の子供の病気は親に原因があるのであるから親がよく反省をして「自分達、親の不調和が原因で、なにも知らない純真なあなたの心に歪みをつくって、可愛いあなたをこんな病気にして苦しませて申し訳ありませんでした」と、子供に詫びる心で光りを入れるとよくなるのである。

 
相手が憑依されている場合は、憑依している霊の側からいえば憑依しなければならない正当な理由があるわけである。それを強引に断わりもなしに引き離そうとすると憑依霊が復讐する場合があるから、憑依霊にも正法を話してよく救われてゆくようにして納得させなければいけないのである。

 また、家族は早く病人を治したいと思っているのに、病人自身が治りたくないと思っている場合は効果がない。だから、病気をしている本人が治りたいと思っているかどうかを確かめることが大事である。また本人が治ることを願っていたとしても、健康になったらまた前と同じように我慾を張って間違った道を歩もうとしているのであれば、これまた霊を進歩させないばかりか、むしろ退歩させることになるから、その場合は病気を治させるよりも病人のままで置いた方が本人に悪いことをさせないだけでもよいということになるから、病気がよくなったら何をするか、どういう人間になりたいと思っているのであるかをよく決心させなければいけない。



10.生命エネルギーを補給するための禅定

 光りを入れると自分のエネルギーを病人に吸収されるから疲れる場合が多い。エネルギーを補給せずに光りを入れてばかりいると、遂には自分の身体の活力を失って病気になってしまうことがある。光りを入れた後は必ず禅定をして生命エネルギーを充足させて置くことである。



11.奇跡は自分が起すのではない 神が直接起されるのでもない

 これまでの宗教団体では奇跡が起ると「神さまが祈りを聞いてくださった」といって、神の力が直接働いたように説明していた。しかし、神の力が直接現れることはないのである。指導する人の心と指導を受ける人の心とに偽りがないか守護霊は見て、その守護霊が、またその守護霊が自分の力では及ばないと思った時は、その問題を解決するにふさわしい指導霊或は光の指導霊にお願いをしてそこに光りが注がれるのである。あの世からの協力があってはじめて奇跡が行われるのであるのに、いざ奇跡が起ると、それを自分の力だと思い増上慢になると、あの世からの協力が得られなくなる。本人の心はまだ充分に法がわかり、神の存在がはっきりわかったというわけでないのに奇跡が起ることがある。それはそのような奇跡を見せる事によってその人がまだよく悟っているわけでもないのであるが、あの世の存在、神の存在を知らせて正しい道に導こうという時に奇跡を見せることがある。
 そういう場合に増上慢になって人に誇示する心になると、守護霊、指導霊たちが協力しなくなる。そうすると、前には奇跡が起ったのに、今度はいくら祈っても念じてもどうにもならない、病気は治らないということが起ってくる。その時に自分が増上慢であったことを反省して心を謙虚に敬虔にすればよいのであるが、中には自分が反省することを忘れて「正法も効かなくなった」「神はいないのか」という人も出てくる。正法を聞いてよくなった後で、また問題が出てきたり病気がぶり返したりすることがある。多くの場合、第一回目の奇跡は自分の心はあまり変わっていないのにあの世から協力があって起ったのであるから、今度は本当に自分の心を変えて解決しなければならないのであるから、素直な明るい、それでいて敬虔な謙虚な心になって祈らなければいけないのである。
 初めは立派な指導者だと見られていた人が、後には何の指導力も持たなくなるのも増上慢になったからである。増上慢になって指導力を失った指導者は自分の権威を保とうとして高圧的に命令して会員を支配しようとし、自分の指導力のないことを見抜かれないために人に逢わなくなる。あの世からの協力を受けることができないから話すことも書くことも、何の感激も与えない通り一遍の紋切口上型になる。だから
高橋信次先生がいつも「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」といわれ、謙虚さ敬虔さを失った指導者はニセモノであるといわれたのである。

つづく

次号に「光りを入れる方法の実際」を書きます。








光を入れる ・・・ その2

 
鹿野薗で五人の弟子に説法されたお釈迦さまは、五人の弟子とともにラジヤグリハに帰られ、今度は一人で、あの懐かしいブツダガヤ、悟りを開かれた所へ行かれた。悟りを開かれた跡はそのまま残っていた。ブツタガヤに来られて四日目、食料もなくなったので近くのセナニー村に托鉢に行かれた。村人は、しばらく顔を見せられなかったお釈迦さまが帰って来られたというので喜んで迎えた。とある家で、奥に寝ている老婆を見舞われた。老婆の額に軽く手を当てられた。すると老婆に巣喰っていた病魔はたちどころに退散し、腰から下の神経痛がアッという間に癒された。

 お釈迦さまはこのようにして「光り」を入れて治されることをされたが、当時の医学を否定されたのではない。正しい医学的知識にもとづく科学的療法をすすめていられた。お釈迦さまにはジーヴァカ(耆婆・ぎば)という侍医があった。薬を使うこともすすめられた。薬をすすめられたことが大乗仏教時代になると薬師如来という像をつくるということになって、今ではお釈迦さまの外に、薬師如来という如来がいられるかのように信じられるようになったのである。

 インドに行かれると、霊鷲山の登り口の左手のところに、ジーヴァカが医院をひらいて、付近一帯は薬草園であって、お釈迦さまがそこで治療を受けられた跡が残っている。後世、仏教が医療を廃して加持祈禱だけで病気治しをするようになったことはお釈迦さまの教に叛くものである。それと同じように、光りを入れさえすれば医者にかからなくてもよいというのは極端であっていけないのであるが、医者にかからなくても光りを入れるだけで治るものがあるのも事実であって、そこは皆さんの良識による判断に俟(ま)つしかない。極端な考え方をして後で問題を起すことのないように十分に注意をしていただきたい。



12.念が通ずるということ

 これまでの宗教団体では、その人のために念ずると、こちらの念が直接相手に通ずるように教えてきましたがそれは間違っています。念が直接通ずるのであったら、どんな場合でも必らず通ずるということにならなければならないのに、念が通じたり、通じなかったりすることがあるのはどうしてでしょうか。

 私達が念ずると、その念を私達の守護霊が相手の守護霊に伝え、相手の守護霊がその人に心の内から知らせる、囁くのである。念を送る人の心が不純であったり、受ける人の心が素直でなく頑固であったりすると念は通じなくなる。即ち不純なものは守護霊が伝えないし、相手の守護霊はその人にいくら伝えようと思ってもその人が頑固であれば守護霊の囁きが聞こえないのである。だから、念を送る人も受ける人も、どちらも心が愛に満たされてきれいでないといけないのである。

 
光りを入れる場合は、手を通して生命エネルギーが直接身体に伝って行くだけでなく、その人の愛念が、相手に伝えられて行くのであるから、どれだけ心が純粋であるかということが大事になってくる。



13.念の速度は光りより速い


 これまでこの現象世界では、光りの速度が一番速いと考えられてきた。しかし今は念の速度の方が光りの速度よりも速いという実験が科学者達によって行われている。それは植物が人間の心をキャッチするということがわかって以来のことである。あと二十年すると火星探検機が打ち揚げられる。その探検機に植物を乗せて、地上の人の心をその植物がどれ位の速さでキャッチするかという実験がされることになっている。おそらくその速さは瞬間であろうと考えられている。即ち
念の世界には時間がないということなのである。

 
高橋信次先生が、あの世は時間空間がないといわれたことが、漸(ようや)く科学的に知られるようになる時がくるのである。植物が人間の心を知るということについてはここでは書く余裕がないので、とにかく念の速度は光りの速度よりも速いのであるということを知っていただけばよい。



14.心は念の発信源であり、受信源である


 潜在意識、現在意識を含めてその心が、我々の本当の自分である霊の、愛、慈悲の心をそのまま受けて、愛、慈悲の心を発信する時、即ち全ての人々の幸せを願う時、我々はまた多くの人々が起す愛、慈悲の心を受信して心は益々愛と慈悲の心に豊かに満たされてくるが、我々が本心に叛いて人を憎んだり恨んだり、また人の不幸を喜ぶような心を持つと、多くの人々が発信する暗い想念、憎しみ怨み悲しみなどの想念をキャッチして益々心を暗くしてしまう。このことを昔から日本では「笑う門には福来る、泣き面に蜂」といってきた。また、「人を呪わば穴二つ」といってきた。


 このことがわかっていたら、自分たちの意見が違う人々を、サタンだといって憎悪することがどんなに間違いであるかわかられるであろう。人をサタンだ悪魔だという人はすでにその人の心の中に憎悪があるから、その人は多くの人々が発信する憎悪の念と波長が合って心の中は益々憎悪の念で満たされてゆくことになる。心が憎悪で満たされて安らかでない証拠には、そういう人々の雰囲気は冷たく固くて暗くて、どこにも愛に満たされたあたたかい明るい雰囲気はない。
 
だから光りを入れる前に自分の心を愛の心で満たすことが大事であると高橋信次先生がいわれたのである。報いを求めない愛の心で、ひたすらに相手が健康に幸福になって下さることを念じなければいけないのである。
 
「自分はあなた達よりも素晴らしい力があるのである」とか「自分の力を人に見せつけることによって、自分の偉さを人に示そう」とか、まして、「光りを入れてやることによっていくらかの金銭にしよう」とかなどは絶対に思ってはいけないのである。



15.あの世とこの世のしくみ

「11.奇跡は自分が起すのではない。また神が直接起されるのでもない」と書いたが誤解を受けるといけないので改めて説明をして置きます。

 これまでいろいろの宗教団体が「神が祈りを聞いて下さる」とか「下さった」という言葉を使ってきた。それはあの世とこの世の仕組みを知らないからである。
 私達は日本人として、天皇を象徴としているこの日本の国に生を享けて、政治的には総理大臣があり各県知事があり、各市町村長があって生きているのである。日本人だからといって総理大臣が直接国民の一人一人に政治を行うのでもなければ、○○県人だからといってもその県の知事が直接県民一人一人の政治をするのでもないし、また、○○の市町村民であるからといって直接、市町村長が一人一人を政治するのではない。憲法、法律があって、それに基づいて、それぞれの役割があって、そうして我々は日本人として生きているのであると同じように、
あの世にも整然とした秩序があって、宇宙創造の神の心を直接知って、その神の心をそのままじかに伝える力を持たれた如来界の方があり、その如来の手足となって、神―如来の心を伝える使命を持たれた菩薩界の方々があり、その下に指導霊といわれる方があり、本人を直接守護する守護霊があって、我々は生かされているのである。

 
我々の生命そのものは神の創造であるが、その生命―霊の指導は、如来―菩薩―各指導霊―守護霊を通して行われるのであり、その人の心の成長、魂の成長に従って救いの方法は変えられてゆくのである。ここに光りを入れる時に「祈願文」を唱えなければならない根拠があるのである。光りを入れる人も受ける人も、祈願文を唱えて、正しく神に導かれ、神の光りを受ける素直な心にならなければいけないのである。素直な愛の心を持った時に、霊の乗りものとして神が創造された肉体の法則に従って肉体は正しく活動をするようになり、不健全な細胞は健全な細胞と変って奇跡が起るということになるのである。そうしてその人の霊は、その人の霊の段階に応じて相応しく指導されてゆくことになるのである。



16.病気とは細胞震動のアンバランスである

 前号の「1.肉体細胞には心がある」と書いたが、一九二五年、ジョルジュ・ラコフスキーは「生命の起源」の中で、病気とは細胞震動のアンバランスであるという考えを発表した。生命の基は物質ではなく非物質的振動で、生物はみな高周波の電磁波動を放射し、また、宇宙の中心からの高周波を吸収している。病気とは細胞震動のアンバランスである。健康な細胞から出る放射線と病的細胞から出る放射線の戦いである。健康な細胞から出る放射線が強いと病気は治ってゆくが病気の細胞から出る放射線に健康な細胞が負けると病気は次々に進行するというのである。病気になったら心で細胞を鼓舞する必要がある。

 ニューヨークの大病院で十五人のガン患者に、できるだけ戸外で日光に当り、テレビなどの人口光線は避けるようにしたら、十五人のうち十四人がガンが進行しなかったという。
 太陽光線の中に細胞を健全にして病気の進行を喰い止める働きがあるということであり、健全な細胞をガン細胞に変化せしめたのはその人の心なのであるから、心が変われば病気の細胞を健康な細胞にすることも出来るということになるのであり、物理療法と同時に人間は霊的実在であることを瞑想させて薬を使わずに病気を治すという療法がアメリカでは既に始まっているのである。

 
病人が完全にこれまでの病的観念を捨てて霊的自覚をした愛に満たされた明るい心になればそれだけで病気は治るということになるのであるが、人間は永い間、病的観念を、そうして病気は医者や薬が治すものであるという潜在観念を持ってきたが、この観念を改めて、心で肉体は支配出来ると信ずることである。



17.病気を治すのは本人の心と、肉体に備わっている自然治癒能力である

 医科大学では、病気を治すのは医者や薬ではなくて、医者や薬は、あくまでも、神が自然に肉体に与えられた自然治癒能力を振起させる補助的な働きをするだけのことであるということを教えるのである。しかしながら現実は、医者は医者で、病気は医者が治すものだと思い、また、多くの人も自分が病気になると、自分の内に病気を治す働きが備わっているのであるということを忘れて、すぐ医者に走ってしまっている。

 
光りを入れるのも、あくまでも本人の心を目覚めさせ自覚させ、本人の持っている自然治癒能力を振起させる補助的な手段なのであって、光りを入れることが即病気治しの根本であるように思ってはならないのである。

 身体の具合が悪かったり痛かったりするといくら正法の話をしても、その話を聞く気持ちになれないものである。そこで光りを入れると(或は医学的な治療でもよい)身体がラクになり痛みが去って正法を聞く心のゆとりが出来てくる。それをくり返して最後は自分の心と力で治すように指導して行くのである。だから、光りを入れる人は「わたしが治してあげます」という驕(おご)った心にならないように厳重に注意しなければならない。

 
親が子供に光りを入れる場合でも、子供がその肉体を乗り物として、立派に霊の勉強をし、この世に生まれた使命を果たしてゆくようにと、謙虚な心を持たなければいけないのである。



18.光りを入れても治らない場合

 どんなに光りを入れても、また医者にかかっても病気が治らない場合がある。それは本人が治りたくないと思っている場合である。病気が治りたくないと思っている人があるのだろうかと思われる人があるであろうが、実際に病気が治りたくない、病気になっている方がラクだ、病気になっている方が得だ、と思っている人がいるのである。

 例えば入院した人で、大抵は三年以内で退院をしてゆくが、それ以上永くいる人、中には十年も十五年も入院している人がいるのである。その人達の全部がそうであるというのではないが、医者が見てもどうもない、休みには外出をして遊んでくる。病院内では結構、テニスや卓球をやったりして、どこが病気なのだろうかという人がいるものである。
 或は入院していなくても慢性の持病だという人の中に、そういう心を持っている人があるものである。そういう人は、治りたくない意思が働いているのであるから、光りを入れることはムダである。
 また、死の願望を持っている人も治らない。生きて苦労するよりは死んでしまった方がよいと心の中で思っている人に光りを入れてもムダであるから、このような人にはまず正法を話して、その人が生きよう、元気になろうという心を起してからやらないといけない。

 愛さえあればいいのであると、相手の心も立場も考えずにやると失敗することがあるから、よく注意しなければいけない。
 また相手が「そんなものが効くものか」とか「そんなことでは誤魔化されないぞ」というような反対観念を持っている場合も効かないから相手の心を無視して強引にやることは避けた方がよい。全然効かないということはないのであるが、実際は効くという実感があっても効かないといわれるから注意した方がよい。



19.光りを入れる実際の方法

 
病気はその人の歪められた心の表れなのであって、心の持ち方を変えればかわるものなのであるから、病気という動かすべからざる頑とした存在がそこにあるのではない。だから、動かし難い病気というものがその人の肉体の中にあるという固定的な観念を持ってはならないのである。

 光りを入れるのは
① 心から心への説得
② 肉体に対して手掌を通して光りを入れる
 ということが同時に行われるのである。

1.光りを入れる前に瞑想、禅定して心を調和させ、愛で心を満たす。

2.相手を仰臥(ぎょうが・あおむきに寝る)させ、額に手をふれて、坐ってやる場合は前額部と後頭部に手を當
  てて祈願文を唱える。

  「大宇宙大神霊・仏よ、この人の心に安らぎをお与え下さい。この人の身体に光りをお与え下さい。
   実在界の諸如来・諸菩薩、光の天使、この人の心に安らぎをお与え下さい。この人の身体に光りをお与え
   下さい。
   在天の諸天善神よ、この人の心に安らぎをお与え下さい。この人の身体に光りをお与え下さい。
   指導霊・守護霊よ、この人がこの肉体を持って生まれてこられました使命を充分に果たすことが
   出来られますように、心の内より正しくお導き下さい」
  このように天上界からの導きを祈る。

3.肉体を支配している本人の意識、霊に向って説得する。
  
「肉体を支配しているこの人の霊よ。あなたは罪の子ではない。あなたは神の子である。あなたはこの肉体を
   持って霊の修行のために現われた霊であることを自覚しなさい。あなたは完全にこの肉体を支配してこの世
   に生まれてきた使命を果たさなければならないのである」
  このように念じて、その人が完全に肉体を支配している状態を思念する。

4.ついで患部に手を当てる。例えば胃が悪い場合一方の手を胃の上に、一方の手を背に当てる。仰臥している場
  合は一方の手だけ胃の上に当ててもよい。この時に「ここに悪い胃がある」と思ってはならない。

  「既にそこが光りに満たされて健全である」と思念する。手を当てて次のように念ずる。

  「胃の細胞よ。あなたたちも神の子である。あなたたちの細胞の霊よ。あなたたちは神の子として、この者が
   霊の修行のためにこの世に肉体を持つ時に、あなたたちはこの者の肉体の細胞となって、この者がこの世に
   あらわれた使命を十分に果たすことが出来るように、この者に協力するために現われてきた筈である。あな
   たたちはそこにおいて、このように不調和を来たしてはならない。あなた達はあなた達として使命を自覚し
   て、神から与えられた使命を自覚して本来の機能を回復しなさい」

  この言葉の通りでなくても、意味がそうであればよいのであるから、その時に自分の心にもっともぴったりと
  くる言葉で念ずればよい。

5.胃の細胞をこのようにしたのは本人なのであるから、この時本人は、心の中で次のように念ずることである。
  「本来、健全であったあなたたちを自分の心の不調和によって知らず知らずのうちにあなたたち(胃の細胞)
   を不調和にし、申し訳ありません。私は今、反省したのである。私は今、健全な調和された心になったので
   ある。だから、あなたたちも光りを受けて早く健全になって下さい」
  そのように念じて既に胃が健全である状態をアリアリと心の中に描く。

6.手を当てている人も、既に胃が完全であることをアリアリと心の中に描いて、息を吸う時に、単に空気を吸う
  と思わないで「神の光り」を吸うと念じて下腹に一ぱい息を吸う。下腹に一ぱい吸った時に自分の全身が光り
  に満たされて輝いている状態を想念する。

7.息を吐く時に、自分の体内に満ち満ちていた神の光りが、手を通してその人に流れ入り、その人の患部が癒さ
  れ、全身が光りに満ち満ちている状態を想念する。この時にその人の体内の悪いものは、体内が光りに満たさ
  れてゆくのと同時に、足のつま先からみな流れ出ると想念する。

8.この場合大事なことは自分がしているのであるという心にならないことである。自分の心を無我にして、神が
  すべてのものを生かし愛さんとしていられるその神の愛の完全な通路になることである。強力に光りを送らな
  ければと力む必要はないのである。

9.子供の病気の場合は、親がよく反省をして調和してからしなければいけない。子供が病気をしている場合は、
  親の不調和な心が知らず知らずのうちに無心な子供の心に影響して、何も知らない子供が病気という状態にな
  って苦しんでいるのであるから親はまず子供に詫びなければいけないのである。そうして、子供自身が病気に
  なって苦しむという状態になって親を反省せしめて親自身の霊の向上を図らせようとしていることに対して、
  心から感謝をしなければならないのである。

10.憑依によって病気していると思われる場合はみだりに光りを入れない方がよい。不用意にすると憑依してい
   る霊がこちらに憑ってきて身体の具合が悪くなる場合がある。


憑依された人の簡単な見分け方。
 1 病名が医者ではわからない。
 2 持病で病気が永い。治りにくい。
 3 顔色が土色か、またどこか黒ずんでいるか、その反対に蒼白で精彩がない。
 4 感情の起伏が激しい。
 5 目がおどおどして落着きがないか、また目がすわって動かない。
 6 身体が冷える。またいつも熱っぽい。
 7 いつも頭や肩が重い。
 8 暗い所が好きで、ものをいわない。
 9 強情で人のいうことを聞かない。
 10 人や食べ物の好き嫌いが激しい。


 憑依されていると思われる人には予め気分のよい時に、くり返して正法を話して、感謝の心を起させるようにし
 てからすることである。

11.光りを入れる時間は一日三十分前後やる方が効果が大きい。場合によっては短く、また永くしてもよい。

12.終わったら、大宇宙大神霊、諸如来諸菩薩、諸天善神、指導霊、守護霊に感謝し、本人の意識、霊に対して
   神の子としての自覚を深められるように祈念する。

13.光りを入れたら最後は必ず禅定をする。光りを入れたその場ではやれない場合が多いから、家へ帰ってから
   必ずすることである。

14.光りを入れると身体がぽかぽか温かくなって寝てしまうことがある。その場合はそのまま寝かして置く方が
   よい。また、すぐその場では効果が感じられないような場合でも、ひと晩ねると翌朝、その効果がはっきり
   することが多いから、その場ですぐ効果がなかったからといって失望することはない。
   
愛をもってすることが、効果がないことは絶対にないのである。



20.体験例 ・・・ 逆児を正常分娩した

 小倉毎日会館の理容ミヤモリに勤務していた田辺明光君の奥さんが、二人目の子供が出産二カ月前になって、胎児が逆児であるから帝王切開しなければいけないと医者に宣告された。また、熊本の正法会支部長の岩木徳吉さんの娘さんが結婚をされて妊娠され、やはり出産直前になって逆児で帝王切開をしなければならないといわれた。
 「帝王切開をせずに出産できる方法はないのでしょうか」という相談であった。
 田辺君の奥さんの場合は小倉の例会が終わって畳の上に寝てもらって、岩木さんの娘さんの場合は熊本の例会が終わって椅子に腰掛けたまま、私はまず手を当てて、祈願文を唱えて、神に、諸如来諸菩薩、諸天善神、指導霊、守護霊に対し、天上界からの指導ご協力を祈った。
 光りを入れながら次のように念じた。
 「この母体を縁としてこの地上に肉体を持って、この地上界で霊の修行をなさんとしている霊よ。あなたが宿らんとしているこの母の体内にあるあなたの肉体は、頭が上にあって正常な位置にないということで、帝王切開をしなければならないということでありますが、あなたがこの地上に生まれて、父、母と呼ばなければならないこの方達は、帝王切開はしたくないといっていられます。生まれる瞬間から母体を傷つけるということはよくないことであるから、今は逆児の状態であることが気持ちがよいのであったらそのままでよろしいけれども、出産の直前になったら、頭を下にして正常な状態で生まれて来て下さい。あなたは全ての人々の祝福を受けてこの世に誕生されるのである」
 田辺君の奥さんの場合は陣痛が始まって十五分で、岩木さんの娘さんの場合は二時間でどちらも正常分娩であった。生れた赤ちゃんは頗(すこぶる)る健康である。

 
光りを入れるのはなにも人からだけやってもらう必要はない。自分の手を悪いという所に当てればよいし、また、健康を永く保ちたい人は、左右の肋骨の下部の所に手を当てて光りを入れながらそのまま自然に寝るようにすればよい。

 
光りを入れることはそれなりの効果はあるが、決して医学を否定するのではないのであるから注意していただきたい。唯物医学はまだ光りをいれることの効用については無知であるが、これから認識されるようになってくるであろうし、お釈迦さまが当時の医学についてはくわしい知識を持っていられたことは原始仏典に残されているのであるから、我々もまた医学的に無知であってはならないのである。


 古代インド医学には次のような分野があった。
(一)外科医学 (二)眼耳鼻科医学 (三)内科医学 (四)精神病科医学、
(五)小児科医学 (六)毒物学科医学 (七)生命学科医学 (八)精力学科医学

 このような医学的知識をもって、人間の身体を「三十二身分」として観察されたということが原始仏典の中にある。

 「この体には次のようなものがある。毛髪 生毛(うぶげ) 爪 歯 皮膚 筋肉 腱 骨 骨髄 腎臓 心臓 肝臓 肋膜 脾臓 肺臓 腸 腸間膜 胃 排泄物 胆汁 痰 膿汁 血液 汗 脂肪 奨液 唾液 鼻液 関節液 小便 脳 」

 
医学を否定し、また加地祈禱だけで病気が治るということはお釈迦さまは説かれなかったのであるから、光りを入れるだけで病気が治るというようなことはいってはならないのである。



21.病気平癒祈願

 最後に
 高橋信次先生が教えられた「病気平癒祈願」は次の通りである。


 病気平癒祈願

 大宇宙大神霊・仏よ
 わが心に光をお与えください
 心に安らぎをお与えください

 実在界の諸如来 諸菩薩(光の天使)よ
 わが心に光をお与えください
 心に安らぎをお与えください

 実在界の諸天善神よ
 わが心をいっさいの魔よりお守りください

 私たちは正法に帰依して
 日々を正しい想念と行為によって
 調和と安らぎのある世界を築きます

 (まず自分自身の心に光を受けてから、両方の手のひらを体の悪いところに向け、
体より一センチぐらい離して健康祈願する。そしてさらに、次のようにいう)

 当体の意識(患部)よ
 あなたたちは肉体船としての使命を
 この現象界に出るときに
 神仏と約束をしたはずです
 あなたたち細胞集団は
 魂修行の目的を果たしてください

 大宇宙大神霊・仏よ
 当体(患部)に光をお与えください
 安らぎと調和をお与えください
 (約三十分ぐらいで現象が出てくる。
  神理を悟った生活をしていれば、こうした現象はさらに大きく現れてくる)


おわり



月刊誌 正法 第11号(1979.07月)/第12号(1979.08月)  より





高橋信次先生著 人間釈迦より ・・・ 光を入れる・光を放つ


人間釈迦 第2巻 43ページより

 
ブッタは居を構えて、もう四日の朝を迎えた。食糧も底をついたので、セナニーの村へ托鉢に出かけた。村へ出ると、ブッタとはもう顔馴染みになっている村人が、「しばらくです。どちらの方にお出かけでした。あまり顔を見せないので、もうどこぞへ行ってしまわれたと思っていました。よくおいで下さいました。どうぞ家の中におはいりください」
 ブッタの手をとり、むりやり家の中に招き入れるのだった。人情というものは不思議なものである。度々托鉢に来ただけなのに、百姓家の老人達は、しばらく顔をみせなかっただけで、ブッタを案じてくれた。彼等にとって、ブッタの存在はただの修行僧であり縁もゆかりもないのだが、度々顔を合わせることによって、心がふれあい、親近感を増してくる。ブッタが可愛い小鹿の行く末を案じたその心も人情の表れだった。人と人、人と動物、人と植物、人と自然、これらが織りなす心のふれ合いは、生ある者の心の奥底に育まれているところの自然の感情なのかもしれない。愛念のこもった村人の言葉に、ブッタは、思わず微笑した。
 ブッタは、奥で寝ていた老婆を見舞った。老婆の額に軽く手を当てた。すると老婆に巣食っていた病魔はたちどころに退散し、腰から下が、今でいう神経痛がアッという間に癒され、起き上がることが出来た。老婆は涙を流し、ブッタに合掌した。家人は、この不思議な現象におどろき、あらためてブッタを見直し、感謝するのだった。



人間釈迦 第2巻 184ページより


 アサジが、ラジャグリハの町に着く頃は、まだ薄暗く、星が輝いていた。百姓家の粥をたく煙が、明るくなった夜空にぼんやりと立ち昇っている。いつも訪ねる百姓家の前にくると、家の主人が軒下に立っており、アサジの姿を見ると、「アサジ様、今朝は家のかかあが、いつものような粥の布施ができねえだ。腹が痛えって苦しんでいるんでさあー。どうしたらいいか、わしは困てるんで・・・・・・」五十をすぎたやせた体の農夫は、いかにも困り果てたといった風で、背の高いアサジを見上げていた。「そうか、それは困った。私もあいにく、薬草を持っておらぬし・・・・・・」アサジはちょっと困惑した。
 しばらく立ちどまって思案にくれたが、ふと、ブッタのことを思い出した。
 ブッタは弟子達が腹痛や腰の痛みを訴えると、よく両手を患部に当て、治していた。
最初は分からなかったが、霊視してみると、ブッタの両手が光明で満たされており、その光が患部に伝わると暖かくなり痛みがとれてしまうのであった。自分もやってみようか。もしかすると同じ手当で結果が出るかもしれないと、思った。「アサジ様、どうぞ、うちのかかあを見て下せえ。わしは昨夜から一睡もしていねえでがす」アサジは案内され、家の中に入って行った。家の中はうすぐらく、割合、広い土間には農具が無雑作にちらばっていた。部屋の奥のボーッと照らし出された灯明の明かりが、家のありさまを語っていた。
 部屋の隅で、女の苦しんでいるうめき声が聞こえる。胃のあたりが、きりきりと痛むらしかった。女は油汗を額ににじませ、眼を真っ赤にしている。
 部屋に上ったアサジは、寝ている女の腹部後方に左手をソッと差しこみ、右手を胃のあたりに軽く当てた。彼は瞑目し、ブッタを心の中で描き、女に光が伝わるように念じた。農夫はアサジの横で、妻の顔をじっと見つめていた。暫くするうちに、苦悶の声がおさまり、女は、すやすやと寝入ってしまった。結果が出たのであった。奇跡がおこったのであった。これを見つめていた農夫は、眼に涙を溜めながら、アサジに手を合わせた。
 「アサジ様、本当にありがてえことです。ブッタ様の偉え、お弟子様だ。わたしたちのような、ドン百姓でもブッタ様の教えがわかるものでしょうか。むずかしい修行がいるのでしょうねえー」
 「太陽様(おひさま)は、バラモン種ばかりでなく、クシャトリヤ、ヴェシャー、シュドラーにも平等に光を与えている。ブッタの法もそれと同じように、誰彼の差別のないものだ。毎日の生活を、法をよりどころにすることが何よりも大事なことなのだ」



人間釈迦 第4巻 79ページより


 ウダイは重い心をひきずりながら旅をつづけることになった。なにはともあれ、カピラに帰らなければならない。朝方、精舎を出たが、太陽が中天にかかり、昼頃になると、もう腹がへってきてどうにもならなかった。農家の軒先に立ち、食を乞うと、老婆が出てきて芋粥を椀の中に入れてくれた。彼が礼をいい、その場を去ろうとすると、今日は夫の命日だから供養をしてくれと頼まれた。ウダイは、とんでもない家にぶつかったと思ったが、頭は坊主で僧衣を着ているので断るわけにもゆかないと思った。仕方なく、老婆の家に入り、粗末な祭壇の前にぬかずくと、バラモンの行者がやる呪文をあげた。彼は自分でも意味の分からぬ呪文をあげた。時おり薄目をあけ、老婆の方に目をやると、老婆は合掌し、祈りを捧げている。彼はあわてて呪文を続ける。最初のうちは、腹の虫がグウグウいうので、それが気になって仕方がなかったが、呪文をあげていると、空腹のことはすっかり忘れ、呪文が板についてきたように思った。
 と、その時だった。目の前にブッタが現れた。光に包まれたブッタは彼を見下し、彼に光を送っているように彼には感じられた。彼は、ハッとした。ブッタが見えられたと思った。
すると彼の口からつぶやかれていた呪文が消え、合掌していた両手が口元に吸い寄せられた。彼は大きく息を吸うと、その息を思い切り強く、暗い、陰気な部屋に向かって投げつけるように吹いた。このとき、彼の両手は、左右に広がっていた。彼は、この仕草を何度となくした。
彼は、終わってから、老婆をふりかえると、老婆は目に涙を一杯溜めて平伏していた。
老婆は、おそるおそる頭を上げると、「ありがとうございます。こんな有り難い供養をしていただいて夫はさぞ喜んでいることでしょう。
 さきほど、あなた様がご自分の息を部屋中に吹かれたときは、部屋の中が光で満ちあふれ、まぶしくて、まぶしくて、目をあけていられませんでした。なんだか知りませんが、部屋の中に、梵天様がおいでになるように感じられ、ありがたくて、ありがたくて、涙がこぼれ落ちてしまいました。本当にありがとうございました。」と、いった。
 ウダイは戸惑ったが、ありのままをいった。
 「いや、今の供養は私がしたのではありません。私が呪文を唱えていると、光明に輝いたブッタが現れ、光をお与え下さったのです。私も、今、ブッタの偉大さをはじめて知った者です」「するとなんですか、あなた様は、あの偉大なブッタ様のお弟子様ですか」「まあ、その一人といえば一人です」老婆は、再び、平伏し、涙を流した。
 「よくわかりました。これまで、乞食されるサロモンの方に、夫の供養をお願いしても、ただ軒先で呪文を唱えるだけで行ってしまいます。しかし、あなた様は、こうして家にまで入ってこられ、ブッタ様のお光を部屋中にお与え下さいました。このご親切、ご恩は死んでも忘れません。ありがとうございます」
 「いやいや、なにもかもブッタのお光によるものです」
 彼は、こういって、老婆の持てなしを受け、老婆の家を後にした。



 
人間釈迦 第4巻 196ページより

 「アナン、そなたも足が痛むだろう。足を出しなさい」ブッタはこういって、アナンにも手を当てた。昔から病気治療を称して『手当』といったようだ。手を当てると病気が治るので、そういわれたのであろう。今日では手当というと、なにかを用意する、報酬に支給する金、応急手段などにこの言葉が使われているが、しかし、そのもとをたどると、ブッタの時代、それ以前から、生活の知恵として、病気治療に応用されていたのであろう。それが、時代とともに言葉の応用範囲が広がり、さまざまに解釈されるようになって本来の意味から離れていったものと考えられる。
 第三の眼(霊視)を通して相手の体を見ると、ちょうど、レントゲンをかけたように体が透明に見えてくる。ところが体のどこかに悪い箇所があると、その部分が黒ずんで見えたり、妙に白く見えるものである。細胞活動が正しく機能していないためである。その悪い箇所に手を当て意識を集中させると、その部分が次第に透明になってきて、痛みがとれるという仕組みである。手を当て意識を集中するとなぜ悪い箇所がよくなるかというと、人間の手のひらからは絶えず微量の電流が放射されており、意識を集中するとその量が急増し、患部に流れ込んでゆくからである。ふつうこれを光と呼んでいるが、光が患部に流れてゆく。細胞が正しく機能しないということは、細胞活動を支える電気的働きが弱くなっているので、手を当て充電すれば細胞は元通りに機能するというわけだ。もちろん、どんな病気も手当だけで治癒するかというと、そうもゆかない。細胞の定命もあるだろうし、病気の難易、それに手当てする側の光の強弱にも関係してくるだろう。光の強弱は手当てする人の精神的調和度、また念の力に左右されてくるだろう。ふつうは薬を使い手当てを加える。この方法が病気快復をもっとも早めるだろう。
 ブッタの手当によって、アニルダもアナンも、肩や腰、足の痛みがウソみたいにとれてしまった。

= 完 =





2013.08.13 UP








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