高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








正法誌 38号  1981年10月号

男の役割と女の役割 - 9

 玉耶経 (ぎょくやきょう) ・・・・・・ 善き妻と悪しき妻

   = 男はどういう妻を求めてるか = ・・・・・・ より



男にとって妹のような妻がどんなにありがたく、愛おしいものであるか。
名随筆家で参議院議員であった、
日本の教育の刷新にも力を尽くされた森田たまさんの話を紹介しよう。


絹のこころ


日本の絹の美しさを、日本の女の心としたい・・・・・・。新春の床掛けに何か一筆(ひとふで)と頼まれて、あれやこれや思いまどっているうちに、ふっとこんな文句が浮かんだ。
むかしから、女の肌の美しさを羽二重にたとえることがよくあった。きめが細かく、すべすべして、ヒヤリと冷たい感触の中に、やがてほのぼのと絹の暖か味が通ってくる。
そういう女に巡り合った男は、仕合わせ者とされているが、ある男が、十年前に若くして逝った新妻をしのんで言った。
「あれはまるで羽二重のような女でしたよ」

 弁当を作ってもらって、会社へ行って、開いて見たらご飯ばかりでおかずが入っていなかった。おむすびでも梅干しは入っている。ご飯ばかりの弁当は、彼にとって生まれて初めての経験であった。腹が立つより、何となくおかしかった。

 家へ帰ってみると、若い妻はまぶたを赤く泣きはらして出て来た。「ごめんなさい。おかず入れるの忘れちゃったの」深窓に育ったお嬢さんで、今まで一度も炊事をしたことことがなく、弁当というものも作ったことがなかった。主人が出勤した後で、戸棚の中におかずを発見した。それで彼女はお昼のご飯を、たった一人で、おかずなしで食べたのである。

 「ご飯だけ食べるのって、とても辛いものね。お湯をかけて流し込んだけど、それでも喉につかえるような気がして、一善がやっとだったわ」

 自分の落ち度を素直に認めて、自分の罰を自分に科したこの新妻の、優しくも厳しい心情には、どんな夫でも心を打たれるであろう。彼女はその後もしばしば間の抜けてことをしたけれども、夫の愛情は深まってゆくばかりであった。



 ( あなた方は、もし夫の弁当のおかずを入れ忘れてしまったことに気がつかれたらどうされるであろうか。この新妻のように「あの人にだけおかずなしの弁当を食べさせるのはもったいない、申し訳ないことであった」と思って、自分もおかずなしで、ご飯だけで昼食をすまされるであろうか。あなた達なら、きっとそんなことはされないであろう。

 「ああ、忘れちゃったわ。私またへまやったわ」とは思っても、夫にだけご飯の弁当を食べさせるのは申し訳ない。だから、私も夫の身になって、ご飯だけを食べるというような事はされないであろう。「まあいいわ。あの人だってご飯だけ食べるはずはないし、何とかおかずを買って食べてるわ」とそう思って、きっと何かおかずを添えて食べられるに違いない。そうしたからといって何も悪いことではない。むしろそうするのが当たり前かもしれない。そうしたからといって誰もそれを咎める人は居ないであろう。事実、夫は或いは、ご飯だけ食べられるかと、そう思って、外へ出て何か買って来ておかずにして食べたかもしれない。

 ここで大事なことは、そうした事実関係ではなくて、その新妻が「夫にだけご飯を食べさせるのは申し訳ない」と思って、自分もご飯だけを食べたというその夫を思いやる心の優しさ、失敗したことに対して素直に詫びるというその心の素直さ、それが夫の心を感動させるのである。

頭のいい女の人は、この新妻が気のきかない馬鹿な女だと思うであろう。夫はまた、実際はおかずを買って来て食べたのかも知れない。そうであればあっただけに、夕方家へ帰って来て、いきなり玄関でそう言って詫びられると、なお一層、妻を愛おしく、こんなにまで自分のことを思ってくれるこの妻を、絶対に不幸にしてはならない。きっと幸せにせずには置かないと思ったことであろう。

 もし、私がその夫の立場であったら、持っていた鞄も放り出して、妻の肩を抱きしめて「そんなにまで、わしのことを思ってくれるのか」と、思いっきり感謝するであろう。夫にとってありがたいのは、失敗を失敗として素直に詫びてくれるその素直さである。

 「おかずを忘れたけど、あなた何か買って食べたんでしょう」確かに買って食べたのは事実であったとしても、そう言われればそうであったのであるから夫はそれに対して何も言うことが出来ないが、そういう妻を夫は愛おしいとは絶対に思わないであろう。)


これからは、森田たまさんが話されたことを私の文章で書くことにする。その方がよく真意がわかってもらえると思うからである。


その素直なおっとりした妻が早く死んでしまった。いろいろな女遍歴をした後でその人は二度目の妻を迎えた。その人はやはり名門の出で、昔の殿さまの家のお姫さまであった。料理、裁縫から社交まで、あらゆる点で、出来ない事は一つもないという実に優れた賢妻であった。天地が逆さまになっても、夫にご飯だけの弁当を持たせてやるようなことはないという実に良く気のつく人であった。

 その二度目の妻を迎えたその人が、森田たまさんの所に来て言うには、
 「前の妻は、絹のような暖かさを通わせてくれる妻でした。
  やることなすことへまだらけで何にも出来ない妻でしたが、その度に「すみません」・「ごめんなさい」と、
  自分の失敗を素直に認めて謝ってくれる優しい妻でした。

  しかし、それに反して今度の妻は、何にも出来ないことはないという素晴らしい妻ですが、
  前の妻が絹のような心を持っていてくれたのに比べて、今度のはズックの袋ですよ」



 あなた方は夫にとって、絹のような暖かさを通わせる優しい思いやりの深い妻なのか、それともあのズックみたいに、ごわごわした荒っぽいガサガサした感じを与える妻なのか、良く考えてみられることである。

 終戦後、女が強くなった。花嫁学校が出来、大学へ行く人も多くなった。だから昔の女の人よりは色々な事を知っているし、美味しい料理が作れるかもしれない。

 だから、森田たまさんは言われるのである。

 「気性の勝った、どんな落ち度もない女というものは、他人からはほめられる存在であるかも知れないが、夫の愛情はそういう女からは薄れてゆくものであるらしい」と。

 そうして最後にこういわれるのである。

 「七十になろうと、八十になろうと、女を忘れない人の心には、羽二重のようなすべすべした、きめの細やかな思いがひそんでいるのであって、お弁当にご飯ばかりを詰めた新妻の、あのおっとりとした、素直な気持ちが一生続いているようであってほしい。それは、人のなかへしゃしゃり出て、何でも牛耳るという社交婦人ではなく、といって家庭の中で、子供の勉学を励ます教育ママでもなく、格別内助の功のある良妻でもなく、ただいつも涙もろく、人の哀
(あわ)れな話を身にしみて聞くという普通の優しい女、私はその心を絹の心と思うのである」と。


 森田たまさんは、参議院議員になられると自分から教育委員を買って出て、終戦後の学校教育の中には女が女としてどうしなければならないかを教える時間がない。大学に行く女性よりも、高校を出たままですぐ社会へ出て、すぐ結婚するという女の方が多いのであるから、高校教育の中に、女が妻となり母となる為の教育をする時間を充分に取るべきであるというので、日本の全女性に絹のような心を持ってほしいと随分努力されたのであったが、文部官僚の唯物的、アメリカ的な教育方針と、日教組の反対によって遂に陽の目を見ることはなかった。
 全く惜しいことであった。

 昔は、家庭で、そうして学校でも女の道を教えたから、小学校を卒業しただけで立派な妻に、母になっていた。終戦後は、アメリカの占領政策によってカリキュラム制度が採られて、女が女としての道を学ぶ時間はほとんどないのである。妻として、母として、どうすべきかを教えられないままに卒業した人達が、いざ結婚をすると、どうしていいのか全くわからない。その為にノイローゼになる人もあり、子供や夫をダメにする人も出て来たのである。子供の暴力非行が大きな社会問題になってきているが、これは現在の日本の女性教育のあり方から根本的に改革しないとよくならないのである。

 学校がそうなのであるから、せめて正法会の会員の方は、よくこの点を心得て、女の子には女としてのあり方を躾けて頂きたいものです。

 ともかく釈尊は、夫にとって有り難い妻は、従順で恥じらいを持った妹のような妻であり、そういう妻は天上界へ行くのであると教えられたのである。


 - おわり -



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正法誌 58号  1983年6月号

正法道中記 - 12 ・・・・・・ より


青年の頃から私は、一つの女性像を心の中に描いていた。

 ある時、森田たまさんの「絹の随筆」を読んだ。その本の一番初めに書いてあるのが「絹のこころ」である。
それを読んだ時、「あ、自分が求めていた女性はこういう女性だった」と、それまでは定かでなかった女性像がくっきりと描かれてきた鮮やかな思い出があるだけにこの「絹のこころ」が忘れ難く、私がこの「絹のこころ」を話材にして一番最初講演をしたのは、宮沢賢治の出身地花巻の婦人会が最初であった。

 必要でないと思うところは省いて私なりに書くことにする。


 『 日本の絹の美しさを、日本の女の心としたい。・・・・・・
むかしから、女の肌の美しさを羽二重にたとえることがよくあった。
ある男が、十年前に若くして逝った新妻をしのんで言った。「あれはまるで羽二重のような女でしたよ」

彼がいうのは外見の美しさではなくて、心のきめの細やかさである。

 お弁当を作っ
てもらって、会社へ行って、開いて見たらご飯ばかりでおかずが入っていなかった。おむすびでも梅干しは入っている。ご飯ばかりのお弁当は、彼にとって生まれて初めての経験であった。腹が立つより、何となくおかしかった。

 家へ帰ってみると、若い妻はまぶたを紅く泣きはらして出て来た。「ごめんなさい。おかず入れるの忘れちゃったの」 深窓に育ったお嬢さんで、今まで一度も炊事をしたことことがなく、お弁当というものも作ったことがなかった。主人が出勤した後で、戸棚の中におかずを発見した。それで彼女はお昼のご飯を、たった一人で、おかずなしで食べたのである。

 「ご飯だけを食べるのって、とても辛いものね。お湯をかけて流し込んだけど、それでも喉につかえるような気がして、一善がやっとだったわ」

 自分の落ち度を素直に認めて、自分の罰を自分に科したこの新妻の、優しくも厳しい心情には、どんな夫でも心を打たれるであろう。彼女はその後もしばしば間の抜けてことをしたけれども、そのたびに素直に「すみません」と謝る心やさしい妻で、夫の愛情は深まってゆくばかりであった。

 このおっとりした妻に死に別れ、しばらくして第二の妻を迎えた。やはり名門の出で、料理裁縫の家事から社交まで、なんでもできないことはないというあらゆる点でいたれりつくせりの賢妻であった。天地がさかさまになっても、夫にご飯だけのお弁当を持たせるようなことはしない。欠点はただ一つ、出入りの男たちを呼び捨てにすることだが、それも呼ばれる方が、昔のお姫さまからじきじきお言葉をいただけるとよろこんでいるのであれば、べつに咎めるにも及ばぬわけである。

しかし彼女の夫はいうのであった。
 「前の家内は、絹のような心の女でしたが、今度のはズックの袋ですよ」

 気性の勝った、どんな落度もない女というものは、他人からはほめられても、夫の愛情は薄れてゆくらしい。

 七十になろうと、八十になろうと、女を忘れない人の心には、羽二重のようなすべすべした、きめの細かな思いが潜んでいるらしい。

 お弁当にご飯ばかりをつめた新妻の、あのおっとりした、素直な気持ちが、夫にとってはありがたいものらしい。それは人の中へしゃしゃり出て、なにかと牛耳る社交婦人ではなく、といって家庭の中で、子供の勉学を励ます教育ママでもなく、内助の功のある良妻や賢母でもなく、ただ、いつも涙もろく、人のあわれな話を身にしみてきく、普通のやさしい女、私はそういう女の心を、絹の心と思うのである 』


 
私はこれを読んだ時、これは自分だけでなく、すべての男性が求めている女であろうと思ったので、それから時々話材に使わせてもらった。「男の心を休ましめる女になって下さい。 何でも出来ない事はないという素晴らしい才能を持った女よりも、やることなすこと失敗だらけでなんにも出来なくても、失敗は失敗だと素直にわびられる心優しい妻を男は求めているのです」
 と、私は女の人の前に跪
(ひざま)づいて祈るような心で講演をしてきた。

 毛糸のものは、肌にふれるとすぐポッテリしたあたたかさが通うけれども、そのあたたかさは深く心にそまない。絹のものは、肌にふれた瞬間は少しひんやりしているけれども、そのうちに心の底からほんのりとあたたまって来るようなあたたかさを通わしてくれる。

 絹の心のような女を、ということは男のわがままであり女性軽視だといわれそうな気がするが、しかし、神さまは人間を男と女とに創り、その調和の上に神の心を実現するように創られているのであれば、男の心を知らない女の人達に、男心というものはこういうものですよと知らせてあげることは、決して無駄ではないと思う。

 絹ものを仕立てるのは好きです。シュッシュッという音がなんともいえませんという人があった。
 私がこの「絹のこころ」の話をした後で、「絹ものを仕立てるのが好きだというだけで、絹のようなこころを、とまでは思い及びませんでした。これから絹のようなこころを持ちたいと思います」といわれた。それを聞いていられたご主人は目いっぱい涙を浮かべていられた。
 絹の心の女を求めているのはやはり、森田たまさんに話をしてくれたその男性や私だけでなく、そのご主人もそうであった。

 花巻の婦人会で講演した後で、自分のご主人に「私はどっちでしょうか」と聞いた人があった。そうしたら「お前はズックだよ」と言われたという。その人は、「先生がこの次にこの町に来られるまでには、少しは絹のようなあたたかさを通わせられるような女になっていたいと思います」と、ずっと見送って下さった。

 男に負けまいと、今様にいえば突っ張って生きるよりも、女の人はやはり女らしく生きる方が女の人にとっても幸せではないかと思うのであるがどうであろうか。

 めったに涙を見せたことのない夫が、「絹のような女になります」という妻の一言で涙する。
 それももう中年をとうの昔に過ぎて老境に近い夫がである。


 - おわり -



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新編 きもの随筆 森田たま随筆珠玉選1
           ぺりかん社 刊行



絹のこころ  全 文


 日本の絹の美しさを、日本の女の心としたい。・・・・・・新春の床がけに何か一トふでとたのまれてあれやこれや思いまどっている内に、ふつとこんな文句が浮かんだ。頼うだお方は着物道楽の美しい婦人だから、ちやうどいいかもしれないと、これを書くことにした。

 むかしから女の肌の美しさを羽二重にたとえることがよくあった。きめがこまかく、すべすべとして、ひやりと冷たい感触の中に、やがてほのぼのと絹のあたたか味がかよつてくる。さういふ女にめぐりあつた男は仕合せ者とされているが、現代の世之介のやうなある浮気な男が、十年前に若くして逝つたしい妻をしのんで云つた。
 「あれはまるで羽二重のやうな女でしたよ」

 ほんとうに、白い魚のようなあぶらののつたまるい手をしていて、顔もまるくあどけなかつた。すべつこい肌にほんのりと血のいろが透けて見えて、雛の日のぼんぼりに灯がはいつたようであつたが、彼が云うのはその外見の美しさではなくて、心のきめのこまかさである。

 おべん当をつくつてもらつて、会社へ行つて、ひらいてみたら御飯ばかりでおかずがはいつていなかつた。
おむすびでも梅干しははいつている。御飯ばかりのおべん当は、彼にとつては生まれてはじめての経験であつた。
腹がたつより、何となくをかしかつた。

 家へかえつてみると、若い妻はまぶたを紅く泣きはらして出てきた。
 「ごめんなさい。おかず入れるの忘れちやつたの」

深窓に育つたお嬢さんで、いままで一度も炊事をしたことがなく、おべん当といふものもつくつたことがなかつた。主人が出勤したあとで、戸棚の中におかずを発見した。それで彼女はおひるの御飯を、たつた一人で、おかずなしで食べたのである。

 「御飯だけでたべるのつて、とても辛いものね。お湯をかけて流しこんだけど、それでものどにつかへるような気がして、一ぜんがやつとだつたわ。」

 自分の落度を素直にみとめて、自分の罰を自分に科したこの新妻の、やさしくもきびしい心情には、どんな夫でも打たれるであらう。彼女はその後もしばしば間の抜けたことをしたけれども、夫の愛情は深まつてゆくばかりであつた。

 このおつとりとした妻に死に別れ、いろいろな女遍歴をしたあとで、第二の妻を迎へた。やはり名門の出で、料理裁縫の家事から社交まで、あらゆる点で至れりつくせりの賢妻である。天地がさかさになっても、夫に御飯だけのおべん当を持たせるやうなことはしない。欠点はただ一つ、出入りの男たちを呼び捨てにすることだが、それも呼ばれる方が、昔のお姫さまからぢきぢきお言葉を頂くだけで、もう十分に満足しているのであつてみれば、べつに咎めるにも及ばぬであらう。

 しかし彼女の夫は云ふのであつた。

 「前のにくらべると、今度のはズツクの袋ですよ」

 タフな精神、・・・・・・それは戦後の険しい世の中に、なくてはならぬものであつたのだが、男は女のその強さに敗けて、ズツクの袋だなどといふのである。気性の勝つた、どんな落度もない女といふものは、他人からは賞められても、夫の愛情はうすれてゆくらしい。

 正月某日、家元の初釜に招かれて行くと、男よりもやはり女の方が多く、老いも若きもそれぞれに晴れ着の妍
(けん)をきそつてひかえている。

 七十をだいぶまわつているらしい老夫人が、グリンのかかつた鉄無地の紋付を着て、端坐してをられた。
つめたいけれどいい色あひだと思つて眼をとめると、袖口にちらりと洗ひ朱の長じゆばんが見えた。白ぬきの菊寿のもやうである。春火桶
(はるひおけ)じゆばんの袖の美しくといふ句を、以前つくつたことがあつたが、まるでこの老夫人のためにつくつておいたやうな気がした。
 知らないお方だけれど、何か親しい感じがして、なほよく見ると、無地とおもつた膝がしらに、墨で老松を染め出してあるのがわかつた。どうも何とも心憎い好みであつて、かういふ夫人は功成
(こうな)り名(な)とげて、主婦の座は既につぎの世代にゆづり、自分はお茶三昧に明け暮れしてをられるのであらうと、ちよつと羨ましい心地がする。

 自分などは、七十をすぎればおしやれをする気も失せ、お正月に新しい着物をつくる意欲もなく、したがつてどこへも出なくなるだらうと思つていたが、かうして、いくつ年をかさねても、年は年なりに心くばりをした衣装を身につけているお方にあふと、人間はいくつになつても、怠けてはいけないのだと、自らを鞭うつやうな気持ちになった。

 晴れ着に心をくだくのは、若いうちのこととばかり思つていたけれど、女はいのちあるかぎり、女であることを忘れてはいけないので、袖口にちらりとのぞいた洗ひ朱のじゆばんが、老いの美しさを語つている。年をとつたからといつて、赤い色の一切を排斥するのは、潔癖のやうでいて、かへつて若さへのみれんがあるような、老醜を感じさせる。

 七十になろうと、八十になろうと、女を忘れない人の心には、羽二重のやうなすべすべした、きめのこまかな思ひがひそんでいるのであつて、おべん当に御飯ばかりをつめた新妻の、あのおつとりとした、素直な気持ちが、一生なだらかにつづいているような気がされる
 それは人中へしやしやり出て、牛耳
(ぎゆうじ)をとる社交婦人ではなく、といつて家庭に中で、子供の勉学を励ます賢母でもなく、内助の功ある良妻でもなく、ただいつも涙もろく、人のあはれな話を身にしみてきく、ふつうのやさしい女である。私はその心を、絹の心と思ふのである。

- おわり -

昭和三十六年 『 絹の随筆 』






森田 たま 師 プロフィール

明治27年(1894)12月19日~昭和45年(1970)10月31日
北海道札幌に生れる。旧姓村岡。庁立札幌高女を病気で中退。
明治44年に文学を志して上京し、大正2年森田草平に師事する。
同じく草平門下に入った女流作家素木しづは、庁立札幌高女時代の同級生だった。
大正5年森田七郎との結婚を機に家庭に入り、一時文筆を絶った。
昭和11年に出版した「もめん随筆」がベストセラーとなり、以後随筆家として活躍した。
昭和37年には参議院に自民党から立候補して当選。43年まで議員をつとめ、主に国語問題について活動した。
昭和30年日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

【出典:作家 森田たまホームページより】




2014.08.14 (木曜日)20:00 UP



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