高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







聖書講義

マタイ伝 第六章



宗教的情操と教養


はしがき

 ある支部の座談会にクリスチャンの人が来られたという。それは正法会員の人から、「正法はすばらしいから」といって誘われてであったという。そのクリスチャンの人は、「正法はすばらしいかも知れないが、正法会員の人は宗教的情操、教養がない」といって、それっきり来られなくなったという。
 私はそれを聞いてさびしい思いをした。正法会は、いよいよ国際正法協会と名称を替えて世界布教に乗り出すのである。世界の人口の約半数はキリスト教国の人々であり、仏教を信仰している人々は少数である。
 釈尊の教えとキリストの教えは同じであるというからには、正法会員は釈尊の教えだけでなくて、キリストの教えも充分に知り、理解していなければならない。
 仏典の中に遺されてきた教え、高橋信次先生が講演され、また本に書かれたものは、正法の根本となるものが大半で、信仰する者として、日常心得ておかなければならない情操、教養等は細かには説かれていない。それに反して聖書の中には、信仰する者が当然心得て日常生活の指針としなければならない教えがたくさん遺されている。
 正法は日常生活の実践にあるのであるから、これから聖書の解説もしてゆくことにした。





マタイ伝第六章 一節~四節

汝ら見られんために己
(おの)が義を人の前にて行わぬように心せよ。然(しか)らずば、天にいます汝らの父より報いを得じ。
さらば施
(ほど)しをなすとき、偽善者が人に崇(あが)められんとて会堂や街(ちまた)にて為(な)すごとく、己が前にラッパを鳴らすな。
 誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報いを得たり。
 汝ら施
(ほどこ)しをなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。是(これ)はその施しの隠(かく)れんためなり。然(さ)らば隠れたるに見たまう汝らの父は報い給(たま)わん。

 あなた達は、人に見られようと思って正しいよいことを人の前でしてはならない。そんな心では、どんなによいこと、正しいことをしても、その正しいこと、よいことをしたことが結果となって、われわれの果報として報いられるということにはならないのである。

 そうであるから、布施をし、よい行いをする時は、偽善者がよくやるように、人が集まった所で、また多くの人の前で、ラッパを鳴らすように、「わたしは、これこれのよいことをしました」と、自分がよいことをしたことを、人の前で吹聴
(ふいちょう)してはならないのである。

 誠
(まこと)に誠(まこと)に、あなたたちに告げる。そんなことをしたら、それを聞いた人たちが、「そうか、あの人はそういうことをしたのか」と、既に結果としての報いを得た事になる。

 だから、あなた達は、布施をし、よいことをする時は、
右の手でしたことを左の手にも知らせてはならないのである。

 人に知られないようにそーっとしても、すべては天上界からは見通しなのであって、神さまはちゃんと知っていられるし、それは必ずよい結果となって報いられてくるものである。

 これは、もはや説明の必要はないであろう。よいことをしたことが陰徳となって、将来よい結果となって現れてくるのは、人に知られないようにして行ったもののみである。

 自分がよいことをするのは、自分のためであって、人のためではない筈である。
 布施したことに対して、誰からもお礼をいわれなかったとしても、自分でよいことをしたことは自分で喜べばよいのである。

 いくら布施をしても、お礼をいわれなかったといって腹を立て、まして人の悪口をいうようでは、布施・奉仕というものがどういうものか、少しもわかっていないということになる。布施や奉仕は自分のためにするのである。人のためにするものではない。

 右手のしたことを左手にも知らせるな、何も言わなくても神さまはちゃんと知っていて下さると、キリストはおっしゃっている。

 折角よいことをしていても、お礼をいわないといって腹を立て、自分一人が腹を立てるだけならまだしも、周囲の人々をも迷わせるようなら、むしろ最初からしない方がよかったのである。

 キリスト教社会では常識となっている奉仕と布施の精神を、正法会の人々は知らない人が多かった。
知るべきことを知らないことが苦しみの原因であるとお釈迦さまがいわれたように、奉仕と布施の精神を知らなかったばかりに、折角よいことをしてたのに悪をつくってしまうということは全く気の毒なことである。

 
信仰における正しさの基準は、心の安らかさと調和である。

 
「己(おの)が前にラッパを鳴らすな」とあるが、自分を認めてもらいたいと思って、自分がしたことを自分でいいふらす時、その人の心は安らかであるであろうか。

 認められたいと思ってする行為は、それを認められなかった時、瞬間にして憎しみに変わる。憎しみという感情は、自己本位、自己中心主義で相手の立場を考える心のゆとりがない。とにかく憎いのであるからどんなウソでも平気でいえるのである。

 よいことをしても、それが認められなかったといって、心を憎しみにしてしまえば、その憎しみが原因となって、やがてそれが結果となって現れることになるから、結果は不幸になる。だから「
隠れたるに見たまう汝の父は報い給わん」とあるように、布施したこと、よいことをしたことは、自分が知っていれば誰からも認められる必要はないのである。誰からも認められなくても、「汝の父」即ち神さまはちゃんと知っていて下さるというのである。「右手のしたことを、左手にも知らすな」黙ってそっとする布施のみが、天の倉に宝を貯えるということになるのである。

 だから、神社やお寺で、寄附金額を書いた立札や張り紙をしたり、○○教団がグラフをつくったりする等ということは、実際はしてはならないことなのである。





第六章 五節~八節

 
汝ら祈る時、偽善者の如くあらざれ。彼らは人に顕(あらわ)さんとて、会堂や大路(おおじ)の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告く。かれらは既にその報いを得たり。
 汝ら祈る時、己が部屋にいり、戸を閉じて隠れたるに在
(いま)す汝らの父に祈れ。さらば隠れたるに見給う汝の父は報い給わん。また、祈る時、異邦人の如く徒(いたずら)に言(ことば)をくりかえすな。彼らは言(ことば)多きによりて聴かれんと思うなり。さらば彼らにならうな。汝らの父は求めぬ先に、汝らの必要なる物を知りたまう。

 この地上の現象界のことは、あの世からは見通しなのである。人々はあの世のことがわからないから、また、人の心がわからないから、結局は眼で見たことだけによって判断をするということになるが、あの世からはすべてその人の心が見えているのであるから、例えばその人が、眼で見た時はどんなに立派な行為をしても、その心の中に野心があったり、企
(たくら)みがあったりすれば、いっぺんでそれは天上界ではわかるのであるから、この世の人たちはそれを善い行為だといっていても、天上界から見ればそれは善い行為ではないのである。

 釈尊やキリストの教は、天上界とこの世との関係の中で説かれてあるのであるから、この世のことを基準にして考えると教えがわからなくなってくるのである。

 「私はこんなに熱心に信仰しています」といって人の前でさも熱心らしく祈っている人がある。「ほう、あの人は熱心なんだな」と、人からいわれたら、その人は心の中で思っていることを既に認められたのであるから、「それは既に報いを得たり」ということになるのである。

 祈りは、
「言(ことば)多きによりて聴かれんと思うな」とあるように、天上界からはすべて見通しなのであるから、その人がどんなに熱心に、何千べん、何万べん、念仏や題目を唱えようと、その心が既に見えているのであるから、例えばその人が、自分だけ得をすればよいという欲の深い心で念仏や題目を唱えているとしたら、唱えた念仏や題目の回数だけ欲の心を深くすることになるのであるから、回数を多く唱えれば救われるといっているけれども、それは逆に不幸になるような業をつくらせていることになる。

 だから浄土真宗の多年偽の念仏(念仏は一回でも多い方が救われる)も、創価学会の題目闘争も、みな間違っていることのなる。

 心が純粋であれば、祈ることは一ぺんで良いのである。念仏も題目も一ぺんでよろしい。

 口に出さなくても心で念ずればそれでよいのである。

 
「汝らの父は求めぬ前(さき)に、汝らの必要なる物を知り給う」
 既にその人の心は、神は、天上界はわかっていられるのであるから、何べんも繰り返す必要はないのである。

 私が生長の家にいる時、生長の家では体験発表をよくやらせた。「私はこのようにして救われました」と発表させるのである。体験発表をするとみんなの拍手を浴びて、「すばらしい」といってほめられる。するとうれしくなる。その嬉しい快感を味わいたいために、人にいわれなくても自分から先に体験発表をしたくなる。そうすると、最初の正しい純粋な信仰心は失われてしまって、心は「人の賞讃を浴びたい」という欲望に変わってきて、だんだん増長慢になってくる。
 だから、最初は素晴らしいと思われていた人が、遂には日常生活の実践もなく、不幸になり失敗するというケースが多かった。だからして、人間はほめられた時が一番危険なのである。どこの宗教団体でもよくあることであるが、最初は素晴らしいと思われていた講師や指導者が、後には全くダメになって、信者よりもダメだといわれるようになるのは、敬虔さ、謙虚さを失って増上慢になり、心は欲望に満たされてくるからである。そうなると最初は奇跡を起こしたような人でも、もはやなんらの奇跡も起こし得なくなって堕落してしまうのである。

 
「隠れたるに在(いま)ます汝らの父に祈れ。汝らの父は求めぬ前(さき)に、汝らの必要なる物を知り給う」というのであるから、私が祈る祈りは一瞬である。

 
真言密教や阿含宗みたいに仰々しく祭壇をつくったり、護摩を焚いたりするようなことはいらないのである。考えてみればわかることである。例えば何千本、何万本、護摩を焚こうが、その人が病気になり、不幸になっている原因はその人の心にあるのであるから、その人の心を直さないでいて、いくら護摩を焚こうがそれでよくなるわけはない。護摩供養したからよくなると思うから、よくなるという思いで一時はよくなったように見えることは起こるであろうが、根本的に心が直ったわけではないから、それは一時の気休め、逃避であって根本的な解決にはなっていないのである。よくならないと、それは信仰が足らないからだといわれるし、自分でもそう思うから、今度は前回よりもたくさん護摩供養をすることになる。阿含宗の桐山靖雄氏が、京都で護摩供養をするのに、護摩木をトラックで何台も運んで、旅行業者が参加者の臨時列車を仕立てる等ということは、日本人の信仰の意識の低さを現わすものでしかない。

 
祈りは心でするのであるから、仰々しい祭壇や儀式は必要はないのである。

 釈尊やキリストは、祭壇を壊された。野原で静かに祈られた。
「隠れたるに見たまう天の父」は、すべてを知っていられるからである。人に見られようと思ってする布施も祈りも、既に不純なのである。





第六章 九節~十二節

 
この故に汝らは斯く祈れ。
 「天にいます我らの父よ、願くば、御名
(みな)の崇(あが)められん事を。御国の来らんことを、御心の天の如く、地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日も与え給え。我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え。我らを遇(あわ)せず、悪より救い出し給え。

 これはキリスト教徒が、日々に為している祈りである。

 祈りの根本は、「御名
(みな)の崇(あが)められんこと」であり、「御国の来らんこと」であり、「御心の天の如く、地にも行われんこと」である。

 即ち、高橋信次先生がいわれたように「仏国土・ユートピア」の実現である。既に天上界では、神の理想世界は実現しているのである。それをいかにしてこの地上世界に実現するかが、この地上界に肉体を持った我々の使命なのである。

 この祈りをキリスト教では「主の祈り」といっているが、それはキリストが祈られるとき、常にこの祈りを先にしていられたからである。

 正法を学ぶ者は、祈る時には必ずこの「主の祈り」をすべきである。「主の祈り」をしないでする祈りは、欲望につながる祈りである。

 我々は、「御心の天になる如く」、それを「地に成らせる」ために、即ち仏国土・ユートピア実現のために、この地上界に肉体を持って来ているのであるから、この「主の祈り」をして、次に「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈る時、足ることを知っていれば、毎日毎日、生活をしてゆくのに必要な物は必ず与えられるというのである。

 私は若い時、明日食う米もないという時があった。
私はその時祈った。自分が今、この世に生まれてきたということは、神が自分を必要とされたから、自分は今ここに生かされているのである。神が自分を生かしていて下さるからには、神が自分を飢え死にさせられるということはない筈である。自分の心が、神のみ心に叶っていれば、必ず道は開ける。

 そう信じて私は、真剣に、「御心の天になるが如く。地にも成らしめ給え」と祈った。そうして「宗教家として立て」という天からの声を聞いたのであった。

 人間は、自分ではそうする以外にないと決心をしていても、誰かに自分の決心が間違いないかと確かめたいと思うものである。その時私は三十二歳だった。生長の家総裁谷口雅春先生に手紙を出した。

 「道心あれば、衣食自ら備わる。あなたのその心が、神さまから見て間違いなければ、自然に生活はできて行くでしょう」

 「道心あれば、衣食自ら備わる」とは、伝教大師の言葉である。

 道を説いて、それで救われて「ありがとうございました」といって布施して下さる方があれば、その布施はありがたく受けよう、もし布施して下さる方がなければ、それは自分の不徳であるから、敢て布施を求めることはすまい。そう決心して、「主の祈り」をしながら、着替えと本を入れた風呂敷包みを抱え、兵隊靴を履いて私は伝道に出た。その時である。妻が「私も一緒に伝道するつもりで子供たちを守ります」と言ってくれたのは。

 私の伝道は命がけであった。布施して下さる方がいなければ私達一家は飢え死にする外ないのである。

 
自分の心を正しくして、正しく神の心に波長を合わせれば、必ず奇跡は起こる。それのみを信じて、家を出た。行く汽車賃はあったが、帰りの汽車賃はなかった。

 三十二歳の時から現在まで、私が奇跡を起こせるのは、常に「主の祈り」をしながら、自分の生活のすべてを神様にお委
(まか)せしているからである。布施によって生きる者が、贅沢して驕(おご)るようになったら、奇跡は起こせなくなるのである。

「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」
 ここは、「我らの負債
(おいめ)をも免(ゆる)し給え、さらば我らもまた、我らに負債(おいめ)ある者を免(ゆる)さん」と、書き換えた方がよく意味がわかるが、しかし、神は免(ゆる)も免(ゆる)さないもない。神は最初から免(ゆる)していられるのである。免(ゆる)すという心を持たなければならないのは、人間の方がしなければならないことである。

 我々は、大自然の恩恵、また色々な人や物の恩恵を受けている。それらの恩恵に対して、今まで一体いくらほどの感謝をし、また、報恩の行為をして来たであろうか。与えられた恩恵の何百分の一、いや何百万の一も感謝し報恩もしていないであろう。それなのに神は、大自然は我々を生かし続けているのである。食べる物、着る物、住む家等、これまた多くの人の賜物である。それらの大いなる賜物の上に、このようにして生かされてありながら、少しばかり人のためにしたといっては、あの人が自分にお礼も言わないとか、お返しもしないとか、受けた大きな恩恵は忘れていて、わずかばかりの自分がしたことはよく覚えていて、あれこれという。そういうことは少しばかり良いことをしたといっても、そのゆえに心に苦しみをつくり、大事な自分の心を苦しめることになる。

 だから、自分が人にしてやった事だけを誇りにして「あゝだ、こうだ」といってはならないので、自分がしてやって、あの人がこうしないといって憎み責めているようなそのことは、自分が免
(ゆる)さないと、自分が救われないのである。「私がこうしてやった、あゝしてやった」という恩着せがましい行為は、最後は必ず裏切られるという形になってくるものである。嘘だと思われるなら実際にやってみられるといい。「これもしてやった、あれもしてやった」と、何かをするたびにそういってみなさい。相手はどのようにいうか。

 
太陽は黙って我々に光と熱を与えてくれる。そのように、よい行為というものは、したか、しないかわからないように、黙ってするものなのである。

 
「我らを試(こころ)みに遇(あ)わせず、悪より救い出し給え」
 キリストは、当時のユダヤ教が歪んでいたので、それを修正するために現われられたメシヤであった。しかしユダヤ教徒はそれを知らずに、キリストを敵として争ってきた。最近になってユダヤ教徒の中から、キリストこそメシヤであって、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視すべきではなかったのである。という人達がアメリカに現れてきたことはよいことである。

 「我らを試
(こころ)みに遇(あ)わせず」という祈りは、それまでのユダヤ教の中にも、そうしてそれは現在のキリスト教の中にもあるのであって、正しい信仰をするためには、このような考え方は改めなければならないのであるが、神が、その人の信仰が正しいか、そうでないかをテストされるために、試練を与えられるという考え方があった。どんなに苦しい状態が起ころうとも、それは神の試練であるから、それには耐え忍ばないと神の信仰試験に合格しないのであるといって、じっとこらえるということをしてきた。この考え方がキリスト教の中にも知らず知らずのうちに流れ込んできて、神に救われるためには、キリストが十字架にかかられ、迫害されたと同じような苦しみを体験しないと救われないのであるという「受難礼賛(じゅなんらいさん)」の思想が起ってきた。キリスト教徒の潜在意識の中には、みなこの「受難礼賛」即ち苦しみに逢うことが良いことだという思想がある。

 釈尊は、苦しみが起こるのは、その原因があるといわれた。その原因をなくさなければ苦しみは永遠になくならないのである。その原因をなくする道として「四諦八正道」を説かれた。人間は苦しみから逃れたいとみな願っているのである。苦しみが永続することを願っている人間は一人もいないのである。
 しかし、キリスト教の誤った「受難礼賛」的思想のとりこになっている人は、どうしてこのような苦しみが起こってくるのであるかというその原因を考えないで、神の試練であるといって耐え忍ぶことばかりを考え、神に救われるためには、もっと苦しまなければならないのであると、ますます苦しみが起こってくることを待ち望むようになる。そういう状態であったから、「我らを試
(こころ)みに遇(あ)わせず、悪より救い出し給え」という祈りがされることになったのである。

 
人類が救われるためには、「人間は罪の子である」という考え方と、「受難礼賛」の考え方をなくさないといけないのである。

 現在の教会キリスト教は、パウロの教が主体となっている。そのパウロが日本に親鸞上人として現われられたのであるから、パウロが説いたことと、親鸞上人が説かれたことには共通点があるのである。

 三国連太郎の「白い道」という映画は、親鸞上人を描いたものだというが私は見たことはない。見た人の話では「心が暗くなるばかりで救いがない、見ない方がよかった」ということであったが、一ぺん罪を犯したら、その罪の重荷を背負って一生苦しんで生きなければならないという「受難礼賛」の心を持っていたのでは、絶対に苦しみはなくならないのである。





第六章 十四節~二十二節

 
「汝らもし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば 汝らの天の父も汝らを免(ゆる)し給わん。 もし人を免(ゆる)さずば 汝らの父も汝らの過失(あやまち)を免(ゆる)し給わじ」

 
「もし人を免さずば 汝らの父も汝らの過失を免し給わじ」と書いてある言葉の調子からすると、われわれが免さなかったら、いつまでも免されない所の怒りの神がいられるというように感ずるが、それはそういうことではない。

 
愛なる神はすでに最初から我々を免していられるのである。だけれども我々は時として人の過失を免さない。その時すでに我々の心は神の愛にそむいていて、免さないということによって心を暗くし、心を閉じてしまって神の光を受け入れない状態を自分でつくっているのである。神が罰として我々の心を暗くせしめているのではない。自分で自分の心を暗くしているのである。自分で自分の心を閉じて暗くして置きながら、一方でいくら「神よ、私の心に光を与え給え」と祈ってみても、自分で心の扉を閉ざして神の光が入らないようにしているのであるから、神の光が入るわけがない。神の光を入れるためには自分が心を開けばよいのである。だから「あゝして下さい。こうして下さい。」というだけの懇願の祈りだけでは祈りは実現しないのである。

 ここの所は前節で、
「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」とあるのと同じように、神の世界に悪があるのではないし、良いことをするのも、悪いことをするのも、すべては人間がするのであるから、人間がする所の責任を神に押しつけて、神を、怒りの神であるとか、妬みの神だとかと思って神そのものをおそれているのは大きな間違いである。

 従来キリスト教では、人間が悪いことをしないかどうか、神はいつも我々人間を監視していられて、少しでも悪い所があればすかさず罰を与えようとして神は待ち受けていられるのであるというふうに神さまというものを考えているから、クリスチャンの持っている敬虔さは本当の意味の敬虔さではなく、神をおそれている所から来るニセの敬虔さが多分にあるのである。

 
神は、「善因善果、悪因悪果」の法則だけをつくられて、その法則をどのように使うかは人間の自由に任されているのである。だから、良いことも、悪いことも、すべては自分の責任であって神に責任があるのではない。

 ここの所がよくわからないと、本当に信仰はわからないということになる。

「過失を免す」ということが間違って解釈されると世の中は混乱が起こってくる。念仏を唱えれば必ず救われるということが間違って解釈されて、一方の手で悪いことをして、一方の手で念仏を唱えればそれで救われると説いたために人を騙しては念仏を唱える、人を殺しては念仏を唱える。それでよいのであるといって、念仏を唱えながら悪いことをするという人間が増えた時期がある。ある有名な坊さんは、「武士は人を斬る時に念仏を唱えよ」と説いた。

 我々は自分が悪いことをしていないのであるから「人を免せ」といわれれば人を免すことができる。しかし、悪いことをした本人は免されたからといって、そのまま悪いことを継続して行ってよいのであろうか。
 だから「免す」ということは、悪いことをしたのを見て見ぬ振りをすることではないのである。
 免すという行為は相手にそれ以上悪いことをさせない。今までのことは免してもそれ以上はさせないという行為と相まって実現しなければならないのである。免すということが相手の悪いことを見て見ぬ振りをすることだという解釈は、ますます相手に罪を犯させることになって、免すという良い行為をしていると思いながら実際は悪い者の味方をしていることになる。

 ある団体の会計係が不正を働いた。それで会長が厳しく注意して辞めさせるといった。勿論その会計係が自分から悪いことをしましたという筈がない。会計係は自分を正当化するために、会長の悪口をいい始め、自分は一生懸命にやって来たのに会長は自分をクビにするという。愛を説きながら心の中は鬼だという逆宣伝を始めた。泣いて自分に同情を求めたために、その会計係に同情する会員が出た。同情した会員達は実情を知っている訳ではない。単に感情的に同情したまでである。その会長の「免す」という行為はどうすることであろうか。免すということでその会計係の不正を見て見ぬ振りをすることが愛なのであろうか。それとも責任を取らせることが愛なのであろうか。
「免す」ということを間違って解釈すると悪人をのさばらせるという結果を招くのである。



「なんじら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容(おももち)をすな。彼らは断食することを人に顕(あらわ)さんとて、その顔色を害(そこな)うなり。誠に汝らに告ぐ。彼らはすでにその報いを得たり。なんじら断食するとき、頭(かしら)に油をぬり顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在す汝の父にあらわれん為なり。さらば隠れたるに見たまう汝に父は報い給わん」

 キリストが出生される以前のユダヤ教では断食の修行がよいこととされていた。これは釈尊出生以前のバラモン教が断食をやっていたのも同じである。腹一ぱい飽食しながら瞑想することはできない。瞑想する時は少し食べる方がよい。また、一食抜いてその金を神に捧げて祈るということも行われていた。

 「私はこうやって断食して熱心に信仰しているのです」と、熱心に信仰しているらしくみせかけるということは偽善である。自分がよいことをしていて、人がよいことをしているとほめてくれなかったと、周りの人々を憎むというのは本当の信仰ではない。これはその人の信仰がホンモノであるかどうかを見極める大事な点である。
 
「なんじは断食するとき、頭に油をぬり、顔を洗え」というのである。「頭に油をぬり、顔を洗え」ということは、さっぱりした晴れやかな顔をして、髪の毛も櫛けずってきれいにしてということである。人からは、「さも断食しています」とわからないようにして祈るならば、目に見えずして存在される神さまは必ず知っていて下さるというのである。

 神さまを我々人間と同じような存在だと思う所から、たくさん供えものを供えるとか、目立つ祈り方をするということがなされるようになったのである。



 
「汝ら己がために財宝(たから)を地に積むな。ここは虫と錆(さび)とが損(そこな)い盗人うがちて盗むなり。なんじら己がために財宝を天に積め、かしこは虫と錆とが損わず、盗人うがちて盗まぬなり、なんじの財宝のある所には、なんじの心もあるべし」

 多くの人々は、人生はこの世かぎりであると考えているから、この世で貯金がふえ財産がふえることを喜んでいる。昔は強盗にそなえるために金銀宝石などを壁に塗り込め、壺に入れて地中に埋めるということをしていた。だから虫や錆が損い、いつ盗賊が来て掘り出すかも知れなかった。そういう財産は死ぬ時はみな残して行かなければならない。

 
「なんじの財宝のある所には、なんじの心もあるべし」とあるが、財宝を土に埋めると、その人の心は常にそこにとどまることになるから、それは地獄である。

 
「財宝を天に積め、かしこは虫と錆とが損わず、盗人うがちて盗まぬなり」
 
天の倉に財宝を積むとは、神のために、人のために奉仕するために金を使うことである。

 欲の深い信仰をしている人がある。海老で鯛を釣る式に、自分からは何の奉仕もせずにお蔭だけを得ようという人がある。極端なのが霊能だけを求めて歩く人である。霊能力が出てきて、どうなるかが前もってわかったら絶対に儲かると思って、霊能力養成の修業道場ばかり訪ね歩いている人がいた。そのためには金を出すが外のことには絶対出さないのである。遂にその人は事業にも失敗した。

 自分だけのために貯金がふえることを考えるということは、少しも人のためになるよいことはしていないことである。よい原因をつくっていないから来世に生まれて来た時は、よいことは少しもないということになる。今生で天の倉に財宝を積むよいことをしていた人は、来世でよいことがあるのである。

 来世でよいことがありますようにということでするのはよくないが、
よいことをしたいというのが我々の愛の心、それが神の心であるから、神の心にそったよいことをしていてよいことが来ない筈はない。

 多くの人によいことをしたいと思っても、自分には自分の仕事があってそう出来ない場合は、そう出来る団体、人に頼んでやってもらえばよい。大きい神殿とかをつくるようなことに喜捨しても、その神殿もいつかは崩れてなくなるのであるから、そういうものに喜捨するのは「虫くい錆つくもの」に寄附するということになる。

 人はこの世に持てる財産に執着すると、その財産を失うまいとして心を使う。人を見ても「この人は自分の財産を狙っているのではないか」と邪推してしまう。金持ちには妙な警戒心を持っている人が多い。
この世は所詮消え行く諸行無常の世界なのであるから、物や金に、そして自分の肉体にすら執着を持ってはならないというのが釈尊の教であった。



 
(み)の燈火(ともしび)は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん。然(さ)れど汝の目あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光。闇ならば、その闇いかばかりぞや。

 目は我々の身体の灯台である。盲目であれば見ることは出来ない。目がよく見えればすべてがよく見える。目が悪かったら何も見えない。周囲も真っ暗である。目が見えない上に、まして心の眼が全く闇であったとしたら、何をどうしてよいかわからないということになる。闇の夜に手さぐりで歩くとどんな穴に落ち込むかわからないのと同じように、
心が闇であるとどういう間違いを犯すかわからないことになる。

 
このことは釈尊が「知って犯す罪と、知らずに犯す罪と、どちらが重い罪を犯すか」といわれたことに当たる。少しでも悪いということを知っているとそうひどい罪は犯さないが、知らずにいるとどんな大きな罪を犯すかわからない。だから「知らせる」ということは人を救う第一歩になる。

 道徳的には、知らずに犯した罪は許されるが、悪いということを知っていてするのはタチがよくない。知らなかったのは仕方がないと考える。しかし宗教的には反対である。夜の暗い道に所々穴が空いているということを知って歩くのと、全く知らずに歩くのとどちらが大怪我をする率が高いかということになる。わずかでも光が見えればそれだけ心は安らかになるが全くの闇ではどの方向へ進んで行ってよいかわからない。肉体の目が見えないにしろ、心の目が見えないにしろ、見えないということは恐ろしいことである。肉体の目は闇でも心の目が開けている方がよい。心の目が開けた者は神を見ることができるから。





季刊誌 グレース 第2号(1990.夏)より
                           (1914年)       
マタイ伝第六章 二十四節~三十四節        大正三年一月 米国聖書協会発行による

 
野の百合の如く

汝ら神と富とに兼事
(かねつか)ふること能(あた)はず。
この故に我なんじらに告ぐ、何を食
(くら)ひ、何を飲まんと生命(いのち)のことを思い煩ひ、何を着んと體(からだ)のことを思い煩うな。生命(いのち)は糧にまさり、體(からだ)は衣に勝るならずや。
空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。然
(しか)るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之(これ)よりも遙かに優るる者ならずや。
汝らの中
(うち)たれか思い煩ひて身の長(たけ)一尺を加え得んや。
又なにゆゑ衣のことを思い煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡
(つむ)がざるなり。
(さ)れど我なんじらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装(よそほい)この花の一つにも及(し)かざりき。
今日ありて明日、爐
(ろ)に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。
さらば何を食
(くら)ひ、何を飲み、何を着んとて思い煩ふな。
是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡
(すべ)てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。
まづ神の国と神の義とを求めよ、然
(さ)れば凡(すべ)てこれらの物は汝らに加(くわ)へらるべし。
この故に明日のことを思い煩ふな、明日は明日みづからに思い煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。



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現代語訳された聖書よりも私は、明治・大正に訳された古語の方が好きである。
この聖書の言葉をくり返し、くり返し唱えて、暗記するまでになって欲しいと思う。
唱えていられる間に、あなた方の心の中から、生命の泉が湧き出してくるのを感じられるであろう。

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 今の若い人たちは、豊かさに馴れすぎて、私たちが、戦後経験した苦しみは、想像できられないかも知れない。しかし、私たちは、そのことを若い人たちに、伝えておかなければならないと思う。

 何故か。

 それは、今の豊かさが、このままずっとつづくとは思われない点があるからである。
戦争が終わった。戦争のために、日本は持っていた資源を使い果たして、食糧もなかった。日本の主な都市は、アメリカ軍によって爆撃されて、住む家もなかった。爆撃によって、たくさんの人が殺された。
戦地から帰ってみたら、私の両親と、弟二人妹三人、計七人、アメリカ軍の爆撃で死んでしまっていた。
明日からどうやって生きていこうか、と思った時に、私を勇気づけてくれたのが、ここに書いたマタイ伝の聖句であった。

「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず」
「野の百合は如何にして育つかを思へ」
「今日ありて明日、爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば・・・」


 そうだ、神は、空の鳥を、野の草を、すべてを、生かし給う、のである。神の子として、万物の霊長として、今、ここに自分は生かされている。生命があった。丈夫な身体がある。神の子として生かされている自分が、このまま生かされず、のたれ死にすることが、ある筈がない。

「この故に明日のことを思い煩ふな、明日は明日みづから思い煩はん」

 明日はどうなるだろうと、明日のことを心配して、何もしないというのでは、今日一日が生きられない。
そうだ、今日やるべきことは今日やるべきである。今できることは今しかできない。明日できるとは限らないではないか。明日どうなるかと心配して、何もしないでいるよりは、今日できることを今日するのだ。そう思って私は、その日一日、充分に生きることを目指して、働き始めた。着る物もなかった。持っている物だけに満足して生きることに決心した。

 キリストのこの言葉は、その時代の人々があまりにも物質中心主義になって、大事な心を見失ってしまっていたことに対して、警告を発せられたものであった。

 人間の生命、自然の生物の生命よりも、「物と金」が大事であると教えたのが、資本主義、共産主義の唯物論の思想であった。

 金をもらえば簡単に人を殺すという人間がいるのも、自分の欲望のために幼女を誘拐して簡単に殺すという人間が出てきたのも、生命よりも、物や金、自分の欲望が第一だと教えた、資本主義、共産主義の唯物論の弊害である。
 人が物や金にとらわれるようになると、鳥の声に耳を澄ませ、野の百合や草花の美しさに目を慰わせることを、忘れる。自然の不思議やその神秘に、感動する心もなくなる。
不思議や、神秘に、感動を失った人生は、砂漠である。
幸せになりたいと思ったら、子供を豊かに育てたいと思ったら、ものごとに感動する心を、忘れてはならない。

 ばらや、ぼたんや、しゃくやくは、あでやかで美しい。だが私は、人知れずに、野にひっそりと咲いている百合の方が好きである。
“どうです、わたしはきれいでしょう。きれいだと思いませんか”と、自分のあでやかさを誇っているような“ばら”や“しゃくやく”もきれいだとは思うが、しかし、なぜか心に染まない。それよりも、誰に見られようとするでもなく、与えられた所に満足して、そこで命の限りを、精一杯に咲いている、野の百合を、私は美しいと思う。
じっと見てると、その清楚
(せいそ)さに、私の心は洗われる。


そして自然に思い出すのは、宮沢賢治先生の「雨ニモマケズ」の詩であった。
「ホメラレモセズ クニモサレズ」
誰からもほめられなくても良い。お前がそこにいるのは邪魔だ、といわれないような生き方をしよう。
自分に与えられた生命の限り、精一杯に、この生命を生ききろう。
そうして始まった私の生活は、壁が破れて、そこから月が見え、冬になると、そこから雪が吹き込んだ。障子もなく、戦地から持って帰った一枚の毛布で、風を防いだ。



雨ニモマケズ

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓(かや)ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サゥイフモノニ
ワタシハナリタイ

             
新潮文庫 昭和44年草野心平編 「宮沢賢治詩集」による



 この詩を朗唱してみて下さい。清々しい気分になられることでしょう。

 宮沢賢治先生は、人々の心に慈悲の心の大事さを、教えるために現われられた、菩薩界の人であった。人を救う使命を与えられている菩薩界の人々は、無欲である。

 貧しい中からの伝道生活であったが、いくうちに「おかげで救われました」といって、米やさつまいもや、大豆や小豆を下さる人があり、何がしかの金銭を紙に包んで下さる人があったりして、五人の子供を飢えさせることもなかった。

 比叡山の開祖伝教大師が、いわれたという。
 「道心あれば、衣食自ら足る」と。

 
「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。然(しか)るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ」
 「道心あれば、衣食自ら足る」
 正しく道を説いてゆけば、生活するに必要な物は、自然に与えられることになる。

 当時、カバンなど買えなかったので、風呂敷にわずかな着替えの肌着と本を包んで、天を仰いで祈りながら旅に出た。今は、私の若い時のような真似をしろといってみても、現代の経済情勢は、それを許さないが、しかし“心意気”だけは学んでほしいと思う。

 貧しい食事ではあったが、五人の子供たちは、目を輝かして食卓についていた。食卓といってもそれはあり合せの板切れを寄せ集めて作った手作りの台であった。
 家は破れ、家具もなく、見る所すべて貧しくはあったが、神とすべての自然、すべての人々に対する暖かい敬虔な感謝の念は、満ち溢れていた。

 一人ひとり個性の違う顔立ちをしている五人の子供たちを眺めて、この子供たちが、私たち夫婦の間に、子供として生まれてきてくれて、この子供たちを子供として親となったことの幸せを、しみじみと噛みしめて、私は子供たちに言った。「あなた達は、ようこそこのお父さんとお母さんの子供として、生まれて来てくれました。あなた達が今、ここにこうして元気でいてくれるというだけで、お父さんお母さんは幸せです」と。
 その時の子供たちの嬉しそうな瞳の輝きは、素晴らしかった。私たちは貧しかったから、子供たちにいい服やら、いい勉強机を買ってやることはできなかったが、子供たちが持って生まれてきた才能に歪を与えないように、その天賦の才能をすくすく育ててやる環境を、つくってやりたいということだけを考えた。
そう考えたのも、
 「汝らの中(うち)たれか思い煩ひて身の長(たけ)一尺を加え得んや」
という聖書の言葉を思い出していたからである。

 「思い煩ふな」
 鳥越苦労、持越功労をするな。
 背の低い人が高くなりたいと苦心する。身長が伸びるという器械があれば、必ず買ってやってみる、どうにもならないのに、どうにかなるように錯覚して、一生懸命、心労する。そのような鳥越苦労、持越苦労する人たちに対して、キリストはいわれた。
「汝ら 身の長(たけ)一尺を加え得んや」と。

 
すべての思い煩いは、今、与えられてあるものに不足の思いをして、むさぼる心を持ち、あああって欲しい、こうあって欲しいと、常にむさぼりの心で不平不満、不足の思い、既に与えられてある物に対する、不足の思いからくるのである。

 神は、鳥や花をも、自然のままに生かしてい給うのである。鳥や花をも自然のままに生かしてい給う神が、まして万物の霊長として生まれている人間を生かし給わぬ筈がない。

 神は人間を、神の子として、万物の霊長として創られたのであり、動物、植物、鉱物は、万物の霊長であり神の子である人間が、生きていくのに奉仕するものとして、創られたものである。その動、植物でさえ、生かし給う神が、まして、その万物の霊長であり、神の子である人間を、生かし給わぬ筈がない。
 我々が、この世に生きて為さなければならない役目がある限り、我々は生かされるし、もし、この世で役目が終わって、あの世に帰らなければならない時がきたら、静かに死んでゆけばよいのである。死にたくないと思う必要はない。自然に委せればよいのである。
 不平不満、取越苦労、持越苦労、怒りや、嫉みの思いなど、マイナスの思考は、血液を濁し、排せつをとどこおらせ、心と体をむしばむ。くよくよ心配ばかりしてはならない。


 - 完 -




月刊誌 正法    第108号(1987.08月)/第111号(1987.11月)
季刊誌 グレース 第2号(1990.夏)  より



2015.08.12(水曜日) UP