高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします




園頭先生霊道を開かれる-1        GLA誌1973年7月号 より

永遠の生命が ・・・・・・ 誰の心にもあるのです それを悟ってほしい・・・・・・

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 人間の一人々々が偉大なる神の子として、偉大なる神の知恵を誰もが持っている。それを具現した時、人間は本当の調和した環境をつくらなければいけないという結論に達してゆく・・・・・いま私達のグループの中からは、いろいろと凡ゆる転生輪廻の過程を思い出し、そして習わなかった国の言葉で、その当時の生活や環境を、又自分が望んで今日本人として生まれて来た、と云う事を思い出した。・・・・・こういう体験をもった人達が多く出ている。
人間は正しい神理を心の柱として生活をし、勇気をもって実践することによって前進がある・・・・・と力強く結ばれて、「心の窓を開いた人達を通して転生輪廻の事実を聞いてみましょう」と現証にうつられた。

 「関西本部長も過日心の窓を開かれました、そして印度の当時のことを思いだし初めました、そして更に心のテープレコーダーを紐解き、其の後中国の時代に矢張り自分自身が学んだ事の記憶が出て来ました。今その当時の知って居られる方が此処に参りました。そういう人達を通して聞いてみましょう」
そして一栄先生、興和先生を始め本部長、北原さん方が壇上に集まられる。そして先生が、それぞれの方に光を与えられ、その当時の言葉で話しかけられてゆき、その内容をいつもの様に御説明になさってゆく。

 「私は今から二千五百有余年前に、中印度と言う所のコーサラ国の属国“カピラ城”と云う所で生まれたことを記憶しております。私にはカピラ城に居る頃、“アニルッタ”と云う弟が居りました。私は長男でした。“ブッタ”に帰依する人達は、長男は殆ど家に残って仕事をすることを命じられましたが、私は“ブッタ”の弟子として行きたいと思っておりました、弟が城に残りたい、と言うことから話し合った所、城の生活の困難な事を知った弟は
「矢張りブッタの弟子になる」と後ブッタの所に帰依してしまいました、実際私はブッタに帰依して、煩わしい酷しい生活環境の中から逃れて、自分を確かり見つめたいと思っておりました。併しその後に於て、釈迦族の多くの人達が出て終わったが為に、私はその国の王として多くの人々に自分の道を説いてゆきました。
 併し私はブッタとは従兄弟同志でもあり、度々ミダガヤと言う所まで出かけて行き、政治のことや国民の心の状態とか、そういうものを通して“道”を聞いておりました。又ウルベラ(竹林精舎)にも行きました。
 ・・・・・私達はプトラー(種族)から出た、ゴータマ・シッタルタの偉大なる悟りの事を釈迦族として光栄に思っていました。我々はこの釈迦族の神理を神理として人間の永遠の生命を知ったのでした・・・・・百萬の釈迦族は全部“ゴーダマ・ブッタ”に帰依したものです・・・・・」 関西本部長(マーハー・ナマ)

 そしてゴーダマ・シッタルタが出家した時五人の弟子達が父王の命でゴーダマ・シッタルタを守護することで選ばれたこと又その中にアサジという方も居られたとのことである。そしてアサジの過去世をもたれる北原さんに移られ同じ様に、先生と北原さんとの当時の言葉での会話がつづき先生が訳されて、話は続いてゆく。
 「私達は印度の頃はゴーダマ・シッタルタの最初の弟子として、心の窓を開いて当時はアラハンと呼ばれたものでございますが、その神理と言う不変的なものを私達が知った時に、城に居る時よりはるかに平和な安らぎの生活を送ることが出来ました。其の後マガダ国のラジャグリハと云う所に行き、遊行しながら私達はコーサラ国へ行きました。其の後、遊行している時に“シャリープトラー”と云う方をブッタに帰依させました・・・・・

その印度の頃に私が知っている方が此の中に居られます・・・・・その方はウパティサーという名前の方です・・・・・」
 そして先生は九州から来られていた、S氏を指さされ、「貴方だそうです・・・・・ちょっと来てください」と招かれてS氏に光を入れられた。

 「私は二千五百数十年前、印度のラジャグリハの郊外に於いてゴーダマ・シッタルタの弟子アサジこの方を知ることが出来て、ブッタに帰依しました」と北原さんと語り始める。そしてお互いに手を取り合って・・・・・「本当にお懐かしい」・・・・・「永い間会わなかったネ・・・・・」「此処で会うとは奇遇だ」・・・・・「私は本当に感謝している
「ゴーダマに紹介した当時のことを想い出すよ・・・・・」と当時のことをいろいろと涙を浮かべながらの会話である。
 「私達は印度の当時と同じ様に、本当に失われた人間の心を、人々に確認させなければいけません・・・・・」
 この様な言葉が出ている時、先生が横から何か言葉をかけられると・・・・・突然S氏の表情が、泣き出しそうになり、涙が吹き出て来て、「おーブッター」と慕い続けた母親に会えた幼子の様に号泣して先生に両手をさし出し、縋りつく様な身振りになった。先生の目からも涙が流れ、感激に声をふるわせて、お二人で話を交わされている様子を、会場を埋めつくした人々が、カタズを飲んで見守った。ややあって、先生が一栄先生を御紹介なさった様子であった。

 S氏はさらに「おーマイトレイヤー」と一栄先生の方に両手をさしのべる。一栄先生のお顔も涙に濡れて、涙声で懐かしげに相寄られて語り合われる。

 さきにこの会場で、アナンさんとの会見を、又今日この場で、この様な感激的な場面を目のあたりにして、感激に胸のこみ上げてこない者があろうか?全員が心を奪われた様に壇上を凝視して声もなく、心をうたれて涙したことであろう、しばらくして気を取り直されて先生が涙をふきながら私達にご説明を始めて下さる。

 「此の方は、九州の方で生まれました。それは実在界アノ世から出て来る時に、それぞれ自分の生れる場所、そしてその道を説く人々、それがチャンと仕組まれて日本に出て来ております。この方は“ウパティサー”と言われる方です・・・・・この方は印度の頃は、ナーランダと云われる所に生れた様です。そしてブッタに帰依した後は、ゴーダマ・シッタルタ釈迦牟尼仏の右腕と云われた方です。・・・・・・・・・・彼は印度の頃を思い出して、この様に語っております・・・・・」

 そして、他の方と同様先生は氏に古代印度語で語り合われつつこれを話されてゆかれます。

 「このように自分達は今自分の肉体をもって生活をし、自分の心の窓を開いて、偉大なる神の不変的生命を知った時に、私達はやらなければならないです、暫くです、お互いに胸が一ぱいです・・・・・心の窓を開いて私達は永遠の生命を知り、」そして又心を新たにして多くの人々に、正しい片寄らない道を説いて行こう・・・・・、私はこの様に皆さんの前で話が出来て胸が一ぱいです。そしてこの中にもかっての私達の仲間が居ります。その人達が心の窓を開いた時に私達はまた生命の永遠を自ら自覚することが出来るのです・・・・・」

 「・・・・・現代の仏教もキリスト教も私達がかって印度の二千五百数十年前に出た、バラモンのプラナーと一つも変わっていない、難しい哲学化して、人々の心というものをとらえることが出来なくなった。
 その頃私達はブッタの教えによって、人間の心の普遍的なものを・・・・・そして自然を通し、あらゆる方便を通して、正しい道を私達は聞き、又それを説きました。私達は今それをやるのです。その事実を印度の時代と同じ様にやりたいのです。私はその為にジャヤンドーバー即ち日本で、北は北海道から、南は九州までその為の活動をして来ました、私は自信をもってやってゆきます。・・・・・」「皆さんもこの様に、普遍的な偉大なる神の子としての生命を知ったならば、生活というものを確かりやって頂きたいのです、・・・・・私はこれで自分自身も自信を持ちました、多くの人々の為に私は自分の身を供養します。
 皆さんはよく聞いて下さい。永遠の生命を・・・・・、皆さんの心の中に誰もあるのです。それを悟ってほしい、私は自分の命を、自分の身体をかけて皆さんの為に尽くします。そして失われた心を取り戻させます・・・・・」
 「この様に云っております」と先生はS氏との会話を打ち切られた。

 そしてこのウパティサーと云われる方が後にシャリープトラーとよばれる様になった経緯と、般若心経の中に出て来る“舎利子”シャーリーシと云われる方は、この方の名前を、弟子達の代名詞として使ったものである・・・・・と結ばれて感動的な現象をおえられた。暫くは会場は声もなく、ややあって我を取り戻した様に人々の間にざわめきが広がって行った。 (黒田外喜男・記)









写真右
・関西本部長も過日心の窓が開かれました。そして印度の当時のことを想いだし初めましたと・・・・・
 高橋信次先生が転生輪廻の事実を御説明されました。



写真左
・お互いに手をとり合って・・・・・「本当にお懐かしい」と「永い間会わなかったネ・・・・・」と
 当時のことを思い出されるS氏と北原さん・・・・・先生も目がしらを押さえられる感激の一コマであった。




 - 完 -


GLA誌1973年7月号 より


2024年8月31日(土曜日UP
                                           okusama.kominamihai TT he/wW