高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします




園頭先生霊道を開かれる-2       

 
現代の釈尊 高橋信次師とともに 】 より

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【 師との邂逅(かいこう) 】

 昭和四十八年(1973年)一月、私は所用があって上京した。ある日、暇が出来たので「生長の家」本部に立ち寄り帰途知人宅に寄った。その折「すばらしい人が出てこられました。この人こそホンモノです。ぜひこの本を読んでください」と二冊の本をいただいた。高橋信次著「縁生の舟、神理篇」「原説般若心経」であった。ホテルに帰ると、その晩のうちに二冊とも読んでしまった。読み進んでいくうちに、このお方こそ自分が探し求めていた人であるという気がして来た。一日も早く会って直接教えを乞うてみたいという気になり、早速手紙を出した。「今まで宗教界にいて神理を求めてきましたが、疑問ばかりが多くなって現在の宗教界に失望している者です。ご著書を読んで、ぜひ直接ご指導を度・・・」

 なんと返事が来るだろうと心待ちしていたが一月が過ぎ、二月も半ばにすぎても何の連絡もなかった。会えないのかなと思っていたら、二月末になって、高橋先生から使いの方が二人来られた。

 「高橋先生から電話がありまして、こういう所に園頭という人がおられる。この方は私にとっては非常に大事な人であるから、電話などで行ってはいけません。一人で行ってもいけません。誰かと二人で行って、私がぜひ会いたいと言ったと伝えて下さいということでした。高橋先生は三月十三日、GLA関西本部で講演をされます。
来て下さったのは、当時のGLA関西本部事務局長中村勇夫婦であった。GLA関西本部というのは、霊友会の分派であった瑞法会が、教団を挙げて帰依してGLA関西本部となっていたのであった。

 当日、私は少し早めに行って待っていた。「お手紙差し上げました園頭です」と挨拶すると、高橋先生は随行の人に顔を向けて、「園頭さん、あなたが私の所に来るということは、僕は五年前から東京の人達に予言をしていたのです。ね、そうでしたね」といわれた。随行の人は「そうでした」とうなずいた。
 「園頭さん、あなたは宇宙即我を体験したことがありますね」それまで誰に話しても理解してくれなかった。
昭和十五年(1940年)六月の中支の第一戦陣地で体験したことを、高橋先生はすでに知っておられた。私がどういう体験をし、「生長の家」でどのような事をして来たか、私が話した訳でないのにすでに全て知っておられた。
つづいて、「園頭さん、あなたはアメリカのアガシャ協会のことを知っていますね。あのリチャード・ゼナーという人に出てきたアガシャは天上界において我々と同じ仲間ですよ」と言われた。

 講演を聞いて帰る時、「園頭さん、あなたはもう一度やり直しだと思っていますね。それでいいのです。心がきれいになっているから、まもなくあなたは自分の過去世がわかるようになります」と言われた。

 三月、初めて高橋先生にお会いした日、私の後ろから入って来た三十五、六歳くらいの男の人がいた。その人の挨拶がすむと、「園頭さん、この人は僕が大阪の国際ホテルに泊まっていた時に、僕の部屋に直接電話をかけてきたんです。僕は誰にも僕がそこに泊まっていることは言っていなかった。この人は朝、精神統一をしていると眼の前に数字が浮かんできた。何の数字だろうと思っていたら、あ、ここへ電話しろということだなと感じてダイヤルを回した。それが僕が泊まっていたホテルの僕の部屋の番号だったんです。僕は受話器を取るといきなり、
「阿難」と言ったら、それでこの人は霊道が開いて、古代のインド語で話し始めたのです。ね、そうでしたね」と言っておられた。その人は京都の田中利夫という人で、釈迦の十大弟子の中の多聞第一と言われた阿難という人の生まれ変わりであるということであった。桐山靖雄氏の観音慈恵会の一支部長みたいなことをしていたが、疑問を持って辞めたというのである。

 それまで一回お会いしただけであったが、高橋先生こそは私が求めていた本当の師であることを直感した。私が「生長の家」を辞めた時、「先生が辞めるほどの『生長の家』なら私達も辞めます」と言って私と一緒に辞めた人の一人に手紙を出して、四月の大阪における高橋先生の講演会を聞きに来るよう誘った。

 講演が終わると「園頭さん、宮崎から来られたあの人達も一緒に生駒の三鶴山荘に今夜泊まって下さい。僕はまだ個人指導があるのであなたたちは先に行ってゆっくりしていて下さい」と言われたので先に行って待っていた。夕方六時近くになって先生が帰って来られたというので急いで玄関へ出迎えた。「只今でした。あ、どうしてあなた達は早く風呂に入って浴衣に着替えなかったんですか」それは全く予想外の言葉であった。私達はこれから教えを頂こうという弟子である。師より先にお風呂に入って浴衣にくつろぐということは常識に反するし、弟子たるもののとるべき態度ではない。だから服装を正して、師を迎えることは当然のことであると。当たり前の事だとして出迎えたのであったのに、高橋先生はそのように言われる。そうして、「僕はもう一人個人指導する人があるので先に風呂に入ってくつろいでください」と言われた。これまで私が知っている教祖という人で、弟子に対して自分より先にくつろげと言った人はなかった。高橋先生の心の広さに驚くと同時に感激し、これ以上、かたくなに自分の考えを守ることは却って礼に失すると思われたので、私達は早く風呂に入ってくつろいだ。

 その夜宿泊を共にしたのは、私と、宮崎から来られた人と、当時のGLA関西本部の本部長以下各理事達であった。浴衣にくつろいで夕食が終わった。これから教えを受けるのであるから服に着替えようと思っていたら、
「園頭さん、ちょっと精神統一をしてみて下さい」と言われた。私は身長175cm、体重83kgある。宿の浴衣は私には短かった。正座すると前が合わなくて足がはだけて見える。膝頭を合わせて前がはだけないように座ろうとしたら、私の膝を軽く叩いて、「あ、そういう窮屈な姿勢をしてはいけません。正座をすると足が痺れるでしょう。そうすると足の方に心をとらわれて心は統一できないでしょう。身体が統一するんじゃないのです。心が統一すればいいのです。心を統一させる為には、心が身体の方に気を取られない様に身体はラクにする方がいいのです。
座禅の様に結跏趺坐(かっかふざ)する必要はないのです。インドの時はあのような姿勢はしなかったのです。ラクにしなさい。胡坐(あぐら)をかきなさい。胡坐でいいのです。」と言われた。言われるままに胡坐して精神統一に入った。心が統一して来ると、もう一人の自分が自分の肉体から抜け出して自分の上にいる。見ている自分と見られている自分がいる。

 私は「宇宙即我」の体験をしてから、精神統一すると、すぐそういう境地に入ることが出来る。心が統一して澄みきってくると、高橋先生はどこの国の言葉であるかわからないが、私に向って話しかけられた。右の手を私の頭上にかざしておられるのがよくわかる。「一体どこの言葉だろうか、どんな意味なのだろうか」といぶかった。そう思っていながら腹の底から今までとは違った思いと感情とがこみ上げてくる。まことに不思議である。わからないながら聞いているうちに、だんだんわかる様な気がしてくる。それにいいようのない、懐かしさがこみ上げてくる。腹の底からこみ上げてくる感情が胸のあたりにふくらんできた。高橋先生のわからない言葉は続いている。

 突然、日本の言葉で「肉体を持っている人よ、今、腹の底からこみ上げてきたその思いをそのまま言葉にしなさい」と言われる。高橋先生は私の心の動きの全てをすでに知っておられたのであった。ここまで心の動きの全てを知られては、この方の前には絶対にウソはつけないと思った。言葉にせよと言われても、どういう言葉にすればよいのかわからない。この胸の中にふくらんで、尚後からこみ上げてくるこの思いをどう言葉に表現すればいいのだろうか、と思っていると、再び「肉体を持っている人よ、声を出しなさい」と言われた。私はこれまで「肉体を持っている人よ」という呼びかけで始まるこの様な権威ある言葉を聞いたことがなかった。

 言葉にならない声を出すのは少し恥ずかしいという気持ちはあったが、言われるままに口を開いて「あー」という声を出した。そのとたんに私の口からこれまで習ったこともない言葉が次から次へと飛び出してきた。その言葉の意味は分からない。だが、高橋先生が何かを言われるとそのたびに、言葉よりも先に涙がふき出して懐かしさに胸が一ぱいになり、そうして次に言葉が出る。そうしている私を冷静に見つめているもう一人の自分がいる。「これは催眠術にかけられているのではないか」「暗示に引っかかったのではなかろうか」と、目覚めた私の理性は客観的に自分を見ている。最初はわからなかった言葉の意味が次第にわかるようになって来た。それに対して言っている自分の言葉の意味もわかってくる。「貴方はこういう人を知っているはずです。」「ハイ、その人は良く知っています」この世では習ったこともない言葉が自然と口をついて出て、その度にたとえようもない懐かしさに涙が溢れ出るのであった。

 「肉体を持っている人よ、今度は日本語で答えなさい。あなたはヘイマカという人を知っているはずです。その人はあなたと過去世でどういう関係にあった人であるか、日本語で答えなさい。「ヘイマカ」という人が日本人であるはずがない。どこの国の人でどういう関係にあったのかといっても、私はそれまで海外に出たこともないし、また海外に知人がいた訳でもない。日本語で答えようとして頭の中の記憶を探ってみても少しも思い浮かんでこない。自分でもう一人の自分に向って、腹の底の方に問いかけるような気持で、頭脳の働きを停止して、「この人はどういう関係にあった人ですか」と問いかけた。一つの答えが腹の底から胸の方へぽっかり浮かんできた。しかし、私はその言葉を即座に否定した。そうしてもう一度問いかけてみた。また、同じ言葉が浮かんでくる。浮かんできた言葉に代わる言葉を頭の中で探したが、それ以外の言葉が出てこない。私の前に座っておられる高橋先生は、そうした私の心の中の動きをすべて知っておられたのである。

 「今、思い浮かんできた言葉をそのまま口にしなさい」畏れ多い、と思いながら「その人は私の侍従をしていた人です」と言った。「ウパテッサよ」と言われたとたんに、私は高橋先生に向って「ブッダ」と叫んでいた。あのなつかしさ、そのなつかしさ、このなつかしさ、に涙がとめどもなく流れてくる。その私の眼にはっきり見えるのは、「お釈迦さま」であった。「ブッダ・・・、ブッダ・・・」。そう叫びながら、私はひれ伏していた。

 「そなたは二千五百年ぶりの約束をよく果たしてくれました。今生でも、あのインドの時と同じように正しい
法を伝えていきましょう。今生でこうして会えてうれしいです」その声はまことに厳かであった。

 私は、高橋先生がかつてインドで釈尊と言われた方であることを、はっきりと霊眼で見た。
「ブッダ、ブッダ・・・」と言ってひれ伏して泣いている私の髪に金の粉が降ってきた。私はそれには気づかなかったが、私が誘った宮崎の元「生長の家」の会員であった人から、「金が・・・」と言われて気が付いた。何もない空中から突然、金が降る。

 高橋先生の顔も私の方にかざしておられたその手も、みな金である。その時思ったのは、釈尊の像を金箔で荘厳(しょうごん)するのは、インドの時、お釈迦さまが説法しておられると、空中から金が降ってきて、顔や手が金色に輝いたからであると言うことがわかった。

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【縁生の友との再会】

昭和48年5月13日、私が霊道を開いて自分の過去世がわかって一か月目である。高橋先生の前半の講演が終わって私は壇上へ上がらされた。東京から来たという初めての人達がいた。
「あなたはこの人たちを知っているはずです。思い出してください」と言われた。

   ・・・・・・ 園頭先生霊道を開かれる-1に 続く!


          


         1983年3月20日 初版              1992年8月17日 新装改訂版


 - 完 -



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