高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします




高橋信次氏の記録
園頭広周書簡集(下) 宗教指導者の条件 より


【 ただ一人正法がわかっていたといわれたこと 】

                
昭和51年7月3日 (1976年)


 高橋先生が亡くなられて、つくづくと今まで遠慮してきたことを後悔します。こんなことになるのでしたら、もっと積極的にやればよかったと思っています。

しかし、関西本部四月の講演会の時に、中谷本部長宅に泊まっていられた先生が、朝食の時に、「僕が説いたことを一から十まで全部わかっているのは、園頭さんが一人だ」といわれたということで、講演が始まる前に中谷本部長が話してくれました。

私は照れかくしに、「いや、みんなわかっていますよ」といいましたが、私は「そうだ」と内心思っていました。

 高橋先生が亡くなられた以上、私がしっかりしなければならないと腹を決めました。問題は、入信年月日で序列を決めてしまっている東京、関西の講師達が、一番後から帰依した私の指導を受けるというかどうか、この点が今後GLAがどうなるかの分かれ岐(みち)になります。今までの空気から考えて、そうはならないと思っています。私の予感が当たらないことを願っていますが、しかし、当たることになるでしょう。そうなったらそれで、私は一人で高橋先生の教えを正しく伝えてゆく以外にありません。

 予定されていた、宮崎、鹿児島、熊本の講演をすませました。高橋先生は亡くなられたのに、かえって集まる人はふえてきました。

 今まで何べんか、私が持っている本当の力を出さなければいけないと思ってきたのですが、東京本部の空気がおかしかったし、まあそのうちに高橋先生がいわれるだろうと思ってなんにもいわずにきたのですが、講師の在り方などについてはなにもいわれずに昇天されました。まことに残念です。

【 注解 】
 高橋先生の死は全く意外であった。あれもこれも聞いておきたいことが一ぱいあった。師がいないということが、こんなにさびしくかなしいものであるとは、とにかく歩んでいかなければならない。
私は自分自身、高橋先生がいわれることを全部わかっているのは自分だけだと思っていた。中谷本部長からいわれて、内心では、「やはりそうであったか、そういわれたのか」と思ったが、そうは自分でいうわけにはゆかなかった。GLAは果たしてこれからどうやってゆくのか、それを考えると気が重かった。しかし高橋信次先生が「一人だ」といって下さった。ありがたかった。生長の家にいた時は自分を知ってくれる人がなくて、いつも残念な思いをしてきたものであった。







【偉大なるシャーリープトラー】
     阿含経典による仏教の根本聖典 増谷文雄著

第十章 正法の嫡子(ちゃくし) 南伝 中部経典111 不断経

(1)
 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる給孤独
(ぎっこどく=祇園精舎)の園にましました。そのとき、世尊は、比丘たちに語ってかように説かれた。

「比丘たちよ、サーリープッタ(舎利弗)は賢である。比丘たちよ、
 サーリープッタは、はなはだ智慧にすぐれておる。
 比丘たちよ、もし人ありて、・・・ 某々(ぼうぼう)はもろもろの戒において自在を得た、もろもろの慧(え)において自在を得た、彼は究竟(くきょう)なるものを得た。・・・ というものあらば、サーリープッタはまさにかかる者である。彼はもろもろの戒において自在を得、もろもろの定において自在を得、もろもろの慧(え)において自在を得、究竟なるものを得たのである。

 比丘たちよ、また、もし人ありて、・・・ 某々(ぼうぼう)は世尊の実子である。口より生まれ、法より生まれ、法の成ずるところである。彼は法嗣(ほうし)にして肉嗣にあらず。・・・ というものがあらば、サーリープッタはまさにかかる者である。彼は世尊の実子であり、口より生まれ、法より生まれ、法の成ずるところにして、肉嗣にあらず、法嗣たるものである。
 某々=だれだれ。名前が不明な場合や名前を伏せる場合などに用いる。/ 法嗣=法統を受け伝える跡継ぎ。

 比丘たちよ、サーリープッタは、如来によりて転ぜられし無上の法輪をまさに正しく随(したが)って転じゆく」

 かように世尊は、サーリープッタを讃え説いた。比丘たちは、世尊の説くところを歓喜して受けた。

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(2)
 ある時、長老サーリープッタ(舎利弗)は、サーヴァッティーの祇園精舎にあった。そのとき、彼は比丘たちのために、丁重なる言葉と明澄(めいちょう)なる声とで、明快なる法話を説き、彼らを利益(りやく)しかつ鼓舞した。彼ら比丘たちは、注意ぶかく、熱心に、耳をかたむけて聴いた。長老ヴァンギーサ(婆耆沙)は、その席にあって、感にうたれ、「わたしは今、長老サーリープッタを、適当なる偈(げ)をもって讃えよう。と、座を起(た)ち、衣を片方の肩にかけ、長老サーリープッタを合掌し拝して言った。

 「友よ、サーリープッタよ、わたしはいま、詩想(しそう)がうかんだ。」
 「友よ、ヴァンギーサよ、では、そを語るがよい」

 そこで、ヴァンギーサは、つぎのような偈をもって、長老サーリープッタ讃えた。

 「大いなる智者サーリープッタは、  智慧ふかくして、かつ賢く、  道なると道ならぬとを巧みに分かち、
  比丘たちのために法を説きたもう。

  あるときは略して簡潔に説き、  またあるときは開いて広く語り、
  その声の明澄なるはサーリカー(舎利鳥)のごとく、  その弁舌は湧き出づる泉のごとし。

  その声はまた蜜のごとく楽しく、  耳も爽やかに説きゆきたまえば、  比丘たちは心おどりよろこびて、
  耳をぞ傾けて聞きにける。」

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(3)
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)の東の園なる鹿母(ろくも)講堂に、多くの比丘たちとともにましました。比丘たちはみな聖なる者であった。そのとき、あたかも布薩自恣(ふさつじし)の日にあたり、世尊は比丘たちとともに野天跪(ひざまず)いておられた。
  
布薩(ふさつ)とは、仏教における戒律の再確認や反省、懺悔の儀式
  
自恣(じし)僧たちが安居中の罪過の有無を問い、反省懺悔 (さんげ) しあう作法。

 世尊は、沈黙せる比丘たちを眺めわたし、彼らに呼びかけて言った。
 「比丘たちよ、いまわたしは自らすすんで、なんじらにたずねる。なんぞ、わたしの行為もしくは言葉のうえに、批難さるべきものがあったであろうか」

 かく言われて、サーリープッタ(舎利弗)は座を起ち、衣を一肩にして、合掌して世尊を拝して言った。
 「いな、いな、世尊よ、われらは世尊の御身のうえに、行為にも言葉にも、なんら批難すべきものを見ない。世尊よ、世尊はいまだ生ぜざりし道を生ぜしめ、いまだ知られざりし道を知らしめ、いまだ説かれざれし道を説き、道の知者、道の巧者、道の導師にてまします。わたしども弟子たちは、いまその道にしたがい、その道を赴くかんとするのである。世尊よ、かくてわたしもまた自恣をなしたいと思う。世尊はなんぞわたしの行為もしくは言葉のうえに、批難すべきものを見なかったであろうか」

 「いな、いな、サーリープッタよ、わたしは、なんじの行為にも、また言葉にも、なんら批難すべきものを見ない。サーリープッタよ、たとえば転輪聖王(てんりんじょうおう)の長子が、父なる王の転ぜし車輪を嗣(つ)いで転ずるがごとく、かくのごとく、なんじはわたしの転ずる無上の法輪を、正しく嗣いで転ずるであろう。」

 「では世尊よ、さらに、ここに集まれる多くの比丘たちについて、なんぞその行為もしくは言葉のうえに、批難すべきものがあったであろうか。

 「サーリープッタよ、彼らの行為にも、また言葉にも、わたしはなんら批難すべきものを見なかった。」

 そのとき、かの長老ヴァンギーサは、座を起ち、衣を一肩にして、世尊を拝し、世尊に言った。

 「世尊よ、いまわたしに詩想がわいた。世尊よ、わたしにいま詩句が浮かんだ。」

そして、彼は世尊のゆるしを受けて、つぎのような偈を説いた。

 「今宵(こよい)十五夜、身口意(しんくうい)の清浄のために、いまここに五百の比丘たち集まれり。
  すべて煩悩のまどわしを断ちつくして、また迷いの人生をくり返さざる聖者なり。
  彼らみな世尊の子、法の嗣子にて、ここに無用の弁をもちゆるものなし。
  いま渇愛の箭(や)を抜き去りたるもの、ここに仏陀なる世尊を敬礼(きょうらい)したてまつる。


 - 完 -


2024年9月1日(日曜日) UP