高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







正 法 入 門


第1章 宗教と科学の一致

1.どうして宗教と科学は対立したか

2.自然の神秘さに驚かなければならない

3.物質の法則は神がつくられた

4.真空の世界では「無から有」が生じる

第2章 人類の誕生

1.いつ人類は地球上誕生したのか

2.類人猿から人間に進化した証拠はない

3.魂の自覚こそ大事である

4.人類の誕生 天界の経綸

第3章 神

1.神とは何であるか

2.神の原理

3.神について その@

4.神について そのA




第1章 宗教と科学の一致


1.どうして宗教と科学は対立したか

 宗教は神の存在を信じ、科学は神を否定するものである、というのが一般的な人の考え方のようであります。今から約100年前、明治維新により、西洋の文物が怒涛のように日本に流入してきたために、明治以来、日本人は何でも西洋のものは正しいと考えてきました。宗教と科学は相反するものである、科学は神の存在を否定するのであるという考え方も、西洋から入ってきた考え方だったのです。宗教と科学は相反するものであるという考え方がどうして起こったのかといいますと、事の起こりは1543年コペルニクスが地動説を唱えたことに始まります。
 古代ギリシャ時代には地動説(太陽を中心にして地球が廻る)が正しいと信じられていたのですが、いつの頃からかキリスト教会で天動説(地球を中心にして太陽が廻る)が説かれるようになりました。ヨーロッパにおいては、キリスト教の牧師が民衆の教育の実権を握っていて、牧師の言うことはすべて神の名によって正しいこととされていて、教会で天動説が説かれていたところへ、コペルニクスが地動説を唱えたために、コペルニクスは神を汚すものとして宗教裁判にかけられました。
 現在では小学生でも地球が動くことを知っていますが、今から約400年前の人達はみな地球のまわりを太陽が廻ると思っていたのです。コペルニクスに続いてガリレイが望遠鏡を作って月面の凹凸、銀河、木星、金星、太陽の黒点などを観測し、1632年にコペルニクスが唱えた地動説が正しいことを発表しました。そのためローマ法王から宗教裁判にかけられて、地動説を放棄しなければ死刑にするといわれ、死を免れるために法廷では放棄することを認めたのですが、ガリレイが法廷を出たとたんに、「それでも地球は廻る」といった話は有名であります。
 宗教家が神の名によって科学の研究の成果を否定し、科学者は、宗教家は神の名によって正しい科学のあり方を否定して、間違ったことを民衆に教えているといい、ここに宗教と科学は完全に対立することになったのであります。科学者は神を否定して、物質の中にある法則を追及してきましたが、原子物理学が発達するにつれて科学者も神の存在を認めなければならないようになりました。

 湯川秀樹博士が中間子理論を発見された時の言葉は有名であります。
「 物質を分子、原子、素粒子と細かく分析して行くと、すべてのものは目に見えない存在になる。このことを考えると、目に見えない存在の奥に、神とでも呼ばなければほかに呼びようもないほどの、不思議な力が働いているということを、素直に認めないわけにゆかない」
と。

約400年間、科学者は神の存在を否定してきましたが、今は、偉大な科学者たちは皆、科学の発見した法則の奥に神があることを認めるようになりました。神の名において、間違った天動説を信じ科学を否定してきた宗教家たちは、やがて天動説が間違っていたことを認め、科学者が発見したいろいろな法則を信ずるようになった。
 全く相反する立場にあった宗教と科学は次第に接近を深め、現在に置いては、宗教は精神的面で神を求め、科学は物質面で神を知るものであるという事がわかり、宗教と科学は一致するもので有るということが、わかってきました。
 
高橋信次先生はこのことを、「 宗教と科学は深い関係をもち、人類社会に欠くことの出来ない物心両面の姿であり、精神、物質の両文明が進むにつれて、宗教と科学は切り離す事の出来ないような社会に変わって行く」と。
 そうしてまた、「 科学は現象界の時間と空間を超越して精神界に入り、正しい宗教の姿、あり方を実証してゆく」と言っていられました。





2.自然の神秘さに驚かなければならない 

 宇宙の創成、銀河宇宙、太陽系等の天体の運行だけ考えても不思議です。天文学で、今一番遠くに見える星は30億光年です。光の速度は1秒間に30万キロメートルで、地球の赤道の1番大きなところを7周り半する速さです。この光の速度で1年間走る距離を1光年と言います。その光の速さで30億年かかる所にその星があるというのです。ということは、今私達が見ているその星の光は、30億円前にその星をスタートした光であるということです。この地球ができたのが約30億年前であると言われておりますが、その当時は今の様ではなくて地球は星雲状態にあったわけです。その星の光がその星をスタートした頃に、暫く地球はつくり始められて、その星の光が30億年かかって、やっと地球に到達したその間に、地球はいろいろの歴史を作ってきたという訳です。その星の向こうにどういう星があるかは、まだそこまで見ることのできる望遠鏡がつくられていないので見ることができないのですが、何もないということは言えません。

 高橋信次先生は、いつも講演の時、「 皆さん、あの太陽をごらん下さい。あの太陽は毎秒200万トンの石炭を燃焼したほどの光と熱とを我々に与えていてくれるのです。太陽の光と熱とはタダです。もし皆さんが、この太陽が与えてくれる光と熱に代金を払わなければならないとしたら、皆さんはそれを払えるでしょうか。電気会社は電気代を1カ月払わなければ電気を止めます。この太陽の姿こそ神の慈悲の現れでなくてなんでしょうか」と話しておられました。

 太陽なくしては生きて行かれないことを知っている人類は、自然に太陽信仰をするようになりました。日本でも終戦前までは朝早く戸外で太陽に向かって、「お天道様のおかげで」と拍手をして拝んでいる人を見かけたものですが、この心を私達も持たなければいけないと思います。この太陽ができたのは、今から50億年前だと言われております。太陽の中心の温度は2000万度、数千気圧で、水素原子核が熱核融合反応を起こしているその光と熱の25億分の1が地球に届いているに過ぎず、その25億分の1の光と熱が、毎秒200万トンの石炭を燃焼させたのに等しい量であるというのです。この太陽と同じような星が、いまわかっている宇宙空間に1000億個あるというのですから、私たちはこの宇宙の広大さに驚かなければなりません。しかし驚いてばかりいたのではいけないのです。

 もっと驚かなければならないことは、この宇宙の広大さを理解することができる所の、心の広さを持っているその心の広さであります。宇宙空間の広大さに驚く人は今まで沢山あっても、その心の広大さに気づいた人は少ないのでした。多くの人は宇宙の広大さと、わずか160センチから170センチしかない肉体の大きさと比較して、人間を矮少(わいしょう)なものと考えてきましたが、肉体は小さくても、この宇宙空間を入れる心の広大さを人間は持っていることに気付かなければならないのです。「宇宙即我」の悟りはこの心の広大さを自覚する所から始まるので、我々の心が肉体にとらわれている間は心は広くなりません。

 神がつくられたこの宇宙の広大さ、この宇宙の中で営まれているいろいろな生命の神秘さ、それらの全てを悟られたのが、釈迦、キリストであったのです。「宇宙即我」という言葉は知っていても、目の前の小さなどうでもいいようなことに執着していたのではとても「宇宙即我」の悟りを知ることはできません。
 座禅やヨガの瞑想などでストレスを解消して多少心のゆとりは得ることができても、「宇宙即我」の悟りを得ることができないのは、肉体の小さな頭脳に執着してその頭脳で全てのことを解ろうとしているからです。頭脳は本当の自分自身即ち霊が、肉体的表現を通して霊自身の向上を図るための一つの機関にしか過ぎないのです。
現在の科学者の欠陥は、色々な研究を自分の頭で考えるために、頭脳の作用が心であると考えている所にあります。霊が心という作用を表現するために使っているコンピューターが頭脳なのであって、その霊(心)が無限大の宇宙意識(神)に通じていることを知らないといけないのであります。




3.物質の法則は神がつくられた

 物質の法則即ち物理科学の法則は、人間がこの地球上に生まれてから人間が作った法則ではないでしょう。人間が生まれる以前からあったのです。それは神がつくられた法です。
 ある教団では、「物質本来なし、物理科学の法則は、本来あってはならない迷いの法則だ」と教えております。物理科学の法則を応用した文明の利器を使って、充分にその恩恵に洛していながら、「物理科学の法則は迷いの法則だ」ということは矛盾ではないでしょうか。「物質の法則は本来ないのだ」と言ってみても、厳然として法則は存在します。
 お釈迦様の時代の六師外道の一人に、サンジヤ・ペーラテプッタという指導者がありました。通称アサンジヤと言われている人です。この人は「ああ言えばこう言う、こう言えばああいう」というような、つかまえどころのない教えを説いっていたと言うので、アサンジヤの教えは「鰻論」だと言われておりますが、このアサンジヤの教えと、その教団の説き方には非常に似た所があります。


 高橋信次先生は、「酸素と水素は、どちらも極端に火に燃え易い。この燃え易い酸素と水素が結合すると火を消す水になるというのは不思議です。また、塩酸と苛性ソーダは、どちらも骨を溶かすほどの劇薬です。この二つが結合すると、塩になります。人間は、水と塩がなくては生きてゆけません。この物質の法則は何を教えているかというと、極端から極端はいけない、中道でなければいけないと言う事を教えているのであります」と良く話しておられました。

 神道でお祓いに水と塩を使うのは、神の道は中道である。中道に立てば一切の不浄、争いは消えて調和すると言う事を教えているのであります。法というものは、いつでも、どこでも、必ずそうなるというものであってあの時はこうなったが、今度はこうなったという一回限りの結果しか出てこないものは法ではありません。世界中の水はみな、酸素と水素の結合から成っているのであって、アメリカの水は、酸素と炭素で作られているというようなことはありません。例外は無いのであります。


 目に見える物質は確かに無常であります。刻々瞬々、姿や形が変わります。その移り変わる表面的な無常の姿だけを認めて、物質は無常だと思うのは一面的な見方で、その移り変わる姿の奥に、物質を物質たらしめている所の、目に見えない法則が働いていると言うことを認めないと、ものを正しく見たと言うことにならないのであります。「正見」正しく見るということは、部分的な見方をしてはいけない。常に、全体的な、総合的な見方をしなさいということでもあります。
 一切の存在の奥に、目に見えずして働いている法則は、神がつくられたのでありますから、私たちは、物を、ただ単なる物として見ないで、「神の生命の現われである」と見て物に感謝し、物の生命を大事にしなければいけないのであります。「物、物に非ず。これを物という」という言葉は、そのことを意味しているのであり、このことを「色心不二」と言うのであります。




4.真空の世界では「無から有」が生じる


 つい最近まで近代物理学は、「真空は無である」と考えていました。般若心経の「空」も、結局、何もないと解釈している人が大部分でした。分子と分子の間には真空が存在しています。一個の空気分子の半径は、約1億分の1センチです。地上の空間には想像出来ないほど多数の空気分子が存在しますが、その空気の分子と分子との間に真空があります。

 アインシュタインは言っております。
「物質の存在しない、幾何学的な広がりのみを持った真空は存在しない。真空はある物理的特性を持っていて、その物理的性質を通して、物質と密接な関係にある」と、これは真空は波として光を伝える性質を持っているということです。電子を加速度運動させると光子が飛び出します。物質を細かく分解して分子、原子、素粒子、電子となり、電子から光子が飛び出すということは、それは逆に考えて行くと、無の世界と言っても何もないのではない。一切の物質を生ずる根源の世界、お釈迦様はこの世界のことを「真空妙有の世界」と言われたのでありますが、その「真空妙有」の世界から光子が生まれ、電子となり、素粒子となり、原子となり、分子となって、目に見える形の物質が生ずるというのであります。縮めると「無から有」が生ずるということです。
 物理学者は、半径100億光年の宇宙から、半径が1兆分の1ミリの極微の世界まで知ることが出来ました。それ以外に、まだ学問的に知られていない神秘な世界があるわけです。今、わかっている世界だけのことを考えても、不思議というより外ありませんが、物質を物質たらしめている所の宇宙のエネルギー、宇宙の大生命の存在を認めないわけにゆきません。


 お釈迦様が、2500年前に直感で悟られたことを、今やっと科学者たちは、「そうだ」と知り得たという所です。
「この大宇宙は神によってつくられた。大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。
神は、その意識の中で意思を持たれた。
大宇宙の創造は、神の意思によってはじまった。・・・・・・・・・
地球に生物が住むようになったのは、今から数億年も前である。最初の生物は、太陽の熱・光と、大地と、海水と、空気と、それに意識界と表裏一体の宇宙空間の、相互作用によって、地上に現れた。微生物の誕生である。続いて植物が発生し、動物が姿をみせはじめた。」

 
お釈迦様は、神の生命による宇宙の創造を悟られて、人間の生きる目的を説かれたのでした。
「意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造された。」と言っていられるのは、神は心と物質をつくられたということです。
物理化学者達は、物質面から神を求めてきたわけですが、宗教家、哲学者は心の面から神を求めたわけです。正しく神を知るためには、心と物質の両面から知らないといけないわけです。どちらか一方に片寄ったのでは本当のことが分からなくなります。極端な精神主義も間違いであり、また極端な物質主義も間違いであります。戦争中、軍部も文部省も、「アメリカは物質の国である。日本は神国で精神主義の国であるから、日本は必ず勝つのである」といったものでしたが、結局、日本は負けました。ビルマ作戦や、ガダルカナル、沖縄等で日本軍が負けたのは、物量に精神力が圧倒されたからでした。第2次大戦から学ばなければならない教訓は沢山ありますが、その中で、最も学ばなければならないことは、極端な精神主義は敗北につながることであるということだと、私は思います。ですから、極端に精神主義的な宗教もまた敗北するのであります。一度は狂信的に盛んになることがあったとしても、やがては消滅して行くのであります。
 正しい宗教は、色心不二、心身一如、生死一如を説いて行かなければならないのであります。




第2章 人類の誕生

1.いつ人類は地球上誕生したのか

2.類人猿から人間に進化した証拠はない

3.魂の自覚こそ大事である

4.人類の誕生 天界の経綸





1.いつ人類は地球上に誕生したのか

 小学校を卒業した頃から、「人間はの何のために生まれてきたのか」ということを考え続けていた私は、昭和6年9月18日、柳条溝事件によって満州事変が始まり、鹿児島の歩兵第四十五連隊の一部が出兵するのを見て、やがてこの事変は拡大して第2次世界大戦になることを予感していました。「このままで行ったら、世界は収拾出来ない大混乱、大戦争になるであろう。もし、どうしても収拾出来ないということになった時に誰が一体この世界を治めたら良いのか、それはこの地球に一番最初に誕生した人類の中の中心者としての権威を持った尊い、血統を持った方の子孫でしかない。現存する世界の人類の中で、その貴い血統を継がれている方は誰であろうか。その前に、一体、いつ、人類はこの地球に誕生したのであろうか」
 こうして私の人類学、地質学、天文学、各国神話民族発生の歴史の等研究が始まったのでした。
 私の中学生の頃も、「人間は猿から進化した」と言うダーウィンの進化論が幅をきかせていました。しかし、私はそれを信ずることは出来ませんでした。ここで皆さんによく知っていただきたいのは、
ダーウィンは、「人間は猿から進化したのだ」と、確定的に断定的に言っているのではない。「進化したと想像される、予想される」と、多分に懐疑的な気持ちで言っているということです。ですから、良心的な大学教授の編集した社会化の教科書には「人類進化予想図」と書いてあるのでありますが、左翼の大学教授の編集した教科書には、確実に人間は猿から進化したのだと断定して、「人類進化図」と書いてあるのであります。そういうような、ダーウィンの進化論に反したことを教えている大学教授の説が、全国の小・中学校で「人間は猿から進化したのだ」と断定的に教えられているのですから、日本の若者が、「人間は猿から進化した」と信じているのも無理からぬことです。無神論者である大学教授や学校の教師が、「猿から進化した」と言うのは、無知ということで許せるとしても、神仏を信ずるという宗教家が、「猿から進化した」と信じ、且つ信者にそのように説いているのは不可解なことです。
 何が正しい信仰であり、何が間違った信仰であるかということで、日本の各宗教がその正邪を問われる時、最も根本的な問題として取り上げられなければならないのは、この、「人類をどう見るすか」という問題であります。





2. 類人猿から人間に進化した証拠はない

 谷口雅春著  「生命の謎」 
  第五章 「人間の生命は如何にして顕現したか」 の中より引用してみます。

 「人間の生命は如何にして生じて来たものであろうか。人間は宇宙心霊(神)の心の中に描かれたる最高理念の表現としての「理念」的存在であるのである。ところがこの哲学の最初に述べた通り宇宙の根源は唯一の大生命であるから、宇宙には一つとして無生物と言うのは無いのであって、原子も分子も、それが集合してできている所の物質も、それが鉱物であろうと無機物であろうとことごとく生きているのであって、生きていないものは一つもないのである。そして単純なる組織の結晶体と、生物との境であるような簡単な生物の生命から、極めて高級な生命体に至るまで、各種各段階の生物が存在するのである。・・・・・・・・・
 類人猿が、「人間」にまで進化する過程のその中間的連鎖を形成するところの、斬新的変化の各段階と思われる姿の生物は、地上に見いだすことは出来ないのである。類人猿と人間とは哺乳類であり、有背髄動物で有るということについては著しく似ているのではあるけれども、それらの根本的形態を除いては、余りにも類人猿と人間との間には徐々に形態が変化したとは言えないような著しいギャップがあるのである。そこに「人間」の生命が猿の生命と根本において「種」を異にするものであり、その「内在理念」を異にするものであると言わなければならないのである」
 類人猿から人間に進化したという証拠はこの世界に何もないということは、既に真面目な人類学者は皆に認めているのでありますが、谷口雅春総裁が書いていられる所の、類人猿と人間との著しいギャップは何かというと、肉体の構造と同時に心の面のギャップです。それは、「人間は、宗教、哲学、科学、芸術というような高等の精神作用をもつが、類人猿は、そのようなものを持たない。何らそのような高等の精神作用を持たない類人猿が、どのように進化したらそのような高等の精神作用を持つようになったのか、と言う精神、心、霊の問題についてはなんらダーウィンは説明をしていない」ということであります。進化論を信じている人たちの共通的な誤りは、類人猿と人間は姿形が似ているということだけを考えて、一番大事な精神、心、霊の問題を見逃し、見落としている点にあるのであります。
 「親に感謝しなさい」とか、「先祖の供養をしなさい」と説いている宗教家が、心とか霊の問題を考えずに、姿、形が似ているというだけで、安易に進化論を信じてしまっているのは、取り返しのつかない誤りなのであります。類人猿は死んだ仲間の霊を供養するとか、神仏に祈るというようなことはしません。また、歌を歌ったり絵を画いたりしませんし、人間が「何のために生きているのか」と考えるように「猿は何のために生きているのか」と考えるようなことはしません。
 この「人間とは何んであるか」という最も根本的な問題について、生長の家は正しいのであります。
 今から2500年前、インドのお釈迦様の時代に、一番お釈迦様が説かれた正法に近い教えを説かれたのは、アサンジヤという方であったわけですが、現在において、最も正法に近い教えが説かれているのは、「生長の家」であります。「生長の家」はいわば、「正法」を知るための予備校みたいなものだといえます。「生長の家」では、「人間は、神の世界から生まれてきた神の子である」と説いておりますが、
高橋信次先生も、「人間は神の子である。天孫降臨したのである」と説いていられます。
 世界各国の神話で、「人間は天孫降臨したのである」と言っているのは、日本の神話だけであり、日本書紀には、「天孫降臨以来、今に至るまで一百七十九萬二千四百七十余歳」と書かれてあります。地上への人類の誕生の年数を示したのも日本神話だけであります。

 ロンドンの歯科医チャールス・ドーソンは、ロンドン郊外のピルトダウンという村の後の崖から古代人類の物だという人骨を発掘し、この人骨は類人猿から人間に進化する中間の人骨で、ダーウィンの進化論も証拠づける唯一の資料であるとして、ロンドンの大英博物館に陳列されました。そうして人類学の本の1ページに、「ピルトダウン人」として書かれたのであります。ところがその後、英国の人類学者たちが、類人猿からどのようにして人間に進化したのか、そのリンクを研究したがどうしてもそのリンクが見つからない。そこで、ピルトダウン人に疑問を持って骨の成分の分析をしたのです。人間の骨と、類人猿の骨は、窒素の含有率が違うのです。調べた結果、 他の所は今から5万年位前の人間の骨であったが、下顎の骨は、今も生きている類人猿の物であって古く見せかけるために色づけまでしてあったニセモノであったということが分かったために、人類学の本にまで書かれた「ピルトダウン人」という名は消されて今はないのであります。このことが分かった当時、すでに、チャールス・ドーソンは死んでいた為に、どうしてこのようなイタズラをしたのかは永久に分からなくなったのであります。このことは終戦後まもなく、英国の人類学会で発表され、世界の人類学者を騒がせたのであります。
 日本の学者や宗教家で、人間は猿から進化したのだと信じている人たちは、ピルトダウン人が発見されたという時のニュースだけを信じて、これがニセモノであったという英国の人類学会の発表と、人類学の本の1ページから、ピルトダウン人の名が抹消されたことをご存知ないのかもわかりません。


 高橋信次先生は、「ダーウィンの進化論が正しいものであるならば、今も、類人猿は居るのであるから、類人猿から人間になりかけの中間の人間というものが、この世界にいなければならないが、そんなものは存在しない。」と言っておられました。

 ダーウィンは進化論が正しいとするのであったならば、「何故現在は類人猿から人間へと進化するのが停止されたのか」も研究して発表をしなければならなかったのであります。

 
ノーベル賞をもらったアレキシス・カレル博士は、「人間この未知なる物」という本の中で「我々は時としてある一部を法外に重大視して他を軽んずることがある。我々は人間の中に次の如き色々な部分を認めざるを得ない。――― 物理化学的、解剖学的、生理学的、心霊的、知能的、道徳的、芸術的、宗教的、経済的、社会的方面等々。多くの学者は自分の専門の為に歪められた、右の如き現象のいずれか一部だけを専心研究していながら、人間全体をしていると思い易い。しかも彼らの知っているは非常に微細な一部分にすぎないのである。我々はよくこれらの観察の中から我々に都合の良い物だけをとって他のものを忘れてしまう。」と警告していられるが、進化論を信じて、「人間は猿から進化した」と言っていられる人達は、人間をただ解剖学的、生理学的立場からのみ捉えているのであります。




3. 魂の自覚こそ大事である

 中・高校生300名の研修の時、私が、「人間は神の子である」と話したことに対して、約90%が、「人間は猿から進化したのである」と反論しました。
 「君達はそれは学校の先生から教えられたのであろう。君達は動物園に行って、猿に先生と言う事はまさかしないと思う。猿からは猿が生まれ、豚からは豚が生まれる。それが真理である。だったら、「わしの祖先は猿、わしは猿の子孫だ」という先生があったら、「先生」と言うのは、人間の中でも指導性を持って、人はこのように生きるべきであると言う事を先に生きて示す人に対する敬称であるから、「わしは猿の子孫の猿である」と言う人を、「先生」と敬称を付けて呼ぶな。「おい、サル」と呼べ。「サル」と呼ばれたら、その先生はきっと腹を立てられるだろう。その時は、「猿の子孫は猿だから「猿」と言った迄ですが、では、「サル」と呼ばれて何故腹が立つのですか」と質問しろ。先生は絶対に答えられない筈である。
 その時は君達が先生に教えてやれ。
 「サル」と呼ばれて腹が立つのは、「わしは、「サル」ではない。尊い人間であるという「魂の自覚」があるからです。自分で自分の事を、「私は馬鹿です」と言う人があっても、人から「お前は馬鹿か」と言われると腹が立つのは、「自分は馬鹿ではない」と言う魂の自覚があるからです。その魂の自覚こそ大事にしなければならないのである」と教えた事があります。
 学生たちが実行したかどうかは分かりませんが、多くの学者や宗教家たちが見落として気づいていないのは、この「魂の自覚」「人間性の尊厳の自覚」であります。このような自覚を忘れて、解剖学的、生理学的な立場からのみで、人間と類人猿と比較し、ごく一部の心理学的見方を加えて論じられているのは全く無駄な事です。「人間性の本質」は、人間が「神を思う心」を持っているという所にあるのであります。





4. 人類の誕生 天界の経輪

 日本書記には人類の誕生を「天孫降臨以来今に至るまで、一百七十九萬二千四百七十余歳」と書かれてあります。人類学では人類の誕生は第四紀、今から一百万年程前に始まったと言っております。世界の歴史書の中で、一百万年代の年数が書かれてあるのは日本しかない事から考えて、天孫降臨の地は日本ではないか、とすれば、やがて収拾できなくなった世界を統一する権能を持たされた血統と言えば天皇家ではないのか、当時、愛国精神が鼓吹された事もあって私は愛国青年となり、特に軍隊に入って将校として部下を教育する立場に立たされて益々天皇中心主義の国体というものを信ずるようになり、日支事変中は日本の必勝を信じ、八紘一宇の世界の実現を待望したものでしたが、大東亜戦争に突入して、ソロモン群島のニュージョージアでアメリカ軍と戦った頃(昭和18年7月)から日本の敗戦を信ずるようになり、昭和18年10月鹿児島の連隊附になって帰って来た時、「日本は負ける。終戦は近い」と言って憲兵隊から狙われたりしたものでした。小学校を卒業した頃から人類の誕生と世界の終局的な平和を考え続けて来た私にとって、昭和51年5月山形での高橋信次先生の講演は大きな驚きでありました。


新復活
 「人類は、緑に包まれた、しかも神の光に満たされた地球という環境に、今から3億6500有余年前、始めてベーター星よりこの地球上に着陸したのであります。
 当時、ベーター星は調和され、私達は新しい天地を求めて、もっとも調和されたこの地球を選んだのであります。
 その当時最初に反重力光子宇宙船というのに乗って、メシヤと、その直系の7人の光の天使を中心にして第1艇団6000人が、エジプトのナイル渓谷のエルカンターラに着陸したのであります。このエルカンターラが後に、エデンの園と言われたのであります。ベータ星の人間も、やはり地球上の人間と同じような肉体を持ち、気候風土環境も全てこの地球と同じでありました。
 肉体は人生行路を渡って行く為の霊の乗り物にしかすぎません。肉体と霊とは完全に分離することが出来ました。当時の人はその為にいつでも天上界と交流が出来、肉体にこだわる事なく、全てが調和された世界でありました。
 そのようなエデンの園にやがて第2艇団が移住して来ました。その時すでに新のメシヤは天上界に帰りました。これが天上界地球上の創世記であります。
 第二艇団が着陸するようになって、その頃、律法を犯す人達が出て来ました。その為律法を犯した人達は、エルカンターラから移されて
 「そなた達は神の子であることを再確認して、もう一度、思念と行為を修正して来なさい」と言われたのであります。
 その人々が、そののちエデンの園との連絡を絶ち、遂に天上界に帰る事なく地獄界をつくり出したのであります。
 それまでは地獄界は存在しなかったのです。このことが後に、アダムとエバの物語に変わって行ったのであります。
 その為には、現在伝えられている創世紀とは違っていますが、わたくしは直接天上界へ行って、この事を見て来たのであります。皆さんはわたくしが何故3億6000数百年前のことがわかるのかと、疑問に思われるでしょう。疑問を持つ必要などないのです。
過去、現在、未来は、今の一点なり。皆さんの心の中には、永い永い転生輪廻の記録が全てあるのであります。皆さんの今の状態は、皆さんの過去、現在、未来の(すがた)が集約されたのが今の(すがた)なのです。ただ、肉体を持ってしまった為に、それが判らなくなってしまっただけなのです。心を正し真の神の子としての生活を正しくして行ったならば、その事を良く知る事が出来るのです。皆さんの心の中には偉大なる智慧があるのです。それが肉体に囚われ、物に囚われして心に曇りをつくり判らなくなってしまったのです。
 肉体によってとらえられる時間空間は不確定です。しかし、心によってとらえられる過去、現在、未来は、今の一点であります。
 平和であったエデンの園は、物質にとらわれた一部の人々によって乱されてしまったのです。メシヤが去った後、七大天使も多くの遺産を地上に残し、後に残った人達がその遺産をどのように活用するか、暖かく見守って来ました。
 しかし、物に溺れ情欲に溺れた人達を救済するために、天上界からルシュフェルという天使を地上界に出しました。ところが天使と言えども肉体を持つと、肉体にとらわれ物に溺れ、本性を忘れて地位名誉の虜となり、遂に天上界との交信を絶ち、この世を去る時、天上界へ帰ることなく地獄界に帰ってしまったのです。それがサタンであり、今地獄の帝王になっております。これが最初の地獄界の実体です。こうして光の天使達は地上界の動きを観察し、神の子に戻す為に多くの光の天使を地上に送りました。真のメシヤは後に、アガシャという方を送ります。さらにカンターレという方を送ります。この方がのちのゴーダマ・ブッタです。アガシャは後のイエス・キリストです。モーセは、モーセです。
 ガブリエルという方は、正法を正しく伝達することを使命とされる方ですが、ゴーダマ・ブッタが生まれる時には、このガブリエルのグループの方が、ゴーダマの両親に告げます。アシタバという仙人です。アガシャであるインマニエル・キリストにはまた受胎の告知に出てゆきます。モーセが葦船に乗せられて流されるから七大天使達は天上界からモーセの成長を援助します。
 それぞれこのようにしてメシヤというのを送り出したのですが、これは全て神の法を説く為に出されたのです。モーセの時代は人を殺す事を何とも思っていない時代でした。その為にモーセを出して社会の人心を正しくしなければならないということになったのであります。この時真のメシヤは「ヤーヴェ」「エホバ」という名でモーセを指導したのです。それが「十戒」です。また、エルヒムという光の天使をだして色々に現証を起こさせました。エルヒムと名乗るのは、ほとんど七大天使です。それは真のメシヤの命令に従って役割を果たすのです。
 ヤーヴェ、エホバの教えはいつの間にかサタンの喰い物になり、今から3150年前、モーセは色々な霊能に
眩惑(げんわく)されて遂に偶像をつくって祭り、山羊や羊の生き血を供えるようになったのです。それはサタンの命によって動かされてしまったのです。ヤーヴェはそのような事は一つも言っておりません。モーセは主の御名を唱えながらサタンに利用されてしまったのです。モーセが亡くなって200年のち、乱れた世の中を正しくする為に光の天使が下されました。それがエリアです。今から2873年前、イスラエルの北部に農夫の子と生まれさせ、ヤーヴェは天上界からいろいろな指示を与え、当時のイスラエルの間違った信仰を改めさせました。しかしそれでも改まらなかった為に、アガシャである所のインマニエル・キリストを出しことになったのであります。この時ヤーヴェでなくて、エホバと名乗って指導したのです。これは間違ったユダヤ教を修正する為だったのです。しかしインマニエルもまたサタンの餌食となって十字架にかかってしまいました。一方、今から3500年前、ギリシャにおいて説かれたアポロの教えは、やがて東の国インドに伝わって行くであろうと予言されてそれはゴーダマ・ブッタの教えとして、天上界でカンターレといわれている方がインドに生まれて説かれたのである。ところがその仏教も今のように堕落してしまったのです。・・・・・・」

 本人が永い間、信じてきた天孫降臨の神話と、高橋信次先生のこの「新復活」そこに表されている年代の相違、それをどのように結びつけて解釈すればいいのか、また関係はないのか、私にはまだ成案(せいあん)はない。人類誕生の年代がいつであろうとその事はいずれ明らかにされるまで待つとして、私は人間は神のことして地球上に出現したものであることは信じるし、人類救済のためのメシヤと光の天使達の出現の系譜はこれもいずれ明らかにされるであろう。また高橋信次先生の言葉「ジャブドーバー」にあるように、この日本という国が持たされている役割も信じます。それは戦前に教えられたような神国日本というものでなく、今後の世界平和実現の為に持たされている日本の使命役割であります。
 世界の指導者たちは、世界平和の終局的原理はお釈迦様が説かれた正法以外にないことを知っております。日本が正法国家になる日が早ければ早いだけ、世界が平和になる日も近いと思います。がそれだけに正法伝道の使命も大きいと思うのであります。

170万年前の元謀原人−火を持っていた (1978.11.2-読売新聞)


 

 今から170万年前中国雲南省都、毘明市北西の元謀県に居住していた「元謀原人」は、すでに火の使用を知っていたようだ。元謀原人とは、1965年雲南省都元謀県内で発見された化石から存在が判明した原人で、調査の結果、北京原人が生きていた約40万年前をはるかに上廻り、約170万年前に、存在していた事がわかった。雑誌「文物」によると、元謀原人の化石が発見された所からは、加工した跡のある石器、動物の骨片のほか、燃えかす、()げた骨も発見され、同誌は「元謀原人が火を使った可能性は否定できないものとみている。」と結論付けている。
 北京原人が発見された北京郊外の周辺遺跡跡には、北京原人が火を使った痕跡が残されおり、北京原人が火の利用法を知っていた事は定説になっているが、それよりも百数十万年も前に原人が火の利用法を知っていたと言う説は初めてのものであり、人類の起源と進歩についての問題に、新しい発見をもたらしたものとして注目をされる。

 これまでの日本の学者、教師達は、縄文、弥生時代のその前は、チンパンジーやゴリラであったのだと思わせるような教え方をしてきた。世界の歴史書の中で、何故日本だけに、「天孫降臨以来一百七十九万二千四百七十余歳」という記録があるのかということを追求しようとする学者は一人もいなかった。
 元謀原人が170万年ということであれば、日本書紀に書かれている「一百七十九万二千四百七十余歳」も、これまで左翼の学者が否定してきたように荒唐無稽ではない、もっと研究の余地があるという事になります。
 人類学的に北京原人やジャワ原人のすぐその前は類人猿であったように説明してきた事も修正されなければなりません。
 それまで学問的に定説だと信じられてきたものが、新しい発明発見によってくがえされるというのが科学の世界であり、その意味において、高橋信次先生が、人類の誕生を「3億6500年」と言われた事も、ただちに否定する訳にゆかないのであり、どうしてそういう年数が出てきたのか、これからの研究に待たなければならないのであります。
 私達が大事にしなければならないのは、目で見た肉体の形によって、「人間とは何か」を規定することではなくて、人間が共通的に持っている「心の自覚」「魂の自覚」なのであります。人間が人間たる所以、人間が動物と違うのは、この「心の自覚」「魂の自覚」であります。
 正法誌で「人類の誕生」を取り上げた時に、これまでの人類学、進化論の定説を
(くつがえ)すような発表を中国がしたということは、全く願ってもないことでした。

 左翼の学者の中には、日本書紀は日本の歴史を永く見せる為に作為的に書かれた物であると言う人がありますが、日本書紀編さんのあり方から考えて、書記は日本に残されていた古記録を集大成しようとしたもので、肥前風土記、豊後風土記に書かれてある文章がそのまま書紀に載せられてあり、「一書に曰く」と本文と違う事までかかれてある所から考えて作為的に書かれた物でないことは大方の学者の主張する所であり、我々は、我々の先祖が日本の建国を 「天孫降臨以来一百七十九万二千四百七十余歳」 と、実に細かい年数まで数えて永い間伝えて来たのには、それだけの根拠があったのだと、素直に考える方が正しいと思うのであります。まして、「一百七十九万二千四百七十余歳」 と言うのが間違っているという理由は誰も発表していないのでありますから、「その様に伝えて来たのには、伝えて来るだけの何か根拠があったのだ。」と言う風に考える事が正しいと思うのであります。それで、世界が収拾出来ない大混乱に陥った時に、最終的にそれを収拾される所の権威を持っておられるのは、日本天皇を
()いて外にはないと考えて、小谷部源一郎著「日本民族の起源」(日本民族とユダヤ民族は元々同一民族であった)には特に関心を持ち、今は世界各国の民族は色々に分かれていても、この地球上に一番最初に現われた人間は、元は一つであったはずである。その最初の首長が日本天皇のご先祖であったから「現人神」と唱えられるようになったのかも知れない。そうなれば世界はやがて日本天皇に帰一すべき時が来るに違いないとそのように考えて、私はこの日本と言う国を誰よりもこよなく愛して古神道も学び日本民族の伝統を正しく保持し伝えて行こうと努力して来たのでありました。日本が敗戦になり、天皇陛下が「人間宣言」をなされても、我々の祖先がこの日本国は、「天孫降臨以来このかたに至るまで一百七十九万二千四百七十余歳」と伝えて来た、世界の歴史の中で、一番古い記録を持つこの国を、益々立派な国にしたいと思いこそすれ、大部分の学者や知識人達が言ったように、「この日本は愛する価値がない」と思った事は一度もなく、むしろ「愛する価値のある国である。」事を強調して来ました。
 一貫して、この日本の国は愛すべきである事を強調して来て、昭和48年3月(1973年)、高橋信次先生に帰依し、「ジャブドーバー」を読んだ時、自分がこの国を愛さなければならないと思い続け、また実際そのような運動をして来たのは、今日、この日本において、正しく正法が説かれ、そこから正法が全世界に広がる為にやらされていたのであったのかと、感銘を深くしたのでありました。
 人類学で、ジャワ原人、北京原人は40〜50年前人類猿と同じような生活をしたと言っているのに比べて、この日本という国は、今から約百七十万年前、天上界から天下ってきた神の子によって建国されたのであると伝えて来ている事を、皆さんはどのような気持ちで、どちらを選ばれるでしょうか。中国雲南省から、今から百七十年前の、火を使っていた知性のある人間の化石が発掘されたというのです。この事からして、地球への人類の誕生はもっと遡ってよいと考えられませんか。日本書紀に、世界で一番古い任類発生の年数が書かれてある事は大事にしなければならないと考え続けて来た私にとって、高橋信次先生が「人類は今から三億六千五百年前に、他の天体からこの地球に、天孫降臨して来たのである。」と言われたことは、新たな驚きでありました。その瞬間、私の心の中に思い浮かんで来たのは、高橋先生が、私達だけ十人の特別研修の時、「この宇宙には七つの霊圏があり、この地球を中心とした霊圏を指導しているのがアガシャ系であり、今、このアガシャ系が一番早い速度で霊的に進歩しつつある。」と言われた事であります。「天と地を結ぶ電話」という生長の家が出版している本の中に、
「宇宙には七つの霊圏がある。」と書かれてあります。私が初めて高橋先生にお逢いした時、「園頭さんあなたはアガシャ・テンプルを知っているでしょう。あのリチャード・ゼナーにいろいろ教えた光の指導霊というのは、我々と同じ仲間ですよ。」と言われたのです。この事で何故私が外の人よりも強く、「天と地とを結ぶ電話」に書かれてあることが正しいと思ったかがわかったのでした。
 この本の中には、日本が原子爆弾の為に負ける事も予言してあるし、また、未来のこれから実現してゆく事件がかかれてありますから、読んで下されば一段と正法が良くわかり、正法を実践して行かれる事に自身を持つ事が出来るでしょうし、正法と他の従来の宗教団体が教えている事との違いがはっきりとわからられると思います。
 この本の「指導霊とは誰か」という所に、「これらの霊的指導霊達の中には、アモンと呼ばれる偉大なる先達の霊もいる。またこのグループにクラリオと呼ばれる者も居た。クラリオという人は、それから五千年後にイエスと呼ばれる偉大なる大指導者としてパレスチナ、エジプト地方に生まれた。」「アガシャはナイル渓谷において、当時の争っていた国々をまとめて一種の国際連合をつくり、普遍的原理によって神権政治をしたのである」と。高橋信次先生が言われた事と同じ事が書いてあるのであります。
 私が誰よりも早く、高橋信次先生の偉大さがわかり、説かれることを早く理解できたのは、高橋先生にお逢いする前に、「天と地とを結ぶ電話」を読んでいたからであると言えます。高橋信次先生が説かれた事と、「天と地とを結ぶ電話」に書かれてあることを比較して読んで見て下さい。
 
正法というものは、この地球上だけのものではなくて、宇宙の中の他の霊圏においても正しいとされ、神の子である人間がこれをもって、実践の基準としなければならないものなのです。
 他の霊圏もこの地球と同じように、神の法を説かれる如来即ちメシアがあって、菩薩界、神界、霊界、幽界があるのであって、それぞれに、神の自己実現の為の神の子としての精進を続けているのです。
 昨年は漫画にも「釈迦物語」が書かれ、心霊的な事も書かれ、UFOへの関心も高まってピンク・レディーが「UFO」という歌を歌い、「宇宙戦艦ヤマト」という漫画映画が大人気を呼び、宇宙連合という言葉が普段に使われるようになり、他の天体にも人間が居るのではと常識的にも考えられるようになって来ました。
 知らず知らずのうちに、意識するとしないとに拘わらず、世の中は物質文明の時代から霊的文明に時代へと移りつつあります。霊的文明の時代に移ってゆくことは、高橋信次先生も言われていましたが、「天と地をと結ぶ電話」にも書かれています。明治維新以来、歴代の総理大臣の中で、「文化と宗教による国の建設」と言う事を言われたのは、今度の大平正芳総理大臣が初めてでしょう。
 神の経綸による宇宙連合が着々として実現に向かいつつあり、他の霊圏の大指導霊が高橋信次先生に「地球が一番進歩している。」と通信があったと言われていました。
 アガシャといわれる光の大指導霊が、リチャード・ゼナーを通して霊界通信をされたのは、これまで誤り伝えられたキリスト教を原点に返す為でもあります。アメリカは世界の指導国家でありますから、アメリカで「キリスト教の原点はこのようである」と説かれれば、全世界に大きく影響してゆきます。私達は、やがて来るべき地上天国実現の為に正法を実践しつつあるのです。ですから、私達のこの正法伝道の活動には、天上界からの協力がなされれるのであります。





第3章 神

1.神とは何であるか 
2.神の原理 
3.神について その@ 
4.神について そのA




1.神とは何であるか

 神とは何であるか。と言う事は「人間とは何であるか。」ということと同じように、正しく信仰しようという人達が、一番最初に解明してかからなければならない事であるのに、この二つの事があやふやなままで信仰している所に日本人の信仰の欠陥があるのです。これでは基礎工事をしっかりせず建物を建てるようなものですから、そのような信仰は、いつもどこか不安定な心があることになります。信仰しようとする人が「神とは何であるか」と言う事を十分に知ろうとしなかったと言う事は仕方のなかった事として許せるとしても、一番不可解な事は、教祖自身またそれに続く宗教指導者たちが、「神とはなんぞや」と言う事をなおざりにしたまま信仰を説いている所に最大の罪があると思います。
 キリスト教は一神教で、神とは宇宙創造の神のみであるとはっきりしていますが、佛教は無神論、無霊魂論の立場をとっています。仏教大学ではその様に教えています。果たしてそうなのか、この点は後で詳しく論ずる事に致します。
 神道は宇宙創造の神を説くと同時に八百万の神といって色々沢山の神様の名前が出てきます。山の神、水の神、土地の神、草木の神、雲の神また神社の神等々。新興宗教、民間信仰に至ってはこれまた沢山の神々の名前が出てきます。最近は一つの新興宗教の教祖が亡くなると、皆神の名を付けるのが流行のようです。
 本来、神でないものを神として信ずる事は、信じているその人はそれで正しいと思っていても、ただ正しく信仰していると自己満足、自己陶酔していることだけの事であってそれはやはり根本的には正しくないのです。それは丁度、ニセモノの絵をつかまされてホンモノだと思っている事と同じです。ニセモノの絵などをつかませる人は詐欺罪という事になるのに、宗教の世界においては、ニセモノの神をつかませて、それで尚、有難がられているので不思議なものです。
 日常の世界では、後でニセモノだと判ったら返品するなり弁償しろという事になって問題になるのに、宗教の世界では、ニセモノの神をつかませた人は平気でいて、つかまされた信者だけがいつも被害者として泣き寝入りしているという状態です。何か一つ物を買うという時でも、色々吟味する人達が、いざ信仰という事になると、「良く効く神様だ」と言われて何の吟味もせずに飛びつくという事もおかしい事で、その点、日本人ほど信仰について無関心、無節操な民族もいないと思いますが、また一面において、そうであったからこそヨーロッパにおけるような惨酷な宗教戦争がなかったのだとも言えます。またそうであるだけに「本当の神とは何であるか」という事が解かればまたそう大して混乱なく正しい信仰に変える事が出来ると言う事になります。





2.神の原理

 神と人間については、昔から難しく考えてきました。神の問題に関しては、洋の東西を問わず色々宗教議論が交わされて来ましたが、科学が高度に発達して来た今日においては、容易にその解明が出来るようになりました。


一体神とは何であるか。・・・・・・


 その一の神とは、

 大宇宙の意識こそ、大宇宙体の支配者であり、「大宇宙大神霊」であり、万物に慈悲を与えている絶対の「神」であります。それがエネルギーの根本であり、その生命は知識と智慧と正義を含む慈悲と愛の姿であります。
 太陽系は大宇宙体の小さな諸器官であり、地球は細胞の一体にしか過ぎないのです。私達の人体も、多数の小さな細胞の集団によって五体を構成し、各諸器官は人体機構を維持する為の使命を持っており、神の慈悲によって環境と熱と光のエネルギーを含む万物が、相互関係を保って肉体保存に協力しているのです。そうしてその五体を、自分自身の意識が支配しているのです。大宇宙の意識は宇宙全体を創造し、宇宙全体を今も支配しており、私達の意識は五体全体を支配し、また大宇宙の意識に通じているのです。このようにして私達は大宇宙の神に生かされているのありますから、神が私たちに与えられた慈悲と愛に感謝し、報恩の心を持たなくてはならないのです。


 その二の神とは
 
 現人神としてこの世に肉体を持って、大自然大宇宙生命本体の神の意識、心に通じ、私達に人間としての生命活動を続けて行く為の真理を教え、自我我欲を捨て自ら多くの衆生に慈悲と愛を教えたその徳を讃えて神と仰いだのです。
 現人神は、大神霊と表裏一体であり、神よりの使者です。現象界の人々や、次元の異なった世界の魂に安らぎを与えてくださる、如来(上段階光の大指導霊)、菩薩(上段階光の指導霊)もそうです。その現人神が、実在界と現象界に通じ、私達に生命の進路を教え導いて下さるのです。その教理が宇宙の真理と違う所がないので、私達は大自然生命本体即ち大神霊を見た事がないのに神を信ずるようになったのです。私達の心即ち意識は、自身全体を支配していますが、その心即ち意識を見る事が出来ないのと同じように、宇宙体の意識も現象界の人々は見る事が出来ません。実在界でも、上段階光の大指導霊以外の方でなくては実体を拝する事は出来ないのです。このように現人神(神と表裏一体の意識)の聖徳が大衆を救い、神と私達の心(意識)との調和を助けて下さる光の天使であるので、現人神と尊ばれ崇拝されているのです。
 神は神でも、私達の人の
(かみ)であり、神の使者として崇拝すべきであります。実在界の光の天使には、きびしい意識の段階があり、意識は霊子によって構成され、神と調和し、光子の体を持っておられます。意識の段階は、霊の修行によって、その体から出る光の量によって区分されるのです。キリスト教では光の天使と言っており、仏教では如来、菩薩と言っています。名称は違っていても、実在の世界においては同じなのです。
 また、古事記や日本書紀によりますと、神々の御徳継いだ天照大神が慈悲寛大の聖徳を実現し、続いて神々がその聖徳を体得されて、その努力によって人類を幸福に導き、日本を完成されたと言う事になっています。従ってその聖徳を宇宙根本の神として祀ったのです。
 中国においては、孔子が現われ、
(ぎょう)(しゅん)(う)、湯、文、武、周、公の聖人が、天道に従って仁政を施し、人類を幸福に導いたという事で、これらの聖人の事績を讃えたのです。
 孔子は、人類の安心立命、幸福な方法を説き、自我を捨て、天道に従い、人心開発に一生を捧げました。この至誠が後世の人々を感動させたのであり、天道の存在と同時に、また、これらの古聖人の高徳を否認する者が居ないのです。釈迦、キリスト、モーゼも、歴史的に時代の差こそあれ、慈悲、愛をもって大自然生命本体の教理を伝え、人類を救済する為に努力されたのです。またソクラテスは、終身、真我の一念を持って人類も幸福の為に尽くしましたが、人間のつくった不自然な悪法律によって死刑に処せられたのです。
 キリストも十歳の時、実在界に呼ばれ、現象界の邪法また悪魔に悩まされている人類を救う事を神より命ぜられアガシャ大王、モーゼ、釈迦の、上段階光の大指導霊の前に出て、人類救済の使命を与えられたのです。その使命を実現する為にイスラエルに父ヨセフ、母マリアの子供として誕生せられたのです。そうして永い苦しい修行の中から大宇宙生命に通じ、多くの迷える人々や病める衆生を救い、愛を持って真理を説かれたのです。即ち正法を持って民衆を、休む暇もなく救われましたが、異教徒の迫害に合い、遂に十字架に掛けられましたが、十字架に掛けられている自分の姿を実在界から見られ、残した仕事を完遂するために復活せられ、弟子達に正法を説かれたのです。
 以上述べました諸聖人は、大自然生命本体大神霊の意識を持って人間として肉体を持ち、自我我欲を捨て真理、真意を悟って多くの衆生を正法によって導いて来られたのです。神話などは、その時代の衆生に、神の存在を信じさせる為に、国々によって、また衆生の基根によって創られたのです。聖人の説かれた真理とその事跡は、全て知徳一体であり、信仰は当然、智慧、正義、慈悲、愛を持って神と調和するという以外に無いのです。物質中心の唯物的な考え方では、自分の心が常に不調和なままなのです。

その三の神とは、

 一般の動物霊です。現世において犬や猫を飼うのと同じように、実在界では、使い姫として動物を使う場合があります。その為に狐、竜等の動物霊を崇拝する場合があります。一般動物霊を神々の
眷属(けんぞく)として崇めたものでありますが、やはり動物は自分の本性を人間に見せたくない為に、色々な霊的現象、主として菩薩の姿を見せる場合が多いのです。その為に神々の声と間違えて、神のお告げがあったとして自分が悟ったような錯覚を起こす者があり、遂に動物霊に支配される結果となるのです。
 動物霊は、神の眷属として使い姫である事を忘れてはならないので、動物霊を我々人間が神として信仰の対象としてはならないのです。しかし商売等で稲荷を信仰する場合は、この眷族が手伝ってくれますが、必ず稲荷大明神(主として菩薩)に厚く心から礼を申してお返しする事を忘れてはなりません。稲荷大明神は五穀の神として祀ったものです。
 私達の魂は、他の動物霊よりも上段階に居る事を悟って、人間としての本性を忘れてはならないので、自我我欲、自己保存の為にこのような信仰に入ると、自分自体の意識が動物の本性に通ずるので、真の正法を得て信仰しないと危険なのです。神の意識と自分の意識が調和されれば、光の保護を与えられて、動物霊に支配される事はありません。
 このように神と私達の関係は洋の東西を問わず、信仰の一念で結ばれて来たのです。しかし、歴史の変転に従って正法も後世の人々の智と意により、仏教は哲学化し、キリスト教は新旧その他に分離して、真の正法は慈悲と愛と調和を失いつつあります。時代の基根に合わせて正法が説かれて来たのですが、仏教は哲学化されて難しくされた為に民衆からかけ離れたものとなり、また、寺を維持する為のものとなって遠のき、現象界は乱れて闘争から闘争で明け暮れるようになり、心に安らぎがなくなってきました。死者の霊も地獄界をうろうろしていて、現象界の暗い想念を持っている人に憑依したりして病気の原因となったり、社会が混乱する一つの原因となったりしています。
 
釈迦は涅槃に入る時、「私の説いた仏教は、インドから中国に渡り、日いづる国に渡る。五の五百歳の後(二千五百年後)に、この仏教も法の力を失う。それが末法である。その時は正法が人々によって説き方が変わり、哲学と化し衆生を救う事が出来ない。世の末法となった時、私は、他の仏弟子達と共に再び現象界に肉体を持ち、再び正法を明らかにして衆生を救うのだ。」と弟子達と約束をされました。
 富士山は今は狐の巣と化し、天下の霊峰、富士も泣いています。動物霊が変化し菩薩の姿を見せると、恰も自分達が悟ったかの如く錯覚を起こし、すっかり動物霊に支配されてしまうのであります。動物霊に憑かれて、如何に先祖供養しても幸福は得られず、地獄に落ち、死後は皆人間が狐の姿になっているのであります。滝に打たれて修行して、如何に法華経がわかった様な事を言っていても、自我が欲が有ればその本性は動物霊を呼び込む結果になるのであります。偶像崇拝も又間違いであります。大宇宙生命本体大神霊こそが本尊とすべき真の正しい神なのであって、釈迦、キリスト、大日如来、阿弥陀如来、いわんや日蓮上人までもご本尊と考える事は誤りなのであり、仏教も釈迦以来二千五百年を経って、釈迦が説かれた事と変わったものであります。如来、菩薩は、神と表裏一体の神の使いであり、光の天使であり、過去における聖者かれてたものは真意であり、真理なのであります。これらの聖者は大自然生命本体大神霊に通じていて、一般衆生を救う使命を持って現象界に肉体を現した上段階光の大指導霊(如来)であります。大神霊の加護によって、上段階光の指導霊や光の天使が現象界に現われ、多くの奇跡によって迷える人々を救済し、慈悲と愛による調和の取れた社会を創る事に一生を捧げたのであります。これらの如来(上段階光の大指導霊)、菩薩(上段階光の指導霊)は、神の心を人々に伝える現神であり、また、人々の心を神に伝える現神であり、人々は何かを祈る場合はその前に、大神霊を拝してから如来、菩薩に調和をより良くお願いすべきであります。





3.神−@


人生は、神より生まれた神の子である人間が、永い転生輪廻を経てまた神に帰る旅であり、釈迦、キリストといわれる方は、我々より永い転生輪廻の中で良い事のみをし続けてこられた、宇宙創造の神のみ心を知っておられる方なのであります。
 釈迦は人の子として生まれて、我々と同じような人間的な苦しみを経験されて、やがて悟られた方であるから親しみが持てるが、キリストは神の子であるからどうしても親しみが持てない、と言っている宗教家、宗教学者がありますが、キリストも同じく人の子として生まれて、いろいろな経験の中から悟られたのであって、キリストは神の一人子であり、我々はアダムとイブの原罪を持っている罪の子であると言って、キリストと我々の間に超える事の出来ない垣根を造り、キリストの御名を崇める事によってのみ救われると説いたのはキリストの弟子達であり、特にパウロがそれを強調しました。それで現在のキリスト教はパウロ教であって本当のキリスト教ではないと言われるのであります。仏教も原点に帰らなければいけませんが、キリスト教も、今のままのキリスト教では人を救う事は出来ません。キリストの原点に帰らないといけません。「原点に帰れ」という言葉が数年前から使われるようになりましたが、またアメリカで「ルーツ」という、アメリカの黒人が、自分の先祖をたずねてアフリカを探すという、いわゆる「先祖探し」という本がベストセラーになり、日本でもテレビで放送されたりしてから急に日本でも「先祖探し」が盛んになり、あなたの先祖はここから出たのです、という「姓氏の起源」という本が出されたりして、「家紋」を付けるという事が流行するようになりました。
 世界中の人達が知らず知らずのうちに「先祖探し」をするようになったその「先祖探し」の心は、やがて、「人類の起源」へ、そうして、一切の創造の根源であるところの「宇宙創造の神」へと高められて行かずには置かないでしょう。私が「人間はどこから生まれたのか」ということを考え出した少年の頃、私も自分の先祖は誰であったのか、どこにいたのか、「園頭」という姓は全国どこにもない、ただ鹿児島県の東市来町という所にだけある姓であるが、と自分の「ルーツ」を考え、そうして、日本民族の起源、人類の起源、神へと考えを深めて来ました。だから皆さんの子供さん達にも、是非このような考え方の方向付けをして下さい。それが皆さんの子供さんの人間性を豊かにする根本になります。
 さてこのようにして、全てのものの存在の起源を、世界中の心ある人々が考えるようになったということがこの世界が、物質中心の文明から霊的中心の文明へと変わりつつある何よりの証拠なのです。時の前兆なのです。



 神・・・お釈迦様は次のように悟られました。

「この大宇宙は神によってつくられた。
大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。
神は、その意識の中で意志を持たれた。
大宇宙の創造は、神の意志によってはじまった。
意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。
意識界の宇宙はその意志をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。
神の意識は、永遠の調和をめざし、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。
人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産声をあげた。
人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。
そうして、神の意志である調和をめざす神の子として、物質界に降り立ったのである。物質界に降り立った最初の人間を、地上の眼でみるならば、大地の一隅に、忽然と物質化されたといえるだろう。
人間以外の動物、植物、鉱物も、こうしたプロセスを経て、大地に姿を現した。
こうして、あらゆる生命物質は、意識界(実在界)と現象界(地上)の間を、輪廻することになった。
地球に生物が住むようになったのは、今から数億年も前である。最初の生物は、太陽の熱・光と、大地と、海水と、空気と、それに意識界と表裏一体の宇宙空間の、相互作用によって、地上に現われた。微生物の誕生である。
続いて植物が発生し、動物が姿をみはじめた。
やがて爬虫類時代を迎え、一時期、地上は
荒寥(こうりょう)とした姿に変貌をとげる。恐竜の時代も下火になった今から二億年前に、人類は、特殊な乗り物に乗って、他の天体から飛来した。
当時の移住者は、かなりの数にのぼった。
人類は、神の意志にもとずいて、調和という仏国土をつくりはじめた。
当時の人類は、荒寥たる地上を開墾し、人類が住める環境として神がつくられた大地に、動物、植物の、相互依存のしやすい調和をつくることが目的であった。
人類は栄えた。動物、植物もすくすくと育った。
人々の年齢は、五百歳、千歳の長命を保った。
人類の数は増えていった。子孫が子孫を生み、人々の転生輪廻が、地球という場において、回転をはじめたのである。
人々は次元の異なる意識界と自由に交流ができた。
文明は高度に発達した。
人間は自由に空を駆けめぐり、地下にも大都市をつくった。
しかしやがてその文明も終焉を迎える時がやってきた。
人々の間に、自我が生まれ、国境がつくられ、争いがはじまったからである。
人々の不調和、暗い想念の曇りは偉大な神の光をさえぎった。その結果、大地は怒り、黒雲は天を
(おお)った。至るところで火山が爆発し、陸は海に、海は陸になった。
ホンのひと握りの心ある人々を残して、人類は土中に、海中に、消えていった。
こうして人類は、栄えては滅び、滅びては栄えた。
天変地異は、人類がこの地上に住みつくようになってから、何回となく繰り返されてきたものである。
天変地異は、自然現象ではない。人類が住みつくようになってから、この地上で、神が有する創造の権能を、人類が行使し、人類の心と行為がつくり出したものであった。
人類の地上での目的と使命は、二億年前も現代も変わらない。
それは神の意志である調和という仏国土を建設するために人類は存在し、人々の魂はそうした建設を通して、永遠の進化をめざすものであったのである。
人間は小宇宙を形成している。小宇宙とは大宇宙の縮図である。大宇宙に展開する無数の星々は、人間の肉体を形作っている光の数(細胞数)とほぼ同数である。太陽系は太陽を中心に九つの星々(惑星)と三万数千個の小惑星郡をしたがえ、太陽の周りを循環している。極小の世界(素粒子)も、中心となる核とその周囲に陰外電子がまわっている。太陽系という宇宙も、極小の世界と同じように、一つの法則のもとに循環し、生かされ、生きている。
人間の肉体は、そうした極小の光が集まって集団を構成し、体を成している。これらの集団は、脳、心臓、肝臓、膵臓、胃、腸などを形成し、これはそのまま太陽であり、九つの星々(水星、金星、地球、火星、木星、土星、など)を意味し、さらには、大宇宙に展開する多くの太陽系の、それぞれの個性を持った集団郡と同じようにつくられているのである。
人間は肉体のほかに心(意識、あるいは魂)を持っている。その心は、肉体という
(ころも)衣を通して、物質界、現象界に調和をもたらすことを目的とする反面、大宇宙の心に同通し、それぞれの役割に応じた使命を担っている、生き通しの意識である。
肉体は仮の宿にすぎない。物質と非物質の世界は、交互に循環することによって、調和という運動形態を永遠に持続するためにあり、このため、肉体という物質は時が経てば、物質的形態を変えた世界に戻らなければならないからである。
しかし、人間の意識、心、魂は、物質、非物質に左右されず、永遠に、その姿を変えることはない。
このように人間の意識は、神の意識に通じながら、物質という現象界と、非物質の意識界を循環し、個の意識である魂を持って、生き続けているのである。
神の子とのしての人間が、現象界において何故に悪をつくり出したか、不幸をどうして生み出したか。
それは肉体の自分が自分であると思うようになり、肉体にまつわる諸々の考え方が、本来、自由自在な心を、肉体の中に閉じこめてしまったためにほかならない。
全能の神が人間の不幸を予測できないはずはないと誰しも考えよう。不幸を事前に、どうして防げないかと。では人間の親子がしばしばちがった方向にどうして歩んでしまうのだろう。子供は成人すると親の自由にならない。子は子としての人格と主体性を持っているからである。神と人間もこれと同じで、主体性をもつ人間を自由には出来ない。自由に行使できる者は、神の子である人間自身であるからである。
神は調和という中道の中で、厳然と生命の火を燃やしている。人間が、その自由の権能をみだりに使い、中道に反した創造行為をすれば、その分量だけ、反作用が伴うよう仕組んでいるのである。そうすることによって、神と人間の絆が保たれ、調和という永遠の目標に向かうように計画されている。人間の魂が肉体に宿ると五官にふりまわされる。五官とは眼、耳、鼻、舌、身の五つである。この五官に、魂・意識が幻惑される。美しいものを見ると欲しいと思う。気持ちの良い香りには心がひかれる。自分の都合の良い話には、つい乗ってしまう。舌触りのよい物は食べすぎてしまう。苦役より楽な方に身を置きたい。肉体五官はこのように、人の心を動かして行く。
五官が働かなければ肉体維持はむずかしくなる。さりとて、五官に心を奪われると欲望がつのってくる。欲望の源は五官にふりまわされる心の動きにあったわけである。諸々の欲望、争い、不調和、悪の根源は、五官に心を奪われる六根という煩悩にあった。
さまざまな不幸は、肉体にまつわるこうした心の動き、カルパー(業)の想念行為によって生み出されていった。
業は執着である。執着は五官から生ずる肉体的想念が、魂に根を張ることによって作り出されて行く。地位、名誉、金、情欲、その他さまざまな欲望が、人間の神性仏性を侵して行く。
こうして人間は、その意識を、あの世と現象界であるこの世を循環するたびに、その業を修正して行く者もあるが、大部分の魂は、新たな業をつくって、輪廻している。
このために人類は、地上に仏国土を建設する前に、まず己の業を修正しなければならなくなった。
同時にさまざまな執着を生み出して来たがために、神性の自分から次第に遠のいていったのである。
しかし、人間の魂から神性仏性を捨て去ることは出来ない。他の動物、植物は、この地上の循環を維持するための媒体物であって、人間は、それらの媒体物を調和していく任を、神から与えられ、まかされているからである。
その証拠に、己の心に偽りの証を立てることはできない。人にはウソをいえても、自分には、ウソはいえない。文明文化は、人間の社会にのみあって、動物、植物の世界にはない。人間はどこまで行っても人間である。動物、植物もそれぞれの個性にしたがって転生を輪廻し、進化を続けるものである。しかし彼らが人間になることは出来ない。人間も彼らにかわることはない。水が土になることができないのと同じである。
人間が神の子の己を自覚し、業を修正し、本来の神性に戻るためには、神の心に触れなければならない。神性の我に帰るとは、苦界の自分から離れることである。生老病死のとらわれから脱皮することである。
神の心は中道という調和の大宇宙に流れており、その流れに自分の魂がふれるよう努力を惜しんではならない。
一日は昼があって夜がある。決して一方に偏することがない。どんなに人類がふえても、空気、水の質量は変わらない。太陽の熱、光についても、その放射する質量を変えることがない。人間社会には男と女が生存する。男女の比は常に一定に保たれている。戦争、災害など人々の心が自己保存、我欲に傾かないかぎり、男女の比は均等に維持される。人間の肉体も、休息と運動という循環から切り離せない。夜も眠らずに仕事を続ければ、肉体的支障が現われ、精神の平衡を失ってくる。
すべての生命、物質は、このように、中道から離れては保たれないようにできている。悲しみや苦しみは、こうした中道から離れた想念行為があるからである。
中道の心は、毎日の生活行為に対して、反省し反省したことを実践することから得られる。実践には努力が伴う。勇気がいる。智慧を働かせれば、業の修正は以外に早まるだろう。
反省の尺度は、八つの規範がモトである。「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正進」「正念」「正定」である。
人の心は、こうした規範を尺度として、毎日の生活行為の中で、正しく修正されて行く。
人間の魂は、生き通しの意識である。肉体は時が経てば脱ぎ捨てなければならない。中道の心にふれると、こうした
摂理(ことわり)が明らかになり、神の意識である永遠の安らぎを保つことができよう。
意識が拡大すると、宇宙をかたどっている太陽をはじめとした星々(惑星郡)が、すべて自己の意識の中で回転し、そうしてその中で呼吸する一切の生物は、我が肉体の一部であることに気付く。
人は宇宙大の意識を持って生活している。肉体にその意識が小さく固まり、とどまるために、宇宙大の自己を見失ってしまうのだ。小さな人間になっても、神は、人間の生存に必要な環境を与えている。もだえ、迷い、地獄に身を焼く人間に対しても、神は、心棒強く、救いの手を差し伸べている。太陽を与え、水を与え、空気を与え、土地を与え、食べ物を与えている。我が子の行く末を案じぬ親がないのと同じように、神は人間に、無限の慈悲を与えている。
人間は、その慈悲に
(こた)えなければならない。応えることによって、人間は神性の己を自覚するのだ。
神は平等を宗としている。その証拠に、太陽の熱、光はあまねく万生万物平等に照らし続けている。差別することがない。人間社会に階級が生まれ、貧富が生じ、競争意識に心が翻弄されることは、神の意に反する。能力の別、力の相違、得手不得手は、すべて努力の所産であるが、しかしだからといって、神の子の人間に、上下の差別をつくる理由にはならない。
人にはそれぞれ太陽系の姿と同じように、役割がある。人間の五体にも胴があり、手足があり、頭がある。それぞれがその役割に応じた務めを果たすことによって、太陽系が保たれ、五体が満足に動いて行く。
中道に接する事は、己を知る、もっとも早道な方法なのである。
人類の歴史は、己を知ることよりも、我欲を満たすための歴史であった。闘争と破壊は、そのために繰り返された。己を知り、人間の目的を悟れば、現象界の小さな自分に、心を奪われることがなくなる。
人々は苦界からのがれようと、さまざまな信仰を持っている。肉体を痛め、苦行を積めば救われる、自己が発見できるとしており、また拝めば功徳がある、祈れば安穏の生活ができると信じている。大きな間違いである。苦行は、肉体に心をしばり、祈ればよいとする他力は、人間の神性を失わしめる。いずれも片寄った信仰である。中道の神理は、神に通じたウソのつけない己の心を信じ、八正道という生活行為を為して行くところにある。真の安心は、自己満足や逃避ではない。自分の生死を見られる自分が確立できてこそ、安心というものが得られる。
人間は神の子である。神は天地を創造された。人間もまた己の天地を調和させ、自己のおかれた環境を調和して行くものである。神から与えられたその肉体を痛めることでも、あなたまかせの他力に自己満足するものでもない。
世はまさに末法である。
正法という中道の神理を失い、人類は迷いの中に埋没している。この迷いから人々を救うには、正法という法灯を点じ、大自然の慈悲に、めざめさせなければならない。
法は慈悲と愛を喚起する力である。神は無限の慈悲とその力をもって、正法を信ずる者の行く手に、光明の道をひらいてくれよう。
( 高 橋 信 次 師 著 「人間釈迦」 第一巻より )


お釈迦様はこのようにして、神があること、人間は神の子として霊魂であり、肉体は霊魂の乗り物である事を説かれたのです。ところが心霊現象のみに心を奪われて、八正道を日常生活に実践する事を怠る弟子達が出てきた為に、心霊現象にのみ興味を持つ事を禁じられました。そのために、その後の弟子達が、神の存在とか、霊の存在にはふれてはならないとしたこともあって、やがて上座部の長老派と、大衆部が分裂する頃には、お釈迦様が亡くなられて100年も200年も経っていた為に、神と霊の実在を確かめようもなく、後にあの世のことは「空」としてとらえられるようになって行ったものであります。
お釈迦様が亡くなられて700年後、竜樹という方が「空」を理論的に説明し、「中論」書かれました。この「中論」の根本的な誤りは、「お釈迦様は、自分の主体性、実体という物は何もない、全ての物の実在性はないと説かれた」と、お釈迦様の悟りとは丸っきり反対の、お釈迦様が説かれなかった事を、あたかもお釈迦様が説かれたものであるかのように巧みに説いてあることであります。お釈迦様が説かれなかった事をお釈迦様が説かれたように書かれているのを、永い間、中国の坊さんも、日本の坊さんも信じて来られたのであります。中国から日本に入って来たのはこの大乗仏教であります。だから日本の坊さん達は皆この「中論」に説かれている「空観」を信じているので、無神論、無霊魂論になっているのであります。
明治になって原始仏典(小乗仏教)をパリ−語の原文で研究された仏教学者たちが、「大乗仏教は仏教に非ず」と言われるようになりました。
真言密教をやっていられた桐山靖雄氏が、昨年末、「お釈迦様の本当の教えは大乗仏教にはない。大乗仏教は大きなミスを犯している。小乗経典の「阿含経」に本当のお釈迦様の教えがある」といって、「阿含密教いま」という本を出されたということを新聞広告で見たので早速読んでみました。大乗仏教が仏説でないと言っていられること、阿含経こそお釈迦様が説かれたそのままの教えであると言っていられる点は正しいのですが、阿含経と密教とくっつけて、密教をお釈迦様が説いていられたかのように言って、「阿含密教」と名づけ、護摩を焚くことを正当化しようとしていられることは間違いであります。護摩を焚くのは拝火教であってお釈迦様が否定された事は、拝火教の教祖であったウルベラカシャパーが、祭壇を壊し、ガンジス河に捨てて帰依した事実から証明されます。
お釈迦様が、無神論、無霊魂論を説かれたのではなく、お釈迦様は、はっきりと神と霊魂の実在を説かれたのである事を知って頂きたいと思います。





4.神−A


永い間、宗教家も哲学者も教育家も、次の事に気が付きませんでした。
それは、
「なぜ、善いことをしなければならないのか」と言う事です。
これまで単に、「人間だから善いことをするのが当然だ」と、説かれると、何の疑いもなく「そうだ」と思って、「なぜ、善いことをしなければならないのか」と考える人はありませんでした。この事を考えなかった事が実は現在見るような既成、新興宗教の乱立分裂抗争という姿になって現われているのであります。
人生の目的は、個と全体との関係の把握にあります。即ち、個とは人であり、全体とは神であり、人間と神との関係を悟るのが人生の目的です。この関係を自覚できた時に初めて人間は安心立命の境地になることが出来るのです。即ち「宇宙即我」への到達であります。
個と全体との関係、人間と神との関係を知的に知ったことを、心で実感として体得する唯一の方法が「禅定」であります。
今流行のヨガの瞑想道場、また数多く出版されている「瞑想に関する本」では、この事を教えておりません。
個と全体、人間と神との関係を悟る為に禅定するには、心が安らかでないといけません。心の安らかさが禅定をする基本であります。悪いことをしていたのでは、心が乱れて座るということも出来ません。善いことをすると心が安らかになります。ですから「善いことをする」のは善いことをしなければ人間と神との関係を悟って神我一体、梵我一如に入ることが出来ないからです。

−おわり−


正法誌
1978.9月創刊号/10月2号/11月3号/12月4号
1979.1月5号/2月6号/3月7号/4月8号/5月9号 より





【 以下追加 】


「自衛官合祀拒否判決」をうけて

三月二十四日の新聞は各紙とも一面に

 「自衛官合祭は違憲」という山口地裁の判決を載せました。読売新聞は

 「問われる日本的宗教観、信教の自由、貴重な警鐘」という記事を書いています。

事の起こりは、陸上自衛隊員(二等陸尉)中谷孝文氏は公務中の交通事故で死亡した。中谷夫婦は事故の約十年前、山口市内のキリスト教会で洗礼を受けていた。そのため遺骨は協会の納骨堂に納めて命日はキリスト教式でやっていた。山口県出身の自衛官出身者で組織している隊友会は、未亡人の中谷康子さんが熱心なクリスチャンであって、夫の霊を護国神社に合祀して貰いたくないということを知っていながら合祀したのは、憲法二十条「信教の自由、政教分離の原則」に反するものであるから合祀を拒否すると、裁判に訴えていたのであります。これに対して裁判官は、宗教上の人格権を認めて合祀を拒否したのです。

 この問題は、これからの日本の宗教界に大問題を提起した訳です。それは「日本人の神感が曖昧である」ということです。私が今、正法誌で「神」について書いているのは、日本人の曖昧な神感を是正して、正しい神とは何であるかをまず知って貰いたいということであった訳ですが、日本人全体が「正しい神とは」ということで考え直さなければならない問題がこの裁判の判決で提起されたことは不思議な縁だと思うことです。

 キリスト教で「神」というのは「天地創造の神」一神であります。人が神になることは絶対にありません。日本では多神教です。日本人はその神社の最新が何であろうとそんなことはお構いなしで、とにかく神社があれば、健康、幸福、交通安全、入試合格、縁談成就、出産、安全等とにかく何でもかんでも手を合わせて祈ってしまいます。家には仏壇があってお経を上げる。とにかく外国人には日本人の信仰は不可解です。

 クリスチャンにとって「神」とは天地創造の神のみ一神であってみれば、自分の夫が「神」として祭られることに疑問を持つのは当然でしょう。この裁判の例からすれば、仏教徒が靖国神社で神式で祭られることを拒否すると訴えた場合でもそれを取り上げなければならないことになります。この外、神道以外の各宗教の信者が訴えた場合はどうなるのか、クリスチャンの場合だけ信教の自由を認めて他の宗教の信者には認めないという訳にゆかないし、認めれば、自衛官で殉職した人の霊は、沢山の違った方法で祭られるということになり、「神と人霊との違い」「神を祭ることと人霊を祭ることの違い」「宗教に対してどこまで国の政治が関与できるか」日本の宗教の在り方が根本的に問い直されてゆくことになるでしょう。

 国の安全を守るために殉職した人達の霊を祭り感謝したいという感情は、どこの民族にもあることであってこれは大事にすべきですが、祭り感謝する方法がいくつにも分かれるということにやがて疑問を持つ人が増えてくるでしょうし、日本人の神観も問い直されてくると思います。

 今の時期にこのような判決があったということは正法会にとっては幸いなことでした。

 但し、中谷康子さんが信教の自由で提訴された考え方の中に、「キリスト教のみが正しい宗教であって、キリスト教以外の宗教を信じたら、永遠の地獄の火に堕するのである」という、従来キリスト教会で説いてきたような排他的な考えがあったとしたら、これはまた大きな問題です。裁判官は中谷康子さんの個人的な内心の信仰教義は全く考えずに、憲法上の「信教の自由」ということでのみ判決を下しているのですから、宗教家としては「信教に自由」という憲法の条文を盾にして、実際はキリスト教のみが正しい宗教であって、他の宗教は邪教であるという考え方があるのではないかを重視しなければなりません。靖国神社問題を中心にして日本の宗教界は真っ二つに分かれていますが、今日の判決は、日本が、奈良朝時代以来、宗教を政治の支配下に置いてきたのを、政治の権外に置いたことになり、宗教史上の画期的な大事件であります。

 日本人は、初めて政治の外に出て宗教というものを考えなければならないということになった訳です。しかし現実には日本人はまだまだこの「自衛官合祀拒否判断」が、日本の宗教史上の大問題であることに気がつかないでしょう。だからこそ、心あるものが知らしめる運動をしなければならいのです。

 「本当の神とは何か」

 「霊の存在」

 「霊を祭る方法」

  (祭り方が違うことによって救われたり、救われなかったりするのか)

 政治の枠外から外された信教の自由というこの裁判は、宗教を利用し、神の名を利用して地位名誉欲、金銭欲を満たそうとする宗教産業家の横暴によって、やがて宗教乱立の宗教公害が発生することは確実であります。

 ここ四、五年顕著になってきたことは、宗教家は政治家を利用して教団の拡張を図ろうとしているし、政治家は宗教団体に取り入って票を貰おうとしてきていることです。

 創価学会が公明党をつくったことは衆知のことですが、立正佼成会、PL教団、生長の家、妙智会、モラロジー、松緑神道大和山、霊友会、世界救世教、神社庁、全日本仏教界、東、西本願寺、金光教、天理教等その他殆んどの宗教団体が、政治家と癒着しています。

 裁判では「政教分離の原則」を貫いたのに実際は癒着これ以上甚だしきはありません。これから政界の混乱が宗教界の混乱となり、宗教界内部の混乱が政界の混乱に拍車をかけるようになった時に、各宗教団体の指導者は「宗教のあり方」をどのように信者に説明するのか。「大衆は愚なり」といわれているが、しかし、大衆の直感は鋭く問題の本質を見抜く力を持っています。

 政治家と癒着した宗教家、宗教家を利用する政治家、神の名を利用する宗教産業家の存在を、大衆はいつまでも放置しては置かないと思います。大衆は決して愚ではありません。大衆は「何が正しいか」を知る鋭い直感を持っています。私は大衆の心の中に内在する良心を信じております。大衆が鋭い直感によってこれまでの宗教産業の存在に愛想をつかせた時、大衆は一体どこに「心の救い」を求めてゆくのでしょうか。それは「正法」をおいて外にありません。

 今月は、「自衛官合祀拒否判決」が、やがて日本人の神観の改革になることを書きましたが「神」は大宇宙大神霊、宇宙創造神のみを「神」とすべきであり、「神」と「人霊」は、はっきり区別されなければいけません。


5.これから日本の宗教界はどうなるのか

 日本の宗教界は政界と癒着して教団の発展と維持を図り、政界は宗教界の票を貰ってそれぞれ優位に立とうとしているが、宗教界はそれぞれ内部に混乱分裂の要素を孕んでおり、政界は多党化に向かう中で自民党単独では内閣をつくれない時期が来ることを考え、自由、民社党、の連立内閣を構想する派と、自由、民社、公明三党の連立内閣を考えている派とに大きく分かれており、次の政権獲得を廻って、特に公明党の母体である創価学会の票をどうするかで、政治家の宗教界の票の争奪戦は激しくなることははっきりしていますし、宗教が政治に介入することはいけないという政教分離を一方で叫びながら、一方ではそれぞれ信者の知らない、手の届かない宗教界の上層部で「政教密着」が行われてゆくことでしょう。やがてその状態は国民の前にクローズアップされ、国民は政治に密着した宗教の次元の低さに愛想をつかせて、「真の宗教とは何か」を考えるようになるでしょう。一方、物質中心の化学はいろいろな公害を生み出し、このまま進めば日本人は没落すると憂える人達が増え、心霊科学、生命の科学を探求する学者が増えつつあり、これらの学者たちはまた、「真の宗教とはなにか」を求めつつあり、あと二十年すれば二十一世紀になりますが、二十一世紀の宗教は「正法」しかないということに必ず気づいてきます。

 巻頭の詩に書きましたように、宇宙は一つ、地球は一つ、太陽は一つなのですから、神理がいくつもある訳はありませんし、日本の宗教界がそれぞれ各宗各派に分裂して、それぞれ異種の教義を持っていることに疑問を持つ人達が増え、それらの人達は「一つの神理」を求めるようになるでしょう。

 誰しもが「世界は一つ、地球は一つ」と「世界の平和」を叫んでいます。観念的に言葉でいうことは易しいですが、いざ実行となると、どうしても解決しなければならない大きな問題が二つあります。

【 巻頭の詩 ・・・ 一つ 】

一つの宇宙に 一つの太陽に照らされて

一つの地球の上に 一つの生命を生きる

一つの愛を喜び 一つの争いに哭き

一つの心を生きる 一つの人間


@ 人種、民族の対立をどうするか

 血で血を争うアフリカの部族国家間の闘争もありますが最終的には白色人種と有色人種の対立を解消することです。この対立の解消を真っ先に迫られるのがアメリカです。白人の人口は頭打ちであるのに、黒人の人口増加は激しい、あと五十年すると、白人より黒人が多いという事態が起こってきます。その時にアメリカはどのようになるか、また、対立を解消する前にやらなければならないことは文化、文明の程度の低い有色人種を、白色人種並みに向上せしめることです。

 石油中心の世界経済は、中東の石油産出国のエゴイズムに振り廻されています。先年のローマ会議では、世界の石油資源は後二十年で終わりだと発表されました。その為、先進国では石油に代わる燃料資源の開発に真剣に取り組んでいます。中東諸国、アフリカ等の有色人種は、石油がある間に石油を売った金で文化、文明を向上させて置かないと、文化、文明の程度の高い白色人種と融和してゆくのに困難が起こります。日本は有色人種の中で唯一の先進国です。フィリピン、インドネシアあたりは太平洋戦争中、日本軍に痛めつけられた後遺症でまだ抗日感情が多少残っていますが、しかし全体的に見ると、日本は我々有色人種の模範生であるということで日本に対しては好意的です。ですから、白色人種優位の先進国の中に、唯一カ国仲間入りしている有色人種の代表である日本が、これからどうあるかということが、白色人種と有色人種の対立感情を解消して世界の平和を実現するカギを握っているのでありまあすから、日本の国の在り方が大事になってきます。ですから、世界の平和を念願するからには、我々は日本人の一人として、日本という国の在り方にもっと重大な関心を持たなければならないのであります。

A  宗教の対立をどうするか

人種、民族の対立解消以上に難しいのは宗教の対立です。イスラエルとアラブ諸国の対立の底にあるものは、キリスト教とマホメット教の対立です。イギリスのアイルランドでは、キリスト教の旧教徒と新教徒との闘争が今でも続いています。人種、民族の対立の底には宗教の対立が流れています。インドにあるのはヒンズー教とマホメット教の対立です。

 仏教とキリスト教の対立は、アメリカ、ヨーロッパの学者達が、世界の終局の平和の原理は、釈迦が説かれた教えの中にしかないと言い始め、物質文明に行きづまりヲ感じた人達が、東洋的瞑想に救いを求め始めたことから、次第に解消されつつあります。

座禅、茶道、花道は仏教のものですが、アメリカでそれらが大流行であるというのもそうです。表面的に解消されつつあるとはいえ、教義の根本的な面で大きな障害があります。それは、キリスト教は宇宙創造の神のみを認める一神教です。日本の仏教は無神論です。インド人口の85%はヒンズー教ですが、インドでは釈迦はヒンズーの神の第九番目の生まれ変わりであると言って神として崇められており、ヒンズー教は多神教です。ヨーロッパ、アメリカの人達は当然、日本の仏教の説く所と、インドで説くところの違いを問題にしてくるでしょう。マホメット教はキリスト教と同じように一神教ですが、ヒンズー教は多神教です。十一世紀にインドに侵入したマホメット教徒は、仏教寺院を徹底的に破壊しました。ルンビニー(釈迦の出生地)の「釈迦誕生」の

像の顔が削り取られているのもその時のことです。インドから仏教が消えてしまってヒンズー教に吸収され、わずかにスリランカに小乗仏教として残ったのはマホメット教徒の侵入によるものです。世界の宗教が、神理は一つであるということで一つになる為には、マホメット教の一神教と、ヒンズー教の多神教とどちらが正しいのかということが当然問題になってきます。ヒンズー教の多神教は古代エジプトの多神教がインドへ伝わったものです。「お釈迦様のみ跡したいて」の中で書いていますが、ヒンズー教の多神教の考え方と、日本の古事記の中に書かれている多神教の考え方に共通点があります。

以上のような状態ですから、完全に「神」を否定している仏教指導者は、「一神教か多神教か」という論争に加わることはできません。この論争をする資格のあるのは、古事記を信じている神道関係の指導者ということになります。これからの宗教平和のためには、古事記が重要な意味を持ってくるという時期に、古事記を編集筆記した太安萬侶の墓が発見され、その実在が確認されたということは極めて重大な意義があり、これは全く天上界からの導きであると思います。依って、世界の宗教界の平和を図るためには、「一神教か多神教か」ということが解明されなければならないことになりますが、その解明のカギを持っているのも日本ということになります。「一神教か多神教か」ということが解明されてゆく中で、今の日本仏教界が唱えているような「釈迦は本当に無神論を説かれたのか」ということが問題にされてゆくでしょう。

「釈迦は本当に無神論を説かれた」と日本の仏教指導者が主張していることは、インドの人達が持っている釈迦観と根本的に違っていますから、日本の仏教指導者が自分等の釈迦観を正しいと思っているのなら、どのようにしてインド人の持つ釈迦観を破砕するのか、これは大きな問題です。

やがて世界平和のために世界の宗教界で起こってくる「一神教か多神教か」という論争を前にして、正法会は、「釈迦は決して無神論を唱えられてはいない」ということ、「神とすべきは宇宙創造の唯一神」のみであることをお知らせしたいと思って、この「神」の項を書いているのであります。

前号で書きましたように、山口地方裁判所の「自衛官合祀拒否」判決は、日本人の曖昧な神観に一撃を与え、また国家権力に奉仕するものとしてのみ布教を許されてきた日本の宗教が、初めて国家権力から離れ、政治から離れての宗教の存在が確認され、世界平和を目指して宗教は宗教独自の立場で、宗教の本質を追及してゆかなければならないことになりましたが、現実は宗教界と政界は癒着して、憲法が示している「政教分離」とは全く逆な状態にあり、宗教界、政界ともに混乱分裂の様相を孕んでいる中で、正法会は、釈迦、キリストの教えの原点に帰り、高橋信次先生が説き明かされた法を中心にして、宇宙は一つ、地球は一つ、太陽は一つ、人類は一つの正しい道を説いてゆくのであります。

世界中の人類が何よりも大切にしているのが「神」神という言葉です宇宙の存在を存在たらしめている唯一の存在者、創造者がなければこの宇宙が存在しているはずがありません。その神が創られた宇宙の中に我々は生かされているのですから、それをそのまま素直に認めた時に私達の心の中に真の安らぎが起こってきますが、神の生命の中に生かされている現実を無視して、観念的にだけ「神はない」と思っている無神論者は絶対に心の安らぎを得ることはできないのであります。

 ここでこの世の中には、信仰しないという人は一人もいないという事実を知って頂きた。何かを信仰している人はそれでいいとして、世の中には「私は何も信仰していない」という人があります。その人達は神とか仏とかは信じないというのでしょうが。しかし神仏は信じなくても、神仏はないという代わりに「ものがある」「ものだけである」という信仰を持っているのです。金か地位か名誉か物か、とにかく神仏以外の何かを信じているはずです。手っ取り早く言えば「無神論」という信仰をしているのです。人間は何かを信ずることなしには生きられないのです。人間の行動の一切は「信ずる」ということから起こってくるのです。その証拠には、いわゆる左翼の無神論者、唯物論者の言動が、自分たちの信ずるイデオロギーに対してどんなに忠実であるかを考えて見て下さい。あのような激しい言動は「無神論」「唯物論」が絶対であるという信仰から起こってきているのであって、だからこの世界に信仰しないという人は一人もないというのであり、「なにもない」という人は「なにもない」という信仰を持っているのです。問題なのは「その信仰の対象は何か」ということなのであります。

 仏教で「縁なき衆生は度し難し」という言葉があります。これはどういうことであるかといいますと、神を信ずることができない人は、まだ神を信ずるまでに魂が成長していない。魂が未熟であるということなのであります。神の世界から新しくつくられた霊魂が魂の修行のためにこの地球に誕生して輪廻転生をして行きます。その輪廻転生の回数の浅い人たちは、あの世の経験も少ないのであの世での記憶が潜在意識の中に深く残っていません。それでそういう人達は、この世だけである、ものだけである、と思うのであります。そういう人達は、自分の心の中にあの世での体験が深く印象されておりませんからいくらあの世があるという話を聞いてもわからないのであります。そういう人達に対しては、その人達自身がこれから転生輪廻を繰り返して、自分から求めて来るようになるまで待たなければ仕方がないということになるのであります。そういう人のことを「縁なき衆生」というのであります。

 ですから、高橋信次先生の本とか正法誌を読んで、これが本当だとわかる人達は、既にこれまでに永い輪廻転生を繰り返して過去世に於いて正法を聞いた、相当高い霊魂の持ち主なのであります。神とか、縁生とか、霊魂とか、そういう言葉を聞いただけで涙が出て仕方がないという人達がいられます。高い霊魂の持ち主は思いやりが深く、心の動きも細やかですが、この世はものだけだと思っている人は心の動きが荒くて思いやりがなく、自己中心的になり易いのであります。そこで自分の心がどの程度であるかということを見つめる反省が必要になってくるのであります。それぞれその人の霊魂の高さが違いますから、例えば高橋信次先生の本を読んだり、話を聞いても、その人の霊魂の高さによって受け取り方が違ってくる所がある訳で、高橋信次先生亡き後にどうして混乱が起こったかというと、同じ高橋信次先生の話を聞いても、その人の受け取り方に問題があった訳で、高橋信次先生の教えが間違っていた訳ではないのであります。

 永遠絶対不変の存在である神には、智慧と慈悲という二つの面があります。智慧は非人格的で慈悲は人格的であります。仏教は本来智慧と慈悲の教えであったのでありますが、お釈迦さまが亡くなられて七百年後、大乗仏教時代になると、仏の慈悲だけが強調されて智慧が忘れられてきました。キリスト教も「神は愛なり」と言って愛だけが特別に強調されるようになりました。それが原因で今日、仏教もキリスト教も大きく原点から歪んできて、信仰といえば、知性とか理性とか智慧の面を忘れて感情的に信仰するというようなことになってしまったのであります。青年のページに「正しい信仰を歪めるヌミノーゼ心理」を書きましたのも、結局ヌミノーゼ心理になるのは、知性理性の欠如、智慧の働きのないところに起きるのであることを知って頂きたかったからであります。

 信仰は智慧と慈悲をもってしなければ正しい信仰とはいえないのであります。


6.神の智慧 非人格的面

 神は絶対であり、あらゆる相対的存在の本源であり、自然を自然たらしめている一切の形体、現象の本源であります。神が一大創造のエネルギーの源泉であることは既に科学者達が認めております。科学者は最初、神の存在を否定して物質だけがあると考えて物質の研究を進めてきました。物質科学の法則が発見され、物質を細かく分析しているうちに分子原子の存在がわかり、さらに原子を素粒子、中性子から成り終局はエネルギーに還元することを発見しました。仏教的にいえば「無から有が生じた」のであり、西田哲学の言い方ですれば「目に見えない存在が目に見える存在」になった訳です。神の智慧非人格面というのは、所謂神は法として法則として現われて一切を存在せしめ給うたということであります。非人格的存在としての神が、どのようにして現象化するか高橋信次先生がよく引用されたのに「水」があります。エネルギーは水素分子と酸素分子をつくります。水素と酸素と化合してH2O水を生じます。この水は条件によって形を変えて蒸気という気体、水という液体、氷という固体に変化します。H2Oという本質は絶対不変です。H2Oとしての本性を保ちつつ、現象界では多様に変化します。一なるものが多として現れるのであります。

 原子物理学は古典的な物理化学者達が、物質は物質として単独に存在すると考えてきたことは間違いであって、物質はエネルギーの変形にすぎないということを証明し、エネルギーが物質化するにはそこに一定の法則があるということを発見したのであります。ですから宗教的な表現をするならば、物質は物質という形に現れた神の生命であるというのであります。エネルギーが物質化され、物質化されたものと物質化されたもの相互の間に働く法則は神が創られたのであって、この法則を創ったのが神の智慧であります。非人格的ということは、人の心の愛憎に関係なく働くということであります。例えば水を沸かしたら、日本では摂氏100度で沸騰したが、アメリカでは50度で沸騰したとか、愛の深い人が沸かしたら30度で沸騰したが、神はないという無神論者が沸かしたら200度でないと沸騰しなかったとか、時と所、そうして人の心に関係なく、いつでも、どこでも、誰がやっても同じ結果が出るというのが法則であり、人格に左右されるものでなく、一定の秩序をもって働くその力を智慧というのであります。それが科学の法則即ち原因結果の法則であり、その法則を一定不変そうして普遍性あるものとして創られたのが神であります。ですから、その人が善人であろうと悪人であろうとそういうことには関係なく、その人が物理化学の法則を知って、その法則の通りにすれば、同じ原因に対しては必ず同じ結果が出るということになるのであります。

 天文学、地球物理学者等いろいろな学問が発達して来て、今までわからなかったことが次第に明らかになってきましたが、宇宙の構図、天体の運行、星の神秘さが研究されるに従って、この宇宙は決してバラバラに運行されているのではなく、この宇宙を統一して一糸乱れずに整然として運行させている統一意識があるということを認めざるを得なくなり、また物質と物質の間にも一定した法則が働いていることが発見され、この宇宙の一切のものは、神としか名付けるしか外にしようがない所の智慧ある意識体によって創造されているということを認めるようになったのであります。ですから湯川博士が中間子理論を発表された時に、「科学を追及してゆくと宇宙の最始源には神と名付ける外にしようがない所の存在があるということを認めないわけにはゆかない」と言われたのでありますが、現在の科学者達は宗教的表現をすることに臆病であります。はっきりと「神がある」「神は智慧の存在である」と言われるほうが男らしいと思うのであります。しかし、そこまでわかっていても、科学者たちが堂々と「神」という表現をしえないのは、日本では色々な巷の神々があって、「神」という言葉に対する混乱がり、「神」ということに対する意識統一がなされていない所に一つの原因がると思うのであります。科学者たちが既に認識している宇宙創造の本源の神も神であれば、街の霊媒が拝んでいるのも神の名で呼ばれ、田舎の土手の祠(ほこら)に祭ってあるのも神であります。この日本人の曖昧な神観が統一されなければならないという問題を提起したのが「自衛官合祀拒否判決」であったわけです。

 「神とはなにか」ということに対してまだ明確な認識を持っていない人が沢山あります。神が人生の苦しみからの逃避の場であったり、また多くの間違った宗教指導者達は、神という言葉を使って信者から金を捲き上げたり、恐怖心を与えて信者の心の自由を束縛したりしています。神仏の名を利用して恰も自分達が運命の支配者であるかのような顔をして、各宗教団体は巨額の財産をこしらえ、何十億もかけて華麗な殿堂をこしらえています。各宗教団体が自分達の信者の票を代議士に渡すのは、大蔵省の一部に宗教法人に税金をかけたらという声があるので、既得権を盾にしてそれをさせないために代議士とつながっている点があると思っています。日本の国内にある各宗教団体は、日本の国があってこその存在でありますから、毎年毎年政府は巨額の国債を発行して困っているのでありますから、各宗教団体が持っている預金を一ぺん全部国家に寄付するということをやったらどうかと思います。

 宇宙に遍満して宇宙の一切のものを生かしている神を、恐怖すべきものとして打ち出している宗教家は正しいものではありません。神は恐怖すべき存在ではありません。神が罰を与えるとはとんでもないことです。神は永遠の至福の存在であります。いかなる宗教も、神を恐れるべきものとして説いてはならないのです。しかし現在はどの宗教も神の名において恐怖を振りまき、本来明るくあり楽しくあるべき神の子の心の中に、暗く恐るべき恐怖の心を注ぎ込んでおります。我々は最早恐怖心を与える宗教の奴隷になってはならないのです。世界の平和は、人類が恐怖の宗教から脱却して、神は生命の本源であり永遠至福の存在であることに目覚めた時から実現されていきます。そのことを知るのは、神が我々に与えられた智慧に目覚めることです。

 もう一度、「人間釈迦」第一巻百五十七頁からのお釈迦さまの悟りを見てみましょう。

「この大宇宙は神によってつくられた。

 大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。

神は、その意識の中で意志を持たれた。

大宇宙の創造は、神の意思によってはじまった。

意識の働く宇宙と物質界の宇宙の二つの世界を創造した。

意識界の宇宙はその意志をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。

神の意識は、永遠の調和をめざし、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。

人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産声をあげた。

「法秩序の中に住まわれることになった」ということは、神は「ここに見よ、かしこに見よというが如くにはいまさないのである」と聖書に書いてあるように、形として偶像として神が存在されるのではなくして、姿形は見えないが法則として神は永遠の創造をつづけられるのであるということであり、法則を活用するということは即ち神の生命を生きるということになるということであります。失敗したり間違ったりするのは、神が悪いのでもまた神が罰を当てるのでもなく、我々が法則を知らないで、また誤って使った結果なのであって二度と同じ失敗をしないためには、法則を正しく知って、それを正しく活用する方法を学んでその通りにすれば正しい結果が出てくるのでありますから、だから「知る」という智慧が大事なのであって、お釈迦さまは「知らないことが一番大きな罪である」といって「無知」ということを説かれたのであります。ですから正しい宗教は「先ず知りなさい」「知るためには疑問を持ちなさい」と教えるのであります。智慧を否定する宗教は邪教であります。しかし現在の宗教は智慧を否定して、感情的に人格面からのみ「神は愛である」「仏の慈悲」ということを説いております。

八正道によって反省するというのも智慧の働きであります。その八正道の最後に「正定」がありますが「正しく禅定する、瞑想する」ということも智慧によってしなければならないので、人格的な感情によって禅定はしてはならないのであります。智慧によって明らかにして行った後に「神は慈悲そのものである」ということも実感されてくるのであります。ですから禅定をやらないと悟りに到達しないのであります。

 現在、日本の仏教団体は勿論のこと、新興宗教も含めて「悟るための禅定」を指導している所がどこにあるでしょうか。
 お釈迦さまは禅定をされ、キリストは瞑想をされたのです。
 私は高橋信次先生から禅定の大事さを教えて頂きました。

神を知るには感情に左右されない冷厳な知恵によって、自己の内に内在する神の意識を知る禅定をすることです。

   - 完 -



第10号(1979.6月)/第12号(1979.8月)   より





2013.01.06 UP