高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







あの世はどんな世界か


1.あの世はどんな世界か−1
2.あの世はどんな世界か−2
3.あの世はどんな世界か−3 【 自殺をしてはいけない理由 】
4.死後の世界
5.あの世とこの世の境界で質問される事
6.人生の目的
7.自殺と殺人は神に対する反逆である
8.「天と地とを結ぶ電話」まさに来たらんとする時代の予言
9.アガシャは死についていう
10.自殺した霊魂
11.殺人犯の霊魂
12.正しさの規準  慈悲と愛 悟り





1.あの世はどんな世界か−1

 高橋信次先生はいつも「心に執着を持ってはいけません。心を安らかにしなさい。」と言っておられた。なぜ執着がいけないかというと、地獄とは執着を持った人達のゆく世界であるからである。生きている時にきれいに心を洗い流していなかった人達にとっては確実にあの世は苦しみの世界なのであって、「類は類を呼ぶ法則」は地上界やあの世を含めて全宇宙を支配している法であるから、あの世では同じような心を持っている人達同士が同じ場所に住むのである。あの世は心に思っていたことが即座に瞬間的に現われる世界であるから、もしその人が、ある人を憎んだままで死んだとすると、その心の通りにその人が自分の前に姿を現してその人を見て憎しみ且つ苦しむ事になる。苦しいからと言ってその人を払い除けようとしても、心にその人への憎しみがある以上、払えども払えどもその人は自分の前から払われる事はなく、払ったと思った次の瞬間にはその人の姿が現われて来るのである。このような状態で苦しむ世界を煉獄という。恐怖心を持つ者、罪を犯して苦しむ者、憎悪する者、悲しむ者、苦悩する者、みだらな淫行を喜ぶ者、人の失敗を見て喜ぶ者、幻滅を感じている者等、それれは皆同じ煉獄に堕ちるのである。

例えば人生の目的は性欲を満たすことにあると信じて淫行の限りを尽くして死んだ人達は、そういう人達ばかりが集まるから、自分が淫行をするのを見るだけでなく、周りは皆それぞれの淫行を行う人ばかりであるのである。言葉通り全く地獄なのである。

 キリストは、「汝ら姦淫するなかれ」と言われた。常識の世界では、心の中で女の人を見てきれいだと思い、その女の人と淫行している状態を心の中で描いても、実際に行動しなければそれは罪ではないと言う。然し、キリストが「心の中で姦淫してもそれは罪である。」と言われたのは、この世では罪でないと言っても、その心の状態のままであの世に行けば、それは確実に地獄の状態をつくり出すからである。

 ここで皆さんによく知って置いてもらいたい事がある。それは「正しい」ということは、この世とあの世とを通して正しい事のみが本当に正しいのであって、この世でいくら正しいと言われていても、あの世へ行って正しいとされないものは本当は正しくないのであると言う事である。

 高橋信次先生は「間違った教えを説いた宗教指導者は地獄へ堕ちる。」と言われた。それは、それを信ずる人達の心まで腐らせてしまうからである。悪い商品を良い商品だと騙して売ったとか、詐欺したという人達は、その事だけで人を騙しても、その人の魂、心まで腐らせる事はしない。しかし間違った宗教指導者は、その信者の魂を腐らせ心を歪めてしまう。

 金を沢山上げれば神様が喜ばれるとか、拝んだら救われると言う事もそうであるが、神とともにあり、神が創られた法を勝手に歪めたり否定したりして、本来は神を信じ、神に波長を合わせる事を説かなければならないのに、その宗教指導者個人を信じ個人に波長を合わせよと説く事は正しくないのであるから、その正しくない事を正しいと信じさせる事は根本的にその人の魂を腐らせる事になるのである。間違った信仰をいくら正しいと信じていても、あの世へ行って正しくないものであるならばその信仰は正しくないのである。

 この世では「私は釈迦・キリストよりも偉いのである。」と言う人があると、「そんなに偉い人なのか。」と、単純に信じてしまう人達もあるが、あの世ではそれこそ無限地獄行きである。

 私が「正法を歪め否定する事は許されない。あくまでも正法を正しく守る。」と頑なまでに言ったのは、間違った事を正しいと信じ込ませて人々の魂を腐らせた宗教指導者が、あの世でどんな世界へ行くかを知っていたからである。

 高橋信次先生は、「人間釈迦 第四巻」246頁に次のように書いておられる。

「正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生き、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入る八正道の実践こそ、わたしがいう法である。八正道の中心は、神仏の光につながっている各人の心である。その光を八正道の歩みによって現す、これが法の実践である。仏法は他人のためにあるのではない。すべては各人一人一人のためにある。そうして、その喜びを、他に及ぼしていくものだ。かくして、この地上に仏国土が生まれよう。仏国土はまず各人の心の中に築かなければならない。」と。「八正道こそ法である」なのに、その八正道はいらないと言う人を正しいと言う訳にゆかないのである。正法の問題、教義の問題では妥協をしてはならないのである。



2.あの世はどんな世界か−2

 魂の進歩した人達は、自分自らの努力によって少しでも人類の福祉進歩に貢献しようとする。魂の幼い人達は自分から努力することなく、他の人達が創造した社会の便宜さの上に与えられた幸福を感謝する事もなく、当たり前の事として、当然の権利だと考えて平気で濫用しようとする。

 多くの人達は死ぬとすぐ天上界へ行くと思っているがそうではない。あの世とこの世の違いは、唯肉体がないというだけであって、心の在り方はどちらも同じである。死後の状態は生前の状態と同じである。例えば病気で苦しみながら死んだ人は、魂が肉体を離れるショックで一時、魂が麻痺した状態になるが、あの世で意識が回復したとたんに、本来ならば肉体がないのであるから痛みもない筈であるのに、心に思っていた、心で感じていた痛みが復活してあの世で苦しむのである。人は苦しいと助けを求めようとする。「誰か助けてくれ、何とかしてくれ。」と思う。

 あなた達は、自分の子供にでも、また部下にでも、用事を言いつける時にどんな子供に、どんな部下に言いつけるであろうか。言いつけても、最初から聞いてくれそうでない人には言いつけないであろう。良く言う事を聞いてくれる子供や部下に言いつけるであろう。それと同じように、あの世で苦しんでいる人が誰に助けを求めるかというと、生きている家族の中で、頼んだら良く頼みを聞いてくれそうな人に念を送るのである。あの世とこの世とでは言葉が通じないので、自分が念を送って助けを求めているのだということを知らせる為に、自分の痛んでいた患部と同じ部位に痛みを生じさせるのである。

 親がガンで死んで、その息子がまたガンで死んだというその息子は、何人か居る兄弟姉妹の中で一番人の良い心の優しい、頼んだら嫌とは言えない素直な人なのである。こうして親も子供も同じ病気になると、血統だとか遺伝だと言う。強情で人の言う事など聞かない人にはこのような血統とか遺伝という形では病気は現れない。本人の心の影として出てくる。それであるから、死ぬ前に自分の悩みや矛盾、憎しみ、悲しみ、恐怖、失望、或いは小さな事にクヨクヨするとか自己本位の自我我欲などを清算していなかった人達にとっては、あの世はまことに苦痛なのである。

 なぜ生きている時に反省する習慣をつけておかなければいけないかというと、生きている時に反省の習慣をつけていた人は、あの世へ行ってもすぐ反省が出来て心を安らかにし、天上界へ行くことが出来るからである。

 あの世は心の通りの世界であるから、心に執着のある人は、その心の通りの地獄界へ堕ちる。生きていた間に反省の習慣をつけていなかった人は、その苦しみの状態の中で、もがき苦しむだけで反省しようとする心が起こらない為に、やがては反省して天上界へ上がらなければならないのであるが、反省の心が起こるまでは永く地獄界で苦しまなければならないと言う事になるのである。

 生きている時に「我を捨てなさい」「素直であれ」と言われるのは、自分で自分の心をみつめて反省し執着をなくするといういうことが魂の成長には非常に大事であるからである。

 自分の信じている信仰が、どんなに正しいと人に主張してみても、その人自身の心の中に矛盾があり、心が安らかでないならば、その人は「私の信仰は正しいのだ」と叫びつつ地獄へ堕ちなければならぬことになるのである。だから信仰は、人に向かって正しさを主張することではなくて、果たしてこの信仰で、自分の心は安らかであるかどうか、まず自分の心に問うて見ることが大事なのである。自己の確立は、自分の心のあり方を知る事である。



3.あの世はどんな世界か−3 【 自殺をしてはいけない理由 】

 最近、新聞紙上で毎日自殺の記事を見ない日はない位である。この分を書き始めた朝もNHKの「お母さんといっしょ」の時間で、「自殺」の問題を取り上げていた。以前は自殺は大人だけがやっていたものであるが、ここ一、二年来、小学生までもが簡単に自殺するようになってしまった。一体どこに原因があるのであろうか。その前にお知らせしておきましょう。


「なぜ、自殺はいけないか」

1.人間は神の子であり霊的存在である。我々が輪廻転生の中で霊の自覚を深めて行くようにされたのは神である。だから、自殺は神に対する反逆である。

2.我々は今生において、自分自身の魂を向上させなければならない目的を持って生まれて来た。その目的を達せずに自殺する事は魂の進歩のルールを破壊する自分自身に対する反逆である。自分の進歩を自分自身で停止、逆行させるものである。

3.世界はいろいろな相関関係の中で魂の進歩を図ってゆかなければならない。その人が存在すると言う事は、その人が存在する事によって魂の向上を果たしてゆかなければならない人達があるということなのであって、その人が自殺すると言う事は、その人自身の魂の進歩を遅らせるだけでなくて、その人に関係した全ての人々の魂の進歩を遅らせる事になるのである。

4.我々は全て、神より自由が与えられている。心中という形で自殺を相手に強制することは、生命存在の根本原則である相手の魂の尊厳の自由を阻害する事になる。心中のような自殺は、神又は自分自身に対するルール違反即ち反逆なのである。

5.自殺する人達は、現実の苦しみから逃れようとして、死ねば楽になると言う事で死んでゆくのであるが、死後は確実にこの現実世界の延長線上にあるのであって、死んだからと言って苦しみは解決しないのである。

6.死という形で現実逃避してみても、一切の運命は自分自身の責任なのであるから、どこかでその償いはしなければならないのである。

NHKの「お母さんといっしょ」の時間では、自殺の原因は、病弱33%、生活難31%、出産育児の不安6%、経済破錠4%、不明26%、その他と発表していた。病弱で、生活苦でどうにもならないと言う事になれば、最後は死を選ばざるを得ないと考えるのは人情として当然で、そういう弱い人達に対して、自殺をしてはならないと言う理由は、非常に冷酷な一片の同情心もないものであると受け取られるであろう。それは最もとも考えるが、しかし、だからといって真理法則が、一片の同情心によって歪められ、特例が設けられると言う事はないのです。法則は例外を許さないのです。法則は、その法則の真意を正しく理解する人にとっては暖かい恵み多きものとなるのですが、法則を知らないがままにその適用を誤った人によっては冷酷に見えるのです。それはそう見えるだけの事なのです。法則を創られた神の側には責任は無いのであって、その法則を誤用した人間の側に責任があるのです。この広い社会の中では同じような条件の下にあっても自殺せずに、立派に立ち直っている人も沢山あるのです。

子供を道ずれに母子心中する人達は、ほとんど全部が夫婦不調和、夫との話し合いが出来ていなかったという人達です。昔は家族主義で、同じ家の中におじいさんもおばあさんもおりました。何か問題があった時でも、誰か相談相手がおりました。しかし今は夫婦二人っきりの核家族が多くなりましたから、夫との話し合いが全く出来なくなったとなれば、話し合いをしよう、調和しようという心が働かない限りは孤立することになります。子供が生まれつき病弱で、子供の将来を悲観して一緒に死んだと言うお母さんの場合であっても、夫との間に話し合いがあれば解決出来る事なので、現に夫婦協力して体の弱い子供を育てている人もある訳です。子供の自殺の動機はまた余りにも簡単です。親に叱られた、勉強が出来ない、試験に落ちた、友達付き合いがうまくゆかない等、中に何となく死を憧れてというのもあります。

自殺の直接の原因は色々あります。関係者たちは、その直接の原因をなくすれば自殺はなくなると考えているようですが、私はその直接の原因をなくしても次のことが根本的に改められない限り日本から自殺、特に外国ではないと言われている母子心中、子供を道連れにして死ぬとか、一家心中は無くならないと思うのです。

1.この世は穢土(えど・・・罪悪にけがれたこの世)で因縁の世界で、人間は業を背負って苦しむ為に生まれて来たので、この世で幸せになろうと思っても、この世ではなかなか幸せになれない。だからこそ、せめてあの世では安楽に救い取ってもらわなければならない。その為には一心に念仏を唱えなければいけない。或いはお題目を唱えなければいけないという。人生の現実否定の極楽往生思想が、日本人全体の心の中から一掃されなければならない。

自殺或いは心中する人達の心の中にあるのは、みな死ねば楽になるという考え方であります。私が少年の頃、「人間は何の為に生きるのか」と言う事を聞きに行った時の浄土真宗のお坊さんの答えが、現実否定の極楽往生を願いなさいと言う事でした。生きている事は苦しみであって、死ななければ幸せになれないと言う話を聞いた私は、「生きている事、生きてゆく事が苦しみの連続で、死んで初めて幸せになる。死んだのちに極楽の世界があるのなら、何を苦しんで長生きする必要があるのか、幸せになりたいなら自殺するのが一番の早道だ。」とそう考えて真剣に自殺を考えた事がありました。

鎌倉仏教以来七百年間、日本の仏教会が語り伝えて来た「欣求浄土」(ごんぐじょうど・・・極楽浄土に往生すること・心から求めること)の思想、欣求浄土することは良い事でありますが、そのゆえに、この尊い現実の人生を、「穢土」(えど・・・この世)として否定する考え方は、御釈迦さまの考えに反しているのでありますから、日本の仏教界特に「極楽往生思想」を伝えたお坊さん達はこの事を反省されなければいけないことです。

2.儒教と武士道と結びついた死を賛美する思想がなくならなければいけない。

 毎年12月になると映画界は「忠臣蔵」を上映します。主君のために仇を討った四十七士の討ち入りは、死をもって主君の恩に報いる武士道の精華として永く日本人が讃えてきました。武士中心の封建社会の中では武士道の道徳として讃えられて来たとしても、道徳の中には、その当時の社会情勢に中での一つの生き方として尊ばれてきたというものがあり、それはそういう社会情勢の中での一つの生き方にしか過ぎないので、真理ではありません。真理から言うならば「いかなる理由があっても主君の仇を報ずる」という行為は正しくありません。それは相手の生存の自由を奪うからです。主君の恩義を感じて忠誠を尽くすというその心は真理ですが、しかしその為に相手の生命を奪うと言う事はいけないことです。仇討ち礼賛、またこの世で現実的に責任が取れないからといって死をもってお詫びすという腹斬りの考え方につながる死を賛美するという思想が、日本人の考え方から一掃されなければならないと思います。

3.無神論、無霊魂論の一掃

戦後民主主義という事で、また科学的という事で無神論、無霊魂論が学校でも子供達に教えられました。そのために、人間は死ねば灰になっておしまいだと皆考えるようになりました。その為に、死ねば極楽浄土へ行くと思って死を選ぶ人と、死ねば何もかもなくなると考えて死ぬ人と、あるようであります。子供の自殺は後の場合からのようです。

 人間は魂がるのであって転生輪廻するのであり、死ねばあの世があって、そこでまた勉強するのであり、この世で苦しんでいたら、あの世でも苦しまなければならないのであり、その苦しみを通してどのような魂の勉強をしなければならないのか、その苦しみの意義がわかるまでその苦しみはなくならないのである、と言う事がわかって来ないと自殺はなくならないと思います。

 以上の三点が改められて、人々が人生の大事さを知り、皆が慈悲の心を持って助け合うようになれば自殺はなくなるでしょう。現在の憂える宗教家、政治家、教育家、科学者達は、私が以上述べた三点について厳密に考察して、正しく正法真理に則した考え方をしなければいけないと思います。

 死の問題を解決するのが宗教家言われているのに、自殺する人達が死の問題について宗教家の門を叩いていないと言う事は、宗教家は自分達の問題を解決してくれないと思っているからではないかと思います。こう言う点に於いて、正法を一日も早く多くの人に知ってもらうことが必要だと思うのであります。

 自殺した霊魂は地獄界に堕ちて、神が定めた転生輪廻のルールに反したことを厳しく反省しなければなりません。反省が終わって、赦されて再び地上界に生まれ変わって来たとしたら、人生というものがどんなに大事であるかと言う事を再び知る為に、どんなに苦しい事があってもこの人生を逃避する為に絶対に死ぬ訳にはゆかないという、厳しい決心を持って、孤独の一生を送らなければならないのです。孤独の厳しさの中で、人生を大事にすべきこと、人と人との繋がりを大事にすべき事を学ぶのであります。



4.死後の世界

我々は自分の知識で説明できない事を迷信だとしてすぐ切捨てるということをしてはならにのである。それは自分の無知を表明する以外のなにものでもない。自分は知識階級だと自認している人の多くはそのような誤りを犯している人が多い。

「かいまみた死後の世界」(1977年評論社刊/レイモンド・ムーディ哲学博士著:死後にも生命が存在する事をアメリカの150人の体験を集めたもの)に出て来る150人の証言は、高橋信次先生が幽体離脱して我々に教えて下さった事と一致しているのである。

 死後の霊魂の存在を信ずる日本人の多くは、死後の霊魂は火の玉となって丸い玉みたいな形で存在するとか、または足のない幽霊みたいな形で存在するのであろうと思って来た。高橋信次先生は「あの世の体は光子体といって肉体と同じように頭も手足もあるのである。」と言われたが、この150人は、あの世に行っても手足があると言っている。「かいまみた死後の世界」の体験者達は、死を宣告されてまた生き返った人達、或いは意識不明になってまた意識が回復した人達であるから、ある一定の所まで行って引き返して来た人達である。

「かいまみた死後の世界」・・・本文より抜粋

「担当の医師が死を宣告したのが聞こえた。耳障りな音が聞こえ始めた。肉体から抜出した霊魂は、長くて暗いトンネルの中を、猛烈な速度で通り抜ける。すでに死亡してる親戚とか友人の霊がすぐ傍にいるのがなんとなくわかる。

 私はある時点で、まぎれもなく現世と来世との境目に近づいているのに気付いた。すると、今まで一度も経験した事がなかったような、愛と暖かさに満ちた生命−霊が現われた。この光の生命は言葉なくして、生きてきた間のことを全て「反省」するように促した。すると目の前に一生のことがパノラマのように映し出された。その反省はけた外れの速度で行われる。全く一瞬である。心的に一瞥(いちべつ・・・ちらっと見る)するだけである。自分の一生の取るに足りないことから最高に重要な事までが、一つ残らず現われる。


一生のことをどのように反省したかによって、それから先の行く世界が決まるのである。

あの世は次のような世界にわかれている。

如来界・菩薩界・神界・霊界・幽界・・・これらの界は、またそれぞれの心の段階にわかれている。

死んだ人の前に光の生命として現われるのは、主として菩薩界の人達である。上段階の霊が下の階層に現われると、下の階層の霊はそれを光と見るのである。上段階の霊は下段階の霊を救う為に下段階に行けるが、下段階の霊は、その霊の意識が、上段階にふさわしくならない限り上段階へのぼることは出来ない。



5.あの世とこの世の境界で質問される事

光の生命が出現すると非常に強烈な印象を与える。(このことはこの世でも、人格・霊格の高い人の近くへ行くと、日頃の心の悩みが消えてしまって、非常に心が安らかになるという現象と同じで、あの世は心だけになっているから、その感ずる度合いは肉体を持っているこの世の場合よりも何倍も強いのである。)

光の生命・・・霊は次のように問いかける。

1.あなたは死ぬ覚悟が出来ていますか。

2.あなたは死に対する心の用意がありますか。

  (仏教で引導をわたす事が大事だとされるのは、必ずこの事を聞かれるからである。死ぬ覚悟がなく、
   まして、死にたくないという執着を持って死んだ人にとっては、この質問は苦しみとなる。
   これにはっきりと答えられない人を「中有に迷う」というのである。)

3.あなたは一生のうちに、私に見せられるような何かをやって来ましたか。

4.あなたは生きていた時に、「自分でこれは良い事をしたな。」というような自分で満足できる何かを
  やって来ましたか。

  (自分の事だけしか考えて来なかった利己主義者はこの質問には答えられない。利己主義者がこの世でも
   軽蔑されるのは、人は人を愛する為に生まれてきているのである、からである。)

 私達はこの質問に正しく答えられるような生活をしてあの世へ帰らなければいけないのである。死ねば灰になってお終いだと考えて生活する人達は、死んでも生きている霊があることに目覚めるまで永い時間がかかるのである。



6.人生の目的

 150人の体験者が、あの世の入り口で教えられた人生の目的は、

1.自分以外の他人をどれだけ愛してきたか。

2.どれだけ智識を得たか。

と言う事であるという。

 智識を得る事は、あの世でもしなければならない事であることも教えられたと言っている。

(「かいまみた死後の世界」の翻訳者は「どれだけ知識を得たか」と「知識」という字を書いていられるが、あの世で問題にされるのは、どれだけ知っているか、という知識ではなくて、知識を実践した時に、「なるほど」と知る「智識」即ち「智慧」なのであることに注意してほしい。)



7.自殺と殺人は神に対する反逆である

レイモンド・ムディー博士はこの本の「あとがき」に次のように書いていられる。

「本書の草稿の完成から刊行にいたるまで、1年以上かかった。その中でも特に重要なものは、自殺に起因する死後の世界の体験報告である。

自殺に起因する死後の世界の体験は、いずれも不快なものだったと報告されている。

「悩みを抱いたままこの世を去ると、あの世でも悩み続けることになる。」

自殺をはかった人達は、自殺することによって逃れようとした葛藤は死後も存続し、ますます複雑化する。自殺した人達は、不快な地獄の辺土に永い間居ることになる。そうなったのは、自分が人生における一定の目的を達成しないで、その責務から永久に自分を解放しようとして、神の定め、人生の定めを破った報いなのである。他の原因で死んだ数人の人々は、自分の霊魂が肉体から離れていた時に、「自殺は実に不幸な行為であり、自殺すると厳しい罰を受ける事になる。」と言う暗示を受けたと報告しているのである。また、ある男性はこう言っている。「自殺と殺人の二つの行為だけは、決してやってはならないという気持ちになりました。自殺するということは、神の恵みを神の顔に投げ返す行為に外なりません。殺人は、その人間に対する神の意志を妨げることになるはずです。」

カントは、「自殺は神の意志に逆らう行為であり、自殺によって来世に踏み込むことは、神に対する反逆とみなされるのである。」と言っている。

私は先に日本に自殺や心中が多いのは、浄土真宗で「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、直ちに仏となって極楽浄土に生まれると説いていることにも原因があると書いた。自殺する人達の心の中には、「この世がどうにもならないから死んで早く楽になりたい。」という心がある。死んでも楽になることはない、生きている時の苦しみは、そのままあの世に持ち越されるのである、と言うのである。



8.「天と地とを結ぶ電話」まさに来たらんとする時代の予言

                 昭和46年:日本教文社刊行−絶版

リチャード・ゼナーは4歳の頃から異常な心霊能力によって有名になった。長ずるに及んでアガシャの支配を受けるようになった。

アガシャとは誰であるか。

 約7000年前、エジプトのある小さな部落の生まれた宗教的霊的指導者であったという。当時ナイル渓谷とデルタ地帯は政治的ならびに宗教上の相異のため絶えず紛争状態を続けていた。群小独立国の間には戦争が絶えなかった。アガシャは、この絶えざる戦争の愚かさと無意味さをよく知っていた。そこでアガシャは普遍的な宇宙の原理によって、37の独立国を統合して唯一の連邦政府をつくり、その後、数百年間この連邦政府は、これまでに地上に知られたことのない位の平和な秩序ある調和ある世界を維持した。アガシャはこの新しい広大な神権政治の世界の大指導者であった。アガシャは肉体を持ちながら常にあの世の霊的指導者から指示を受け、死後の生活と関連してこの世の地上生活の意義を説いていられた。その時の霊的指導者の中にアモンと呼ばれる偉大な霊があった。このアモンと言われる方が後にクライオとして出て道を説き、それから5000年後にイスラエルにイエス・キリストとして生まれ替わって愛の道を説かれた。

 古代エジプトにはアモンを神として礼拝する信仰があった。このアモンが後にアミーと呼ばれ、アーメンとなり、このアモン即ちアミーを神として信仰したことが、ギリシャからインドに伝えられて、西の方で説かれたアミーの教えはこうであったと釈尊が韋堤希婦人に説かれたことが中国へ伝わって行った時に、アミーを「阿弥陀」という中国文字で書いたのが「阿弥陀経」なのである。釈尊がエジプトはインドから見て西の方であった所から「西の方で」と言われた事が、「西方浄土」と言われるようになったのである。

 アガシャといわれた方は後にインドに「釈尊」として出生された方である。釈尊として出られた霊が肉体をもたれた時には常に天上界からは、キリストとして出られるべき霊が指導され、キリストとして出られた霊が肉体を持たれた時は、常に釈尊として出られた霊があの世から指導される事になっている。だから釈尊が説かれた道も、キリストが説かれた道も、同じ一つの真理であり、今回、高橋信次という名で肉体を持たれた方が説かれた真理も同じなのである。アガシャ−釈尊という名によって真理を人類に示す為に出られたその偉大なる霊が、肉体を持たれる時に常にこの世に肉体を持って補佐役をされるのが舎利仏として、大目連として肉体を持たれた霊である。だから釈尊は、舎利仏と大目連が帰依して来た時に、「縁生の懐かしい友が来た。かの二人は後から来たけれども、過去において多くのものを学んでいるから、みんなを指導するようになるであろう。」と言われたのである。



9.アガシャは死についていう

1.肉体を去った後の魂は、キリスト教では「最後の審判」が来るまでは醒めることなく眠っているというがそれはウソである。毎日毎日が、全ての霊魂にとっては、自分で自分の心を反省し修正しなければならない審判の日である。

2.死んだ後に、何もしなくても良い極楽での休息と恩恵の世界に入るというのも間違いであれば、永遠に呪いの世界に入るというのも間違いである。

3.死ねば直ちに仏になって、天地の秘密の全てを知り尽くすのでもなく、また、あの世とこの世のあらゆる問題を全て解決出来る力を持つのでもないのである。大抵の場合は、死んだ後は、この世で生きていたと同じような状態を維持するのである。だからこの世で無智であった人は、あの世でも無智であり、この世で賢明であった人はあの世でも賢明である。この世にいた時と同じような精神状態にあり、天国また地獄といっても、それはその人が心の中に造った天国と地獄の反映に外ならないのである。光の使者である高級霊は、奈落の底に下りて来て光を与え、その人が新しい意識の境涯へ進歩するように霊感づける。

 アガシャが教えた「死の意義」は「かいまにた死後の世界」の150名の体験者が言っている事と同じである。死んでしまえば、一切の罪、一切の苦しみから逃れるのではないのである。如何にこれまでの宗教家が間違った事を説いて来たか。間違った宗教家の言うことを正しいと信じてみても、あの世で救われる事にはならないのである。生きている時に、間違ったことを正しいと信じて死んだ人達は、正しい信仰をして来たという意識だけが強いから、光の指導霊に反省を促されても、正しい信仰をして来たという意識に邪魔されて、正しく反省することが出来ないのである。素直に反省できるようになるまでには時間がかかるのである。

 宗教団体の講師達が、如何に、その教団に忠誠を尽くして功労があったとしても、その教団の教義が間違っていれば、この間違った教義を説いた罪を問われることになるのであるから、間違った教義を説いている教団で、最も功労のあった者ほど深い地獄に堕ちるということになるのである。だから講師たちは、自分で納得出来るものだけを説くようにして、教団から給料をもらって生活しているからといって、自分で納得出来ない教義は伝えないようにしなければならないのである。



10.自殺した霊魂

 アガシャは、「あの世はこの世の延長線上にある。この世で清算していなかった苦しみは、そのままあの世に継続される。」と言っている。自殺してみても決して楽にはならないのである。この世で心に描いたそのままの心があの世で再演されるのであるから、自殺した霊は、あの世でも自殺するのである。楽になると思って自殺するが、依然として心の苦しみは残っているから、その心の苦しみから逃れようとして自殺する。自殺してみても心は楽にならないからまた自殺するという悪循環を繰り返すのである。どうしても心の転換、反省が出来ずに苦しいと最後は「助けてくれ」と、生きていた時の近親者を思い出す。すると憑依された人が同じように自殺すという場合がある。だから近親者に自殺した人があったとしたら、その霊によく神理を教えてやらないといけないのである。

 第二次大戦の激戦地であった硫黄島の摺鉢山で、今も日本兵に突撃の喊声(かんせい)が聞こえて、アメリカ軍が駐留していた当時、アメリカ兵は恐ろしくてそこには近づかなかった、という記事が週刊誌に載っていた事があるが、死んでも尚敵をやっつけるという意識が残っていて突撃を繰り返すのである。

 自殺が神に対する反逆であるというのは、人間は神の意識の延長線上にある霊なのであって、本質は神の霊である。だから、人間を神の子というのである。その神の子である霊が、自分自身の霊の偉大さを顕現するために、一つの使命・目的を持って生まれて来たのに、その使命目的を果たさずに、自分で自分の生命を縮じめることは神の計画の中にある自分の計画を、神の意志に叛いて放棄してしまうことになるからである。この事が徹底しない限り、如何に道徳的な説得が行われようと、社会対策が行われようと、この世界から自殺、心中は無くならないであろう。



11.殺人犯の霊魂

 自殺が神に対する反逆であると同じように、殺人は、その人のうえにおける神の計画を、自分の意思によって中断させるのであるから、自殺と同じように神に対する反逆である。深い悔恨(かいこん・・・後悔し残念に思う)に打ちひしがれた殺人犯人は、自分の心の中で,「自分みたいな者は生きている資格がない。このようなひどい罪を犯した自分は、どのような殺され方をしても仕方はない。」と、必ず自己処罰の情景を描く筈である。このような処罰をされることが、自分にはふさわしいと思った状態を、あの世で再演するのである。それとも、その殺人の現場の情景が心から離れず、どうしてあんな事をしたのだろうと、殺したその瞬間のことが頭から除かれないならば、殺人の情景が繰り返し繰り返し再演されて苦しまなければならないのである。

 証拠が見つからず、この世で無罪となったとしても、あの世でも無罪になるということはないのである。この世で無罪になったとしても、殺人の罪の恐ろしさはその人自身が一番よく知っているのであり、人を誤魔化すことは出来ても、自分で自分を誤魔化すことは出来ない。人は気づかないが、その人の心の中に、「自分みたいな大きな罪を犯したものは絶対に幸せにはなれない。自分みたいな者は早く死んだ方がましだ。」と思うのである。その自己処罰の心がその人を死へと誘導して不慮の死を遂げるということになる。だから、殺人犯人は、この世での裁判は逃れることが出来ても、自己処罰とあの世での殺人の再演からは逃れることは出来ないのである。



12.正しさの規準  慈悲と愛  悟り

 国境は人間が勝手にこしらえたものであって神が決められたのではない。人間の対立も人間がつくり出したものであり、およそ全ての対立抗争は、神の心を知らない人間の心がつくり出したものである。多くの人はこの世だけを見て、この世だけで正しいと言われるものならそれで良いと言う考え方を持っているが、正しいというものはこの世だけでなくあの世でも正しいものでなければならないのである。

正しさの規準は何も難しいことはない。

1.心の安らかさ

2.調和

 この二つである。

人にはウソはつけても、自分で自分にウソのつけないその心で自分の心の在り方、行為を見てゆくのである。「慈悲と愛」は、「我々はこの宇宙の創造主である一つの神によって生かされている所の同じ一つの命の兄弟である。」、と言う自覚から起こって来るものである。宇宙と自分とが一体であり、全ては神の生命の表現であり、人間が同じ生命の兄弟であるということは、「宇宙即吾」の体験をすると自然に感得されるものである。

 釈尊の慈悲、キリストの愛もそうした自覚から説かれたものなのである。自分で自分を傷つけることもいけないが、また他人を傷つけることも結局は自分を傷つけるのであると言う自覚、他人を愛することは自分で自分を愛することなのであると言う自覚、これこそが、自殺や殺人、そして集団的な殺人行為即ち戦争をしてはならないという根本的理由なのである。

 「汝ら殺す勿れ」、「不殺生戒」の教えはそこから出て来たのである。

 釈尊やキリストは、我々とは比較にならない偉大な方であるが、しかし、釈尊として現われて説かれた生命も、キリストとして現われて説かれた生命も、本来、自分の生命も、本源においては「一つ」であつたということが悟れないと本当に悟ったとはいわれないのである。さらに全宇宙が、全世界が、全ての人が、全ての物が、みな一つの生命なのであった。目で見た形は分かれていても、本質においては分かつことの出来ない一体なる生命であった、既に調和されている一体なる生命であったという自覚、悟り、ここに最終的な「平和」が唱えられなければならない本源があるのである。


−おわり−


正法誌

1978.09月 創 刊 号

1978.10月 第02号

1979.03月 第07号

1980.01月 第17号 より