高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







特 集 因縁を超越する道-1

1.因果の法則と周期律
2.布施
3.なぜ悪いことをした人が反省しにくいか
4.反省は神の慈悲である
5.他力信仰の最大の誤り
6.個人の上に現われる運命の原理(因果の法則と周期律)は、集団と国家の上にも現われる
7.運命の修正
8.世界を救う道、日本を救う道
9.霊的国防、この原理は個人の運命へも当てはまる
10.一貫性のあるのが神理であり正法である
11.心に不幸を描くことがなければ不幸にはならない
12.不慮の災害に合わないために
13.一見、不幸と見えることが幸福になる前兆である




特集 因縁を超越する道-2  因縁を自分で切る法

1.悟りのない禁欲は難行苦行となる
2.神道の「精進落し」と「直会」
3.なぜ、大戦後はいつも道徳的に頽廃するのか
4.社会現象には必ず自浄作用が起こる
5.民主主義と言う名によって失われた自浄作用
6.なぜ正法でなければならないか
7.信仰にも段階があるから、特定の教団の信仰を持続する必要はない
8.桐山靖雄著 「一九九九年、カルマと霊障からの脱出」のウソ
9.真のユートピア実現への道
10.カルマと霊障を断つ道
11.不成仏霊を成仏させる正しい方法
12.供養のことば






1.因果の法則と周期律

 現象の世界には、因縁の法則と周期律があまねく働いている。因果の法則は、人間の運命、心の面においては因縁とか、因果といっているし、物の面、すなわち物理化学的な面おいては因果律といって、同一原因に対して同一結果が出るという法則によって知られている。周期律というのは、一定時間ごとに全く同一の現象が全く同様に繰り返される現象のことで、地球が太陽の周りを1年かかって回るのも、分子原子の各電子の運動も、人間の心臓の鼓動も肉体細胞の活動も、全部一定の周期を持っている。地球の自転の周期も、公転の周期も一定していて、去年は1年は365日で太陽の周りを1回転したが、今年は、500日で回るというようなことは絶対にない。

 心の面の周期律は、3年、5年、7年とその倍数である。善いことをしたからといってその結果がすぐに現われて来る事は絶対にない。善いことをすればよい事が来ると言われたからというので善いことをしてみたが、一向に善いことが出て来ないので、もうやめたという人があるが、善いことの結果が現われるのが3年、5年、7年であるから、思いがけない時にひょっこり善いことがあって助かったという体験を持っている人があるのは、過去に善いことをしていてそれを忘れた時に、善いことだけがひょうっこりと偶然に出てきたように思ってしまうだけのことである。善いことをしたら必ずその結果は現われる。結果が現われたらその原因は消えてなくなる。一つの原因に対しては一つの結果が現われるので、一つ善いことをしていたら一生続けて善いことが現れて来るというようなことはない。例えば、自動車も、ガソリンがある間はいくらでも走る。今まで走っていたのだからといってガソリンが無くなっても走るということは絶対にない。走らせる為にはまたガソリンを入れればよいのである。だから、一つ善いことをしたら必ずその良い結果は来るが、それ以外には何一つ善いことをしなかったら、もう善いことは出てこないのである。だから、自分の人生を最高に幸福なものにしようと思う人は、毎日毎日何か一つは善いことをすると言う事をすれば良いのである。



2.布施 

 善いことをすることを布施というのであるが、布施には二通りある。

「布」とは、人に神理を教え伝えること、人に愛を施すこと、人に親切をすること等、心で人を救い、善いことをする事、このことをキリストは「人の道を直くせよ」と説かれた。道が凹凸で、ぬかるみであると歩けない。だからその道を平らにして人が通りやすいようにせよと言う事で、人生は人が歩く一生の道である。その人生の道を直くするとは、その人に神理、法を伝えなさいと言う事である。

「施」とは、物のない人に物を施して助ける事である。
神理を伝えることはその人を一生救うことになる。いやそれだけではない。親から子へ孫へと伝えれば子孫代々に救われることになるが、物を与えたのは、その物を与えた時だけである。例えば、金のない人に金を与えてみても、その金がある間はラクであるが、その金がなくなるとそれっきりでまた困ることになる。金品を与えるだけのことは、逆にその人を怠けさせることになる場合があるから気をつけなければいけない。
 布施は、人を愛する、神を愛し神理を愛するという心からの布施でないと本当の布施にはならないことを注意しなければならない。今までの宗教団体は心の大事さを説かずに形の上だけの布施を説いて来た。そのために、心を汚くしたままで欲望から布施する人が多かった。そいう布施は本当の布施にはならないのである。何事も真心からということが大事なのである。

釈尊の時代、人々は心から寄進をし布施をした。それは釈尊が偉大なる方でいられるからということもあるが、それよりも、その寄進、布施を通して、一人でも多くの人々に方を知る機会を与えて多くの人々を幸せにしたいという心からであった。人はそれぞれに仕事を持っている。人に法を伝えたいと思っても仕事があるのでなかなか人に伝える時間がない。しかし、何とかして法を広めて多くの人の為になりたいという人達は、人に伝える力を持っている人を助ける事によって、自分の出来ない事をその人にやってもらって伝えてもらいたいと言う事で、その人に布施するということであった。
 釈尊は今の宗教家のように、自分の財産をふやすというようなことをされた訳ではない。釈尊ご自身は、何一つ身につけらねなかった。釈尊自身も自分の全てを布施された。真心から布施する人が、幸せになるのが因果因縁の法則によって当然な事である。心から布施する人を「大黒」と言われたのである。




3. なぜ悪いことをした人が反省しにくいか

 善いことをしたら善い結果が出てくるし、悪いことをしたら悪い結果が出てくるという因果の法則は大抵の人が知っている。知っているのになぜ悪い事をする人がなかなか絶えないのであるか。それは悪い事をしてもすぐ結果が出て来ないからである。悪い事をしたらすぐ次の日に悪い結果が出て来るというのであったら反省する事も早くなるであろうが、原因結果の周期律は3年、5年、7年であるから、善いことをして善い結果が出て来るのは3年、5年、7年周期律であるし、悪い事をしてもその結果が出て来るのは3年、5年、7年の周期律であるから、悪い事をしてもすぐ結果が出てくる訳ではない。大抵3年も経つと、特にその日その日の行き当たりばったりの生活をしている人ほど、3年前にどんな事をしたかも忘れてしまっている。既に悪い事をしたという記憶もなくなっている頃に、3年前の悪い結果がぽこっと出て来るものだから、何も悪い事はしていないのに偶然にぽこっと悪い事が起こったように感じてしまうのである。よく言われる「忘れた頃に災害がやってくる」と言われるのもそういうことからである。

 この世に偶然と言う事は何一つないのであるが、それはその原因を自分がつくったことを忘れている為に、偶然のように感じられることだけのことだけなのである。




4. 反省は神の慈悲である

 人間は一日のうちに善い事悪い事、色々な事を思う。その一つ一つがみな結果として出て来るのであるとしたら、この世に幸福な人は一人も居ないということになる。如来とか菩薩といわれるような段階の人になれば別として、それ以外の多くの人は善い事悪い事など色々な事を思う。一つの原因に対しては必ず一つの結果が現われてくるというのであったら、とてもこの人生はたまったものではない。外面からはどんなに、謹厳実直で、聖人だと見られている人でもきれいな女の人を見て欲心を起こさなかったと言う人はないであろう。高橋信次先生から正法を教えられてやっと「心に思うこともいけないのである」ということが実行できるようになったが、それ以前の特に若い頃の私はそうであった。常に清浄でありたいとする自分と、内心の醜さとの葛藤に悩んだものである。この善悪二面の自分の人間性に大いに悩む人が真に神理を求める資格のある人であるといえる。
 悪い事を思っても、思った通りの悪い事が必ずしも出て来ないのは、人間には反省するという心(この心は知性と理性の総合された心の働きである)が与えられているからである。反省しない、反省できないという人は知性、理性の働きが鈍いか、全くない人である。そういう人を感情だけで動かされる感情的な人というのである。

「あ悪かった。すまない。」と言う反省、懺悔があれば悪い事が起こって来るという運命は修正出来るのである。
この色々の人生の出来事を反省する事が出来るような目覚めた心を持つようになればなるほど、心の力で運命を変化改善させる力は拡大されて来るのである。




5. 他力信仰の最大の誤り

 他力信仰の最大の誤りは、人間の運命は偶然の法則によって支配されるのである。だからその運命を支配している神(仏)に祈って、物を捧げて、善いことだけ授けてもらうように、悪い運命はよこしてもらわないようにしようと考えて、自分の言った事やった事を少しも反省させようとしないことである。

 運命は他動的に、他の何ものかの力によって支配される事は絶対にないのであって、全て自分の心がつくり出す自動的なものである。だから、他力信仰は、神の最大の慈愛の現われである反省を、この反省を否定していることは実は神の慈愛を否定している事になっているのであって、心の一方では神を否定し、一方では神の救いを頼むという矛盾を信者の心の中につくり出しているのである。だから他力信仰で救われて者は一人も居ないのである。




6.個人の上に現われる運命の原理(因果の法則と周期律)は、
  集団と国家の上にも現われる


 個人の運命の周期律が3年、5年、7年とその倍数であると同じように、集団(会社、社会団体、民間団体等)と国家の運命も同じように3年、5年、7年とその倍数の周期律で動いてゆくのである。集団、国家となると、たくさんの人々の心の集積になるので、一つの原因がつくられても、それが結果として現れて来るのにそれだけ多くの時間を要するということになる。
 昔から「十年ひと昔」と言っていた。十年すると世の中が変わると言う事である。女性の服装も流行々々と言っているが、いつの間にかしら昔に返ってしまう。
 国家の運命は、30年、50年、70年、この70年の時を基礎にしてそれから30年となると100年と言う事になるから、30年、50年、70年、100年、150年、170年、200年という尺度で見てゆかないといけない。
 個人がつくった業は個人が果たさなければならないと同じように、国家がつくった業は国家もまたその業を果たさなければならないのが因果の法則である。
 信仰は個人の問題で、国家の事は関係ないと言う人があるが、いくら個人として立派な信仰をしていても、国家全体としての悪い業があればその国は100年、200年という永いといえば永いが、しかし、宇宙の悠久の時間からいえばあっという間の時間の中で、その国の不運衰退に遭い、個人としての自分はどんな事があっても救われるが、他の人の不幸不運な状態を見なければならないと言う事になる。
 16世紀、ヨーロッパでは宗教戦争の時代が終わると、ヨーロッパ諸国は一斉に東洋進出を始めた。日本では織田信長、豊臣秀吉の時代である。スペイン、オランダ、ポルトガルといった国々がその頃隆盛を極めていて日本にも色々な文化をもたらせたが、これらの国々は衰退して今は三流国になっている。この三国に代わって登場した、イギリス、フランスも今は昔程の国力は無く衰退一途である。一番遅く登場したのがアメリカであり、アメリカは何事にも世界一である事を誇りとして来たがアメリカの力も次第に弱まって来ている。それを挽回しようと言うのでタカ派のレーガン政権が登場してきたのであるが、私はレーガン大統領が強気に出て高圧的な政策を取れば取る程それは裏目に出て、かえってアメリカの国力を衰退させて行くと思っている。大正八年(1919年)ロシアに共産主義政権が誕生して今日まで約70年、そのソ連も共産主義の内部矛盾が暴露されて来た。
 高橋信次先生が昭和50年に、ソ連、中共には食料飢饉が続くと予言されたように、既に今年も不作である。そのような状態になって来たのは、ヨーロッパ、アメリカの白人諸国家は、東洋、有色人種の国々を植民地にして詐取するという国家としての悪業を積んで来たからである。白人諸国家にはそのことに対する反省は少しもない。
 日本は第二次大戦以前の事を反省し、アジアン諸国に対しては無償供与という形で善行を積みつつある。だからもし、アメリカを筆頭とする白人諸国家が、これから日本の発展を邪魔しようとするならば、逆にそのことが日本の国家としての運命にはプラスになって行くのである。
 仏国土、ユートピア実現は、世界の各国家が、また民族が、これまでのあり方を反省して、一斉に世界平和の実現を目指した時に実現するのであって、世界の各国家が反省するまではその国は、その国が国家として積んで来た善行悪行の因果の法則の実現に任せなければならないということである。

 16世紀ヨーロッパ諸国が東洋侵略を始める時に、ローマ法王庁で「有色人種は人間か動物か?」という討議が行われて「動物ではない」と言う事になったが、白色人種の心の中にはっきりとした有色人種差別の心があった。日本人に対しても、この人種差別の心があったことが第二次大戦の原因となっているし、この差別の心は、第二次大戦が始まるとすぐ日系人の財産を没収して強制収容所へ入れて虐待したという事実となり、今それが米上院議院で問題にされている訳である。
 アメリカの建国が、アメリカ土着のインデアンを、白人が銃でもって虐待した事から始まっていることは、少し歴史を勉強している人なら皆知っている事実であり、この事実はインデアンのジョン・コスター氏が「この大地、わが大地、アメリカ・インデアン抵抗史」という本にまとめている。西部劇を良く見る人なら、アパッチ、シャイアン、スー族等のインデアンの名を良くご存知であろう。純朴なインデアン達は、狡猾な白人達によって銃で、毒薬で、病原菌で、酒を飲む事を教えられて殺され弱体化させられて、土地を奪われてアンデスの不毛の山麓へと追い立てられて行ったのである。
 ヨーロッパから白人がアメリカ大陸へ渡って行って約300年になるが、アメリカが建国されて200年になる。建国200年祭を終わったばかりのアメリカは、インデアンの人達から「われわれの祖先の土地を返せ、これまでの損害を補償せよ」と訴えられているし、今また日系人から人種差別で告発されているのである。この上に、今アメリカの黒人の祖先は、皆アフリカから奴隷として連れて来たのであるし、この黒人達が「われわれを祖先の土地に帰せ」とか「これまでの損害を補償せよ」と告発されたらアメリカ政府はどうするのであろうか。こういうことは、因果の法則が国家の運命として現われて来た訳である。
 個人の運命の責任が全て個人の責任にあると同じように、国家の運命は、たとえ指導者は代わってもその国家が責任を負わなければならないので、それは先祖がやったことで現在の我々は責任は無いと言う訳にはゆかないのである。
 ソ連が共産革命をやった時に3000万人を殺し、その後も粛清という名の人殺しをやり、中共が6000万人を殺したその業が両国にはある。この業がますます強くこれから現れて来る時代に入る。
 物の世界においても、霊の世界においても、光は規則正しい一定の法則を持っている。その調和ある光の波動が防礙(ぼうがい)され乱されるとそこに暗黒が現れて来る。未来の出来事は、宇宙の大調和の波動と調和しているか、いないかと言う事によって予測できると言う事になる。



7.運命の修正

 会社が赤字を出し、その責任を取って社長が辞めたからといって赤字をなくすと言う事にはならない。その赤字は次期社長が引き受けなければならないのと同じように、国家が一つの業をつくってしまったら、指導者が代わったとしてもその業は引き受けて解消してゆかなければならないのである。各国の元首、大統領、首相という人達は早くその点に気づいて国の運命を修正しないといけないのである。
 アメリカのレーガン大統領が、中性子爆弾(戦車郡の上にこの爆弾を落とすと、戦車は破壊されずに中の人員だけを殺傷するという)の製造配備を声明したのは八月の初めであった。アメリカがこれから製造すると声明した時は既にアメリカは造っていたのである。と同様に、ソ連も既に製造済であったのである。
 兵器産業は平和産業に作り変える事は出来ない。まして原子力を、原爆、水爆、中性子爆弾と破壊用にした物は絶対に平和用には転換できない。それは破壊用、人殺し用に使わないと仕方がないものとなるのである。
 
想念がものをつくり、運命をつくるのである事は皆さんは既にご存知であろう。水面、地表面から蒸発する水蒸気が、一定の飽和点に達すると雲となり、冷たい空気にふれると雨となって降って来ることはまた既に知っていられることである。それと同じように、その人の絶え間のない想念は、善いものであれ悪いものであれ、ある飽和点に達するとそれはその想念にふさわしい運命となって形の上に現れて来る。だから、運命を良くしようと思う人は、日々の想念を良い運命が来るような明るい想念に切り替えなければいけないのである。いつもは暗い想念を持ち続けながら、善いことが来ますようにと祈ってみても運命は良くならないのである。
 ここで皆さんに良く考えておいてもらいたいことは、原爆、水爆、中性子爆弾というものは、人間を殺傷する以外には使い道のない代物であるから、それらの製造を命じ、また製造している人々の心の中に想念されるものは、この爆弾によって沢山の人々が殺されるのであると言う想念だけである。多くの人が幸せになりますようにという想念は全くないのである。だからそれらの爆弾が製造されれば製造される程、人殺しの想念は積み重ねられて増大して行く事になる。水蒸気が一定の飽和点に達すると雨となるというのが自然の法則である。そのように、それらの爆弾が製造されてゆくごとに人殺しの想念は蓄積されてゆくのであるから、ある一定度まで蓄積されると、その人殺しの想念が形になって現われるということになる。これを「業の自壊作用」と言う。
 このことからして、それらの爆弾が戦争という手段によって使用されなくても、ある一定度蓄積されるとその想念(業)の自壊作用によって、それらの爆弾が、接触、取り扱いミス、誤って運搬中に落とすとか等の事故によって自然爆発することが起こってくるということになる。アメリカでも、もうそのような事故で技術者がたくさん死んでいるし、ソ連でも今から20年前、1957年末から1958年初めに、南ウラル地域で地下貯蔵庫が何らかの原因不明の理由で大爆発を起こし、約1000平方マイルが放射能で汚染されて住めなくなっている。
 アメリカ、ソ連は物を破壊せず、人間だけを殺傷する中性子爆弾、殺人光線の製造に重点を置き始めた。その理由は、旧型の水爆は人間を殺すだけでなくあらゆるものをも破壊し、その土地に数百年も人間が住めなくなるような危険な放射能を残すから、人間だけを殺す中性子爆弾、殺人光線の方がより人道的だというのである。
 人殺しをするのに人道的とか何とかそういうことが言えたものではないと我々は思うのであるが、現実にアメリカ、ソ連の指導者たちはそう思っているのである。実に恐ろしいことである。
 今まで度々、核の自己爆発が起こっているということは、早く核爆弾の製造をやめよという警告なのである。こういう時に、これは警告だと気づいて修正するとよいのであるが、今のところ修正するどころか益々製造に力を入れている。多くの人を殺すことを目的にしている国が、永久に繁栄すると皆さんは思われるであろうか。個人でも悪いことをし続けていると「俺はこんなことを続けていると、ロクなことにならないなあ」と思うのである。悪い事を続けていて、善いことが来るということは絶対にない。だから、人殺しを目的とした核爆弾の製造に夢中になっている国は、その想念の自壊作用によってやがて滅びることになるということになるのである。



8.世界を救う道、日本を救う道

 私がここに説いている正法は、世界を救う道なのである。アメリカ、ソ連の指導達が、この正法を知って核爆弾等の製造をやめればよいが、今のままで製造を続けるならば、やがてアメリカ、ソ連は滅びることになる。この二つの国は前にも書いておいたような悪行を既につくっているのである。その上にさらに悪行を重ねているのである。反省しなければやがてその業は自壊する。だから、私がここに説くことは、アメリカ、ソ連をも救う道なのである。
 では、日本はどうしたら救えるか。
 アメリカのレーガン大統領の強硬姿勢に押されて、自衛隊増強論が盛んになってきている。超タカ派の人達は「日本も核爆弾を持て」と言っている。一方、左翼の人達は、反対、反対を叫ぶだけで、ではどうすれば良いかの具体策はなんにも示さない。ただ、反対と叫んでいるだけである。具体的な実行策を持たない感情的な論を小児論と言うのであるが、左翼の人達の論は小児論である。かといって日本がこれから核爆弾を持てるかというと持つことは出来ない。もし持つことが出来たとしてもソ連に対抗する程の核爆弾を造ることになったら一ぺんに日本は経済的に波状してしまう。ではどうすれば良いのか。それには「霊的国防」しかない。




9.霊的国防、この原理は個人の運命へも当てはまる

 霊的国防とはどうすることであるか。それは日本人一人一人が、心の中から敵対観念をなくして、先ず自分の心が神の光に満たされ、日本の国全体が神の光に包まれていることを想念することである。先に、物の世界も霊の世界も、規則正しい光の波動によって成り立っていると書いた。その光の調和ある波動が神の光の波動なのであるから、人間が神の光を破壊することは絶対出来ないのであるから、日本全体が神の光に包まれていることを想念することである。(これを読まれた方は、早速この事を実行して頂きたい。)
このことを実行するに当たっては、まず、あなた自身が自分の心を調和させ、自分自身が神の光に包まれていることを想念した上で、日本の国全体が神の光に包まれていることを想念することである。
私はこのことを書くにあたって、私がこれまで色々なことを経験させられて来た私自身の運命の不思議さを改めて考えさせられずにはいられない。

 私が神は光であり、全てのものはみなその光によってつくられていることをはっきりと見せられたのは昭和15年6月であった。当時、私は第6師団歩兵第45連隊(鹿児島)の連隊副官になることになっていた。副官として一週間位勤務した後、私は発病し連日42、3度という高熱と下痢に襲われて、その状態が1ケ月半も続いた為に副官は出来なくなった。昭和16年9月18日、第一次長沙作戦の火ブタが切られ、その日、私は尖兵(せんぺい)中隊長として長沙近くを流れる?刀(ろうとう)河畔に前進した。湖畔には長沙へ向かって退却する1万位の中国軍が?刀河を渡ることが出来ずにうごめいていた。中国軍の一部は河岸を遮って退却しようとしていた。連隊主力はまだ3キロも後方を前進中であり、とにかく連隊主力の進出を待って連隊が攻撃態勢を取り易いようにするために、私の中隊を展開して山を占領し、私の指揮下にあった大阪の独立山砲中隊を展開させて、退路遮断と河畔にいる中国軍の攻撃を命じた。中国軍は迫撃砲13門をもって反撃してきた。迫撃砲弾が至近距離に炸裂し始めて死傷者が出るし、山砲も砲身の中に砂が入って、そのまま撃てば砲身が破裂するので撃てなくなった。今から考えるとそこまでしなくてもとと思えるのであるが、そのころ日本軍隊の中には、一旦、占領した地点は絶対に離してはならないという考え方があった。もし離してしまうと卑怯者という汚名を着せられて恥とされていた。当時、卑怯者という汚名を着ては軍人としては生きて行けなかった。卑怯者という汚名を着たくない、恥を知れと言うことによって、どんなに沢山の生命がムダに死んで行ったか。それは今にしてはじめて言えることであるが、いくら砲弾が飛んできたからといって私はその山を下りるわけには行かなかった。

「宇宙即我」を体験して神の実在を心で観ていた私は、砲弾の飛び交う中で「神に祈れ」という天からの声を聞いたのである。肉体的に考えれば、もう既に何人かの部下が死傷し、山砲部隊も死傷が出、山砲を運ぶ馬もやられているその山の上に座ることは、みすみす敵の砲弾でムダに殺されるようなもので正気の沙汰とは言われないであろう。もちろん、死への恐怖がある。しかし、私は、その肉体中心の考えよりも、心の中から湧き起こってくる「神に祈れ」という言葉を信じた。
戦時中、日本人は全て神に対して「日本が勝ちますように」と祈った。こういう祈りは正しくないのである。日本は神国である。いつでも神に護られている。と教えられ信じてきた。日本人は神というものはどんなものであるかを真剣に考えたことはなかった。祈りさえすればその祈りは必ず聞かれるものと単純に信じてきた。戦争が始まると、全国津図浦々で日本が勝ちますようにという戦勝祈願が行われた。しかし、結果的には、神社はアメリカの爆弾で焼け、日本は負けたのであった。終戦の時、実は日本人は「なぜ戦勝祈願が聞かれずに敗戦したか」「なぜ神社が焼けたのか」ということから、「本当の神とは何か」「本当の信仰とは何か」を反省しなければならなかったのである。

「日本が勝ちますように」と祈ることは、実は「相手が負けますように」と祈ることと同じである。相手が負けますようにと祈ることは、日本人よりも相手の国の兵隊が沢山死にますようにということを祈ることになる。
肌の色や言葉は違っていても、人間はみな神の子である。神に生かされている同じ人間が、一方は沢山死んで、私達だけが勝ち残りますようにと祈ることが、神の心に叶うことであろうか。神の眼から見たら、どちらも同じ神の子なのであるから、どちらも繁栄し発展し幸福になって行くことを願われるはずである。
 だから
神に祈る時には、神の心に波長を合わせて祈らないとその祈りは聞かれないのである。私は日本人であり、将校として何人かの部下を持っているのであるから、常識的に言ったら日本が勝ちますようにという祈りをすべきである。しかし「神に祈れ」という天からの声を聞いた時、私はそういう祈りはすべきでないと思った。隣の歩兵第23連隊(都城)方面でも激しい砲銃声がしている。間断なく落下する砲弾の炸裂で辺りは砲煙に包まれ土が草が飛び散っている。その中に私は座った。禅定を始めた。私の心の中には敵も見方もなかった。争いの真只中で争いのない調和された神の世界を描いた。その時、私は私の心が神の光に満たされ、私の体全体が神の光に包まれていることを想念し、中国軍が13門の迫撃砲で日本軍をやっつけようと発射しても、そういう争いの想念は神の光には波長が合わないから、そのような砲弾はどんなに破裂しようと、神の光の内側にまで進入して来ることはない事を念じた。私がそういうことを念じたからといって中国軍が砲撃を止めるわけではない。いぜんとしてポン、ポンという迫撃砲の発射音が聞こえると、空気を切って飛んで来る砲弾の音が瞑目して禅定している私の耳に入ってくる。
その一瞬、肉体的な死の恐怖心が心をかすめる。その死の恐怖心を私はもう一つの心でパッと斬り捨てて「自分は神の光に包まれている」と念ずるのである。一発だけ砲弾が飛んで来たわけではない。矢継ぎ早に飛んで来るのであるから、その心は刹那々々の心の働きである。臍下丹田(せいかたんでん)に呼吸をためて息をつめ「神に護られている」と念ずると当然炸裂するはずの砲弾が不発になるのである。その連続である。前の方に、頭上を跳び越して落ちるのはみな炸裂した。私はもし、私の祈りの力が足りなくて死んだらそれでもいいと思っていた。そのうちの砲弾が飛んで来なくなった。都城の第23連隊が渡河して中国軍の後ろへ廻ったからである。
砲弾が飛んでこなくなって、一番最初に私の所へ来たのは指揮班長の加藤准尉(じゅんい)であった。「隊長殿、ご無事でしたか」と私のいる所へ登って来た。

このことがこれが1回きりだったら偶然だということで私はこのことをそう深く気にとめることはなかったと思う。


昭和16年12月8日、大東亜戦争が起こり、昭和18年1月、第6師団はソロモン群島ブーゲンビル島に上陸した。2月ガダルカナル戦は失敗に終わり、残った部隊はブーゲンビル島へ撤収して来た。ガ島は餓島といわれるように、優勢な米軍の前に、日本軍は弾薬も食料もなく沢山の兵が餓死した。ブーゲンビルの防備についた私達は、米軍との決戦を覚悟してとても生きて帰るとは思わなかった。
 ガ島を撤退した後、中部ソロモン方面の第一線はガ島のすぐ隣のニージョジア島が第一線になった。米軍の反撃が始まり、ニージョジア島の防備を堅めるため、私の大隊はニージョジア島の南東支隊司令部に隷属する命令を受け、7月13日、駆逐艦3隻に便乗してムンダに上陸した。私達の駆逐艦は夜間航行でブーゲンビルのブインから南下したのであったが、コロンバンガラ島の沖で米軍の駆逐艦に発見され、コロンバンガラ沖の野戦といわれる海戦の真只中を突っ切ってムンダに上陸したのであった。6月30日、米軍はレンドバー島に上陸していた。レンドバー島の米軍の重砲陣地が築かれてゆくのがムンダから双眼鏡でよく見える。あの重砲陣地が完成すると、あの陣地からムンダの飛行場と陣地へ砲撃が始まり、米軍の上陸を迎え撃たなければならないと思うと、制空権と制海権を奪われている上に、劣勢な兵器しか持たない日本軍がいずれは敗れてガ島の二の舞を演ずるようになるであろうことは明らかであったから、レンドバーの重砲陣地が完成に近づいてゆくことは、一日一日死へ近づいてゆくわけで、どっち道、戦死することは間違いないし、要は戦死するまでどこまで暴れられるか私は腹を決めていた。部下達も思いは同じであったろう。日頃よくしゃべる兵隊もだんだんしゃべらなくなって黙々と陣地構築をしていた。
レンドバーの米軍重砲陣地が完成するとムンダ飛行場めがけて試射が始められたが日本軍はただ撃たれ放しであり、ガ島からの飛行機による偵察爆撃、海上からの高速艇による威力偵察が始まった。8月4日、夜が明けてみるとレンドバー島を拠点として海上には米艦隊が横に並んでいる。いよいよ米軍上陸である。私はムンダ左地区隊長として三ケ中隊を指揮していたが、歩兵第13連隊(熊本)の第11中隊は夜半に表ムンダへ上陸用舟艇で転進を命ぜられたので残りは二ケ中隊になった。飛行機の爆撃と軍艦とレンドバー島からの砲撃の下に一斉に米軍は上陸を開始した。その夜までにムンダ飛行場は米軍の手に落ち、表ムンダ方面の日本軍は潰滅的損害を受けた。表ムンダと裏ムンダの間に侵入した米軍が裏ムンダの日本軍陣地をめがけて攻撃してくるのは時間の問題であった。案の定、夜が明けると裏ムンダ陣地への爆撃が始まった。海岸の糧秣(りょうまつ)集積所も爆撃されて食料も吹き飛ばされた。
 いつもより爆撃の頻度が激しくなり爆撃機の数も増し、ジャングルがなぎ倒されていった。幸いなことに第一線陣地は完全に秘匿されて一兵も爆撃で死ぬことはなかった。その為にアメリカ海兵隊の攻撃を撃退することが出来たのであるが、しかし、私のいた本部周辺は徹底的に爆撃された。第一線との通信線は切断され、連絡に飛び出していった兵隊は皆爆撃でやられ、本部の位置を変えるために、位置を選定しますと言って飛び出して行った副官も軍医も書紀も全部やられてしまった。私一人が本部の位置にいても第一線の指揮は出来ないし、こうなったら第一線陣地の壕で指揮しなければだめだと、その壕を飛び出して第一線陣地めがけて走り出した所を米軍の偵察機に発見され、ガ島上空に待機していた編隊が十分後には頭上に現われてわたし一人をめがけて爆撃を始めた。爆撃されたジャングルの跡というものはとても歩けるものではない。
 第一次長沙作戦の時、砲弾の中に座った時のことを思い出し、爆撃の真只中に禅定した。その時も私の心の中には、敵味方と分かれて争っているんだという思いは微塵もなかった。爆弾の威力は、中国軍の迫撃砲弾の比ではない。飛行機の胴体を離れた爆弾がシューと空気を切って落ちてくるその音に一瞬「こんどはやられる」とふっと思うのである。その瞬間、その恐怖心をパッともう一つの心で断ち切って「我は、神の光に包まれている」と臍下丹田に息をため、ジッと息をつめて強く念ずるのである。ところが前に後ろに遠く落ちるのは破裂するが、身近に落ちて、それが破裂したら当然こっぱみじんになって吹き飛んでしまうというような近いところに落ちたものは全部破裂しなかった。持っているだけの爆弾を落としても死なない私めがけて、こんどは150メートル位の超低空で5機編隊が、替わるがわる機銃掃射を始めたが、私の座っている4・5メートルの所まで弾丸は打ち込まれるが、私の体には当たらなかった。私の頭上には空の薬莢がカラカラ落ちてくるだけであった。余程恨めしかったと見えて、機銃も一発残らず撃ち終えても私が生きているので、最後に100メートルの低空に降りて来て、ジャングルの高い木の梢をかすめるように飛んで来て風防ガラスを開け、手榴弾を投げつけてガ島へ帰って行った。その夜、米軍が攻撃したのであるがこれは撃退した。
 私が爆撃されるのを第一線陣地から見ていた宮内正准尉は、戦後、私に「あの時の隊長殿の姿はまさしく観世音菩薩かと思われました。私が生きて帰る事が出来たのは、隊長殿のあの姿を見て、神あるということを信ずることが出来たからであると思います」という手紙をくれた。
 私はこの戦闘の一週間後に、「鹿児島ノ連隊付ヲ命ズ」という電報をもらってこのムンダを去ったのであるが、ムンダの日本軍はその後焼く1ケ月近く死闘を続け、9月上旬になってこの島を撤退することになるのである。

 昭和55年8月、インド国立教育研修所教授、哲学博士、国連アジア道徳会議議長、アニル・ヴィジヤランカール氏と「宗教と哲学と道徳」について話し合った時、私が戦争中のその体験を話ししたら「あ、それと同じ話がリグ・ヴェーダ聖典(今から3000年位前)に欠かれてあります」と教えて下さった。
 最初から日本人全部がこれをやると言う訳にはゆかないのであるから知った人から順次にこの祈りをすることである。
 日本の国全体が神の光に包まれていることを常に心の中で祈るのである。そうして、日本は国全体として徳を積むようにすることである。出来うる限り後進国の発展の為に援助することである。




10.一貫性のあるのが神理であり正法である

神は一つであり、神理は一つである。個人が救われる原理も、集団、国家が救われる原理も一つでなければならない。今ここで説くような救い原理を説いているのは私しかいない。こうした祈りをする人々、そしてその家は、天上界から見ると光って見えるのである。

 
この祈りの仕方を整理すると次の順序となる。

1. 心の波動を神に合わせる。
    敵味方の想念を心の中から一掃して、相手も神の子であり、相手とともに救われてゆくことを祈る。

2. 自分の心がまん丸く光り輝いている状態を念ずる。
    胸の辺りに風船玉のような光の玉を描く。

3. 自分の体全部が神の光に包まれている状態を心に描く。

4. 祈っている間に雑念、また生命に対する恐怖心がチラッとでも心をかすめたら、その都度その瞬間に、
   心の中でそれを斬り捨てて否定して、その瞬間に「われは神に守られている。神と一体である」と念ずる。
   その時は、下腹に息を止めて、うんと下腹に力を入れ下腹のところで切り捨てて否定して、その瞬間に神の生命であり、
   神と一体であることを肯定するのである。
   一ぺん否定して肯定しても、また雑念、不安、恐怖心が起こってきたら、その都度否定し肯定することを繰り返すので
   ある。


 神は絶大であり神の力を破壊する力はこの世にはないのであるから、神の心に波長を合わせることが最高最大の力となるのである。

 教祖また指導者に誓って心の波長を合わせるといっている宗教団体があるが、そういう人達は本当に神理を知らないのであるから、人に波長を合わせよという宗教を信じてはならない。
もし、その教祖、指導者が死んでしまったら、どこに波長をあわせるのであるか。




11.心に不幸を描くことがなければ不幸にはならない

 私が終戦後、宗教活動をするようになって以来、今日まで、私の周辺に起きた奇跡は全てこの原理の活用である。光を念ずる時に光が現われるのである。我々は実際は光を念じなくても神の光に包まれているのであるが、日頃の我々はそのことに気がつかないでいる人が多いし、また、神の光に反した間違った暗い、不平不満等の心を持っていることが多いし、すでに神の光はそこにあっても、我々の心が波長に合わなければ神の光を現すことは出来ないし、だから、神の光を念ずるということは、自分の心を光にするスイッチを入れることなのである。皆さんの家のテレビでも、電気は既に既にそこに来ているのであるが、スイッチを入れないと画面が写らないのと同じである。自分の心の波長が、地獄霊や動物霊に波長が合っていると、そのような画面が写るのである。
 ある時には神に波長を合わせ、ある時には地獄霊や動物霊に波長を合わせ、あの人がこう言ったから、この人がこう言ったからということでその人に波長を合わせているという事になると、その人の人生には、良いこと、悪いこと、間違ったこと、色々に現れて来ることになるのである。

「不動神」は、常に神の心に波長を合わせているところから生まれてくるので、神の心に波長を合わせるということをしないで、ただ単に「不動信を持ちたい」といくら念じても不動信を持つことは出来ないのである。




12.不慮の災害に合わないために

 通り魔殺人とかあるいは東京の新宿でビルの屋上から投身した人が、路上に通りかかった人にぶつかって、その青年が死んだという事件、こういう事件はまだこれから増えて来るであろうが、こういう場合、今までの宗教指導者は「殺されて人は、前世でその人を殺したから、今度は自分が殺されたので、みな前世の業である」と説明をしている。それは間違いである。自分の心の中に、人を殺しまた人を殺すと同じような想念がなかったら、我々はそういう人にそういう場面に会うことはないのである。殺された人は、前世でその人を殺していたかであるという事が正しいということであったとしたら、人を殺した人は、前世で自分が殺されたから今度は自分がその人を殺したのであるということになって、人を殺すということが正当化されることになる。人殺しを正当化していいはずはない。それが本当だとするならば、例えば、強盗に入られて物を盗られた人は、前世でその人の物を盗っていたからであるということになり、人を殴っても、その人は前世で自分が殴られたから殴り返したのであるということになって、全ての悪事が正当化されることになり、そうなればこの世は混乱して、この世からは一切悪事は無くならない事になる。そういう悪事を正当化する宗教は宗教ではない。
全ての原因を、前世の業だとか先祖の業だと説いているのは間違いである。この世のことはこの世の人々の心に原因があるのである。

 ほとんどの宗教団体が前世の業、先祖の業を説いている。私が某宗教団体対策宗教者会議の事務局長をしていた時こういう事件があった。
 都内のある支部長が、会員から30万円借りて営業資金にした。ところが商売がうまくゆかない。会員が返済してくれと言ったら「わしが借金して金が返せないのは、前世で君がわしから借金していたからだ」と、こう言うことが本当だとしたら、思う存分、金を借りまくって、金を貸してくれた人にはみな「前世であなた達は、私から借金して返さなかったのを、今、帰してもらったんだ」と言えばそれですむことになる。それでは社会は混乱して悪知恵の働く者が得をするということになる。
会員から金を借りて返せなくなった支部長の中にはこういう人もいた。「わしは金を返そうと一生懸命になっているが、わしがお前に金を返せないのは、お前のお題目が足らんからだ。お前の信心が足らないから、お前は貸した金を返してもらえないのだ」盗人たけだけしいと言う言葉があるが全くその言葉そのままである。こういう事件が某会内で沢山起こったので、その後会は「会員間の金銭貸借はしてはならない」と言う指令を出したのである。
 ところで某会会長H浩氏が突然死んだ。H氏が亡くなった後、A氏が会長になったがそのA氏もIDの犠牲になって早く死ぬかもしれないという記事をある週刊誌が書いていたが、その記事の初めに「通り魔殺人で殺された、新宿で飛び降り自殺の巻き添えをくった青年も、どちらも熱心な某会会員であった。次々と会員の中で変死する人が多くなって、会内で問題になっているところに今度のH浩会長の急死である」と書いてあった。
 通り魔殺人で殺された婦人も真面目ないい夫人であり、新宿で死んだ青年も親孝行のいい青年だったと新聞は書いていた。だから新聞を読んだ人達は、どうしてそういういい人達がああいう目に遭うのであろうかと疑問に思うのは当然である。この世で原因が見つからないとすれば、今まで間違って言われてきた前世の業を引っ張り出して来て、あの人達は前世で人殺しをして来たから、今度は自分が殺されたのであると、ツジツマを合わせたくなるのもまた自然である。しかしこれは前に書いたように、殺人を正当化することになるから正しくない。

 ではその原因はどこにあるのであるか?
 人間の心は現在意識(表面の心)と潜在意識(奥底の心)とに分かれている。表面ではどんなに立派に見えていても、心の奥底で相手を憎んだり怨んだり、また、相手が不幸になることを望んだり、あるいは「あいつを殺してやろうか」とか「あいつが死ねばいい」とか、色々思う場合がある。四国で、精神病院を何回も出たり入ったりしていた息子が、斧で親や兄弟を殺したという事件もあった。精神病者は、その本人の意識が暗くなっている所へ自縛霊、地獄霊が憑依しているのである。精神病者だからといって四六時中、霊が憑依しているわけではない。憑依している霊が離れた時はおとなしくなり、短い時間であっても正常に返る時があるのである。自縛霊、地獄霊は自分が攻撃的な心破壊的な心、相手が不幸になることを喜ぶ心、あるいは、自分が攻撃されるのではないか等と不調和な心を持っているから、たとえその家族が日頃はいい人達であっても、その精神病者に対して口で言わなくても「この息子には困ったものだ、早く死んでくれればいいのに」とか「殺してやりたいくらいだ」と潜在意識(心の奥底)で思うと、本人の意識はそれを感じなくても、憑いている憑依霊がその殺意を敏感に感じて「おいおい、お前は殺されるかも知れんぞ」と耳元でささやくのである。誰でも自分が殺されるとなると死にたくないから、自分を守るために無意識のうちに防衛的な気持ちではあるが、動作は攻撃的になって飛びかかって行って殺すつもりはなくても、結果的には殺すと言うことになってしまうのである。地獄霊は「お前はあいつを殺さんとお前が殺されるぞ」とささやくから、自分を守るためにそうするのであるから、殺人を犯した後で本人が言うのは決まって、「自分は殺すつもりはなかった」と言うのである。
 麻薬常習者の精神錯乱も憑依による。だから、そういう人達に対しては家族あるいは周囲の者は、恐れたり、忌避したりしないで、自分の心を愛に満たし(自分の心を愛によって満たすとその人の心からは光が出る)、その人も神の子であるから、その人が神の光に包まれて幸せになっている状態を心に描くと、自縛霊、地獄霊は光が一番恐ろしいのであるから、その光に恐れをなして憑いておれなくなる。自縛霊や地獄霊が憑いていてささやかなければその人はおとなしくしていることになる。だから、四国の事件の場合も、家族全部が愛の心を持って光を送っていたら、ああいう事件は起こらなかったのである。

 要するに、
人間の運命を支配するものは、表面の現在意識よりも、奥底の潜在意識の方が強いのであるから、表面はその人がどんなに立派に見えていても、潜在意識即ち心の奥底で、人を鋭く切り裂いて批判したり、人を抹殺しようと思ったりすると、類は類をもって集まるという心の法則によって、殺意を持っている人と波長が合って事故に遭うということになるのである。自分が正しいという正義感の強い人がなぜ不幸になるかというと、自分の正しさを主張する余りに自分に反対する人を憎んだり恨んだり、あるいは抹殺しようと思ったりするからである。あんなに立派な正しい人がどうして運が悪いのであるかという疑問を持っている人は多いと思うが、それは潜在意識がどう思うかということが強く運命に影響して来るのである。

 だから、自分が正しい場合でも相手を憎んだりしたら自分がやられるのであるから、相手を憎んだりせずに自分の心を愛によって満たして相手が幸せになることを祈らなければならないのである、。自分の心の中に、そういう事件に遭うような心がなければ絶対にそのような事件に遭うことはないのである。
だから、通り魔によって殺された夫人も、また飛び降り自殺にぶつかって死んだ青年も、表面は立派であったかもしれないが、心の奥底の潜在意識はどうであったかということを問題にしなければならないのである。どちらも某会の幹部であったということであるし某会は非常に戦闘的攻撃的な教団であるから、会に熱心であればあるだけ戦闘的攻撃的な心を持っていたことが想像出来る。それなら巻き添えで殺された子供はどうなのか?まさか小さな子供がそういう心を持つことは無いだろうという疑問を持たれるに違いない。それは15歳以下の子供の運命は親によって支配されるから、子供には原因がなくても親の運命の巻き添えを喰うことになるから、子供を愛する親は子供を不幸にしない為にも明るい善い心を持たなければならない。そういう事件に遭遇しても巻き添えにならずに助かる子供もいる。そういう子供は守護霊、指導霊に強く守られている特別の使命を持って生まれて来た子供であるから、大事に育てなければならないのである。

 ともかく、
自分の心の中に不幸になる原因がなければ、我々は絶対に不幸に遭うことはないのである。
昔から「人を呪わば穴二つ」と言う。これは、人が不幸になることを心で思えば、その念を受けて相手も不幸になるが、自分も不幸になるということである。だから自分が不幸にならずに幸福になりたかったらこの反対をすればいいのである。自分が幸福になりたかったら人が幸福になることを祈ればよいのである。「あんなひどいことをした奴が、どうして幸せになることを祈れるか」と言われるかも知れない。確かにそういう人のために祈ることはいまいましいし馬鹿らしい気がする。しかし、人が不幸になることを祈って、自分だけが幸福になることは絶対にないのが法則なのであるから、自分が幸福になりたかったらどんな人の幸せでも祈らなければならないのである。と言う事は、我々が神の心に成りきることである。太陽は、人が太陽に向かって「太陽の馬鹿野郎、お前の世話なんかになるものか」と言う人があったとしても、それには関係なく照らし続けるのである。それと同じように、我々も太陽の心になって全ての人々の幸せを祈り続けることである。そういう心になることによって我々の魂は向上してゆくのであり、また、幸せになってゆくのである。


 正法会有明道場主任藤本さんは血統書付のスピッツがいなくなった。誰かが連れて行った訳である。相手の名前がわからなくてもこういう時は「私の家のスピッツを連れて行った人よ」と呼べば、必ず守護霊達がその人の心の内面にそのことを通ずることになるのである。
「あなたは私の所の犬を連れて行って、それで儲けものをしたと思っていられるかもわかりませんが、そういうことをしていたのではあなた自身が幸せにならないのです。私はあなたの幸せを祈っております。あなたが幸せになられるには、あなたはその犬はやはり元の所に返される方がよいのです。私達の知らない間に返しておいて下さい」とその晩、祈られた。そうしたら翌朝、夜が明けてみたら玄関の所に返してあった。
 
 ある弁護士の人は正義感が強いだけに相手に対する攻撃精神も旺盛であった。引き受けた弁護が、何時もややこしい問題で、自分で立派な弁護をしたつもりでも何時も負けてばかりいた為に収入も少なかった。相談を受けたので、攻撃的な心を捨てて相手の幸福を祈らなければならない事、また法廷全体が神の光に包まれて裁判官も神の子であると祈ること、出て来る結果を全て神の心として感謝すること、以上三つのことを教えてあげた。そうしたら客筋が全部変わってしまって難しいまた負けるような弁護の依頼は一つもなくなって、余り時間もかからずしかも勝つような問題だけを頼みに来るようになって収入も増えた。

キリストが「汝らを責め憎むもののために祈れ、されば汝らは救われん」と言われたのも、それが神理だからである。

研修会に来られた人達に対して私は、
「もしこの中で今まで誰かを憎み怨んで来た人があったとしたら、この場でその人を赦し、その人が幸せになることを祈りなさい。あなた方のその祈りは、祈った瞬間に相手に通じて相手も変わっているはずである。だから、この研修会が終わって家に帰られたら、その人がすっかり変わっているはずである」と言う話をする。すると必ず帰ってみたら変っていましたと言われるのである。ウソかホントかは、あなたが実践してみるとわかることである。




13.一見、不幸と見えることが幸福になる前兆である

 あなたが正法を一生懸命やっていたのに不幸になってしまった。事業に失敗した。会社を辞めなければならなくなった。色々な事情で住居を変えなければならなくなった。あるいは、何も暗い心を持ったり、人を憎んだりしたこともないのに病気になってしまった。というようなことが起こって来たとしたら、あなたはそれを喜びなさい。それはそのことによってあなたの魂が飛躍的に向上しなければならない場に立たされているのである。
 今までやっていたことが続けられなくなったということは、それはあなたがその事から勉強しなければならなかった魂の勉強は、もはや勉強し尽くしてしまったから、もはやそこに居ても何も魂の向上にはならないから、今度は違った環境で魂の勉強をしなければならないということなのである。
 既にそこでの魂の勉強が終わって、今度は別な違った環境で勉強しなければならないという事になった人が、一向にその事に気づかずに環境を変えようとしない場合、守護霊や指導霊が強制的にその人を病気にしたり、あるいは仕事を失敗させて、どうしても、嫌が応でも変えなければならないという状態にさせることがある。

 人生の生き方には二通りある。

 一つは、地位、名誉、金銭、物質欲を中心にして魂を腐らせてしまうか。
 一つは、魂を大事にして、そういう物に執着を持たないか。

 前者の生き方はやさしいし無難な人生を送ることが出来る。後者の生き方は周囲に金銭欲、物質欲に執着している人が多いだけに苦難な道を歩かなければならない。しかし、最後の勝利は後者の行き方によって得られるのである。
だからもし皆さんが正法を信ずることによって、生活に変化が起こって来たとしたら、それこそ魂を成長させるチャンスが来たと明るい心で迎えることである。







特集 因縁を超越する道-2

        
因縁を自分で切る法



1. 悟りのない禁欲は難行苦行となる

 釈尊に性的欲望について注意された弟子があった。その弟子は一物があるから欲望が起こるのであると思ってその一物を斬ってしまった。そのためにその弟子は死んでしまったのであるが、欲望は心にあって肉体にはないのであるから、心をそのままにして肉体だけを苦しめてみてもそれで欲望がなくなることはない。この簡単な原理がどうしてわからなかったのか不思議でならないが、昔の人達は欲望の源は肉体にあると考えた。だから、煩悩執着をなくせよ、といわれると肉体の力を弱くすればいいと考えて断食や滝行等荒行をするようになったのである。
肉体をいくら苦しめてみても心が悟らなければ煩悩執着はなくならない。比叡山や高野山の麓に遊郭があったのは、難行苦行をしても性的欲望をなくすることの出来なかった僧達がストレスにまで高まった性的欲望を解放し発散するための場所であった。
高僧達によって代々守られてきた神聖な修業の道場であると見られてきた比叡山や高野山も、裏側から見れば欲望は肉体にあると思って悪戦苦闘の揚句に欲望を持ったままで死んでいった数えきれぬ程の僧達の死屍(しかばね)累々とした山だといえる。



2. 神道の「精進落し」と「直会」

 日本の神社神道はまた不思議なしきたりを持っている。お祭りがある前になると祭主や祭人達は一ヶ月位、精進潔斎(しょうじんけっさい:神に仕える為、飲食物をつつしみ身を清めること)するが、お祭が終わったとたんに「精進落し」すなわち「直会」(なおらい)をやって俗人に帰るということをやる。お祭の間だけ「神人合一」になるが、後は俗人として生活すると言う訳である。ここまで書けば、何故伊勢神宮のとこに遊郭があったかおわかりでしょう。

 平安末期から鎌倉時代にかけて伊勢信仰の強化が行われ、御師(おんし)と呼ばれる祈祷師が、参宮の斡旋、宿泊の世話、祈願、各檀家への神札の配布などの世話をし、室町時代になると各地に伊勢講ができ、江戸時代になるにつれて、講参りといって伊勢講全体がお詣りしたり、また代表が一人あるいは二人と代参をするということになり、せめて一生に一度はお伊勢詣りをという熱望がやがて爆発的な「お陰参り」となった。その名残が今でも農村地帯では伊勢講として残っているし、部落の後ろの小高い丘の上に伊勢神宮の方に向かって礼拝した後が残っている。

 お伊勢詣りに行く人達は、神様にお詣り行くのであるから、行く前から、また道中も、精進して行った。お詣りが終わるとこれで役目は終わった。さあ精進落しだと言う訳で遊郭が繁盛した。お伊勢詣りに行った夫が旅の途中の女と一緒になったり、遊郭で帰りの旅費まで使い果たして帰れなくなったり、乞食のようになって帰ってきたという悲劇もあった訳である。
煩悩執着は肉体的な欲望から起こるのであるから、煩悩執着をなくするためには肉体の欲望をなくすることであると考えた所から、逆に、かえって煩悩執着の虜となって迷ったままで死んで行った人が多いことを考えた時、迷える霊もまた増えて来たことを考えなければならない。
煩悩執着をなくする道は本能を抑圧することではなくて、本能を正しくコントロールすることである。本能を抑圧することはキリスト教もまた犯して来た。修道士、修道女のあり方がそうである。

 7月末の新聞に香港観光局が、日本の観光客で金遣いの荒いのは、坊さん、教師、中小企業経営者の順で、坊さんも教師も、お布施で生活しているからであろうか。3年に1つ売れればいいと言われてる高価な硯(すずり)が注文に応じ切れないと言う事がかいてあった。昔から坊さんと教師の宴会でのエロばなしが一番汚くてひどいと言われているのも、職業柄、日常は欲望を抑圧していることが、海外へ出た時、また宴会などで、信者や父兄から見られる事はないという開放感から噴き出して来る訳である。だから本能は抑圧する事だけでは解決しないのである。潜在意識の中に欲望を抑圧したままで亡くなれば、日頃どんなに謹厳な坊さんでもその欲望に比例した地獄界に行かなければならない。




3. なぜ、大戦後はいつも道徳的に頽廃するのか

 私が前記のことを書いたのは、何故大戦があった後で必ず道徳的に頽廃した時代が現われるかを知ってもらいたいと思ったからである。
 世界の歴史を振り返ってみると、大戦があった後では必ず道徳的に頽廃して時代が現われている。それは国家が戦争目的のために総動員される為に、精神の高揚と物質の節約が強制され、個人の自由も拘束され、当然、精神的にも物質的にも禁欲を要求される。特に第一線で戦争しなければならない軍人はそうである。しかし、その禁欲にも限度があって特に性的に禁欲を強制される為に生ずる強姦暴行事件が起こる所から、それをなくそうとして設置されたのが慰安所という性的な処理機関であった。

 戦地の軍人の心理状態は大きく分けると二つに分けられる。
一つは、いつ死んでも心残りのないように、心をきれいにして死んで行こうと、日頃から身辺を清潔にして、国を愛する純粋な愛国心から、悟った高僧のような態度で死にのぞんだ人達。
一つは、大きな目的のために自分を捧げるという純粋な高揚された心を持つことなく、戦争によって個人の自由を拘束され、欲望を抑圧されて仕方なし死んで行かなければならないと、この世にいっぱい執着を残して死んだ人達。
この二つの心理状態からして、全ての戦争体験も遺書も二つに分かれているのである。
 戦死だからといって戦死した人達が皆そのままストレートに天上界に行くわけではない。戦死したその時の心の状態でそのままあの世に行くのであるから、きれいな心で戦死した人達はその心の状態のまま天上界に行くが、性的欲望や物質的欲望等を最後まで持っていた人達は、そのまま執着の世界に行く。そうした欲望に執着した霊が、大戦争の後ではいっぱい増えることになる。
生きている人達は、戦争中、精神的、物質的に禁欲させられていたのが戦争が終わるとそれが解除されて、特に第二次大戦後はアメリカ軍の占領政策による3S政策(スポーツ・スクリーン・セックス)もあって、人生の目的は本能すなわち性欲と食欲を満足させることにあると教えられた結果、一斉に性欲と食欲を満足させることに狂奔することになった。
 正しい道徳観を持った人達がどんなにそうではないと叫んでみても、そうした良識ある人々の声は大衆の耳には届かなかった。
悟って死んだ人はあの世で目覚めると、肉体は脱ぎ捨てて精霊になったことをすぐに悟る。そうして霊界では霊界で勉強しなければならないことに気づくから、肉体を持った人に憑依することはないが、執着を持ったまま死んだ人は、あの世で目覚めた時に自分の意識はそこにあるから肉体が死んだとは思わずに自分はここに生きていると思うのである。肉体を持っていた時のそのままの心を持っているのであるから、肉体を持っていた時のように肉体を支配しようと思う。しかし、自分ははや肉体ではなく自分の自由になる肉体はそこにないために、人の肉体を支配して欲望を達成しようとするのである。

「類は類をもって集まる」という牽引の法則によって、自分と同じ欲望を持っている人に引かれて行く。欲望を持った人がその欲望をどうして果たそうかと考えている時に、欲望を持った霊は一番その人の煩悩を支配しやすいのである。欲望を持った霊はその人の脳細胞を支配し始めると、その人は自分でそう思ったと思っているのであるが、実際は霊が思わしめているのである。
そういう人の頭を霊視で見ると黒っぽくなっている。最初は霧がかかったみたいにかすんでいるが支配される度合いが強くなるに従って黒くなって行く。


 このようにして、これまでに現われてきた大戦争後の道徳的廃頽はあの世の霊とこの世の人人の合作なのである。
 道徳的廃頽による社会の混乱、犯罪等が多くなってくると、少しでも社会全体のことを考える人々は何とかしなければいけないと考える。



4. 社会現象には必ず自浄作用が起こる

 個人が罪を犯すとその罪に対する反省と再び罪を犯してはならないとする自浄復元作用を起こすと同じように、人の集団である社会国家も個人と同じような自浄復元作用を起こす。
幕末から明治維新、そして明治十年西南の役まで、日本は内戦によって沢山の使者を出した。西南の役を最後として内戦が終わると、とたんに禁欲は開放されて国民道徳は頽廃し始めた。1890年(明治23年)10月30日の教育勅語は、その頽廃を防ぎ君臣父子の大儀を教育の中核として儒教道徳によって国民思想を統一しようとして発布された。
明治27.8年の日清戦争、明治37.8年日露戦争が終わると、社会には消費機運の上昇、労働農民運動の展開、道徳の弛緩の傾向が現われた為に1908年(明治41年)戍申詔書が発布されて上下一致して勤倹の美徳を説き、国民思想の矯正が行われ、教育勅語と共に国民精神を作興することになって終戦に至り、アメリカの占領政策により教育勅語は廃止され、日本国民は国民道徳の規準を失って現在に至っている。




5. 民主主義と言う名によって失われた自浄作用

 終戦前は、国民の動向を見て政府が国民全体のあり方を修正することが出来たが、終戦後は民主主義と言う名により政府が復元作用を持つことが出来なくなってしまい、個人もまた民主主義の名の下に自浄復元作用を失ってしまって「自分の思うことを自分がするのが何が悪いか」という言い方で欲望を肥大させるばかりになり、法律に触れるような犯罪は余り犯させなくても、本来は心を浄化して霊の向上を説かなければならない宗教までが、現世利益を求めるだけで終わってしまい、信仰という名の下に現世的欲望を肥大させてしまっている。滔々(とうとう)として頽廃に向かう現世の世相に、誰がどうして歯止めをかけ、自浄復元せしめるであろうか。



6. なぜ正法でなければならないか

 それはもはや「正法」でしかその役割を果たすことは出来ない。中、高校生は純粋である。大人は生活に疲れ果てて新鮮な直観力を失ってしまい、信仰も日常生活も刹那的に惰性でやってる人が多い。8月上旬に正法会として初めて中、高校生の研修会を実施した。
 この中、高校生の研修を実施することは私の20年来の念願であった。なぜか、それは最早50歳代以上の人は自分の人生の大半の役割を終わった人達で、この世での仕上げをしなければならない人達であるし、若い人達に正法を伝えておかなければ正法も全世界に広まって行かない。だから私はいつの時代でも、年配の人に対してはそれなりの指導をして来たが、同時に若い人達の指導にも力を入れて来た。

 生長の家の本部講師をしていた時は、生長の家こそ唯一の宗教であると思っていたから、生長の家の教えを中、高校生にも徹底させようと思った。昭和36年というと、まだどこの教団でも中、高校生の研修はやっていなかった。
生長の家本部の飛田給道場でも、成長の家本部の計画で始めたばかりであったが、30名位しか参加者はなかった。当時、私は南九州3県(熊本・鹿児島・宮崎)の強化部長をしていたが、南九州3県特に熊本を中心として父兄を説得し、300名の高校生を集め、臨時列車を借り切って上京し、飛田給道場(東京都調布市)で研修を実施した。それがきっかけとなって成長の家では全国的に中、高校生の研修を実施するようになって現在に至っているのである。
 しかし、現在は、私が始めた時の精神は無くなって偏狭なものになってしまっている。私が生長の家で中、高校生研修を始めてから20年になるのであるが、その間全国で合計すれば20万近い人数が研修を受けたであろう。親が生長の家に熱心で、子供にも熱心に信仰させようと思って研修会に参加させるのであるが、研修を受けると、子供はほとんどの場合、生長の家嫌いになってしまうのである。

 この夏正法会の研修参加者の中に元生長の家の会員であった人の子供が4人いた。生長の家の研修に参加したことのある高校1年の男子は、「生長の家の研修を受けた時、その直後2、3日はそうかなと思って感激しているんですが、1週間ぐらいすると疑問が湧いて来て「俺は騙されているんじゃないか」と頭を2、3べん振ってみるんです。その内に講話と実際とは違うということに気付いて来て熱がさめ、研修に参加したことが馬鹿らしくなって来ていたので、今度の正法会の研修もまあそんなものだろうと思って、参加するのに余り気は進まなかったのです。ですがこの研修では、たとえ地味で、教えられた量はそう多くありませんでしたが、一生かかって勉強しなければならない何かを学んだという気がして、これなら一生続けて行かれます」と言っていた。
この高校1年の男子は、GLAの研修にも参加したのであるが、GLAの研修は、ギターを弾いて歌って踊って遊ぶということが主であったから、真面目に神を信じ、正しい信仰をしようと考えている純粋な生徒達を満足させることは出来ないばかりか、GLAを大嫌いにしてしまったのである。
高校1年生が「これなら一生続けて行かれる」と思うことは、それだけで一生続けて行かれる価値が正法にはあるということである。
 生長の家だけではなく、他の教団の講師も、まさか自分達が指導していることが、返ってその教団の信仰を嫌いにさせているという現実には気づいていないのであろう。もし知っていたとしたら、毎年同じような研修を続けられるはずはないであろう。

 正しい神を知り、
肉体は霊を修行する為の乗り物であることを知っているこの子供達は、信仰とは自分の心を正しくコントロールすることであることを知っているから、欲望や本能に心を翻弄されることはない。
 国家全体として、社会全体としての自浄復元作用が失われてしまったら、最後は一人一人が自覚して心を正しくして行く以外にない。
 正しく神を信じ、正法を守り、欲望、利欲に迷わされない人達はその霊は光を放っているから、迷った霊が憑依して来ることは絶対にない。




7. 信仰にも段階があるから、特定の教団の信仰を持続する必要はない

 自分を神格化している自我意識の強い教祖(指導者)のいる教団では、その教祖に取り入ろうとする者と、正しくさえあれば神がご存知であると思うものとの間に必ず葛藤が起る。このような場合、特に動物霊を神として信仰している教団(動物霊も宇宙大神、阿弥陀如来、観世音菩薩等を名乗るから、主宰神あるいは本尊がそうであるからといってそれを直ちに信ずることは危険である)では、真面目な信仰をしている人達が反逆者扱いされる。かと言ってそういう扱いをしていながら、さてその人達がその教団を離脱するというと、非常に淋しく感じて止めて欲しくなかったと言う。全く理解出来ない心境の持ち主が多い。口では慈悲だとか愛だとか説きながら実際は冷たい仕打ちをする。そういう指導者の多い教団にいくら義理立てしてみても、だからといって正しいと思われる人達を厚遇するということは絶対にしない。矛盾を感じて勇気を奮ってやめる人達を、なぜ未練がましく後から色々と言うのであろうか。神仏を信仰せよと教える教団であった、去る者をして気持ちよく去らせるだけの心の広さがなければならないはずである。

 動物霊に支配されている教団では、正しいかどうかの基準は神理ではなくて、本部または本山に沢山金を集める人間が正しいのであって、正しく神理は説いても金集めの少ない、また下手である人は悪人とまでは言わないが、教団にとっては好ましからざる人物と言う事になるのである。そういう教団では、教祖に媚を売る幹部が、正しいと思われる幹部を手玉にとって辞めさせるでもなし、かと言ってその人を生かして働かせるということもせず、猫がねずみを追い詰めて手玉に取るように寄ってたかってなぶり者にしようとする。正しい神理即ち正法を知っている人達は、徒党を組んで相手の人をなぶり者にするようなことは絶対にしない。追い詰めてその人を辞めさせようとすることもしない。
教団の講師、幹部また奉仕している人の信仰が、ただ表面的なものになって、神仏の名を利用して生活の資を稼ぐというような状態になると、そこには決して神の光は現れない。神道的に言うと神徳は現れないということになる。
釈尊が宇宙の中心に須弥山があると言っていられるが、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界の姿を展望するとそれは山のように見える。その須弥山の裾野はこの世の現象界に通じている。裾野から段々頂上へと狭くなってゆくように、上の方に従って人数は少なくなる。

 信仰とは丁度山登りと同じで、一歩一歩、歩いて登らなければならない。ある教団では裾野から一ぺんに頂上へ飛び上がることが出来るように、即ち「この信仰をしていると、死ねばすぐ実相の如来界、またその上の神の世界、即ち金剛界に行けるのである」と教えているが、そういうことは出来ない仕組みになっているのである。それは幼稚園の児童が一足飛びには大学教授にはなれないのと同じであるから、死ねばすぐ仏様になるとか、神の実相世界にゆくのであると説いている事を信用してはならない。あの世はその人の心の段階によって行く世界が違うのである。
霊界の段階の人が教祖になることはないが、もし、霊界の段階の人が教祖になるとその下の幽界の人々は、その霊界の段階の教祖を素晴らしい指導力のある人だと思うのであるが、霊界以上の段階の人から見れば「あの程度で教祖といえるのか」と言う事になり、神界の段階の人が教祖になると、その下の霊界、幽界の段階の人から見れば、素晴らしい指導者に見えるが、同じ神界あるいはその上の菩薩界、如来界の段階の人から見ればお粗末だと言う事になるのである。霊界、幽界の段階の人の方が人数は多いのであるから、神界の人が教祖になると、人数の多い大教団をつくる事が出来る。大教団の教祖だからといって]、その教祖を神様みたいに思うことは間違いである。

 もし、あなた方がどこかの教団の信者であって、その教団の信仰に矛盾疑問を感じて来たとしたら、あなたはもはやその教祖を越えなければならないのである。矛盾や疑問を感じながらその教団にとどまっているのは、頂上を目指して山を登る事はせずに、途中の山腹か何処かで足踏みをしている事になるのである。
たとえ神界の人であっても正法を知っている教祖は「この教祖を越えて山頂へ登りなさい」と言える心の広さを持つことが出来るが、正法を知らない教祖は辞めて行く人達を「恩知らずだ」と言って脅迫する。
自ら山に登ることをしない他力信仰の人達は、ひとたびどこかの教団に所属すると、その教団の一切に囚われてしまって、いつのまにか自分の信仰だけを正しいとする狭い心になってしまい、心理に対しての神理に対しての広い理解を示すことが出来なくなり、神に真心を現しているように思い詰めて凝り固まって、他の信仰をしている人に対して排他的になり、一方で慈悲とか愛と言う言葉を口にしながら、一方では他宗の人を悪魔だとさえ言うようになる。
そうなっては、慈悲とか愛とか調和とかと言う言葉とは全く反対に争いを生ずる事になる。現実に今の日本の宗教界はそのような状態になっているのではなかろうか。

 正法をしている人の特徴の一つは真の寛容の精神を持っている事である。神界の段階の教祖の教えで満足出来ている人はそれで良いのであって、そのうちに矛盾を感ずるようになるかもわからないが、矛盾を感ずるまではその信仰を続ければ良いのだし、もし矛盾を感じて来たら何も義理立てしてその教団にとどまっている必要はないのであるからさっさと辞めて、自分の矛盾を解決してくれる所を求めて行けば良いし、本当は教祖の立場にある人が、最初に「私の教えに満足出来なくなった人は、自由にこの教団をやめて正しいと思う道を求めて下さい」と言わなかればならないのである。
私の見る所、そのように言える広い心を持った教祖は、現在の日本の教祖の中にはいないようである。
また、正法を知っている教祖であったら、自分より以上の段階にある人がいることを知ったら、自ら教祖の地位を降りてその人に教えを乞うことが出来る心の広さを持つことが出来るが、正法を知らない教祖は、内心では自分より以上の存在の人だと思っても、教祖という立場での名誉欲、権勢欲、支配欲、金銭欲の快感を失うことを恐れて、そういう人を排斥するのである。

 自分はまだ四合目か五合目に居るのに、既に頂上近くまで登っている人に「私より先に上に登ってけしからん」という言い方は出来ないし、小学生が大学教授に向かって「あなたはどうして私より先に大学教授になったのか」ということが出来ないのと同じように、神界の段階にある教祖は、既に菩薩界にいる人に対しては「あなたは、神界の私の説く教えに満足していなさい」と言う事は絶対に出来ない事でなのであるが、現在の日本の教祖達は正法を知らない為に全ての人々に対して「私を越えてはならぬ、私に服従しなさい」という傲慢な態度を取っていて、それを正しいと思っているし、また、その教祖を盲信狂信している信者は、そういう教祖を素晴らしいと思っているのである。

 信者がその信仰している教団や教祖を愛するということは大事なことであるが、その愛教心が他を排斥するようになったら、それはもはや愛でも何でもないのであるが、盲信狂信している人達は、愛教心を持つが故に既に真実の愛を失っているということに気がつかないでいるのである。
その人が頂上を目指して登ろうと努力しているのを、誰もそれを止める権利はない。だのに正法を知らない教祖は、そういう権利を持っているように錯覚している。
日本人は永い間、儒教の道徳を日常生活の基準としてきた。儒教では「恩」の大事さを説く。天地の恩、先祖の恩、親の恩、師の恩等々、日本の道徳は恩づくめであった。恩義のしがらみにからまれて色々な悲劇も起こって来た。その悲劇は今も日本の宗教団体では起こっている。

 最初、その人がある教団の信者になると、その人はやがてその教団の信仰に疑問を持つようになっても「恩」という道徳観念を持って辞めることをしない。心では辞めて他の信仰をしたいとと思うのであるが、師の恩に叛いてはならないと考えて辞める勇気を持たない。一方、教祖の方でも「恩を忘れるな」「恩を知れ」と言う言葉で信者を一生縛りつけようとする。
 我々の登らなければならない頂上は遥かにまだ遠い。人が頂上を目指して登ろうとするのを止めるのも悪であるし、恩と言う言葉のしがらみに引っかかって、自ら登ることをしないのも悪である。言葉で信者を操って、神や信者の心を欺く教祖のような人を偽善者というのである。このような偽善者は、自分の心の中に後ろめたいものを持っている。自分の心が既に神から離れていることを知っているので、信者からその心を見透かされまいとして、さも神を大事にして神の守りがあるかのように見せかける為に、色々な儀式をつくり出して神前を荘厳に見せる。色々な名目で新しい儀式をつくり出している教団があることは皆さんは知っていられるはずである。
 そういう偽善者の教祖の周囲には、信仰は霊を磨かなければならないのであるということは知っていても、それは棚上げして、いたずらにそういう教祖を担ぎ上げて、自分の利益の為に利用することのみを図っている人達がいる。信仰という大儀名分の蔭で、偽善者の教祖は自分が担ぎ上げれれる事を喜び、教祖とその周囲が考えることは、いかにして巧妙に信者から金を集めるかと言う事になる。
そういう教祖も、立教当初は心がきれいであったから、その教祖から光が出ていたのであるが、欲望に執着するようになると、悪魔か動物霊が次第にその教祖を支配するようになる。霊眼で見るとその教祖の立っている後ろにはっきり見える。悪魔か動物霊に支配されている教祖の特徴は、

1. 金に執着を持って、金を集めることだけを考える。
2. 慈悲、愛を説きながら、やることが冷たい。
3. 非常に感情的になり、すぐ怒る。
4. 言うことがくるくる変って来る。
5. 顔に生気がなくなってくる。顔の色が変な土色になるか、精気のない白さになる。
6. 儀式、服装などで信者の心を引きつけようとする。
7. 信者から見て立派な人だと見られる人が排斥される。
8. 名誉欲、支配欲、権勢欲が強くなって、人の下座につくことをしない。
9. 敬虔さ、謙虚さがなくなって尊大になる。
10.感情的に泣かせるか、興奮させるかという指導をして、知的、理性的な指導をしない。

 この10の特徴を持って見ればすぐ見抜くことが出来る。こういう教祖につく悪魔、動物霊は、その教祖一人を支配することによって何万、何十万人という信者を支配できるのであるから愉快でしようがないわけである。そういう信仰をした信者は、いくら宇宙大神、阿弥陀如来、観世音菩薩の名を信じていたとしても、その名を唱えながら地獄へ行くのである。
この世は、人間の霊を磨き、神よりの深い智慧と慈悲を学ぶ学園なのであるから、良く反省してこの世的な欲望を捨て、一つ一つの体験を修行の為の勉強と自覚して、山を登ってゆかなければならないのである。
 その教団の信者になった当初は、その教団の信仰をこの世の中で一番素晴らしい信仰のように思っていても、何年かするうちに、その信仰に矛盾や疑問を持って来たとしたら、それはその教団の指導者達が言うように、その人の信仰がだめになったのではなくて、その信仰を卒業して他に信仰を求めよという、心の内からの警告なのであるから、道徳的な「恩」というしがらみを乗り越えて、新しく信仰を求めるという勇気を出さなければならないのである。




8. 桐山靖雄著
   
「一九九九年、カルマと霊障からの脱出」のウソ


 悪魔や動物霊も、もっともらしいことを言いながら、その蔭で間違ったことを説くのである。だから、どの教団の教えにも、正しい所もあるが、間違った所もある。ところが智慧のない信者は、部分的に正しいことが説いてある為にそれに惑わされて、間違った所まで正しいと信じ込もうとするのである。
疑問を持たずに素直に信ずることが純粋な信仰だと教えられる為に、ここは間違いではないかという疑問を持っても、疑問を持ったのが正しいことだとは思わずに、自分の信仰が純粋でないから疑問を持ったのだと自分をいじめつけて悪く思ってしまう。正しいことは正しく間違ったことは間違いである。と言う事をはっきり知ることが智慧の働きであるが、そうした智慧を教えられていない為に、間違っていることを正しいことだと信じ込もうとする。しかし、いくら信じたからといって、間違っていることが正しくなる訳がない。

 日本人の信仰の欠陥は、少しばかり霊能があると思われる人が間違ったことを言っても、その間違いを間違いだと見抜く智慧がなくて、何でもかんでも、言われることを正しいことだと信じ込もうとすることである。
桐山氏が阿含宗を立宗された。その理由は、大乗仏典(法華経、浄土三部経等)は釈尊滅後400年~1000年間に創作されたもので、釈尊の直接の教えではない。阿含経こそは釈尊真実の教えであるから、これからは阿含経を中心として阿含宗を立てて仏法を伝えるのである、というのである。

このことは正しい。だが次のことが問題で間違いである。

 阿含経の中には、桐山氏が得意として説いている、
準抵尊因縁解脱千座行法・求聞持聡明法・護摩供養
をやれば救われるとはどこにも書いていない。
だから、桐山氏が阿含宗を立てるというのであったら、この三つの修法は即座に辞めなければならないのである。まさに釈尊を売り物にして、何も知らない信者達を誤魔化しているのである。
「守護霊を持て」という本も、結局は自分が造った京都花山霊廊を買わせる為に、急いで書かれた物としか思えない。
「一九九九年、カルマと霊障からの脱出」という本の中に書かれている、現代のこの世相の混乱が不成仏霊にあるということは否定できない。実はこの不成仏霊がふえて来ている為に、それに憑依される人も多くなって、色々な犯罪、不祥事件が増えて来ている事を知ってもらう為に、今まで色々書いて来たのであるが、この不成仏霊を浄化することはしなければならない。その正しい供養の方法は後で述べるが、桐山氏が、第二次世界大戦で戦死した人、全てが成仏されているのではなく、不成仏霊となっている人も多いと指摘されたことは正しい。
だが、その不成仏霊を成仏させる為に「護摩供養」をしなければならないと説いていることは間違いである。護摩供養をせよとは釈尊は教えてはいられないのである。
我々が信仰の問題を考える場合、すなわち「正法」を理解する場合に、第一に考えておかなければならないことは、それが世界全体に共通する普遍性を持っているかどうかということである。
日本では昔から真言宗が護摩供養をしていたし、護摩供養をしない他の宗派の人達も、護摩供養という方法があるということは知っているから、日本人の不成仏霊の場合は護摩供養をするといっても(実際はする必要はないのであるが)それでもいいとしても、今度の第二次世界大戦で戦死したのは何も日本人だけではなく、戦争に関係した色々な国々の人々も戦死しているし、その人達の中にもいわゆる不成仏霊として、この世に執着を持っている人もあるのである。
では外国の人々は、不成仏霊を成仏させる方法として護摩供養するであろうか? そんなことは絶対にしない。日本人の中ですら護摩供養によって救われると信じている人は少ないのであるのに、キリスト教や他の信仰をしている外国の人々が護摩供養をするはずがない。
「一九九九年、カルマと霊障からの脱出」の終わりの所に、ノストラダムスの大予言にある二十世紀末に出現する「アンゴルモアの大王」とは「仏陀」のことであるという解釈はユニークで面白いと思うが、終わりに、カルマを断滅する智慧の持ち主を「仏陀」と呼ぶのである。インドの祇園精舎へ行って私はその智慧を受けた。(だから私は仏陀になったのだと本当は言いたいのであろうが、そこは多少良心が働いたと見えて「私は仏陀になったのである」とは書いてはいないが、あなた方が私を仏陀だと思うか思わないかは、あなた方の自由である、と言わんばかりのもったいぶった書き方である。)
と書いて、さらに、
「それを持った瞬間、カルマを断つのだ。輪廻のくさりを断ち切るのだ。それは、その本体から(と言う事は、桐山氏自身のことであろう)直接、バイブレーションによって体得するより外ないであろう。(とするならば、桐山氏に直接接する機会を持たない者は、絶対にカルマや霊障を断つ事は出来ないのだと言う事になる)
100年間の苦行も万巻の書物も、所詮このバイブレーションの一撃に如かなかったのだ。
祇園精舎で、私はこの一撃を受けた。祇園精舎を日本に移せ、と命じられた。やがて建設される新しきサヘト・マヘト「祇園精舎において、ひとたびは、あの白銀に輝く強烈なバイブレーションを受けるであろう。それが、永遠に生き続けて法を説く仏陀の「智慧」の本体であり、カルマを断つ原動力であり、それによってのみ、地球は救われ、世界は平和を保つことが出来るのだ。この新しきサヘト・マヘトから、世界救済のバイブレーションがあまねく地球の隅々にまで遍照されるのだ」
言葉だけ見ていると素晴らしく見える。しかし、その言葉の内容を些細に検討してゆく時、内容は何もない。大体、宗教というものは、法を説いて、一人一人が頭から、また身体全体から光が出て、一人一人がどこにいても自分で心に灯をともしてカルマも霊障も断って正しく霊を磨いてゆく道を説くものである。
この本だけでなく、桐山氏の著書に共通していることはどこにも、依ってもって心の基準とすべき法が説いてないことである。阿含経を依り所にするというのであれば、一つでも阿含経の中に書かれてある所から正しい心のあり方を説いても良さそうなものであるが、そういうことは一つもない。
釈尊が菩提樹下で悟りを開かれて説かれた、カルマを断滅し、霊障を断ち、精進する基準は、八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正進、正念、正定)であると阿含経には書いてあるのに、この本の中には八正道のことはどこにも出て来ない。
「守護霊を持て」の最後にも、法力を持った師の傍にいないと守護霊を持てないと、自己中心のことが書いてあるが、この本では遂に自分は釈迦であると言わんばかりであり、私のバイブレーションが世界を救い、私のバイブレーションに触れたら救われるのであると、多くの人が自分の下に集まって来なければ救われない。しかも、私のバイブレーションに触れる場所は、今度私がつくる京都のお寺だけである、と言うのである。
祇園精舎を日本に移すと、言葉はもっともらしいが、これも「私が今度つくるお寺の建設に寄附した人は救われるが、そうでない人は救われません」と言っているようなものである。
そうして、そこでまた沢山の人を集めて護摩供養をして金を集めようとするのであるが、では、インドの祇園精舎で釈尊は護摩供養をされたと言うのであろうか、釈尊は護摩供養などは絶対にされなかった。

 護摩供養をしていた拝火教のウルベラカシャパー三兄弟は、護摩供養の祭壇をガンジス河の支流へ投げ捨てて釈尊に帰依したのであるから、釈尊の説かれた仏法を伝えると言うのなら、桐山氏は護摩供養をやめるべきである。
智慧のない感情的な人の欠点はハッタリとスローガンに欺されやすいことである。智慧のないことを釈尊は「無明」と言われた。その智慧のないこと、無明が一切の苦の原因なのであるから、正しい信仰をしようと思う人はもっと智慧を磨かなければいけない。
 さて、桐山氏は、大乗仏教(他力信仰)では救われないことがわかった。だから小乗仏教(自力信仰)の阿含経を中心とした阿含宗を立てるのであると言っているのであるから、桐山氏は「私に触れなさい。護摩供養をしなさい」と言うような他力信仰的な信仰は止めさせて、一人一人が自分で救われてゆく自力信仰的な信仰のあり方をさせなければならないのである。護摩供養を辞めるわけにゆかないと言うのであれば、京都に集めてやることはやめて、一人一人が自分の家で護摩供養をしなさいというあり方をさせなければならないはずであるがそういうことはどこにも言っていない。これはたとえばの話である。
あなた方は、釈尊が、金で護摩を買わせて供養されたと思われるであろうか。まことに末法の世には、ニセ救世主が現れてくるという予言があるが、この頃の日本の宗教界にはニセ救世主が沢山現れて来た。

 桐山氏がインドの仏蹟巡拝に行かれたその直後に私はインドへ行った。デリーで、桐山氏一行のバスが交通事故を起こして重軽傷者22名を出したということを聞いた。「人を救うといいながら、自らを救い得ざる者よ」という感じを私は持った。



9. 真のユートピア実現への道

 桐山氏の大きな間違いがある。この間違いは、あの世とこの世の仕組み、そして正法を知らないことから生じた間違いである。桐山氏は自分の所信を正しいと信じていられるからこそ、この本に書かれたのであろうが、そこに桐山氏の限界がある。信仰は山登りである。信仰には色々な段階があることを書いた。私には桐山氏の間違いが良く見える。だからこそ迷わされてはならないことをお知らせしない訳にはゆかないのである。
桐山氏の最大の間違いは、現世の障害混乱は、、不成仏霊のせいであるから、不成仏霊を成仏させると現世の障害混乱はなくなると、不成仏霊の供養だけを説いて、現世の人々が如何に心をきれいにして霊・魂の勉強をするかを少しも説いていないことである。
 
真のユートピアの実現は、この世にも心の暗い人は一人もなく、そうして地獄界もなくなることである。
もともと地獄界と言うものはなかった。どうして地獄界というものが出来たのであるかと言うと、神の子としてこの地球上で肉体をもって生まれて来た人間が、この地上界で生きている間に、この地上界のものに執着を持ったまま死んだ霊が、あの世で創り出してしまった世界が地獄界なのである。
仮に地獄界の不成仏霊が全部成仏したとしても、この世に生きている人が、人生の本義を忘れ、この地上界のものに執着を持って心を暗くすれば、また地獄界をつくり出してしまうから不成仏霊を成仏させるという方法だけではこの世の中は絶対によくならないのである。

 あなた方の家に仮に不成仏霊があったとしても、恐れる必要はさらさらない。生きている家族がみな心を明るくして生活するならば、不成仏霊はあの世からあなた方の生活を見て、それによって生きていた時の自分の心のあり方を反省して救われてゆくのであるから、特別に供養する必要もないのである。
その明るい生活の仕方が釈尊が説かれた八正道なのである。
不成仏霊を供養するのに護摩供養する必要はない。

この世がユートピアになる道は、不成仏霊を成仏させることではなくして、生きている人達が心を明るくすることである。


 今度の戦争で沢山の人が死んだ。日本内地もアメリカ軍の空襲、原爆で非戦闘員が沢山死んだ。国際ハーグ条約で、「非戦闘員を殺傷してはならない」と決められているのにアメリカはその条約を破ったのである。日本人の考え方は逆さまになっている。広島、長崎の原爆記念日の集会では「戦争反対、日本はもう戦争しません」と言うだけで、まるで日本一国が戦争を仕掛けたように考えている。戦争が一国の方針だけで始められるものではない。必ず相手国との関係において発生するものなのであるから、相手国がどうしたかを考えなければならないのに、それは考えようとはしない。

 アメリカが国際ハーグ条約を守る信義の国であったらアメリカは、日本国内に原爆や爆弾を落とすことはしなかったはずである。だが、アメリカは国際条約を破ってそれをやったのである。だから、原爆や爆弾で損害を受けた人達は、アメリカの国際条約違反を責め、補償も日本政府にではなくてアメリカ政府に要求しなければいけないのである。ソ連が戦後、沢山の兵士を強制労働させたのも国際条約違反であり、強制労働させられた人達も、ソ連政府に補償を要求することが筋を通すというものである。日本政府が命じて強制労働させた訳ではない。

 私は終戦の時南支広東省順徳県大良市にいた。復員してみたら昭和20年6月18日、鹿児島市の大空襲で両親と弟2人、妹3人が爆死していた。補償を要求せよというなら、私は国際条約違反をやったアメリカ政府に要求する。アメリカの日系人達は、財産・家具・仕事の基盤全てをアメリカ政府によって奪われた。だから今、1家庭2万5000ドル、総計30億ドルの補償を要求しているのも当然のことである。

 さて桐山氏の説によれば、私は両親弟妹7人の霊の護摩供養をしたことは一度もないから、その7人の霊は不成仏霊になっていることになる。私は一人で7人の不成仏霊を受けてしまったのであるから、私は、また私の家族は(私には5人の子供があり、その内2人は結婚して孫が3人いる)その不成仏霊の影響で不幸続きでなければならないと言う事になる。だが私の家族はみな健康で幸福で、問題は全くない。全国には私と同じように家族を何人も死なせたが、幸福であると言う人も沢山いるはずである。また、その反対に不幸続きだという所もあるであろう。

 
要はこの世に生きている人の心が問題なのであって、私のように人生の意義を知り(このことは知らなくても)心を明るくして生活している者は、仮に不成仏霊があったとしてもその為に不幸になることは絶対にない。暗い心で生活している人に対しては、不成仏霊は救われようとして憑依するのであり、そうしてその人を不幸にしてしまうのである。



10.カルマと霊障を断つ道

 桐山氏の説では、護摩供養をして、今度新しくつくる寺で桐山氏のバイブレーションに触れる事だと言うのであるが、ここにも桐山氏の間違いがある。と言うのは桐山氏は少しもカルマというものがどういうものであるかわかっていない。
カルマ(業)は、身・口・意の三業によってつくられえるというが、身体でつくる業も、口でつくる業も、全て結局は心の問題である。善因善果、悪因悪果の因縁も全て心でつくるのである。

 
カルマの原因は心になるのに、その心を変えずに護摩を焚くとか、その他の方法でカルマを断つと考えるのは間違いである。心に原因がることを知らないで、形だけで断とうとすることは益々心に執着をつくり出す事になる。
どうしてそうなったかを良く反省して、心のあり方を変える事が、真にカルマを断つ道である。

霊障、即ち憑依現象、その他の霊的現象を、先祖が祟ったと言って恐れる人があるが恐れる必要はない。先祖に、たとえどんな死に方を人があっても、生きている子孫が明るい心で生活をすれば絶対に霊的現象は出て来ないのであるが、多くの人はそのことを知らないし、また、これまでの宗教家はそれを知らなかった為に、ただ、先祖が祟った、霊が祟ったと恐怖心を持って、お経を上げればよいと、お経を読んだり、或はお払いをしたりして来た。
憑依現象は、死んだ人がこの世に執着を持って救われたいと思って起こす現象なのであるから、そういう人は自分が死んだと言うこと事すら知らないでいる場合が多いのであるから、もう死んだのだということを良く教えてやらないといけないのである。
憑依現象は、類は類を以って集まるという心の法則、因縁の法則によって、その人が暗い心(怒り、妬み、怨み、憎み、嫉妬、羨望、悲しみ、くやしさ等)を持っている為に、また例えば、親がガンで死んで救われていなかった場合に、子孫が「親がガンで死んだ、わしも親がガンで死んだと同じ年頃になって来たが、親と同じようにガンになりはしないかな」と言うような恐怖心を持つと、親の霊が憑依してガンになる。あそこは代々ガンの血統だとか、高血圧で卒中の血統だとか言われるのはそうして起こるのであるから、たとえ親がガンで死んだとしても「自分もガンになるのではないかな」と言う不安、恐怖心は絶対に持たないようにすることである。その場合に「ガンになりませんように」と思うことは消極的で力が弱いので、積極的に「自分はガンにならぬ」「自分はガンには関係ない」と、はっきりガンを否定し、そうしてガンのことは思わないようにすることである。もしチラッと「ガン」と言う事が頭に浮かんできたら、即座に「ああ、いけない」とパッと、その想念を否定し切り捨ててしまう事である。

 例えば今まで長い間、あなたが不幸続きだったとする。すると必ず「幸福になりたい」と思われるはずである。その時に「幸福になりたい、幸福になりますように」とは思わないことである。たとえ現状は以前の不幸続きで満足でなく、色々不自由であったとしても、心の中で既に自分が幸福になっている状態をアリアリと描いて「自分は既に幸福である」と思うことである。常にそう思いながら「これから、あらゆることにおいて、一層よくなる」と念じつつ、どうすれば言いかを考え、自分にわからないことがあれば専門家や経験者の指導を受け、智慧を出して努力することが大事なので、ただ思うだけで何もしないでは実現しないのである。
 心はそのようにして切り替えてゆくのである。


憑依されている人は、その期間が長ければ長いほど、その人の心も暗く固定してしまっているし、心を変えなさいと言っても憑依霊がその人の脳細胞を支配して、憑依霊が念波を吹き込んでいるので、だから憑依されている人は、自分の頭が自分のものであるようなないような、考えることが自分の考えであるのかないのかわからないような気がいつもするし、頭が重いのである。そういう場合、憑依霊を払ってやると、急に頭が軽くすっきりとさわやかになり、本当の自分に変える事が出来る。そうしておいて、正しい心の持ち方(正法)をその人に教えるのである。しかし、いっぺん教えたからと言ってそれで急に心が変る訳ではない。長い間の習慣が働いて、暗い心になるとまたその心を縁として霊が憑依して来る。だからまた憑依霊にも良く教えて払って、その間にまたその人に教えるということを繰り返すのである。

 正法を知っている明るい心でいれば、たとえ先祖にどのような死に方をした人があったとしても、絶対に憑依現象、霊障が起こることはないが、現在では正法を知らない人が多い為に霊障が起こっているのである。
心を変えずにいて、憑依霊に良く教えずにいて、護摩供養をするとか、お経を上げるとか、そういう方法で良くなる事はない。
先祖に首を吊って死んだ人があると、また誰かが首を吊って死ぬし、死ぬまでのことはないが、いつも首を締めつけていられるようで、喉の通りが悪いと言う場合もあるし、投身自殺した人があると、同じような死に方をする人が出たり、海を見るだけで、高い所に登るだけで怖いという人が出るし、交通事故で死んだ人があると、また同じような事故を起こすし、と言う事がある。
また、事故死した所には、亡くなった人の執念が残っているので、同じような心を持っている人が通りかかると波長が合うので、その人に頼って救われたいと思って、ヒョイと憑依すると、その人が同じ死に方をするということになる。

 鹿児島県に垂水市という所がある。私が行った時はまだ町であったが、そこで、同じ海岸の同じ場所で、同じ日に3人続けて子供を亡くしたという人があった。一番最初の子供が5才になった時に海で死んだ。次に生まれた子供が5才になったら、同じ場所で同じ日に同じ死に方をした。3人目の子供が生まれて5才になった。今度は死なせないように気をつけていたのに、ちょっとしたスキに飛び出してまた死んでしまった。4人目の子供が生まれた。その子供が5才になるとまた同じ死に方をするのではないかと、心配で夜も眠れないと言う事であった。親にしてみれば子供が成長することは、一日一日また死なせることであると言う心でたまらなく心配で不安であったのである。
私はその海岸の死んだ場所へ行って、
「せっかく霊の修行の為にこの世に生まれて来て、波にさらわれて5才で死んでゆかなければならなかったあなたの心の悲しみは良くわかります。いよいよ息が切れるという瞬間に、あなたは懐かしいお母さんのことを思われたことでしょう。そういう死に方をされるとは誠に残念なことであっても、しかし、もう肉体を亡くした以上は、この世に対する執着を一切断ち切って、あの世で霊の修行をしなければならないのです。
 人間は神の子で、自由自在な心を持っているのです。あなたの悲しみは良くわかりますが、自分が救われたいと思って、自分が死んだと同じような現象を起こさせることは決して救いにならないばかりか、あなたが選んで来たその親を深く悲しませることになるだけで、あなたはあの世からそれを見て知っていられるはずです。だから、今後はそういうことのないようにしてください。私が光を送りますから、それによって成仏して下さい」と供養した。
そうして4人目の子供からはみな無事に成長している。

 6月末、福岡市のある方から電話が来た。娘の主人が勤めている会社の独身寮に女の幽霊が出て、3名がはっきり見ている。その幽霊が出るようになってから、毎月寮生が怪我をするようになった。それは未だかつてない事故である。遂に両足切断しなければならぬという大事故が起こってしまって、主人はは責任者としてどうしていいかわからぬ、と言っていると。
その家は熱心な正法会の一家であり、その娘さんもお母さんから本をもらい話も聞いていられたので、早速お母さんに相談された訳である。
 こういう指導は電話で話したのでは徹底しない、丁度7月4日、千葉で集会をすることになっていたのでその会場へ来てもらう事にした。色々と供養の方法を教えてあげた。私にその独身寮へ行って供養してほしいと言う事のようであったが、私はその夜の集会もあったし、この世に強い執着を持っている霊に対しては、少なくとも1週間は続けて供養しないと、1回きりで悟るという訳にもいかないし、それでその娘さんに、「ご主人は会社の仕事があるでしょうから、寮生が仕事に出払った後へ、あなたが行って1週間供養して下さい。」と言ったのであった。
 13日夜、福岡のお母さんからの電話で「先生、今、娘から電話がありました。両足切断しなければならないと言っていたのが、切断しなくてもいいようになって、医者もびっくりしているそうです。寮の雰囲気もすっかり変わって幽霊も出なくなったそうです。ありがとうございました。」と20日にまた電話が来た。
「先生、輸血しなければいけないと言っていたのが、輸血せんでもいいようになったそうです。会社の人達もびっくりしていられるそうです」と。

 私は先に正法誌に「私の下に来なさい。私がよくしてあげます。私に誓いなさい、そうすれば私が救ってあげます、と言う指導者はニセモノである。正しい指導者はどんな問題が起ころうとも、一人一人が自分で解決していく力を、一人一人に与えるのである。ニセモノの指導者は自己中心主義で信者の顔を自分の方へ向けさせようとするが、正法の指導者は、一人一人が行じていくその後ろ姿を拝むのである」と書いたことを思い出してほしい。
 
釈尊が「わたくしに握拳はない」すなわち、私は手の中に握って、これは誰にも知らせることの出来ない私だけが知っている秘法だというものは私には何一つない。私は知っていることの全てをあなた方に伝えたと言われたのである。
ところが桐山氏は、自分の寺に沢山の人を集めて、何百万と言う護摩供養をして、私が修法し供養しないと救われないといい、私には誰にも出来ない秘法があるといっている。桐山氏が釈尊の法を説くというのなら、その秘法は誰にでも出来るように教えなければならないのである。

 釈尊は「わたしに握拳はない」と言われた通り、私の師、高橋信次先生にも握拳はなかった。だからして私のも秘密はない。私は私の知っていることの全てを皆さんに伝えて、皆さんが自分の足で歩いて、一段一段と幽界の人は霊界へ、霊界の人は神界へ、神界の人は菩薩界へ、菩薩界の人は如来界へと、上がる道を伝えたいと思うばかりである。
私は今の日本の宗教団体の教祖のように「恩を知れ」という儒教道徳で多くの人を束縛して、山へ登ろうとする人達を足止めさせるようなことは絶対にしない。私は永遠の求道者である。だから皆さんは遠慮せずに私を乗り越えて前進してほしい。そういう人が出ることが私の望みである。




11.不成仏霊を成仏させる正しい方法

 たとえその死に方が事故死であろうと、変死であろうと、現在の日本では多くの場合は葬式の時にお坊さんが来て「成仏できる」とお経を上げその後も命日にはお経を上げている訳である。それでも成仏できない霊がいるから、色々な霊的現象が起こって来ている訳である。
護摩供養は生きている人の一時の気休めになっても、それでカルマと霊障が断ち切られることには絶対にならない。
ではどうすればいいのであるか。それはまず供養する人が心を調和させてからする事が大事である。

1. 神が全宇宙の創造主であり、神は智慧そのもの、慈悲そのものであることを信ずること。
2. 人間は神の子であり、自分の心の中に、神の智慧と慈悲が存在することを自覚すること
3. 肉体は、霊の修行のための乗り物であって、本当の自分ではないことを自覚すること
4. この世のものは、霊を修行するための単なる道具であることを知って、この世のものに執着しないこと
5. 以上のことをよく自覚した上で、心を明るく調和させること

 
 調和したいと思っていても、現実には不調和でとても調和する心にはなれないという人がいるであろう。また、自分は正法で調和したいと思っていても、家族が反対していると言う場合もあるであろう。現実がまだ不調和であるからといってそれにとらわれる必要はないのである。誰しもが、一足飛びに完全に調和するということは出来ないのであるし、徐々に調和されていくのがこの地上の現象界の相なのであるから、たとえ現実はまだ不調和であり、家族は反対していても、心の中に調和された状態をアリアリと描いて自分の心の波長を神に合わせる気持ちで次のようにすればいいのである。




12.供養のことば

先祖代々の諸霊よ、私たちに肉体をお与えくださいましてありがとうございました。
私たちは神仏の子としての使命を悟り、正法の生活を実践しております。
皆さまの冥福を心からお祈りいたします
もし諸霊の中に、暗い世界におられる先祖がございましたら、よく私の申し上げる神理をお聴きください。
皆さまは、
この世の肉体は持っておられませんが、私の話はおわかりいただけるはずです。
暗い世界は地獄でございます。
なぜ地獄で生活しておられるのか、おわかりになりますでしょうか。
それは、人間として生活しておられたときに、神仏の子としての使命を果たさなかったからでございます。
自分のことばかりを考えて、心から人びとに慈悲や愛を与えたでしょうか。
人を恨んだり、妬んだり、そしったり、怒ったりしたことなどをよく思い出されて、悪かったことは悪かったと反省してください。
自分でつくった過ちを反省し
その上で、神の許しをお願いしてください。
心は安らぎ、必ず天上界に行けます。
神理の経文を供養いたしますから
よく心に受けとめてください。

病死したり、事故死したりした人は、その生前の名を、先祖代々の諸霊よ、という代わりに呼びます。「もし諸霊の中に、暗い世界にいられる先祖がございましたら」というところは、名前を呼んで○○○○さんの霊よ、あなたが暗い世界にいられたら、と言えば良いのです。
先祖でもなく、また名前もわからないが霊的現象が起こっているという場合は、
「この場所に執着している霊よ、あなたも神の子として肉体を持たれたのでありました」とか、また、他人の古い家を壊して新しく家を建てるとか、人が住んでいた土地を買った時とかは、「この土地に関係のある霊よ」と言えばよいのです。

以上を唱えて、「心行」を拝読すればよいのです。



- おわり -



月刊誌 正法39号 (1981.11月)
月刊誌 正法40号 (1981.12月) より