高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







特 集 因縁を越える道-正法の目的はここにある


 神の愛、仏の慈悲、という言葉は、過去も現在も、いろいろな宗教家、道徳家達によって口にされてきた。しかし、それはみな、その愛と慈悲をお(すが)りする対象としてのみ捉えているのであって、真の意味がわかっていたとはいえない。

 法然、親鸞、日蓮みな然りである。

 人生の目的は、すべての永遠普遍の神理を理解することにある。運命を根本的に左右するのは、われわれがその永遠普遍の神理法則即ち正法を、正しく使うか、間違った方向に使うかにある。人間は完全な自由意志が与えられている。強制されてしたことはなんら霊のプラスにはならないが、幼い魂が向上発達する為には、やがて自分の自由意志によって正しい行為がとれるようになるために、ある期間、強制して正しい行為を行わせる必要がある。即ち「習い性」とならせるためである。それが「しつけ」である。
 永遠普遍の正法こそ、この地球だけでなく大宇宙を貫くものであり、他の天体に人間がいるならば、その人達も準拠しなければならない絶対的な法なのである。

 
カルマの法則、因縁因果の法則、これは原因結果の法則であり、釈尊は「因縁」といわれた。現在の自分は、過去の輪廻転生の因縁によるものであるから、現在の自分の生まれた環境、立場を呪うことは、自分で自分を呪っていることであり、その怨み心が根本にあったのでは一生その人は幸福になれないのである。だから正法の実践は、まず自分の生まれた環境を、自分自身の責任として受け止め、その環境に心から感謝することから始めなければならないのである。その感謝の方法が、一つは先祖に対する感謝であり、親に対する感謝即ち親孝行である。

 運命をよくしようと、いくら祈ってもよくならなかったという人は、まず、生まれた環境に感謝していたかを反省することである。していなかったことに気付いたら、まずじっくりと生まれた環境に感謝することである。
それだけでも運命は好転してゆくのである。

 生まれた環境、その中には、自分の顔形、性格すべてが含まれる。


 自己中心、自我がいけないというが、自己中心的な人とは単純思考の人のことである。
世の中の一切のことをすべて自分を中心としてしかものを考えられないのである。世の中には、いろいろな考え方の人があるのに、そういう人があるということが許せないし、理解できないのである。私はこう思うからこうするのだ、という単純な考え方をする人が不幸になるのは、結果として周囲の人々と衝突することになるからである。終戦後、民主主義ということで、自我中心自己中心的考え方のみが教育されたことは日本人にとっては不幸であった。それが校内暴力、非行の原因であり、家庭その他の人間関係の不調和の原因である。

 釈尊は「因縁」を説かれたと。、宗教家達は口を揃えていう。しかし、因縁だけを説かれたのではない。「因縁を越える道」も説かれたのである。「因縁の法」もであるが、われわれにとってより大事なのは「因縁を越える道」であって、釈尊滅後の弟子達は、そのことの大事さに気がつかなかった。そのことが充分に伝わらなかった結果、中国から日本へと仏教が渡来しても、日本仏教の中に「因縁を越える道」が説かれていないという結果になってしまった。

 その大事さを復活させて説かれたのが高橋信次先生であったのであるが、高橋信次先生の話を聞いた人もまた、その大事さに気づかない人が多かった。

 「反省」しなければ魂は浄化できないと、高橋先生が力説されたために、反省がすべてであって、反省さえすればそれで信仰は成就すると考える人達が出てきた。その人達は常に、反省が出来ないからなんにも出来ないと、今度は反省に執着してしまった。高橋先生が反省を強調されたのは、反省を通さなければ魂の浄化が出来ないこともあるが、これまでの日本仏教だけでなく、キリスト教も、ただ信ずることだけ、祈ることだけの他力信仰になってしまって、反省の大事さを説いていなかったからであった。

 反省、反省とオームや九官鳥みたいに、口真似していっている講師という人達は、なにを基準にして反省すべきであるかを知らなかった。
高橋先生が強調された反省は慈悲と愛の心を基準としての反省があったのである。慈悲と愛の心が展開すると八正道になる。

 このことは「心行」に

「現世は生命・物質不二の現象界
 この世界のことなり
 熱 光 環境 いっさいを含めて
 エネルギーの塊にして
 われら生命意識の修行所なり
 神仏より与えられし
 
慈悲と愛の環境なることを感謝すべし」

と示されているように、
神仏の当体であるわれわれは、慈悲と愛の環境であるこの地球上に、われわれの魂の本質である慈悲と愛を顕現することによって、霊を向上することになっているということである。

 また「祈願文」の「前文」には、一番最初に、

「私たちは神との約束により
 天上界より両親を縁として
 この地上界に生まれてきました
 
慈悲と愛の心を持って
 調和を目的とし
 人びとと互いに手を取り合って
 生きて行くことを誓い合いました」


 と示されているように、
調和といっても、それが真の調和であるかどうかは、慈悲と愛の心を中心とした調和であるかどうかを考えなければいけないのである。

 その人が、病気であり、不幸であるということは、内在されているわれわれの霊の本質である、慈悲と愛の心を、与えられた自分の環境に顕現させ行動化していなかったという結果なのであるから、この病気、この不幸を治そうと、心の中に常に病気や不幸を描いて「治したい」と祈ることは、心に描いたものが形になって現れるのであるから、ますます病気や不幸を持続させることになるのであって、だからして、神仏の慈悲と愛の当体である事実を、そのまま素直に認めて、どこに、どこから、その慈悲と愛を表現しようかと考え、考えた通りに慈悲と愛の心を表現すると、病気や不幸は治ることになるのである。

 われわれは、神仏の慈悲と愛の当体であって、この地球は、神がつくられた慈悲と愛の環境なのである。人生のすべての出来事が、善であるか、悪であるかを決定するのは自分であることを知らなければならない。


 多くの人は自分に都合がよければ善であり、悪ければ悪であると考える。また、法律にひっかかるような悪いことをしなければそれが善であると考えている人も多い。また、人に迷惑さえかけなければ、自分が腹を立てようがどうしようが、それは自分のことであるから、別に人に悪いことをしているわけではないから、これで善いのであると考えている人もいる。信仰するのは善いことだといって、なんでもかでも拝んで、どこえでもお詣りに行って、そうして心の中はいつも地獄だという人もいる。自我の願い、自己中心的な人は特に、自分の考え方に合うのだけが善であり、合わないのはみな悪だと考えている。道徳家は形だけの礼儀を重んじて、心のあり方を問題としない傾向がある。

 宗教家は、信仰は、心の根本的なあり方を問題とするのであるから、法律や礼儀に叶っていればそれで「善」であるとはいわないのである。勿論、形も大事ではあるが、心のあり方が問題なのである。

 昔からのことわざに、「相手が鉄のげんこでくるときは、真綿の心で受けなさい」というのがある。これはまさしく信仰の極致を表現した言葉であり、むつかしくいえば、キリストが、「右の頬を打たれたら、左の頬をもむけよ」とか、「汝を責め憎む者のために祈れ」とかいわれたことに当たる。


 ある人がこういう話をされた。
 その人の駐車場の中にその人の弟さんの車が一台ある。ところがその弟さんの車がとめてあるところに、いつもよく隣の車がとめてある。だからすぐ車を出せないわけである。そのたびにその弟さんはぷりぷりして、「あいつは、いつもこんな所に車をとめてけしからん、怒鳴り込んでやる」と腹を立てていた。「あんたも、霊の修行のために生まれてきたんだろうがね。そんなことぐらいで腹を立ててはいかんね。それをどう受け取るかはあんたの心ひとつだろうがね。腹を立てないで、〝車をどけてくれ〟といえるようにならんといかんのやない?」
 人が駐車しているすぐ後ろに車をとめるということは、確かにその人が悪い。悪い人を悪いということは確かに許される。その弟さんは善人で間違ったことはしていないのであるから善である。だがそれだけで「善である」とはいえない。腹を立てて怒鳴ってしまったのでは
「絶対善」とはいえない。腹を立てるか立てないかを、即ち心の世界を見て、それを善とするか(腹を立てずに)、悪とするか(腹を立てて)を決定するのは、その人自身であるのである。
 間違った判断をして、心に悪をつくってしまった時に反省が必要となるのであるが、人生の経験を善とするか、悪とするか、いい替えれば、慈悲と愛の心を出すか(善)出さないか(悪)ということになるのである。このことはまた、つぎのようにいい替えることができる。

「人生の目的に叶うことが善であり、人生の目的に叶わないことは悪である」

「因縁の法則」は確かに実在する。しかし、その因縁の法則を超える道が、「慈悲と愛を顕現」する道である。

 われわれは死んだ時、必ず反省をしなければならない。生きている間にどういうことをしてきたかを全部映画のように見せられて反省するのである。反省しないものには大きな霊的ショックが与えられる。その時、霊はもがき苦しむことになる。その反省を求められている期間を
中有(ちゅうう)に迷う」というのである。

 
その反省は、悪かったと気付くことだけが反省ではない。「二度ともうしません」という誓いと、これからどうすればよいか、その時、ではどうすればよかったのであるかが、はっきりと決心されていないと反省したとはいえないのである。その反省によって因縁を超越し、天上界へ行くことができる。

 生きている間に犯した罪で、このことはもう一ぺん体験して反省がほんものであるかどうかを確かめたいと思ったものが「
(カルマ)」として出てくるのである。生まれつきのその人の性格の中に、そのカルマが含まれてしまうから、生まれつき金に汚い、名誉欲が強い、女に弱い等の醜い性格があることになるのである。

 その生まれつきの性格の中には、また、胎教によって与えられたものもある。胎教によって歪みを与えられたものは、その歪みを与えた親に反省を促す行為として現れてくるのであるが、さらに生まれてから受けたしつけ、教育、習慣と、成長するに従って自分が考えたことによって、現在の自分の性格が出来上がっているのであり、総合された性格の歪みの部分が、修正しなければならないことの信号として、病気、不幸というような形になって現れてくるのである。

 酒を飲みすぎて肝臓を悪くした。脳溢血したというような人達は、身体を悪くした原因を酒だとだけ思っているが、その根底には、魂の修行のために神から与えられた肉体があることに感謝せず、肉体が自分であるから自分が酒を飲もうと飲むまいと誰に遠慮することもないという、神の存在を無視した心があることに気付かなければいけない。

 どうしてそいう病気や不幸になってしまったのか、その原因がわからないという人達は、神が与えられた慈悲と愛の環境であるこの地球上に、神の当体として慈悲と愛を顕現すべく出生したのにその慈悲と愛を顕現していなかったということに気付いて、慈悲と愛を顕現してゆけば、一切の因縁を超えて安楽の道を進んで行けるようになるのである。

 そのことがわかれば、この人生は、そのまま極楽であることがわかるのである。あの世だけの極楽を求めさせる信仰は、邪教とまではゆかないが、正しい信仰ではないのである。


 法然、親鸞はあまりにも死後の極楽往生だけを求めさせすぎた。道元は「心身脱落、脱落心身」「自己を忘するることが仏法をならうことなり」といったが、慈悲と愛の実践を説かず、ひたすらに座禅せよということのみを強調しすぎた。日蓮の説く慈悲と愛は不徹底であり、これら鎌倉時代の宗祖達は、武家政治時代という環境の中で、その環境に適応する限定した教えの説き方しか出来なかった。

 
如来と如来に常随する菩薩は、正法を正しく説くことができないような時代は絶対に選ばない。正法を正しく説くことができる時代を選んで出生するのである。

 鎌倉時代という時代は、正しく正法が説ける時代ではなかった。局限された教えしか説けなかった時代であったことに注目しなければならない。例えば百姓に対して、「念仏を称えながら鍬をふるえ」はよいとして、武士に対して、「念仏を称えて人を斬れ」というようなことは絶対にいえないのが正法であるから、
正法が説かれるには「時」が大事であるということを考えなければいけない。
 その点からして、終戦前に発生した新興宗教の中には、常に政府の顔色をうかがいながら国策に副って教義をつくった教団もあるし、終戦後、大きく発展したものでも、戦争中に立教した教団があるし、「正法が正しく説かれる時」というその時から判断しても、その宗教団体が正しいかどうかは判断できることになる。

「自己保存はいけません」と、高橋先生はいわれた。では、どうすればよいのであるか。「自我をなくせよ」「自己保存をなくせよ」というと、ただそうとだけしかいうことのできない指導者がいる。禅宗の坊さんが、自我をなくするとはどういう状態になることであるかもわからず、「無我になれ、無我になれ」といっているのも同じことである。宗教の教義が、スローガンになってしまった時、その宗教は生命力、人を救う力を失ったといってよい。

 
自己保存をなくするとは、人生の目的を知って、どんな人の立場も理解でき、(完全に理解できない間はそうなろうと努力して)精神的にも肉体的にも変化が起きて、慈悲と愛の心を顕現しようとする姿勢が整ったときである。そうなれば運命の変化が形の上にも現れてくるのである。

 正法の生活とは、因縁の世界に住みながら因縁を超える道を生きることである。


 ある人は、子宮筋腫ぐらいに簡単に考えて入院したら、実際は癌であった大きな癌は四つ切り取ったが、米粒みたいな転移した癌が無数にあって医者はそのまま縫合し、あとは時間の問題だといわれた。そのご主人とその人は、これまでのあり方を徹底して反省された。反省するということは、自己保存を捨てて正法による正しい生き方を決意することである。入院される時、昭和57年2月、インドの霊鷲山上で禅定をしている私の写真を持って行って枕許に張っていられた。反省していられると、その写真の中から私が飛び出してきて、奈良の大仏さんのように大きくなった。それが何べんもあった。そうして、その人は、医者から「もう大丈夫です」といわれて退院された。精神と肉体に革命が起こったのである。

 
このことは何を教えるかというと、反省して、これまでとは違った生き方をしようという決心をすると、その心を縁として天上界から奇跡を起こしてくれるということである。
 自分の生き方を変えようとはせずに、霊能力者に頼って奇跡を起こしてもらおうとする人は、自分の魂の向上を怠るものであるから災いである。
 法華経の中に、釈尊が衆生の願いに応じてどこにでも姿を現わされたと書かれているが、霊はどこにでも姿を現すことができるのである。

 法然も親鸞も念仏を称えた。しかし二人の念仏には根本的な違いがある。
 法然の念仏は、罪悪深重の凡夫が、どこまでも阿弥陀如来にお縋りして救ってもらいたいという哀願の念仏であるが、親鸞の念仏はそれと違う。仏の方より廻向されて称える念仏である。仏の方より廻向されてということは、罪悪深重の心、真暗な汚い心は阿弥陀如来の心ではないから、汚い心が「南無阿弥陀仏」(阿弥陀如来と一体である)と称えることはできない。われわれの心の中に既に生きている如来の慈悲の心が、即ち子なる心が、親なる阿弥陀如来を慕って「わたしは親と一体である。わたしは如来の子です。」という念仏でなければならないといっているのである。同じ念仏といっても、念仏を称える心のあり方についてこのような違いがあるのは、法然は神界の人であり、親鸞は菩薩界の人であるからである。菩薩界といっても下位の段階であるから八正道が説けなかった。

「大行とは、無礙光如来のみ名を称することなり」
 最高最上の行とは、無礙光如来、即ち阿弥陀如来のみ名を称えて念仏することであると、それで終わりであって、日常生活の中にどのように正法を生きるかということは説かれていない。道元も、神界の人であるから、禅定が悟りの道であることを説かれたのは正しかったが座禅から起ち上がって、さて日常生活をどう生きるかまでは説かれなかった。日蓮は菩薩界の人であり、法華経が最勝の経典であることに気付かれたのは正しかったが、しかし法華経の中には、釈尊滅後の大乗仏教の秀才達が、釈尊は説かれなかったのに、恰かも釈尊が説かれたかのように偽って書いた部分があることに気付かず、その部分もみな釈尊が説かれたように信じてしまった。その弊害が現在までも、日蓮系統の宗教団体に現れている。

 
高橋先生はお釈迦さまだったのであるから、これまで伝えられてきたお経の中からお釈迦さまの教えを探ろうとするよりも、高橋先生が現代語で話、また書かれたことをそのまま受け取る方が賢明である。

 慈悲と愛の道の実践、人生を善とするか悪とするかを決意するのは自分なのであるから信仰は自力でなければならない。
 思考を停止して盲目的にいくら狂信して他力信仰をしてみても、それによって救われることは絶対にないのである。




- おわり -



月刊誌 正法67号 (1984.03月)より


2011.01.15 UP