高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします




2011年2月現在、インターネット上には数多くの高橋信次先生、園頭広周先生のサイトが見受けられます。
この 【 お釈迦さまのみ跡したいて-お釈迦さま最後の旅 】 を参考に、間違いのない正しい判断をされることを願います。




=== お釈迦さまのみ跡したいて ===

     ・・・ お釈迦さま最後の旅




1.舎利佛との別れ

 大目蓮が亡くなったその翌年、舎利佛は自分の死期が近づいていることを知ってお釈迦さまにお願いを申し出た。
「仏陀さま、もう、私もいよいよ死ぬ時がまいりました。郷里にはまだ母が元気でおります。その母の下に帰って死にたいと思います。お教えを頂きましたご恩ありがとうございました。ここでお別れするのは忍び難いことではありますが、最後の親孝行をさせて頂きたいと思います。過去六仏として出られました時にも、その度に弟子とさせて頂き、その縁で、今生でもまた弟子とさせて頂きました。未来世において仏陀が出生されます時は、また私も共に出生させて頂いて弟子として下さいませ」

 舎利佛はお釈迦さまより九つ年上であった。永年、右腕と頼んで頼りにしてきた弟子が、自分の死期を悟ってラジャグリハの街を去ってゆくその後ろ姿を見ることは、如何に悟ったとはいえつらいことであった。
 その頃すでにお釈迦さまは体が弱っていられた。「わしは背中が痛い。舎利仏に代わって説法してもらいなさい」と言われることも度々であった。その舎利仏が郷里の母の下へ帰った。「そうだ。わしも死ぬ時は、あの懐かしい生まれ故郷のカピラに帰って死のう」と思われるのであった。

 舎利佛の死が知らされた。チュンダが「これがその骨でございます」と差し出した黒い灰を手にされて悲しまれた。それから急にまた弱られた。ガンガーのほとりの小さな村で言われた。
「比丘達よ、舎利佛と大目蓮が死んでから、この集会は、私にはまるで空虚になったような気がする。比丘達よ。あの二人が生きていた時は楽しかった。あの二人が生きていた頃の楽しい思い出がなかったとしたら、今夜のこの満月の集まりもまったく空虚である。
 比丘達よ。私に舎利佛と大目蓮があったように、過去世において等正覚を得られた方にも、あの二人のような弟子があったに違いない。私が未来世において、生まれて等正覚者となる時は、またあの二人と同じような弟子が必ずあるであろう。(等正覚/とうしょうがく:仏の悟りを得た者の尊称。)

 舎利佛と大目蓮は死んだ。しかし、世の中に移り変わらないものは一つもない。移り変わるものに移り変わるなと言っても、無理である。
 だから、比丘達よ。
自分を()りどころとなして、他の人を依りどころとせず、法を依りどころと為して、他のものを依りどころとせずしてゆくがよい。
 比丘達よ何時までも、また、わが亡き後においても、自分を依りどころとして、他の人を依りどころとせず、法を依りどころとして、他のものを依りどころとせずしてゆくものが、この道をゆかんとするものの中で、わが最高の比丘である」


 この言葉からでも、釈尊門下の双璧といわれてきた舎利仏と大目蓮の二人だけは、お釈迦さまの真意を正しく理解していた希有の弟子であったことが推察されます。舎利仏と大目蓮の二人が、弟子であったという思い出が、この高弟子二人の死を悼むお釈迦さまを勇気づけて、このような説法になったのであります。

 一旦、ラジャグリハ(現:ラジギール)に帰られ、永年伝道の中心としてきたラジャグリハの町に、人々に、自然に別れを告げ、五百人の弟子を連れて、懐かしい霊鷲山を振り返り振り返り、北門を出、竹林精舎にも別れを告げ、見送る沢山の人々に一人一人会釈されながら、ナーランダへの道を北上されます。ナーランダからパータリ村(現:パタリプトラ)へ、ここでガンジス川を渡り、コーティ村で一泊、比丘達に説法されこの土地で亡くなった多くの仏教信者達の一人一人の死後の運命について話をされ、さらに一々答えることは煩雑になるので、判断をする基準として
「法鏡」といわれている教えを説かれた。法鏡とは、法を正しく知るための鏡であって、この鏡に照らして見さえすれば、誰でも自分で死後の運命について知ることができるとせられる。

1.仏陀は、最高の人格者、この上なき、人天の導師であることを信じて疑わないこと。
2.法は、普遍妥当性のある真理であり、人々を理想に到達させる最上の説教である。と絶対に信じて疑わないこ  と。
3.僧は、正しく修行を積んだ尊敬されるべき聖弟子であり、民衆の信仰を指導する教団であることを絶対に信じ  て疑わないこと。
4.このように三宝を正しく理解し、絶対にこれを尊信した上で、更に、殺さず、盗まず、嘘をつかず、姦淫せず  、などの戒律を守り、これを犯すことが絶対にないようになること。


 この4つが確実に得られた時、初めて絶対不壊の浄信が確立し、第一段の聖者となり、地獄に堕ちることなく、将来、必ず悟りに至るというのである。





2.アンババリーの帰依

 更に比丘達に種々の説法をされ、北の方バッチー国の首都ヴェーサーリ郊外のアンババリーの林園に着かれた。
 ここは遊女アンババリーの所有である。当時のインドの遊女は、王侯貴族や豪商を相手にする権力者で、地位も高く、
豪奢(ごうしゃ)(派手で贅沢の意)な住居と多くの使用人を持っていた。
 中でもアンババリーはその美貌と教養のため、当時インドでは最も有名であった。彼女は説法を聞いて深く信仰に入り、自分の林園を寄贈して比丘尼となった。





3.最後の雨安居

 そこから更にヴェールブ村で、お釈迦さまは従者阿難と二人で雨安居に入られた。雨安居というのは雨が集中的に降る三ヶ月間、外で強化説法が出来ないので、一定の所にとどまって外出せず修行することをいうのである。従っていた五百人の比丘達は、それぞれに縁故を求めて諸所で安居した。
 この安居中にお釈迦さまは、死を思わせるほどの激痛が起こった。弟子の比丘、比丘尼達に、今生の別れの挨拶もしないでこの世を去るのはよくないから、この病苦に堪えて、今少し寿命を延ばしたいと決意された。しばらく危機を脱せられた。カピラに帰って、懐かしい自然を目におさめ、親しい人達に最後の別れをしてからこの世を去りたいという思いもあった。
 阿難が言った。
「わたくしは仏陀さまが、弟子達に何事も語られずに、この世を去られるとは思っていませんでしたので、いささか心を案じておりました」と。
 この時お釈迦さまは、
「それでは比丘達は自分にまだ何を求めているのであるか、自分は何一つ惜しむことなく仏法を説いた。隠しているものは何もない。弟子達にこれ以上語るものは何もない。
 阿難よ、私はすでに八十の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古びた車が、あちこち革紐で縛ってやっと用を足しているように、私の身体もやっと動いている。されば阿難よ、自らを灯とし、自らを依りどころとして、他を依りどころとせず、法を灯とし、法を依りどころとして、他を依りどころとしてはならない」


 偉大なる聖者の傍にいると、まだ何か教えられることがあるかも知れない、と何かを聞き出そう、何かを知ろうと思って依りかかる気持ちを捨て切れないと見える。阿難はここで、
「自燈明 法燈明」「自帰依 法帰依」の大事であることを聞いていながら臨終の時にまた聞くことになるのである。




4.ヴェーサーリーへ

 雨季が終わると、お釈迦さまはヴェーサーリーの街へ托鉢に出られた。病後のことで疲労が多かった。ヴェーサーリーはインドの古代都市の一つでジャイナ教の中心地であった。
 ジャイナ教の信者達は議論が巧みで、この土地に仏法を広められるのにはなかなか苦労された。正道第五年目の雨安居をこの土地で過ごされたことなど懐かしく思い出され、この町の信者達が建てていてくれた幾つかの
(びょう)所を廻られた。
「阿難よ、ヴェーサーリーの町は楽し。ウデーナ廟は楽し、バフプッタ廟は楽し、サーランダダ廟は楽し、チャーパーラ廟は楽し」

 この世をまもなく去ろうとする人は、誰しもが、この眼で見うる最後の風景を、永遠に忘れることなく目の裏に焼きつけて死のうとするものではなかろうか。

 戦争中、内地から出征してゆく時の私は、「もう二度と、この懐かしい故里の山河を見ることはないであろう」と、遠ざかり行く故里の山河をじっと見たものであった。また、いよいよ突撃にうつる直前、「この目で見得るこれが最後の風景か」と辺りを見渡して、はやる自分の心を鎮めたものであった。

 まだ若い頃、このジャイナ教の中心地に乗り込んで来られて、それまでにインド三千年にわたる因習に堕した土俗信仰をしている人達に初めて仏法を説かれて、帰依する人達が出て来た時のお釈迦さまの喜びはどんなであったであろうか。以来、沢山の信者が増え、法を聴くための廟所が各所に建てられた。

 お釈迦さまが「楽し」と言われたのは、その廟所や、ヴェーサーリーの町がきれいであるから、それを「楽しい」と言われたのであると思う人があったら、それはお釈迦さまの心を知らない人である。お釈迦さまが「楽し」と言われたのは、仏法を広める為に廟所を寄進した人達の心を、そうして、そこで仏法を聴いて救われてゆく沢山の人達を、更にその人達の縁によって救われてゆく人達の心を喜ばれたのではなかろうか、この地上の一切のものに執着してはならないと教えられたお釈迦さまが、単に建物の美しさだけをめでられる筈はない。





5.入滅の予言

 過去、現在、未来の三世を見通す力を持たれたお釈迦さまは、ヴェーサーリーの町周辺にいた比丘達を重閣講堂に集められた。
「比丘達よ、仏法は、多くの人々の利益安楽のため、世人への憐れみのためだけでなく、天上界の人々をも救う道である。だから、あなた達は、よく仏法を把握し、習得しなければならない。仏法は永遠の法である。仏法は理想達成のための道諦である。諸行は無常である。形あるものは必ず滅しなければならぬ。刻々瞬々、移り変わるものであるからこそ、努力することによって運命も変わってゆくのである。無常なる姿に囚われて「どうせ滅びるものならば」と無常感に囚われて暗い消極的な心になったのでは仏法に反する。
 永遠に死なない生命こそが、我々の魂なのであるから、その魂をよく磨いて明るい心で理想達成のために努力をしなければならない。
 私の肉体は衰えた。わたくしは三ヵ月後にこの世を去るであろう」と告げられた。


 お釈迦さまはこの最後の旅で、阿難に
「六神通力を持ったものは、もし望むならば、一劫の永い間でも寿命を延ばすことができる」と述べられたが、ぼんやりしていた阿難は、「いつまでも生きていて、世の人々をお救い下さい」と、お願いすることをしなかった。これは阿難が悪魔に支配されていたからだと伝えられている。

 阿難はこのことの重大さに気づき、改めてお釈迦さまに懇願をしたが、お釈迦さまは、その懇願を成すべきであることを、ラジャグリハでも、ヴェーサーリーでも、度々お前に暗示したけれども、お前はそれに気がつかず、懇願することをしなかった。それはお前の手落ちである。と言われたと伝えられている。

 
お釈迦さまはという方は、自分の方から「こうしなさい、あゝしなさい」という言い方はされない方であった。本人が気づくまで、いつまでも待っていられた方であった。自分から進んで聞く、進んでするという自発性を尊ばれた方で、言われてするのはそれだけ減点であるといっていられたのであるから、この阿難の話も、阿難の心づかい、心の働かせ方の足りなかったことが伝えられたのではなかろうか。




6.ヴェーサーリーを出発

 
「阿難よ、このヴェーサーリーの町もこれが最後であろう」といわれて、お釈迦さまはバンダ村に向かわれた。ハツテイ村、アンバ村、ジャンブ村と、途中で最後の別れを心の中で告げながら説法をされてボーガー城に入られた。




7.四大教法

 
ボーガー城のアーナンダ廟では、比丘達のために四大説法を説かれた。これはお釈迦さまが、自分が入滅した後、どういうことが起こるか、それを予見されて、死後の混乱と、仏法が歪曲否定されることのないようにとの配慮から、なされたのである。

1.ある比丘が、
「自分はこのことを直接、お釈迦さまから聞いたのであるから、これこそ正しい仏法であり、   師の教えである」と立証するものが出てくるであろう。そういう者の言葉をそのまま信用してはならない。   その説を、教と律とに照らしてみて、それが、正しい経と律に合致しないのであるならば、それは仏説では   ない。合致していればまさしく仏説である。

2.ある比丘が、
「自分は多くの博学の長老及びその長老のいる教団からこの教えを聞いたのであるから、まさし  く仏説であると見なさるべきである」と主張したとしても、これをこのまま肯定したり否定したりしてはなら  ない。第一のように経と律に照らして正しく判断すべきである。

3.ある比丘が、
「自分は多くの長老からこの教えを聞いたのであるから、まさしく仏説である」と主張したとし  ても、これをそのまま肯定したり否定したりしてはならない。第一の場合のように、経と律とに照らして正し  く判断すべきである。

4.ある比丘が、
「自分はある一人の博学な長老から、この教えを聞いたのであるから、これはまさしく仏説であ  る」と主張したとしても、これをそのまま信じてはならない。経と律に照らしてみて判断すべきである。

 お釈迦さま在世中は、経と律はまだ文章としてまとめられてはなかった。第一の結集が行われたのは、お釈迦さまが亡くなられて九十日目であるから、お釈迦さまは、自分が入滅した後に、自分が説いたことが経と律にまとめられることを予見していられたと見るべきである。

 人間は威光暗示にかかり易い。威光暗示というのは、一応、一般社会から何かの点ですぐれた人、立派だと思われている人、不思議な霊能力でも持っている人があると、その人がこう言われたというと、無批判、無条件に、盲目的に、それを信じてしまうことを「威光暗示にかかる」という。

 
お釈迦さまは、無知であること、盲目的であること、即ち、知るべき法を知らないことが一切の罪の、迷いの根源であることを説かれたのである。だから、

自分はこのことを、お釈迦さまから直接聞いたのです」という人があっても、それをそのまま盲目的に信じてはいけない、と厳しく注意されたのである。


 この点からも、盲目的な他力信仰ではいけないのだということを、私達は知らなければならない。お釈迦さまは他力信仰は説かれなかったのである。




8.鍛冶屋チュンダの供養

 ボーガー城を去られ、パーバー城に行き、鍛冶屋のチュンダの所有するマンゴー林に住せられた。インドはどこでも、町や部落の周辺に必ず林がある。一本の木陰に100人、200人は楽に座ることができる。乾季には毛布一枚あればどこでも寝れる。お釈迦さまは弟子達に、伝道に出た時は、信者の家に迷惑をかけてはならぬ。必ず林に寝るようにと注意していられた。まして大人数となると、そんな大人数を休ませる広い家などめったにない。だからこの時も、林に休まれて、食事はチュンダが供養したのである。

 お釈迦さまは茸が好きであった。生まれ故郷のカピラには色々な茸が沢山採れた。人間は誰しもが、小さい時に食べ慣れた物が好きになる。カピラに近いこの辺りも茸が沢山採れた。

 多くの仏典が、茸に中毒されたと、書いているが、それは正しくない。茸が好きであった為に、油炒めの茸を沢山食べられた。。老齢であり、また身体が弱っていられた為に、消化不良を起こして激しい腹痛と下痢が始まったのが真相である。中毒であるならば、食べられてすぐ異常が腹痛が始まるはずであるが、お釈迦さまは、食事の供養を受けられた後でチュンダに説法をしていられる。

 チュンダはすでに、お釈迦さまが近いうちに入滅されることを知っていた。それで、お釈迦さまが亡くなられた後、
真の宗教の指導者にはどんな人を選んだらいいか、その判定の基準を知りたいと質問したのである。

 お釈迦さまは、世間には四種のシャモンがあると説かれた。

1.勝道のシャモン
  自ら正しい修行をし、見惑修惑のあらゆる煩悩を断じて最高の聖者、真の人類の指導者となった者である。

2.説道のシャモン
  仏教の正しい世界観、人生観を把握理解しよく人々を教え導く力を持ち、よく人を納得させ得る者である。

3.活道のシャモン
  仏教の正しい教えに親しんで、生活の中によく教えを生かす者である。

4.汚道のシャモン
  外形はまじめに殊勝に振舞っているが、心は邪悪虚偽に満ち、在家から供養を
(むさぼ)ったりして、
  仏法を汚す者である。

 この説法によって、チュンダは心が定まった。

 先の「四大教法」によって、正しい法を選ぶ基準が示され、今、「正しい指導者を選ぶ基準」が示された。


 この基準は、現在も通用するはずである。指導者として選ぶ最低の基準は、「その宗教指導者の言う事と、日常生活とが一致していなかったら、その人の言うことを信じてはならない」ということである。





9.クシナガラへ

 死期を悟った人の最後は静かである。カピラへ帰って入滅したいという思いは、老いなお衰えた肉体を支えて、次の町クシナガラへと向かわせた。激しい痛みと下痢が始まった。お釈迦さまは路傍の一樹の下に、上衣を四つ折にして座られた。この状態ではとてもカピラまでたどり着くことはできまい。痛む下腹を押さえてカピラの空を仰がれた。

「阿難よ。水を持ってきてくれ、水が飲みたい」
近くの小さい川は、今しがた商人の500位の車が通ったばかりで、水は濁っていた。

「今、あの川は、車が通ったばかりで濁っております。少し行きますとカクッター河があります。そこは水が清く澄み、冷たいですから、そこまで行って頂いてそこで水を飲んだり、足を冷やしたりなさっては如何でしょうか」
と、2、3回申し上げたが、お釈迦さまは、今すぐ飲みたいといわれた。仕方なしに阿難が鉢を持って小川に行ってみると、不思議にも水は澄んでいた。阿難はびっくりして、これはお釈迦さまの神通力によるものと、その奇跡を申し上げた。

 水を飲んで渇きを癒し静かに禅定をしていられると、そこを通った隊商のプックラというマツラー人が、お釈迦さまの所へやって来た。

 禅定について質問をした。
「真に統一した禅定に入るとすぐ傍を500の車輌が通っても、また頭上で激しい落雷があっても、それに自分の心が掻き乱されることはなく、肉体の耳はその音を聞いても、心は定に入って静かに統一している」と説かれた。

 禅定三昧に入ると無我の境に入って周囲のことは何もわからなくなるということは間違いである。大抵の人は禅定三昧の境地と、恍惚の境地を混同している。何もわからなくなって恍惚となることは危険であって禅定は無我になることではない。

 プックサは、アーラーラ、カーラーマの在家の弟子であったが、お釈迦さまに帰依して金色の絹の衣を差し上げた。その衣を、お釈迦さまに掛けたら、掛けた衣の黄金の色が失われるほど、お釈迦さまの身体が黄金色に輝いた。
「お釈迦さま、この黄金色をした絹の衣をお掛けしましたら、衣の光揮が失われるほど、身体が輝きました」と申し上げると、「阿難よ、まさにその通りだ。如来の皮膚の色は二つの場合に輝くのである。一つは、如来が無上正等覚を悟る時、一つは真全涅槃界に入滅する時である。阿難よ、今夜半、クシナガラのマツラー族のウパッツタナのサーラ双樹の下で入滅するであろう。阿難よ、カクッター河の方へ行こう」

 お釈迦さまは、カクッター河で最後の沐浴をし、水を飲み、河を出てマンゴー林に入られた。お釈迦さまは、舎利佛の実弟であるチュンダカに申された。
「チュンダカよ、上衣を四重にして布いてくれ、私は疲れた、横になりたい」チュンダカがそのようにすると、お釈迦さまは右脇を下にし両足を重ねて休まれた。どこまでも思いやりの深いお釈迦さまは、阿難に語られた。

「阿難よ、鍛冶屋のチュンダは、自分の入滅を聞いて自分が供養した食事が原因でお釈迦さまは亡くなられたのではなかろうか、と後悔し悲しい思いをするかもしれない。私が悟りが開かれた時の最初の食事と、入滅前の最後の食事の二つは、あらゆる供養の中で最上のものである。鍛冶屋のチュンダは、長寿になる業を積み、名声をもたらす業を積み、生天の業を積み、王位に導く業を積んだのである。阿難よ、このことをチュンダに伝えなさい」

 阿難に命ぜられて、一比丘尼はこのことをチュンダに告げた。苦痛のさ中にあっても信者の心を励まし慰められた。やさしいお心に周りの比丘達は皆感激した。





10.スパッタの帰依

 お釈迦さまは阿難に、「クシナガラの町に行って、マツラー人たちに、今夜半に仏陀が入滅されるから、仏陀の最後に間に合わなかったと、後悔することのないようにと告げよ」と命ぜられた。

 この町の人達は男も女も、「どうしてこんなに早くお釈迦さまは入滅されるのであろうか」と
悲歎(ひたん)に暮れた。全員がみなお釈迦さまにお逢いすることは出来ないので、阿難は代表者にだけ、別れの挨拶をさせた。サーラ林に集まっていたマツラーの人々は、「もっと永生きして、私達を導いて下さい」と、天に向かって号泣したかったが、そうしたのではお釈迦さまの心を騒がせると、一人一人が悲しみを押さえて、これまで仏法を説いて下さったことを感謝し、安らかに入滅されることを祈っていた。

 そこにスパッタという120歳の遊行僧が通りかかった、お釈迦さまが入滅されるのだと聞いた。いつの日か、お釈迦さまの説法を聞きたいとここまで遊行して来たのに、はや入滅されるのか、スパッタは、せめてお釈迦さまの息のあられる間に教えを乞いたいと悲しみにうずくまっている人々の間をかき分け、よろめく身体を杖で支えて前に進み出た。「お釈迦さまにひと目合わせて下さい」スパッタのかすれた声は阿難の耳に届かなかった。さらにスパッタは前に進み出た。「お釈迦さまに、合わせて下さい」
 ふと、振り返ると、阿難はそこにやっと杖にすがっている老人を見た。「お釈迦さまにあわせてください、今生のお願いです」阿難は、老人を押しとどめた。スパッタもまた、自分の寿命が来ていることを感じていた。今、お釈迦さまにお逢いして置かなければ、来世でお逢いできるとは限らないと思う、と必死であった。

 静かに目をつむっていられたお釈迦さまの耳に、阿難とスパッタの言い争う声が聞こえて来た。お釈迦さまは阿難を呼ばれた。
「阿難よとめてはならない。私の最後の弟子が来た。私は彼がここに来ることを前から知っていたのである」
阿難は、スパッタに押しとどめた非礼を詫びて、お釈迦さまの枕元に案内した。
「スパッタよ、よくたずねて来てくれた。私は入滅の前に、そなたに法を説くことが出来ることが嬉しい。これも縁である」

 これまでの仏典によると、四ヶ月の準修行期間を経ることなく、その場で比丘となり、やがて阿羅漢になったということになっているが、一説には、お釈迦さまの法を聞くと、その場でそのまま昇天したともいわれている。そのまま昇天したのが正しいのである。

「阿難よ、頭を北にして休めるようにしてくれ、私は疲れた」阿難が席を改めると、お釈迦さまは右脇を下にし、両足を重ねて、静かに瞑目して横になられた。その時、
沙羅双樹(さらそうじゅ)は時ならぬに花を開き、天から曼陀羅華(まんだらげ)栴檀香(せんだんこう)が降り如来の供養のために散り()いた。また天より妙なる音楽の音や賛歌がおこった。お釈迦さまは阿難に対して、
「時ならぬに花が咲いたり、花が降ったり音楽の音が聞こえたとしても、それは如来を供養することにならない。
 
出家在家の弟子達が、法を正しく知り、法を正しく行じてこそ、真に如来を敬い、如来を供養することになるのである」と告げられた。

 阿難はお釈迦さまに聞いた。
「お釈迦さま在世中は、多くの比丘達はお釈迦さまの下に集まっておりましたが、お釈迦さまが亡くなられましたら、お互いに集まって敬意を表しあうこともなくなります」と、

「阿難よ、私が死んだら、信心ある者は四ヶ所を見て尊敬すればよい。
 一、誕生の地   ルンビニー
 二、成道の地   ブッダガヤ
 三、初転法輪の地 サルナート
 四、入滅の地   クシナガラ
 この四つの所に行って、私がどのように法を説いたか、その法を思い出し、話し合って実践に精を出すがよい。
くれぐれも注意しなければならぬことは、ただこの四ヶ所を巡拝すればいいのだと考えて、心なくして廻ってはならないことである。法はあくまでも心にあることを忘れてはならない

 阿難は、お釈迦さまが在世中に、自分だけが阿羅漢になることが出来ないのかと思うと、我が身が不甲斐なかった。
阿羅漢果(あらかんか)を得るためには、まだまだ心の整理をして置かなければならないことが多かった。

 阿難は出家してまもなく頃、托鉢に出た先で、一人の女性を見染めた。心も狂わんばかりにその女性が愛しかった。たまりかねて阿難は、お釈迦さまに「その女性と一緒になりたい」といって「それは出家の妨げになる」といわれ、あきらめたもののそのことがまだ心のどこか片隅に引っかかっていた。その心を、お釈迦さまが生きていられる間にきれいにしてしまわなければ、お釈迦さまが亡くなられては、再びその機会もあるまいと思うと、
「阿難よ、お前はまだそのことに引っかかっていたのか」と言われるのを承知の上で、恥ずかしい思いを振り捨てて聞いた。

「お釈迦さま、女に対してはどうすべきでしょうか」
「阿難よ、女を見てはならない」
「しかしお釈迦さま、すでに見た時はどうしたらいいでしょうか」
「阿難よ、女と語ってはならない」
「しかしお釈迦さま、それでも、もし話しかけられたら、どのようにすればよいでしょうか」
「その時は阿難よ、心を慎むべきである。
心を動かしてはならぬ

 阿難はこのことがあってから、自分の心を見詰めて心の整理を始めた。阿難が阿羅漢になるのは、お釈迦さまの入滅後九十日の第一回の結集が始まる前であった。

 阿難は自分のこともであるが、従者として色々聞いて置かなければならないこともあった。それはお釈迦さまが亡くなられた後の葬法、遺骸の処分、供養の方法等であった。

「遺骸は、どのようにいたしましょうか」
「阿難よ、お前達は、私の遺骸の供養については心を煩わすな。それは在家の者にまかせなさい」

 阿難は、いよいよ、心を決めなければならないと思っても、やはり心細かった。今までは偉大なる師の傍にいて、何があっても師に寄りすがっていればそれで済んで来た。しかし、亡くなられると、もう頼ることも出来なくなると思うと、やはり何か頼りになるものが欲しい気がしてきた。

「釈迦さまが亡くなられましたら、私は何を頼りにしたらよいでしょうか」
「そのことについては、これまでも度々説いてきた。
外にあるものを頼りにしてはならぬ。自分の心を依りどころとし、法を依りどころとし、自分の心を灯とし、法を灯とすべきである

 いよいよ最後の時が近づいてきた。お釈迦さまは、そこに集まっていた比丘達に言われた。
「あなた達は仏の教について、なにか聞いて置くことはないか、もしあるならば遠慮なく質問するがよい。このことを聞いておけばよかったが、畏れ多くて尋ねることが出来なかったというような後悔がないようにしなさい」
と言われたが、まはや
(じゃく)として誰も問う者はなかった。
「もし、畏れ多くて直接に質問することが出来ないという人は、友人に代わって問うてもらうがよい」
と言われても、一同は黙っていた。
 色々お聞きしたいことはあったとしても、お釈迦さまの最後のお心を、お騒がせしてはならないと思う心のほうが強くて、恐らく誰も言い出せなかったのではあるまいか。阿難は悲しみに堪えられず、
(かんぬき)に取りすがって慟哭した。阿難は、二十余年間も従者としてお傍にいながら、まだ阿羅漢果を得ることができず、お別れしなければならないわが身が不甲斐なかった。その阿難の心を察してお釈迦さまは阿難を呼ばれた。
「阿難よ、悲しんではならない。泣いてはならない。かねがね私は説いてきたではないか。
愛すべき者といえども、ついには生き別れ、死に別れ、別々となる。形あるものは必ず滅する。滅しないということは真理ではない。
 
阿難よ、お前は二心(にしん)なき慈愛の心を持ってよく私に仕えてくれた。阿難よ、お前は良くやってくれた。精進努力するがよい」と、阿難に感謝し、礼を述べられて慰められた。




11.入滅

「比丘達よ、私はお前達に告げる。現象は移ろい易い、片時として一定の相をとどめることはない。移ろい易い現象に心をとどめることなく、心を法によって統制して、わがままに心を放逸にしないようにし、この世に生まれた目的を果たしてゆきなさい」
このように最後の訓戒をされた。


「仏陀」「ブッダ」という本当の意味は
「宇宙創造の神と一体となり、その神の意志を誤ることなく伝える力を持たれた方」ということである。
 このような力を持たれた仏陀と、共にこの世に生を受けて、しかも直接、法を受けることが出来るという機縁は全くあることが難しいほどの有り難い縁なのである。


 頭を低く垂れて最後の訓戒を聞いていた比丘達は、そのことを深く感謝し、教えに背くまいと固く心に誓うのであった。

 舎利佛、大目蓮が亡くなった後、後事を託そうと思っていられた迦葉はその時、マガタの南方を遊行していたが、お釈迦さまの入滅が近いことを感じ、五百の比丘を連れて北上しつつあった。しかしお釈迦さまの肉体は迦葉の到着を待つまでには耐えられなかった。

 もはや意識は肉体を去るべき時が来た。お釈迦さまは横になられたまま禅定に入られた。初禅から第二禅へ、第二禅から第三禅へ第三禅から第四禅へ、そうして最高の滅尽定へ、滅尽定の境地が「宇宙即我」である。

 
禅定に入って呼吸を統一し五官の感覚を去ると、禅定している肉体を見下ろしている自分があることを知ることができる。肉体は現象、仮の相であって見下ろしている意識それこそが本当の自分、本当の霊であることをはっきり自覚すると、その意識、霊はぐんぐん高く上り大きくなり、やがて宇宙いっぱいにひろがる。太陽も、星も、地球も、全てのものが自分の中にある。自分が宇宙の中心にあってしかもなお、地球の上に座って禅定している自分の肉体を見ることができる。そこまでゆくと、人間は皆同じ神の生命の兄弟であり、森羅万象、この世のもの一切はみな、神の生命によって生かされていることが、観念としてではなく、実感としてわかってくるその荘厳さは体験したものでないとわからない。

 まだ阿羅漢になっていない阿難は、お釈迦さまが微動だもされず、呼吸もあるかなしかで静かなので、もはや入滅されたのではないかと、阿那律に聞いた。天眼第一の阿那律はまだ入滅されたのではない、減尽定、宇宙即我に入られたのであると答えた。やがてお釈迦さまは減尽定、宇宙即我の境地から再び肉体に意識を戻され、改めて、悟りの環境を提供してくれたインドの天地自然に、自分の肉体を提供してくださった両親に、また養育して下さった養母に、ひとたびは妻とし子としたけれども、出家し悟りを開いてからは妻として子として遇することはなく、ただ法の弟子としてのみ遇したかつての妻や子に、また集い来たった縁生の弟子達に感謝され、これから全世界の人類が仏法によって救われてゆくことを祈念され、如来として仏陀として出生し、使命を果たして天上界へ帰ることが出来ることを喜びながら再び禅定に入られ、第四禅へ進まれ、そこからいよいよ入滅された。
 入滅と共に、大地は振動し、天鼓は鳴り阿那律や阿難をはじめ比丘達は口々に、お釈迦さまを讃え、入滅を惜しむ詩偈を唱えた。悟っている者は、この世の定めであると思って悲しみに堪えていたが、あるものは嘆き悲しんだので阿那律はそれらの人々に改めて、諸行が無常でであることを説き明かした。





12.遺骸の供養

 阿那律と阿難は、その夜は法話を持って過ごしたが、明け方になると阿那律は阿難に命じてマツラー族の人々にお釈迦さまの入滅を伝えさせた。マツラー族の人々は花輪や香や楽器を集め、五百重ねの布を持って周囲に幕を張り、一週間が過ぎ、遺骸を荼毘にするために、マツラー族が載冠式をやる天冠寺に移し、転輪王の葬法に従って棺を幾重にも囲み、あらゆる香木をもって薪とした。荼毘にしようとしたが遺骸は燃えなかった。




13.ラマバルの塚

 遺骸を荼毘にした天冠寺の跡は、涅槃堂の門を出て南へ1km程行くと、今はレンガを積み上げた大きな塚となっている。日本で火葬する所はどこでも陰湿な所ばかりであるが、クシナガラの林を出たこの辺りは北インドの青々とした空が果てしなく広がり非常に明るい所であった。ブーゲンビリアの花が真っ盛りで、その色の赤さは日本では見られない程鮮やかであった。かつてはこの上を土と草が覆って、木が生えていたそうであるが、今はことごとく除かれてレンガの塔だけになっている。この塚の両側に小さな川があって牛が遊んでいた。私はこの塚の周りを巡りながら、お釈迦さまの荼毘に馳せ参じた人々の心を思いやった。そうして、この塚のレンガを、一枚一枚積み上げていった昔の人々の心を思いやった。親の死も悲しが、子どもの死も悲しい、たしかに愛し合ってきた家族の者の死は悲しい。しかし、それにもまして、魂の師と仰ぐ人の死は悲しい、諸行は無常である、生まれた者は必ず死ななければならない、死する者に執着してはならないと教えられただけにその死は悲しい。しかし、北インドのこの辺りの天地の明るさは、人々の悲しみを許さない程底抜けに明るい。私は今度の仏蹟巡拝に一緒に来れなかった妻のために、レンガとレンガの小さな隙間に生えていた小さな名も知らぬ草花を手折ってノートにはさんだ。

 迦葉は一行と共にパーグー城からクシナガラへの道を急いだ。先方から一人の遊行僧が来た。手に花を持っている。聞いてみると、お釈迦さまが入滅されて既に一週間になり、この花はお供えしたものを分けてもらって来たのであると。迦葉の一行は、ようやく天冠寺に到着し、遺骸に対して礼をなし礼拝すると、初めて火が燃え上がった。




14.仏舎利の分配

 お釈迦さまの入滅を聞いて諸方の国王や有力者達がクシナガラに集まって、仏舎利を求めたが、マツラー族の人々は、ここで入滅をされたのであるから他国へは譲るわけにはいかないと拒絶したので争いが起こり、血の雨が降りそうになった。その時、ドーナーというバラモンが仲裁に立ち、お釈迦さまは忍辱を説かれたではないか、遺骨の分配のことで争うことは、平素のお釈迦さまの教えに背くことである、と説いて生前の信奉者に等分に分ける方がよいということになり、八分されることになった。

 一、クシナガラのマツラー族
 二、マガタ国のアジヤセ王
 三、ヴェーサーリーのリッチャヴイ族
 四、カピラの釈迦族
 五、アツラカッパのブリ族
 六、ラーマガーマのコーリヤ族
 七、ヴエーダデーヅのバラモン
 八、パーグーのマツラー族

 それぞれ持ち帰って仏舎利塔を建てて供養した。仲裁者のドーナーバラモンも舎利が納められた瓶をもらった。分配が終わってからやって来たモーリヤ族は、仕方なしに灰をもらって帰り、灰塔を建てた。
 在家の信者のために、合計十の塔が建てられた。出家した弟子達は、お釈迦さまが説かれた法と律を結集した。

 お釈迦さまが亡くなられて二百年後、アショカ王は深く仏教に帰依し、全インドに仏教を広めるために伝道師を派遣し、八カ所の仏舎利塔を開いて、更に細分し全インド八万四千の仏舎利塔を建てて祭られたと言われている。

 1898年、フランスの考古学者ペッペはカピラに近いピプラーヴァーで、一個の完全な
蝋石(ろうせき)の壺を発見した。その壺の表面には、お釈迦さまの遺骨を納めるということが銘記してあった。




15.クシナガラの月

 クシナガラに着いたこの夜は丁度満月であった。ロッジのインド料理の夕食の後、私は一人で涅槃堂へ行った。まだうすら寒かった3月の日本から来た身には、足元を飛び交うホタルが珍しかった。さらさらとなる菩提樹や、沙羅双樹の葉ずれの音は、お釈迦さまの入滅を悲しむすすり泣きのようにも思えた。

 遠くの畑で仕事をしての帰りであろうか、牛車に子供を乗せて家路を急ぐ人たちもあった。

 涅槃堂の真後ろから上ってくる月は、蒼く冴えて、あんなきれいな月を見たのは初めてであった。その清々しい月の光の中に立ってる自分が、そのまま仏像になってしまうのではないかと思うほど、私は月光の中にたたずんでお釈迦さまのお心を心として生きたいと願った。

 お釈迦さまの心になることは出来なくてもそうありたいと願う自分の心が自分で愛おしく感ぜられて、私は精進を誓うのであった。



月刊誌 正法5号 (1979.01月)
月刊誌 正法6号 (1979.02月)
月刊誌 正法7号 (1979.03月) より





16.最後の弟子-百十七歳のシヴリダ

 プッタの説く法は、自然の姿をとおして、人間の在り方を、当時の衆生に説き明かして行きました。

 プッタの教えは、八正道を心の物差しとして、調和された安らぎの道につけと常に説き、転生輪廻の法を肉体的に示し、万象万物は相互の関係にあって安定しているのだから、感謝の心を持ち、報恩の行為を実践することが大切である、と教えるのでした。報恩の行為としては、自分の環境に応じて奉仕と布施の実践活動をする。社会人類のために果たすべき人の道、を教えるのでした。

 そして、その四十五年間の道は、慈悲と愛の塊のようにすごしたもので、常に、
「人類はみな兄弟だ。貧乏人も金持ちも、地位の差に関係なく、みなプッタの子であり、生まれた環境は、自らが選んだものであり、その環境をとおして悟り衆生を済度するための目的を持って生まれてきたのである。」
 と、原因と結果の法則を説き、悟りへの道を示したのでした。


 八十一歳のとき、クシナガラの地で多くの比丘、比丘尼に見守られながら、プッタが最後の説教をしたときのことです。年老いた一人のサロモンが、入り口のところで、、ゴーダマ・プッタに紹介してくれと、問答をしているのを、横になって休んでいて聞き、秘書役のアナンダに命令しました。
「私の最後の弟子がきた。ここへとおしなさい」
 そのサロモン、シヴリダは、すでに百歳をはるかに越し、あらゆる修行をしてきたバラモン種でしたが、今世のうちに、本当のプッタに合いたいと思い、瘠せおとろえた身を杖に託して、ようやくクシナガラの地に辿りついたのでした。今まで、探し求めては会った師も多かったのですが、会ってみると、そのほとんどが自称プッタであり、もしゴーダマ。プッタも偽りのプッタであったならば、この場を黙って去ろうと決心しながらシヴリダはたずねてきたのでした。

 しかし、この心を、プッタはすでに知っていました。アナンダは、ブッタがニイルヴァーナ(涅槃)に入るときが迫っているので、遠慮して貰いたいと思っていましたが、プッタのお声がかりでは仕方がないと諦め、ブッタの前に、その老人の手を引いて案内するのでした。シヴリダは、プッタの枕辺に座すと、
「私は、今年で、百十七歳になるバラモンのサロモン、シヴリダと申します。私は、最高の悟りを得られた方を探し求めてあらゆる地を歩きました。その中には、プッタと名乗る人々もいましたが、私には納得できませんでした。本当の、サロモンとはどういう人をいうのでしょうか、教えて戴きたいのです」

 両手を差し出し、土の上に頭をつけて、そう語るのでした。言葉は、老齢のためか、とぎれとぎれでした。

 プッタはそれに力強く、こういいました。
「シヴリダよ、良くきてくれた。世の中には、自らプッタと称しながら、その心と行いには矛盾の多い者達がいる。
本当のサロモンとは、生老病死の苦しみから解脱するため、自ら片よりのない心を持ち、中道の物差しを持って歩んだ者をいう。中道の物差しとは、八正道をいうのである。この正道を、毎日の生活の中で実践してこそ、心のわだかまりがなくなり、一切の恐怖心から除かれて、安らぎの人生を送れるようになるのだ。苦しみは自らの悪い心と行いによって原因を作り出しているものだ。そのため、人は執着から離れることができなくなって、正しく生きることができないのだ。八正道の道を行じている者、それが本当のサロモンというものだ

 常と変わらない声音と言葉で、プッタは、シヴリダに道を説くのでした。シヴリダは大粒の泪を流し、心を打たれて、「ありがとう、ございました。お言葉が、私の心の中にしみ渡り、嬉しさが心から湧き出てまいります・・・・・・・・・ありがとう・・・・・・ございます・・・・・・」
 感激に言葉にならない有様で礼をいうのでした。プッタはシヴリダが、心から理解したことを賞めるのでした。シヴリダは、
「ゴーダマ・プッタ、私を弟子にして下さい。プッタのニイルヴァーナ(涅槃)に入られるのを見てはおられません。私は、一足先に往き、プッタのお帰りになるのをお待ちしたいのです。お許し下さいますか」
 と頭を上げ、プッタに希望を述べるのでした。見守っている弟子達も、シヴリダの心を察し、美しく悟ったその姿を見て、すすり泣くのでした。それは、静かな森に、しみ入るようなすすり泣きの声でした。プッタは、
「シヴリダよ、望みのとおりにするのが良かろう」と暖かい慈愛の言葉をかけるのでした。
「ありがとうございます」
 と身体を起こして、シヴリダは、プッタのそばにいた諸々の弟子達にも挨拶をしました。
「サロモン・サマナー、アラハン・シヴラーの先輩のみな様、私はプッタの弟子になりました。先輩をさしおいて失礼ですが、プッタよりお先に、ニイルヴァーナに入らせて戴きます。
 私は、一切の執着から離れて、心が安らかになりました。みな様の活躍を心から祈ります。ではプッタ、お先に失礼いたします」

 それは、最後の、生命の灯がゆれるのにも似た言葉でした。終わると同時に、シヴリダは、あたかも枯木が朽ちて倒れるように、プッタのそばで大往生をしたのでした。すでにその頃、シャリー・プトラーも、マハー・モンガラナーも、プルナ・ヤニ・プトラーも、この世の人ではありませんでした。

 プッタはそれを見ると、静かに眼を閉じながら、四十五年の正道の流布の道をふり返り、苦しい呼吸の中で、笑顔さえ見せて思い出に耽るのでした。

 そのとき、アナンダは、問いました。
「プッタ・・・・・・プッタ・・・・・・プッタがニイルヴァーナに入られたのち、私達はどのようにしたら良いでしょうか。それからご遺骸の処置は・・・・・・」
 しばらくしてから、プッタは答えました。
「アナンダよ、私の説いた法は、お前達の心の中に永遠に残るだろう。この法を、迷える衆生の心にしっかりと教え、救済しなくてはならない。
 それは、比丘、比丘尼の道であろう。
 私の肉体は亡びても、心は常にお前達のそばにいるのだ。
 今、太陽は沈んでいるが、明日になればまた東から昇るであろう。私の姿が見えなくなっても、決して悲しいことではないのだ。
 淋しいときには、私の生まれたルビニを思い出すが良かろう。最初に悟りを開いたウルヴェラの地を思い出すのも良いだろう。
 またパラナシーのミガダヤは、私が最初の説法をしたところだが、その地を思い出すのも良いだろう。
 そのほか、各地のヴェナー(精舎)やグリドラクターもお前達の心の中に残っているだろう。
 生在る者は、必ず滅するのだ。このことを悲しがってはならないのだ。
 私の遺骸は、ウパシカ、ウパサカ(在家)の衆生が処置するであろう。
 お前達は、正道を諸々の衆生に説き、その苦しみから解脱させることが大切だ。そのことが、私に対しての報恩ともなるのだ。

 アヌプリヤの森が、天変地異におそわれたとき、岩山は割れ、大雨が降りそそぎ、割れた岩山は谷川と変わってしまった。小さな動物達は、逃げ場を失って、右往左往の大騒ぎとなった。そのとき、一匹の逃げ遅れた年老いた大象は、その谷をみつめていた。周囲の、逃げ場を失った小さな動物達の姿を見たとき、その老いた大象は、余生いくばくもないことを知り、自らその巨体を岩山の割れ目に入り、小動物達を広い彼の岸に渡してやって死んだ。

 お前達も、迷ってはならない。私をその年老いた大象のように踏み台として、多くの迷える衆生を、勇気と智慧と努力を持って、迷いの岸から、悟りの彼岸へ導かなくてはいけない。
 やがて私の法は、マンデヤ、デイシヤ(中国)に渡り、ジャブ・ドウバーのケントマティにつたわって行くだろう。私は、そのときには多くの弟子達と共にまた生まれ変わって、この道を説こう」


 そばにいたマイトレイヤーは、プッタの背に手をやりながら、マンチュリヤー尊者、カチャナー尊者ウパリ尊者、スブティー尊者に、未来の再会を約して帰って行ったのでした。
 アニルッタは、プッタの禅定の様子を心の眼で見ていましたが、プッタが遂に九禅定に入り、ニイルヴァーナされたことを知ると、そのことを周囲の比丘、比丘尼達に告げました。比丘達は、それを聞くと、いっせいに悲しみの泪に暮れました。その悲しみの声は、森の静けさを破り、四辺に満ちて行くのでした。

 そのことは、早馬により、ヴェサリーで説法していたマハー・カシャパーや、ヴェル・ヴェナー(竹林精舎)や、ジェーダー・ヴェナー(祇園精舎)、マハー・ヴェナー(大林精舎)に次々につたえられて行きました。

 マーハー・カシャパーが弟子達とともにクシナガラの地に到達したのは、一週間後でした。
 その地で荼毘にふし、その灰は、在家の人々によって処理されました。

 その後、マーハ・カシャパーが中心となり、アナンダは法を、ウパリは戒律を中心として担当、プッタの滅後九十日目に、ヴェル・ヴェナーの裏の洞穴の中で、第一回目の集会が行われました。
 その中の指導者達は、マハー・カシャパー、ウパリー、スブティー、マーハー・カチャナー、アサジ、マンチュリヤー、マイトレイヤー、アヌルター、アナーダ・テイシャー、ウパシバなどで、集まった比丘、比丘尼達は総数四百七十六人の人々でした。

 一部の比丘は、すでに小乗仏教への道に入り、分裂のきざしはすでに現れていました。しかし、こうしてそれぞれの弟子達は、プッターの四十五年間説いたプッタ・スートラを暗記して、その指導を、問題はあったがアナンダが行ったのでした。

 このアナンダも、遂にアラハンの境地になり、結集の一員に決定されていたのです。
 指導者は、各地方にそれぞれが散り、ジャブ・ドーバーで会いましょうという合言葉を残して、道を説いて行ったのでした。


高橋信次先生 著  「 原説般若心経 」より





お釈迦さまは、「私に握拳はない」といわれました。
高橋信次先生は、
「インドの時45年かけて説いたものを今度は7年で説いてしまった」
「園頭さん、僕は、話さなければならないことはみんな話をした。今日はなんの話をしましょうかね」
「私は皆さんに、〝信じろ〟といったことはないですよ。なぜ、どうして、と疑問を持てといっています。
 疑問を追及してゆくと最後は神理に到達するからです。」

とおっしゃいました。

高橋信次先生の著書、心の発見3部作(神理篇・科学篇・現証篇)・心の原点・人間釈迦 等、一連の著書を
しっかりと読み、誤りのない人生を送られることを祈ります。





2011.02.20   園頭先生12周忌に寄せて