高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします






生と死の探求 「胎教」 「出産」


1.なぜ人間は尊重しなければならないか

 それは人間は神の子として、霊として、生命として、永続的な永遠性を持った存在だからである。
 殺人や自殺が罪とされるのは、ただ単に肉体を殺すということだけでなしに、生命として霊としての体験を自分勝手に中断せしめるからである。

 にんげんが単に肉体という物質であるとしたら、物質はいずれ破壊され消滅するのが運命であるから、唯その時期が少し早かったというだけのことで、罪にならないと言う事にならなければならない。机は物質である。机を焼いたり捨てたりした人があった時、その人は罪人として処罰されるであろうか。肉体が単なる物質であるとしたら、肉体を破壊したり捨てたりしても罪にはならないと言う事にならなければならないはずであるが、しかし実際には罪とされるのは、人間は肉体ではなくて尊い生命、しかも永続性を持った永続させるべき生命であるという人間観があるからである。

 だから、二十一世紀の価値観というものを考える場合にまずしなければならないことは、唯物論を否定し捨て離した上で、唯心論的立場で物事を考えなければならないということである。



2.人間の誕生、なぜ親に感謝しなければならないか

 我々は一人一人、個性を持った霊としてあの世に存在している。そうして霊の修行のためにこの地上界に肉体を持って生まれてくるのである。その場合、この地上に生まれて行く順番を待っている待機する場所がある。そこで我々は、誰を親として生まれてゆくか、、誰と夫婦になるかを予め約束するのである。選ぶ基準は、誰と親子、夫婦の縁を結ぶことが一番霊の修行になるかということである。

「あなたはお父さんになってください。あなたはお母さんになってください。」とお願いをし、親となる霊は、その子供を子供とすることによって今度は一番良く霊が磨かれるということで約束が出来る。

 自分の父となり、母となるべき霊が、地上界へ生まれて肉体を持つのを、子となるべき霊はあの世、天上界から見ている。やがて父となり母となるべき人が、成人して結婚をすると、その子供となる霊は地上から送られてくる信号(性行為によるバイブレーション)を合図に地上へ降りて行く。それが受胎である。

 受胎した時に霊が全部肉体に宿るのではない。霊は、やがて自分が宿るべき肉体が、母となるべき人の胎内でどのように創られて行くかを見ている。そうして月満ちて出産の刹那に霊は完全に肉体の中に入り込んで、あの世の記憶は忘れさせられ、ただ過去世からの傾向性、心の習慣性(業)は残るのである。もっとも七ケ月以降は、いつでも霊は肉体を完全に支配する体制を完了するのであるから、妊娠七ケ月で生まれてもまた八ケ月で生まれても、丈夫に育つ場合があるのである。

 生まれてくる子供の一人一人の性格、才能が違うのは、過去の輪廻転生においての経験、霊の修行の仕方が違うからである。

 たとえその親がどのような親であろうと、その親から霊を向上させる何かを学ばなければならないのである。親不幸をすることは、自分がその親を親として学ばなけらばならないことを放棄することである。

 人間は霊の向上を目指して生まれてくるのであるから、真の幸福とは、霊が向上した結果の喜びとして現われてくるものであり、霊の向上を放棄した者が幸福になることはないのは当然である。

 道徳的に、親に感謝し、親に孝行しなければならないという根源は、親になって下さることをお願いして生んでもらったということに根源があるのである。



3.宗教のために生まれてくるのではない

 人間が生まれて来る時のことを考えてみよう。親が信仰していようと信仰していまいと、またその信仰がどんな信仰であろうと、そんなことには関係なく、子供は自然に生まれてくる。親がある信仰をしているからといって、「お前はこういう生まれ方をしなさい。」と言う親もいなければ、自分は信仰していないから「こういう生まれ方をしなさい。」と教える親もいない。

 自然の生命の法則に従って子供は生まれてくる。宗教や信仰に関係なくそのまま自然に子供は生まれてくる。宗教や信仰によって生まれ方が違うということはない。だとするならば人生の目的である霊の向上を図る、魂を磨くという生き方をすれば別に今ある宗教や信仰に頼って生きる必要はないのではないか。

 ある宗教の指導者は、その宗教を信じなければ幸福にならないと説くけれども、その宗教を信じなくなくても結構幸福に暮らしている人は多い。無神論者でもないが特別ある宗教を信じていると言う訳でもないのに幸福に暮らしていると言う人も多い。またその反面に、その宗教を信じていても不幸だと言う人も多い。その宗教を信じたら幸福になると言うなら全部の人が幸福にならなければならないはずなのに、幸福にならないと言う人があるのはどう言う訳であろうか。

 生まれて来る時に宗教が必要である訳でもないし、現在あるような宗教を信ずることが必ずしも人間を幸福にするものではないと言うことであれば、現在あるような宗教を信ずることが必ずしも人間を幸福にするものではないと言うことであれば、現在あるような形の宗教というものは信じなくてもよいのではないのか。人間が生きて行くうえに必ずしも現在あるような宗教は必要はないといっても、人間の心から宗教心を無くすることは出来ないから、今までとは別な形の宗教というものがあっていいのではないのか。

 人間が生まれて来ることと生きて行くこと、、それと宗教との関係はもっともっと考えてみる余地があるのではないのか。

 このように考えてくると、我々は特別に何かの信仰を持たなくても、人間が神の子であることの尊厳を知り、心を大事にして、宇宙の法則に従って霊を向上する生活が出来れば、それで良いと言うことに落着くのである。このことは死の事実による現象を見る時さらにはっきりとなってくるのである。



4.障害者が生まれるのは先祖や前世の因縁ではない

 子供が生まれる時、親が一番心配するのは、「五体満足で手足が揃っているであろうか。」と言う事ではなかろうか。健康な赤ちゃんを生んだ母親の安堵した喜びにひき替えて、障害者だと医師に告げられた時の暗澹(あんたん)としたやり場のない悲しみ、悔恨(かいこん)はどんなに深いものであろうか。

 天上界で親となることを約束した子供の霊は、地上から送られてくるバイブレーション(波動)「性行為の際の心の波動」に引き寄せられて地上界へ(つな)がる。霊が完全に肉体に入るのは出産の刹那であるが、それまでは天上界にいて、母となるべき人の胎内で、やがて自分が乗り物としなければならない肉体がどのように創られてゆくかを見ているのである。
 もし、不完全な状態に創られつつあることを知ると「しまった。」と思うのである。「よし、仕方がない。本当は五体健全な肉体を乗りものにして魂の勉強をしようと思ったが、こうなったら仕方がない。不完全な肉体を乗りものにしての魂の勉強は難しいが、一生懸命にやろう。」と覚悟して生まれてくるのである。

 だから障害者は、肉体的には一人前ではないと見られているが、魂は、心は立派に一人前の人格者なのであって、五体健全な人よりも難しい乗りものを利用して、健康な人の経験できない厳しい心の勉強をしようとしている勇者なのである。だから我々は、障害者を見た時、心からその人を賞賛し「厳しいでしょうがしっかりやって下さい。」と励ましてあげなければならないのである。

 小さな子供の手を引いた若い母親が、時々障害者の後ろ姿を指差して「いい子にしていないと、あんなになりますよ。」と言っていることがあるが、また、不潔なものでも見るかのような眼で見て通り過ぎる人があるが、そういうことは絶対にしてはならないのである。肉体はどうあろうと魂は神の子であり、皆素晴らしい人格者なのである。

 障害者として生まれるのはその人の前世の因縁でもなければ、もちろん先祖の因縁でもないのである。今まで多くの宗教家は、すべて先祖や前世の因縁だと言って信仰させ、因縁を浄化しなさいと言って多額の献金をさせてきた。因縁は心で創るものなのであるから、心で創ったものは心を変えないと消えないのに、金や物を教団にあげれば因縁が切れると説いているのは間違っている。

 因縁を切るためにと、先祖伝来の土地も寄付して困っていると言う人を私は沢山知っている。因縁を切るために金や物を上げさせる宗教は邪教であるから、そんなものを信じてはならないのである。もし、今信じている人があったら即刻そのような信仰はやめるべきである。

 障害者として生まれてきた人は、その厳しい肉体を乗りものとして魂の修行をしようと決意して生まれて来たのであるから、むしろ、健康体の人よりも難しい勉強をするチャンスに恵まれたと感謝して、肉体の不自由さを克服してゆくその経験を心から喜ばなければいけないので「こういう体に生んで。」と親を怨んではならないのである。もちろん、社会全体を怨み健康体の人を見て怨んでもならないのである。

 いろいろな不幸をも含めてそれらを全て先祖や前世の因縁だと言う宗教家達は「献金をすれば因縁が切れる。」と言うが、しかし、いくら献金をしても[これであなたの因縁は切れました。」と言うようなことは絶対に言わないのである。「切れる。」と言うなら「切れました。」といえなければなならいはずであるが「これであなたの因縁は切れました。」と言った人があることを私は聞いたことがない。
 天理教を四十年続けて来たという人が来られたことがある。「若い時からずっと信仰して、教会から言われる通りにおささげをしてきました。あることがあって聞きに行ったら「あなたの因縁はもっと深い、もっと上げなさい。」と言われました。今まで四十年上げ続けて来たのであるから、少しは因縁も切れたかと思っていたらまだ切れていないと言われる。これから先、もう何年生きるかわからないし、一生かかって上げても因縁が切れるかどうかわからないと思ったら、何のために喰うものも喰わず、着るものも着ずに献金してきたのか、わけがわからなくなりました。」とその人は言っていられた。

 各宗教団体の大きな殿堂を見るたびに私は「この建物は、先祖や前世の因縁だと脅かされた人達の金で造られている。」と思うのである。因縁は金や物を上げることによって消えることは絶対にない。因縁は心で創るのであるから、心の持ち方を変えれば消えるのである。心の持ち方を変えるのには一銭も金はかからない。もし、今まで先祖や前世に因縁だと言われて恐怖心を持ち因縁を切るために金や物を上げている人があったら即刻それはやめて、その金や物は、もっと自分自身や廻りの人達を幸福にするために使うようにすべきである。



5.ではどうして障害者が生まれてくるのか ・・・ 胎教について

 それは胎教のせいである。妊娠中、いや妊娠前からの不調和の想念が胎内での発育に障害を来たすのである。

 わが国に胎教ということが言われるようになったのは、七世紀の初め(640年頃)推古天皇の時代、中国へ留学した学者達が持ち帰って来た「千金要方(せんきんようほう)」と「病源候論(びょうげんこうろん)」によって紹介された。

「妊娠をしたら、いい絵を見、いい音楽を聴き、いい香を焚き、いい本を読み昔からの聖人君子の教えを学び、心を安らかに静かに静かにして、正しく坐り、身辺を清浄にし欲を持たず、心を整えていけば、生まれてくる子供は長寿で、仁義に篤く、聡明で、健康で、親孝行であること間違いなし。」

 胎教は元来、学問の中の重要な綱目として、奈良、平安、鎌倉時代から江戸時代にまで伝えられてきた。しかし、どうして奇形児が生まれるかは分からなかったため、色々な迷信が生まれることになった。

 ○ 妊娠中に兎を食べると、みつくちの子供が生まれる。

  にら、らっきょう、にんにくを食べると()さ病み(梅毒)の子供が生まれる。

  あひる、かもなどを食べると、水かきのような足の子供が生まれる。

  しょうがを食べると、指の多い子供が生まれる。

 その他、地方地方によって色々な迷信が生まれた。

 明治維新になって西洋医学が導入され、このような迷信は排除されることになったが、しかし、西洋医学は、胎教の正しい面まで迷信として否定してきた。しかしながら民間では、終戦までは胎教は生き続け伝えられてきたが、終戦と同時に、胎教の正しい面も含めて胎教は一切迷信として否定され、終戦後、結婚をした特に最近の若い人々は、胎教というものがあったということも知らない人々が増えてきた。
 しかし、ここ十年位前から胎教は大事だという産婦人科の医者が増えてきている。それは最近、障害児が生まれる率が非常に高くなり、妊婦の生育歴や環境を聞き、明らかに胎教の影響だということが認められるようになって来たからである。胎教が見直されるようになってきたのは世界的な傾向である。特にアメリカで盛んになってきている。


* ブリストル大学のストット博士は

「妊娠中の母親の感情は、胎児の知能や情操の発育に重大な影響を持っている。」と発表している。
 精薄児の102名の母親について、詳しく調査した所、66%の母親が妊娠中に大きな精神的ストレスを持っていたことが明らかになった。いずれも妊娠初期のストレスが一番影響が強い。何故なら、胎児の脳の発育は、妊娠三ヶ月までが重要であるからである、と色々な事例をあげて発表している。

 ○ 生活が派手で外交的でチャーミングだが感情的でヒステリー型で、結婚前ボーイフレンドの多かった母親

 ○ 妊娠初期に親が死んでショックを受けた母親

 ○ ガンになることを恐れて、夫との性行為を恐怖していた母親

 ○ 夫の死亡によってショックを受けた母親

 ○ 酒を飲んで、乱暴に性行為を求める夫を嫌悪した母親

 ○ ある日突然、夫が犯罪者になった母親 ・・・ 等


* サレルノ博士は

「妊娠初期から、精神的ストレスを持っていると、妊娠中毒症にかかることが多い。」と言っている。


* 奇形児を専門に研究しているインドール博士は

「妊娠中の母親が、しばしば感情的に興奮するとその度に子宮が急に収縮して、血液の流れが悪くなる為に、無能児が生まれる。」と言っている。


* フレーザー博士とフェインスタート博士は言っている

「妊娠中の母親が、強い精神的な緊張を引き起こすと、副腎皮質ホルモンが体内で多量に生産されて、それが発育途上の胎児に悪い影響を与え、遂には奇形児ができる。」


* ノリス博士の研究

「妊娠中、胎内で酸素の供給が不足するような状態になると、精神分裂症や精神薄弱児が生まれる。」


* インガールス博士の研究

「特に危険なのは妊娠二ヶ月の終わりから三ヶ月にかけて妊娠初期の母親が流産しかかったり、病気に感染したり、異常に性器出血が続いたりすると胎児が精神異常を起こしやすい。」



* 日本では、世界的に有名な大脳生理学者で東大教授であった時実利彦(ときさねとしひこ)博士が次のようにいっていられる。

「妊婦の一挙手、一投足がそのまま赤ちゃんにきざみ込まれる。そして、その赤ちゃんの性格なり、気質の大ざっぱな骨組みは、三歳くらいまでに出来てしまう。だから、精神的環境をよくして、心の健康に充分に気を配ることが必要である。」



 このようにして、人生の大事さを心から見つめている医学者や科学者は胎教の重大さに気付き始めてきているが、これも昭和四十年代になってからで、一般の医師を初めとして多くの人達はまだ胎教を迷信だと思っている人が多い。しかし、胎教が大事であることは事実である。

 私が個人指導をしたものの中でいくつかの例を挙げてみよう。

*小児麻痺の場合
 ある時、三歳の女の子を連れて来られた夫人があった。その子供は小児麻痺で足が立たない上に、首がぐらぐらして坐らない。ものをつかませようとしてやると、眼はそのものを見、手でつかもうとするのであるが、手は反対のものの無い方へ伸ばすのである。
「あ、これはひどい。あなたは随分苦労しましたね。辛かったんですね。」
 私はその人が、妊娠中にどんなに苦労されたかがわかったのでそういった。とたんにその人は泣き出してしまった。そうして、町のサラリーマンの家に生まれて農家の長男に嫁いで、姑と夫との間に挟まれてどんなに苦労したかを泣きながら話された。
 妊娠したことに気付かなかった。体の調子が少し悪くなったので、産婦人科に診察に行かせてほしいといったら「百姓をしたくないから仮病を使っているんだ。」と罵られて「これだからこの嫁はもらいたくなかったのだ。」といわれた。やっと妊娠だとわかったがどんなに体がつらくても休むことは出来なかった。夫は姑に気がねして自分の味方にはなってくれない。死んでしまいたいと思ったことも何べんかあった。そうして生まれてきた子供は重症の小児麻痺であった。


*精薄児の場合
 その人は結婚するとすぐに妊娠した。はにかみながら夫にそういった。その時はうなづいただけだった。晩酌で少しお酒が入ると夫は急に怒りだした。
「その腹の子は俺の子ではないだろう。俺と結婚する前に好きな男がいたにちがいない。どこの野郎か知らないが、よその奴の子をはらんで俺の所へきやがって。」といきなり殴りつけられた。
 夫は酒乱の気があった。平静はおとなしいのであるが酔うと人が変わった。母もいつしか夫の肩を持つようになった。何度か別れて実家に帰りたいと思ったが、父は早く死んで母は二人の妹を抱えて苦労していて、どうしても帰る気になれずそのうちにと辛抱した。夫は酔って殴ったりすると乱暴にその人の身体を求めた。精いっぱい尽くした。酒乱の夫への不信と姑への怨みが胎児の発育を疎外したのであった。生まれた子供は精薄児であった。精薄児を生んだということで遂にその人は離縁になった。


*てんかんの場合
 いままで沢山の人を指導したが、その子供ほど暴れる落ち着きのない子供は初めてであった。私の机の上に乗って飛び下りるやら、床の間に上るやら。母親はその子供を気にしながら、三歳の時からてんかんの発作が起こり始めたことを話した。四歳の時はまだよかった。五歳になって、てんかんの発作が起きて気がついてみると、周りにいっぱい人がいる。それで恥ずかしさを覚えて幼稚園に行かなくなりました。このままでは小学校にも行かないといい出すのではないかとそれが心配で、良いという医者は全部行きましたが、どこでも直す決めてはないということでしたと嘆かれるのであった。

「この子供さんは、あなたの子供さんですか。」と聞いた。

「え、わたしの子供です。」

「本当にあなたの子供さんですか。」私は疑問を持ってさらに聞いた。

しばらくだまって下をうつむいていたその人は、急に小さな声になって、

「そういわれれば、私の子供だといえば私の子供ですが、私の子供でないといえば私の子供ではありません。

 その子供が、どういう子供であるか、皆さんはお判りになったであろうか。即ち「人工授精児」なのである。
 結婚して五年間、子供が出来なかった。夫婦揃って検査をしてもらったら、ご主人に妻を妊娠させる能力がないということがわかった。どうせ生まれないのなら子供をもらってとも思ったが、自分の身体が丈夫なので、どうしても自分の腹から産みたかった。夫の許可を得て人口授精児を生むことにした。夫は口では何も言わなかったが、お腹がだんだん大きくなるにつれて夫は明らかに不快な表情をするようになった。生まれてきたが夫は抱かなかった。それだけにこの子は不憫(ふびん)だと、その人は溺愛した。そうしてその子供はてんかんになった。


(日本では現在、人口授精児が二十万人いるという。その半分が問題児になっている。アメリカでは人口授精児の人権問題が起こり、自分が人口授精児だとわかった場合、その子どもが本当の父親は誰であるか知りたいと言った場合は、人口授精児の親は、精子をもらったその父親を知らせなければならないという法律を昨年十月に決めた。そうなった場合、どのような精神的葛藤が起こるであろうか。考えると恐ろしい気がする。)


*暴力を振う少年の場合
 小学校の先生をしているというその人は、
「先生、昔の人が、持たぬ子には泣かん。という事を言われたと聞いていましたが、自分で子供を持ってみてつくづくそう思います。実は次男が十九歳ですが、突然発狂状態になって「ここは俺のうちだ、お前は出て行け。」と、私を丸たん棒を持って追い掛け廻すのです。それで私は自分の家に休むことが出来ないのです。自分の生んだ子供からそんなに言われて自分の家に寝ることが出来ないなんて、こんな情けないことはありません。」と言われるのであった。

 私はいきなり聞いた。
「あなたはどうしてその子供を生みたくないと思ったのですか。」と

 しばらく息をつめてようにしていられたが「先生、そういうことが関係があるんですか。実は学校の先生をしていた為に少し婚期が遅れて、もらってくださる人があればどんな人でもいいとそう思って、二十歳年上の人と結婚しました。私が三十二歳でしたからその人は五十二歳でもうおじいさんみたいでした。結婚式の時、こんなおじいさんみたいな人と嫌だなと思いましたが、仕方がなかったし、将来、自分が年をとって病気にでもなったら、やはり、面倒を見てもらう子供がいた方がよいと思って、長男は生みましたから長男はなんともなくて今、学校の先生をしています。あんなおじいさんの子供は一人でたくさんだ、二人と欲しくないと思って、外の事ならなんでも致しますが、あの事だけは勘弁して下さい、と言ってそれから別々に休むことにしたのです。所が強姦同様にして妊娠させられてしまいました。堕胎するのは罪だと思い、この子は、本当は生みたくなかったのにと妊娠中ずっと思い続けて、そうして生んだのです。そういう気持ちがやはり影響したのでしょうか。」と。


*股関節脱臼の場合
 股関節にギプスを当てた女の子を連れて来られたその人は、実家と婚家との余りにも違う生活習慣に幻滅を感じ、特に食事は実家ではいつもおかずが十種類位並んでいた。所が婚家は倹約家で、朝はご飯と味噌汁だけで見ただけでご飯がのどを通らないのですと言われるのであった。
それで、「あなたは、どうしたら逃げて帰ることが出来るだろうか、何とか実家へ帰りたいと思い続けて来たという訳ですね。」とそう言ったらびっくりして「先生、どうしてそれがわかるんですか。実はそうだったんです。」と言われた。
 飛び出したい。出て行きたい、別れたいと思っていると、関節が飛び出して脱臼するということが多い。


聾唖(ろうあ)者の場合
 目がクリクリして、可愛らしい男の子であっただけに、その子供が聾で唖だというのが痛々しかった。その人の嫁いだ先は、口やかましい姑と小姑がいた、夫は優しい、いい人だったから夫と別れる気持ちはなかった。夫に言うと「辛抱してくれ。」と言うだけであった。「ああ、もうこんな人達とは口もききたくもない。」と強く思った。そうして生まれた子供は聾唖であった。



*盲目者の場合
 その人は子供を背負って外出すると、ショーウインドウに飾ってある人形を見るのが一番辛いと言っていられた。
「人形でさえ、あんなにパッチリした目をしているのにどうしてこの子の目は見えないのであろうか。」と。この子供の眼は、外から見たら見えないようには見えないのである。瞳孔が開いていて見えないのである。この日とは家庭環境の辛さに、見れば腹も立つし悲しくなるからと、一切見ないと心に決めて「ああ、見たくない、見たくない。」という思いを持たれたのであった。そうして生まれた子供は、心の中で強く思った通り目が見えなかった。



6.恐れる必要はない

 胎教が大事であることは事実であるが、恐れる必要はないのである。妊娠している期間中、絶対に思ってはならない、悲しんではならないという事はないのである。人生には色々なことがあるから、妊娠している間に親兄弟が死んだとか、また夫婦喧嘩もする事もあるであろう。そういうことがあって悲しんだからとか、腹が立ったからといってすぐ胎児に影響するのではないのである。
 そういう心は起こっても、すぐに心を平静にすれば全然影響することはないのである。その心が、一週間も十日も一ヶ月もと、長びいた時に胎児の健全な発育が障害を受けることになるのである。
 怒っても悲しんでも、パッと心を上手に転換することが出来れば全然影響はないのである。ある人はそのような環境の中で障害児を生んだとしても、それと同じような、またはそれ以上にひどい環境にあったとしても、障害児を生まなかったという人もあるのである。同じ環境だからみんなが障害児を生むという事は絶対にないのである。
 
要は、我々はどんな環境に置かれても心を動揺させないか、また一時は動揺したとしても上手に心の転換が出来れば障害児を生むことはないのである。



7.障害児が生まれた場合はどうするか - その修正方法

 その場合、子供が小さければ小さい時ほど母親の心の影響は現れやすい。母親がその子供を妊娠していた時の状態を思い起こして、反省し懺悔することである。

「あなたを妊娠した時、このようなことがあって心を不調和にしたために、本来なら健康体を持って生まれるべきであったのに肉体に障害を与えて、誠に申し訳ありませんでした。厳しいでしょうが、どうぞその肉体を乗りものとして立派に魂を磨いていって下さい。私達は、あなたを子供として頂いたことを縁として、心のあり方の大事さを教えて頂きました。これから心を不調和にすることなく、心を大事にして行きます。

と反省して、そのような子供を与えられて厳しい魂の修行をしなければならなくなったことを感謝して、心のあり方と生活の仕方を変えて、明るい心で生きて行くようにすれば、治るべきものは修正されて必ず救われて行くのである。

 肉体的障害は、小さければ小さい時ほど生命力が旺盛でまだ成長発育期であるから治りやすい。先に挙げた小児麻痺、聾唖、盲目、股関節脱臼の子供さんは奇跡的に治って行ったのである。


 母親に暴行を働いていた少年も平常になった。肉体の発育が止まる青年期以上になると、肉体的欠陥は治りにくいが、心が救われて行くので穏やかな明るい生活が出来るようになる。

 人生とは何であるか、結局この人生は魂を磨くための一生なのであるから、魂を充分に磨くことができればその人は人生の勝利者である。地位欲、名誉欲、権力欲、金銭欲を持って心を乱し魂を傷つけて五体満足であるという人よりは、その人たちの方が尊いのである。

 また、その人たちの廻りにある健康な身体を持っている人達は、自分達よりも厳しい環境と条件の下で魂の勉強をしていかなければならないことに対して、深い深い愛をそそいで行かなければならないのである。魂ということからみれば、それらの人達は、健康体の人々に深い深い愛念を起こさせ、愛の行為をなさせるために存在しているともいえるのである。



8.障害者に光を与える光の天使

 三重苦の聖女ヘレン・ケラー女史は、肉体的な障害があっても、肉体が障害であるからといってそのことで親を怨んだり、環境を怨んだりせずに、心を大事にして肉体の障害を克服する努力をして、決して心を暗くしないように、どこまでも深い愛と心の明るさを持って生きるべきであることを教えるために現われて来られた光の天使なのである。

 障害者であっても、むしろ障害者でなければ出来ない魂の勉強をしたということで感謝して明るい心でいる人もあれば、障害者でなければ出来ない魂の勉強をしなければならないと言う事にも気がつかずに親を怨み、自分の運命をはかなんだりして心を暗くしている人もある。

 健康体である者は、心を暗くしている人が明るい心になれるように愛をそそがなければならないし、愛をそそがれた人達は周囲の愛に甘えることなくそれらの愛に感謝して、自分からその障害を克服する努力を喜んでしなければならないのである。もし、身体が全く不自由であって自分ではなんにもすることが出来ないという人であっても、心から言葉で感謝を表現することが出来るのであったら、言葉で感謝を現わさなければならないのである。



9.よい子供を生むための周囲の理解と協力

 これまで挙げた例に見られるように、妊婦が一人で心を歪めて怒ったり悲しんだり怨んだりすることは絶対にないのである。必ず周囲の人々との間の色々な人間関係によって起こるのであるから、周囲の人々は妊婦が不安な気持ちを持つことがないように配慮しなければならないのである。特に夫は、妻だけが一人で子供を生むのではないのであるから、妊娠中の妻に不安と恐怖を与えないように注意しなければならないのである。

 西ドイツでは妻が妊娠すると、夫婦で産婦人科医のところへ行く。産婦人科医は、よい子供を持つために、夫はどのようなことに注意をしなければならないかを指導するというのである。妻が妊娠したことを知ったら、夫は妻が安心して出産出来るように心掛けることである。



10.障害児が生まれる他の原因

 障害児が生まれる原因の80%は心の不調和であるが、20%は次の述べる原因によるというのが医学上の統計である。しかし、20%の原因の中にも、心が調和されていればそういう病気にもならず、毒性のある薬を飲む必要もないし、また遺伝を防ぐことも出来るのであるから、心を調和させて常に感謝の心を持ち、自然にしていれば絶対に安心なのである。


1.風疹、インフルエンザ、流行性耳下腺炎(おたふく風邪)のウイルス感染

2.ペットとして飼っている鳥や小動物などの寄生虫であるトキソプラズマの感染による無脳症、小頭症、水頭症や目の奇形を起こす

3.梅毒

4.薬剤
  ①黄体ホルモン剤 - 妊娠初期に使い過ぎると胎児が女性の場合、外陰部が男性化して半陰陽となる。

  ②副腎皮質ホルモン剤 - みつくちの原因となる

  ③麻酔剤、鎮静剤、精神安定剤は使用しない方がよい。

  ④ビタミン剤の摂り過ぎ - ビタミンは自然に食物から摂る。

5.酸素欠乏、心配事、悩み、悲しみ、怨み、嫉妬、恐怖などにより呼吸が浅くなって血液の浄化循環が上手く行かなくなる。

6.栄養不足

7.レントゲン照射

8.酒、たばこ、日本アルコール学会で酒かタバコを吸う人は、陣痛が弱くて難産する率が高い。結局帝王切開をしなければならないことになる。酒とタバコと両方やる人は未熟児を生む率が非常に高いことが発表されている。

9.遺伝、近親婚に遺伝が多いというのは、近親者である為にお互いに尊敬、感謝の念がなくまた遠慮もなく感情をコントロールせず感情のままに振舞いやすく、そのために心を不調和にしやすく、また例えば、夫が酒飲みでそれを心の中で拒否していると、拒否しているということは実際は常に心の中にそれを思っていることになるのであり、その心の印象が胎児に影響することになる。


 初めに言ったように、天上界で約束した霊が受胎をしてくれるのであるから、心身ともに調和して心を安らかにしていれば、必ず立派な赤ちゃんを生むことが出来るのである。



11.不妊症の場合

 私がこれまで指導したうちで結婚以来十七年、子供がなかったという人が一番長かった。夜、講演をしてその翌朝、その人は素足で私の泊まっている宿に駆けて来られた。
「先生、また子供を生まないということで今朝喧嘩になったんです。子供を生まないなら出て行けというんです。」

 明治維新以前には「嫁いで三年、子無きは去る。」と言う事が一般の道徳とされていた。それは儒教と、長男が家督相続をするという武家社会の風習の産物であって、だから昔は子供を生まないということで泣く泣く別れて行った人達があったのである。終戦前まではそのような風習が残っていて、子供を生まないということで辛い思いをさせられて来た人達があったが、終戦後には、比較的そういうことはなくなったとはいえ、まだまだ農村地帯では、子供を生めない嫁を白眼視する幣は残っている。

 私は「生めと言われたら生めばいいじゃないですか。と言った。
「そんなに簡単に生めるくらいなら、こんなに苦労しません。」と言って泣かれるのであった。

「子供は天から授かると昔から言うように、本当に天から授かるのです。夫から授かるのではないのです。夫を縁として授かるのです。性生活を不潔だという心があり、夫を尊敬できないと、即ち夫の愛を拒否する心があると妊娠しにくいのです。性生活というものは、夫婦がお互いの愛情を確かめ合うために、またそのことを通して子供が生まれるようにされてある。神が定められた神聖な行為なのです。不潔だと思う心は神の心に反しているのです。妻を愛したいという夫の心が性行為にもなるのですから、あなたはそれを暖かく迎え入れなければならないのです。女性の性器はそのように神さまが創られているのです。
 これまでの宗教が、性行為を罪悪視してきたのは間違いなのです。しかし、それには相手を選ぶべきで、なすべき人と、なすべき所で、なすべき時に行われるのは正しいのですが、なすべき人でなく、なすべき所でなく、なすべき時でもない時に行うことには、罪の意識が伴うのです。だから、ご主人に心から感謝して性生活を不潔だという思いをなくして、自分の心を愛の心で暖かくして、夫を通して天上界で約束した子供を受け入れるという心になりなさい。」

 四十歳近くになっての初産で、医者は危ないと言ったが、その人は心から喜んでいられたために無痛安産をされて十七年振りに子供を生まれたのであった。

 夫を尊敬できず、性に対して不潔感を持っている人は妊娠しない場合があるからその心をなくすることてある。



12.全く子供を生めない場合

 天上界から生まれてくる時に、今度は絶対に子供を持つまい、子供を持たずに、そのために自由になった時間を他のことのために使おうということを計画して生まれてくる人達がある。こういう人達は、夫婦はお互いに愛し合い、性生活を忌避するのでなくても、欲しいという気持ちをたまに持つことがあっても、子供は生まれないのである。

 前世で子供を沢山持って「ああ、子供のことでこんなに苦労するくらいだったら、もう子供はいない方がいい。」と強く思った人達は、その心の通りに今生では子供を持てないことになる。

 また、子供があったのではよれない、何か人の為に成る仕事をして、その仕事を通して周囲の人々を幸せにすることを使命として生まれて来た人達も子供を持てない。

 だから、子どものない人達は、自分たち夫婦のことだけに関わり合っていないで、社会のために奉仕することに喜びを感ずる生活をしなければならないのである。

前世で自分の子でありながら、自分で育てず他の人に面倒をかけた人は、今度は自分が他人の子供を育てなければならないと言う事になって、養子をするということになるのである。その養子となった子供は、今生では他人の子供であっても、前世では自分の子供であったのであるから、たとえ今生では自分の腹を痛めることはなくても、自分の腹を痛めて生んだと同じように育てると上手くゆくのであるが、いささかでも他人に子供を育てるのであると言う心の隙があると、養子との間が上手くゆかなくなるから、養子の場合はその店の心のあり方を大事にすることである。

 子供のない生活体験をしてみて、その一生の終わりの時に、やはり子供があった方がよいと思うと、この次に生まれた時には子供を持てると言うことになるのである。



13.今生最後の思いが優先される

 あなたはこの次、どういう所に生まれてきたいと思われるであろうか。人間には自由意志が与えられてある。その人の今生の人生は、その人が前生が終わる時に思った結果なのであるから、この人生がどんなにつらいものであったとしても、それを感謝して、自分はこの人生から何を学ぶべきかという謙虚な気持ちになった時に、その人の人生は上手くゆくようになるのである。

 だから今、その人が、自分の人生が上手くゆかないというならば、その人は自分の人生に感謝できず、自分の人生を自分で怨んでいる結果なのであるから、たとえ今、自分の置かれている環境がどんなに厳しくつらいものであったとしても、まず感謝するということから始めなければならないのである。そうすれば確実に運命はよくなってゆくのである。

 あなたがいよいよ一生が終わろうとする時、あなたは何を思うであろうか。一生を振り返ってみて、自分の人生が成功であったか失敗であったか。

 高橋信次先生(私の師)がよく講演の時に
「皆さんは過去世において、ある人は王様であり、、ある人は大金持ちであり、そうして皆さんは今、自分が欲している人生に今あるのであります。」と言っていられましたが、過去世において金持ちであったが、前生が終わる時、やはり人生は金ではなかった。金だけでは幸福にならないと思い知った人達は、この次にはその人が心で思った通りに、金は無くても心の豊かな生活をしたいと思って、自分で貧乏な生活を選んで生まれてくるということになるのである。

 
そのように、子供の縁もまた、前生、前前生等過去背で縁のあったものの中から選ばれることになるのである。全て縁があって、お互いに魂の勉強をすることを約束して生まれてくるのであるから、生まれてくる子供は皆祝福しなければならないのである。



14.再婚と未婚の母の子供

 この場合の子供は、母の方に縁の深いものの中から選ばれる。再婚の場合は父があるから問題はないが、未婚の母の場合は父がないのであるから、もしその子供が大きくなって「「自分の父は誰か。」と聞いた時に未婚の母はどう答えるのであろうか。答えても答えなくても問題が起こることは間違いない、その時、未婚の母は苦しむことになる。跳ね上がりの時代の先端を行くとうぬぼれ、また女性の地位向上のためにと気負っている未婚の母は、その子供が大きくなった時に思いがけない苦しみを受けることになる。表面では強がりばかりを言っていても、内心では未婚の母になったことを後悔し、子供というものはやはり、正式の夫婦の間で生まなければならないと思うであろう。このようにして、人間のあり方は、自然に神が定められた法に従って生きて行くことが幸せであり、自然の法に反することはいけないのであるということを自然に知って自然に自分の心をコントロールして生きていくことを学ぶようになってゆくのである。

 先に書いたように、アメリカでは人口授精児の場合でも、子供が父親を知りたいと言えば知らせなければならないということになって来ているのであるから、未婚の母の場合は尚のこと、子供は知る権利があることを主張するであろう。



15.よい胎教

 これまで述べてきたように、神経質になる必要はないが胎教は大事であり、妊娠初期2~3ケ月間のちょうど頭が胎内で創られる時分の母親の心の不調和が、無脳児や精薄児やその他頭部に関係のある目、耳、口の障害を引き起こし、手足が出来る時分の不調和が手足の障害即ち小児麻痺などになるのであり、そうして妊婦の心の思いが生まれてくる子供の性格に大きな影響を与えるのであるから、よい子供を持つためには、生まれてくる子供を祝福し、心をきれいにする為の本を読み、いい音楽を聴き、いい絵を見、いいことを想像することをすればよいのである。

 美智子妃殿下がご懐妊された時、日常生活を正しくして、古今の名曲、名画を鑑賞されて、胎教を重んじられたことは有名であり、皇太子殿下もまた、夫君として、日頃の起居動作を一層正しくされ、かねてにもまして、妃殿下をいたわられたというのである。

 いい本を読み、名画や名曲を鑑賞できる優雅な人はそれでもいいが、我々庶民はそんな時間も金もないという人があるかも知れない。その人達は、自分の心の中に最高の智慧、愛、調和、平和、明朗、積極、堅実な状態を想像し、生まれてくる子供が、多くの人々に感謝され祝福され、またその子供が大きくなるにつれて、人々に愛を与え、幸せを与えてゆく状態を心の中に描けばいいのである。

 
子供のことで苦労しているという人達は、子供の肉体に障害を与えるほどの心の不調和はなかったとしても、性格に歪みを与えてしまったことを反省しなければならないのである。反省して調和してゆく時、自然に子供の非行も暴力もよくなってゆくのである。



16.子供に感謝すること

 私は子供に親孝行せよと言ったことはない。だがみな親孝行である。子供は本来親孝行をしたくてたまらないのである。だが、そのように考えている子供の心が期待を裏切られる時、逆に子供は親に失望して反抗するようになるのである。何が子供を失望させるのか。そのもっとも大きな原因は、子供が生まれて来たこと、子供が子供としてそこにいることを喜ばない心を持ち、そういう言葉を不用意にではあっても口にすることである。

「あんたみたいな子供は生まれてこなければよかったのだ。」と、夫婦喧嘩の飛ばっちりがついつい不用意に子供に向けられた時、子供は一体どう思うであろうか。

「それならどうすればいいのか。自分は嫌われている、生まれてこなければいいと言っても生んだのは親ではないか、自分達が生んでおいてそう言うのは矛盾じゃないか、自分が喜ばれていない即ちいない方がいいのであれば今は子供で、家を出ても生きて行けないからここにいなければ仕方がないからここにいるが、自分で働いて食べられるようになったらここを出よう。」と心ひそかに家出を、自分の存在を喜んでくれる所を求めて家出しようと思うのである。

「この子は困った。この子はいない方がいい。」と言うようなことは、心の中でも思ってはいけないのである。子供の心はきれいであるから、親のそういう心を敏感にキャッチするのである。それとなく、何となくという雰囲気が子供に大きく影響するのである。

 よい子供、人を愛し人に愛される子供、人に迷惑をかけない子供、自分のことは何でも自分でする子供に育てようと思うならば、親は子供に感謝することである。

 子供は、親の心がよければよいなりに、悪ければ悪いなりに親の心の姿をはっきりと映し出してくれる。子供が悪いのは親の心の在り方が悪いのであるから、子供を良くしようと思う前に親自身がその心のあり方を反省し修正しなければならないのである。

そのようにして親は、子供の姿を見ることによって自分の心を反省し勉強させられてゆくのである。そういうことを約束してあの世から生まれてくるのである。

 私は特別に親孝行し親に感謝するのが、人間の道だというような道学者めいた説教は一回もしたことはない。ただ思い出したように、

「あなた達は、よう生まれてきてくれました。あなた達が生まれてきてくれたおかげで、お父さんはお父さんとしての、お母さんはお母さんとしての、あなた達が子供として生まれてきてくれなかったら味わうことの出来なかった喜びを、あなた達が味あわせてくれたということだけで嬉しいのである。ようこそ、お父さん、お母さんの子供として生まれてきてくれました。ありがとう。」

 と言っただけである。それも子供が幼稚園から小学校の時代までで、自主的な判断力を多少なりとも持てるようになる中学校時代と高校、大学時代には言ったことはない。


 
自分がそこに子供として生きてきたことを親が祝福し喜んでいたら、子供は決して親の心を悲しませ悩ませるようなことは絶対にしない。もし、子供を持って、子供のために苦労しているという人があったら、その子供を妊娠して以来、その子供に対してどのような思いを持ってきたかを反省し、心のあり方を修正すればそれで子供もよくなるのである。



17.人間の出産に宗教や儀式はいらない

 人生とは、あの世即ち天上界で親子の縁を結んで生まれて来た人間が、一生を通じて、死ぬまで霊の修行をしてゆく過程である。その人間の出生に際して、特別の信仰とか儀式が必要であるわけではない。

 宇宙創造の神が定められた自然の法(これを正法という)に従って生まれて来、その正法に従って心を調和させ、心を明るくして生きてゆけば、それだけで健康な明るい、人を愛せる子供が育って行くのである。


健康な心と身体を持った人間は、自然に人生を健康に生きることが出来る。そのような人間だけがこの地球上に住むということになれば、そのような人間がつくる社会には、闘争、戦争、殺人等というようなことは絶対に起ることはない。
 だから、世界を平和にする近道は、現在の世界をどうするかという現実の世界の改革改造と同時に、心身に歪みを持たない心身ともに健康な子供を生み育てることである。

 私がこれを書く所以は、唯単に一人一人の皆さんの幸福を願うだけでなく、世界の平和、ユートピアの実現を念願しているからである。

 私がここに書いた通りの心のあり方をされるならば、必ず心身共に健康な子供を生み育てることが出来るのである。何か特別の宗教や宗派の信仰をしなければならないということはない。ただ、宇宙創造の神が存在することを知り、それに感謝し、あの世がありこの世があり、あの世もこの世も、自然の法(正法)によって存在せしめられているのであり、その正法に随って生きてゆけばいいのであることを知って頂ければいいのである。

「つわり」は、妊婦と胎内の子供との魂の不調和によって引き起こされる現象である。即ち胎内の子供の魂は、天上界での光り輝く調和された世界から下生してくるのである。その時、妊婦の心が調和され喜びに満たされているとつわりは起らないが、妊婦の心が不調和で、悲しみ、怒りなどの心があると、その度合いによって、つわりも弱かったり強かったりするのであるから、つわりのひどい人は、自分の心をまず調和させることである。

 受胎してくる子供の前生から築かれた性格の影響で、妊婦の食べ物の嗜好が変わることがある。これは自然に逆らわずに欲しくなったものを食べればいいのである。

 私がここで言いたいことは、ここに書いたようなことを注意していれば必ず立派な子供を生むことが出来るのであるし、子供が生まれて来るのには、このような心の持ち方一つを知っていればいいのであって、子供が生まれて来るのには、○○の宗教でなければならないとか、○○の宗派でなければならないというようなものは一切必要はないということなのである。



   - 終了 -


正法誌29号 1981年1月

特集 「二十一世紀の宗教は正法しかない」  より




現代の釈尊高橋信次師とともに - 3

正法と人生の原点 
恋愛・結婚・胎教・育児 より



1.胎教の影響はどうしたら修正できるか

 とにかく心を不調和にしたことが原因であるから、その子供を妊娠していた時の状態に心を帰すのである。瞑想をして、心を神に対する感謝、周囲のすべての人、物、事に対する感謝で満たし、「心行」を読誦して次のように念ずるのである。
「お母さんの心の不調和によって、本来ならば健全な五体を持って生まれるべきあなたの肉体に、このような障害をつくってしまって申し訳ありませんでした。お母さんは今、あなたがお腹に宿っていた時のことを反省しています。あなたが障害児として生まれてこなければ、お母さんはこのような反省はしなかったかもわかりません。あなたは障害児として生まれることによってお母さんを導いてくれたのです。心からそのことについて感謝をします。」

 そういって、次に、既に子どもが健康体になっている状態を、心の中にありありと描き、
「神よ、この子どもに光をお与え下さい。既にこの子どもを健全にして下さいましてありがとうございます。」と、祈るのである。

「祈り」は、キリストがいわれたように、「既に得たりと信じて祈る」ことが祈りが効かれる秘訣である。「頭から灰を(かむ)り、渋面(しかめつら)するな」といわれたように、悲しそうなあわれな表情をして、乞食が物をねだるような、そういう気持ちで、神の憐れみを乞い、特別にお恵みを与えて下さい、というような祈り方では祈りは実現しないのである。

 子どもが小さければ小さいほど、肉体の新陳代謝がはげしいから治るのも早い。

( 「心行と」は高橋信次先生が説かれた宇宙の真理が経典の形で書かれたてあるものである。「心行」には「祈願文」「先祖供養」「健康祈願」「病気平癒祈願」のための祈りの言葉も書かれている。)



2.精神障害、ノイローゼ、非行、暴力の子どもはこうすれば治る

 夫、または周囲の人々との不調和により、あるいは「性」に対する葛藤などから、心ひそかに流産や子供の死を願ったりしたことが原因なのであるから、

「縁あって、あなたがわたしを母として生まれてきて霊の勉強をすることになっていたのに、わたしはあなたが、わたしのお腹に宿ってくれたことを素直に喜べず、ひそかにあなたの死を願ってしまいました。どうぞ、わたしを許して下さい。」

 と、心から反省し懺悔し、既にその子供が健康で健全であることを心の底深く念じ続けることである。

 この場合に、その子供を妊娠していた時の状態を心に描き、その時の人間関係、姑、夫、小姑その他、自分が激しく感情を動揺させた相手との関係を思い起こして、

「このようなことで、このような思いを持ちましたことをお許し下さい。」と、心から懺悔することである。一ぺんにパッと治るのではなく、ある程度時間がかかり、徐々によくなってゆくから、少しでもよい兆候が見えたらそのことを喜び、「必ずよくなる」とますますよくなっている状態を心に描き続けることである。変化の遅いことにイライラして、「まだよくならぬ」と否定的な悲観的な想念を絶対に起こさないことである。

 キリストがいわれたように、「既に得たり」、既に実現していると信ずることが奇跡を起こす秘訣である。






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2012.02.02 UP