高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします



「結 婚」とは何か


 紀元711年、
元明天皇(げんめいてんのう)(みことのり)をうけて太安萬呂(おおのやすまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)伝誦(でんしょう)したものをまとめた史書が「古事記」であります。上、中、下三巻から成っていますが、上巻には、天地、自然、國土、人間がいかにして生成し、人間の生死がどのようにして生じたか、人間の根本問題に関する古代日本人の解釈が、直感的に説話的に書かれています。
 世界の歴史書の中で、日本の古事記ほど天地の創造と人類の誕生を見事に描いているものは他にみつかりません。旧約聖書の創世記は、古事記にくらべれば、大へん粗雑に思えます。古事記と旧約聖書を読みくらべてみますと、そこには日本人として生まれた者の霊的自覚の高さ、精妙さを感ぜずにはいられないのです。古代日本人が、天地創造と國土人類の創成をどのように考え、どのように伝えてきたか、中国の文字を借りて書いたものであるといっても、その格調の高さは世界の歴史書、古記録の中では第一等のものであり、我々は、我々の先祖がこのような素晴らしい伝誦の記録を持っていたことを誇りとしなければならないと思います。


その初めの部分をやさしく書いてみましょう。
ここには「人間、男女の原理」即ち、男と女のこころの在り方、男女の役割、結婚、夫婦の調和の原理が示されているのです。


「天地が創造される以前にこの大宇宙には、この大宇宙を創造し支配していられる
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という神さまが大宇宙の中心にいられました。この天之御中主神は、天地を創造しようと心に思われて、陽の原理として高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、陰の原理として、神皇産霊神(かみむすびのかみ)をおつくりになり、万生万物すべてのものは、この陰と陽の原理によって創造されることになりました」

「陽の原理である高皇産霊神はのちに
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)として、陰の原理である神皇産霊神はのちに伊邪那美神(いざなみのかみ)として現れられました」「國生みが終わり、人類がこの地球に住める環境が整えられた時に、陽の原理である伊邪那岐神は、陰の原理である伊邪那美神に向かっていわれたのです」

()が身は成り成りて、成り余れるところひとところあり、()が身はいかになれゆや」そのようにいわれて、女の伊邪那美神は答えられました。「吾が身は成り成りて、成り合わざるところひとところあり」そこで男の神さまが女の神さまに向かっていわれました。「吾が身の成り余れるをもって、汝が身の成り合わざるところにさしふたぎてみ子生みなさんと思うはいかに」「()かえけむ」(それはよいことです)

そこで、女の神さまが男の神さまに向かって「あなにやし、え、おとこを」(なんとまあ、うるわしいうつくしい男であることよ)といわれて、つぎに、男の神さまが女の神さまに向かっていわれました。「あなにやし、え、おとめを」(なんとまあ、うるわしいうつくしい女であることよ)
そのようにいわれて、天の中心にある「
天之御柱(あめのみはしら)」をめぐって、み子を生まれたら、足の立たない骨の弱い子供が生まれたというのです。この子のことを「蛭子(ひるこ)」と書いてあります。

どうしてこのような骨のない足の立たない子供が生まれたのであろうかと、ふしぎに思われて、天に上って、天の中心にいられる創造の神にその理由を聞かれたら、「女、先立ちてふさわず、還り下りて
(あらた)めていへ」(男よりも女が先に立ったことが宇宙の法にそむいたのである。だからもう一度地球へ帰って、いい直しなさい)と天の神さまは答えられたのです。

そこで今度は、男の神さまが先に女の神さまに向かって「あなにやし、え、おとめを」と言葉をかけられ、つぎに女の神さまが男の神さまに向かって「あなにやし、え、おとこを」と言葉をかけられて、天之御柱をめぐられたら、この日本の國が誕生した、というのです。


 この古事記の神話は、天地一切は陰陽の原理の調和によって回転しているということを示しているものなのです。


     陽(+) 男  雄  雄花  陽電気  陽電子
神 
                         調和
     陰(−) 女  雌  雌花  陰電気  陰電子


 古事記には、調和することを「結び」「
()す」「蒸すび」と書いてあり、男の子を「むすこ」女の子を「むすめ」というのは、陰と陽と、男と女と、夫と妻と、むすばれて生まれるから「むすんで生まれた子」ということで「むすこ」「むすんで生まれた女の子」を「むすめ」というのであって、偶然に「むすこ」「むすめ」というようになったのではないのです。

男女の肉体が、いまにような形を持っているのも、日本人の祖先は、初めから神の意志であることを自覚していたということです。

 陽の神さまである伊邪那岐神「吾が身は成り成りて、成り余れるところひとところあり」いっていられますが、その通り、男性の肉体には成り余っているところが一ヵ所あり、陰の神さまである伊邪那美神は「吾が身は成り成りて、成り合わざるところひとところあり」いっていられるように、女性の肉体には成り合わないところが一ヵ所あります。

 男の成り余ったところを、女性の成り合わないところにさしふたいで、そうして子どもが生まれる。これが神の意志による夫婦調和の原理なのです。お釈迦さまもキリストも、みなこの原理によって、地上に肉体を持たれたのであって、白象が右脇に入ってとか、また処女懐胎されてとかいうのは伝説にすぎないのです。

 男性は成り余ったところが一ヵ所あって、それは突進するものでありますから、男性は男らしく勇気を持って積極的であることが正しいし、女性は成り合わないところが一ヵ所あって、それは受け入れるものですから、女性は女らしく男性をあたたかく受け入れる素直さ、やさしさ、包み込むような抱擁性、広さと柔軟さが、その本質です。

 だから、愛の完成、結婚の完成についての男女の役割は決まっているのです。「夫は与えて、妻は受ける」

 神は男女の性器をそのように創られたのですから、女は素直にうければよいのです。

 夫の愛、男の愛は、与えることによって完成されていきますが、妻の愛、女の愛は、ゆたかに「うけ入れる」ことによって完成されていくのです。

 女の愛、妻の愛が、ひたすら「うける」ことによって完成されていくという、このふしぎさ。女が、妻が「愛する」ということは、実は、愛を「うける、うけ入れる」ということにある、このふしぎさ。ただ素直にうけてさえいれば、愛していることになるという、このふしぎさ。ことらから何かをどうにかするというのではなく、ただひらいてうけること。全身全霊を全開して受けること。呑み入れつくすこと。そのとき女は「うけつくすこと」が「与えつくすこと」であること、女にとって「愛を与える」ということは、実は「うける」ことであった、ということが、ここでわかるのです。「うける愛」の方が、実はむつかしいということも、わかるのです。

 これらは単に肉体だけのことではなく、心がそうならなければならないというのが、本当の陰陽の原理であり「男と女の根本原理」なのであります。

 男女、夫婦の間に問題が起こるのは、みなこの原理に反した心を持ち、行為をした時ですから、例えば、男が男らしくなく消極的になって、男としての役割を果たすことをせず、女が女らしくなくなって我が強くなり、男をあたたかくうけ入れることなく拒否したとき夫婦の間は、心的にも肉体的にも確実に不調和になります。だから、男が男らしく、女が女らしくあることこそ、どちらもが幸せになる原理なのであって、男がいくら女のように振舞ったところで、また女がいくら男に負けまいとして対抗したところで、そこには男でもなければ女でもないという変な人間が出来るだけで、結局は調和して幸福になるという陰陽の完成にはならないのです。

 例えば、残念ながら、子どもが小児麻痺であるとか、病気がちであるとか、怪我したとか、火傷したとか、或いは子供を早く死なせたとか、ノイローゼになったとか、非行に走ってしまったとか、子供の問題をひとつとってみても、たいていの場合、妻の我が強く、いつも夫の心を無視しているところに原因があるものです。

「いや、それは違います。わたしはいつも夫に従っていました」と言われるかもしれませんが、形の上外面上ではそうあったかも知れませんが、「見えない心の世界」の中で、夫を押さえつけ、不満をもち、無視し、軽蔑していると、その心が原因して現れてくるものなのです。

これらのことを、学校や文部省や社会の対策として何とかしようと計っても表面的解決だけで終わって根本治療にはならないのです。「見えない心の世界」から直していかなければ直らないということなのです。

 ですから結婚とは、こころとこころの調和の上に立っていかなければならないものなのです。形だけの上に立っている結婚はいつかはくずれます。形の中にしっかりとした心の光が入っていなければくずれます。

 結婚とは、男と女のこころの光の輪の中で成長していくものなのです。
 結婚の結合とは陰と陽との調和された光の結合とも言えるのです。
 心して行う神聖な美の極致なのです。

 肉体の陰陽が結婚しているように見えますが本当は、霊なる光の陰陽が結婚しているのです。だから人間にとって大事なことなのです。











   「 グレース 創刊号より 1990年3月20日 発行 」

    2010.11.18




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