高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします



 女は女神である

    - 人類魂浄化最後の決め手 -


 結婚した女性をなぜ「おかみさん」というのか。」女達は「おかみさん」と呼ばれても、なぜ「おかみさん」といわれるのかを全く考えてこなかった。「おかみさん」といわれればなんの気もなく「はい」と返事してきた。
最近の女性は「おかみさん」といわれると全身に鳥肌立てて「バカにしないでよ」と憤慨するに違いない。

 女を「女神」といって、それが極く自然に聞こえてくるのは、女の魂は神に通じていることをすべての人が知っているからである。
 神の生命を受けた女性は、神と一体となってその愛を男にそそぎ、男達はその愛を受けて男の役割を果たすために邁進するのである。

 神の生命を受けるから神と一体で「おかみさん」なのである。

 アソンシオン(パラグアイの首都)のジャカランタの花の中に立っていた女神は右手を高く天に向け掲げ、神の生命を受けた女神の腰の辺りに男性は両腕を廻し愛撫されんとしていたのである。男の心の虚しさは女性の聖なる愛によってのみ満たされる。

 日本の銅像には裸像はない。なぜギリシャ彫刻に裸像が多いのであるか。

 神から与えられた魂は、そのまま“ 聖 ”であり“ 清 ”であり“ 正 ”であるからであり、何ものを持ってしても蔽い隠すべき存在ではないからである。

 エデンの園にいたアダムとイブは裸であったというのも、天の岩戸開きの時に天宇受賣命が裸になって舞を舞われたというのも、人間は裸にならないと、すなおでないと神の生命を受けられないということを教えているのである。

 神が男性の肉体と女性の肉体を今のあるがままに造られたということに私はふしぎさを感ずる。

 その性器は、普段は隠されているが、愛の結合が行はれる時、その扉は開かれて裸にならなければならないように造られてあることに、私は限りない神の慈愛を感じないわけにはゆかない。

“ 性 ”の扉を開くことは神の扉を開くことである。そこから神の子は誕生してくるのである。そのような神聖なものであるのにそれを“ いやらしいもの ”としたのは人間を単なる動物的な肉体であると見て、動物も同じような行為をするので、“ はずかしい” と思う感情が起こってきたのである。

 このことが即ち旧約聖書の第二章に書かれてある、「イブが蛇に欺されたために、性器をイチジクの葉で蔽ってしまった」と書かれてある所なのである。

 人類魂の浄化、最後の決め手を言おう。

 旧約聖書の創世記第一章には「神に似せて人は男と女とに造られた」と書かれてあるのである。神に似せて造られたのであるから人間は「神の子」であってそれ以外の何ものでもない。

 人間が「神の子」であるとするならば、人間の性器も神が造られたのであって不潔で悪である筈がない。人間の肉体の他の部分は神の創造であるけれども、性器だけは神の創造ではないというならば、ではその性器を造ったのは誰か、神の創造である肉体に、神の創造でない性器をどうしてくっつけることになったのかという疑問が出てくる。
 神のよって造られたアダムとイブはそのまま聖らかであり、清らかであって、少しも汚い蔽すべきところはなかったから裸であったのである。
 ところが第二章になると、アダムとイブは性器を持っていることが恥ずかしくなってイチジクの葉で蔽うのである。裸ではなくなったのである。その原因は、神が食べてはならぬといわれていた禁断の木の実を、蛇に欺されたイブが夫のアダムに「食べよ 食べよ」とすすめてアダムが一つ食べた。その嚙りついたところを神に見られた。そこで神は、アダムとイブが約束を破ったというので、男には働かなければ食べられないという働く苦しみを、女には苦しんで子供を生むという苦しみを与えたと書かれてあるのである。

 この創世記の第一章と第二章が正しく解釈されていないところにカトリックは勿論プロテスタントによっては世界が平和にならない原因が潜んでいるのである。

 昨年(1989)ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がパラグアイに来られるというので10万人集める計画を立てた。しかし当日は物凄い豪雨で1万人しか集まらなかったという。4年前(1986)ローマ法王が長崎に来られた。3月だというのにあられ交じりの氷雨が降って寒さのために約900万人がバタバタ倒れて入院したということがあった。ローマ法王の行動に天が味方しないということはそれはローマ法王に反省しなければならない点があるということであるが、もっと深い反省は旧約聖書の第一章と第二章の解釈を正しくしていないことにあると私は思っている。

 蛇の智慧とは何か。

 蛇は自分の全身を地べたに密着させてくねくねと這う。地べたは物質である。地べたに密着するとは「この世界はすべて物質である」「物質だけである」「だから人間は肉体である」といってこの世界を創造した霊性、人間の神の子としての霊性を否定してしまったということである。

 この世界を物質の世界だと思うと、人間の考えも肉体中心のエゴとなり、物を中心にして価値判断をするようになる。

 「蛇の智慧とは」とは即ち「唯物論」である。

 旧約聖書の第三章以後は、物を中心とした夫婦、兄弟、親子、種族の憎悪と斗争の歴史が書かれているのである。旧約聖書はユダヤの歴史書である。それがユダヤ教である。キリストはそのユダヤ教の誤りを修正するために出現された。だからユダヤ教徒はキリストを
磔刑(はりつけ)にしたのである。そのユダヤ教の流れがカトリックであるから真正のカトリック教はキリストを救世主として認めないのである。だからローマ法王が「キリストの御名によって・・・・・・」といっていることは詐術なのである。

 唯物論であると、金や物が価値判断の基準になって、大きい家、大金持ち、きれいな服、装身具等、目に見えるものによって判断し、小さい家に住み、金を持たない、まずしい服を着ている者は劣れる者ということになる。
 きれいな服を着ている人がすばらしくて、まずしい服を着ている人はいやらしい人だということがいえるであろうか。人はその形によらず、心を中心にしなければいけないのである。21世紀は「霊性中心」の世紀にしなければいけないのである。
 それには旧約聖書によって誤られた性は罪悪だという思想を捨てて、夫婦の合意による性は善であるという人間本来のあり方に立ち帰らなければいけないのである。
 それにはまず、女性が女神となって男性の持つ斗争心をよなげ浄化して、男性をして真に正しい方向に向かわしめなければいけないのである。そこに性の秩序が必要になってくるのである。

  一、いつ
  一、どこで
  一、誰と
  一、どうして

 この四つの条件は、われわれが善悪の判断をする時に常に忘れてはならないことである。この条件に合致する時それは「善」であり、合致しない時にそれを「悪」というのである。
 アソンシオンの銅像に男性は、女神の腰の辺りに両腕を廻して、女神の腹に自分の顔を埋めていた。

 男性の女性への限りない欲求をフロイトは、人間は母親(女性)の子宮から生まれたのであるから、その子宮に帰りたいという本能を持っているのであるといった。

 性の神秘を知りたいという欲求はすべての人にある。それをフロイトはそのようにいったのであるが、確かに子供は子宮から産まれる、自分もそこから生まれた。それは否定することはできない。
 児童心理学者、医学者達は、胎児が一番心が安らかであった、即ち居心地がよかったのは母親の子宮の中にいた時である。オギャーと生まれてくるとまず気温との斗争、食べるもの、着るものとの斗争が始まる。その斗争に疲れると人間は母親の子宮の中にいた時の安らかさを忘れ難く、母親の子宮に帰りたいと思うものであると説明する。
 男性が母性愛的な女性に抱かれて安らかさを感ずるのは、それはそうだといえないこともないようである。男性のとって魅力ある女性というのは母性愛を感じさせる女性であって男性と同等に力を競うという女性は、単に暇つぶしに交際するには面白いと思っても心の底からそういう女性を愛したい、抱かれたいとは思わないものである。

 フロイトはそういっているが、私はそれだけだとは思わない。子宮に胎児として宿る以前の自分の存在を確かめたいという思いが男をしてそうせしめるのであると思う。即ち女性は、自分に慕い寄ってくる男性を心よく受け入れて、その愛を自分の上にとどめて置かないで、その自分を求めてくる愛を神にまで高め上げていった時に男性の魂は真の安らかさを得て満足するのである。
 女性はこのことを男性にいう必要はない。心の中でそのように祈って昇華せしめればよい。

 日本にはアソンシオンにあるような銅像はない。だから日本にもこのような銅像を絶てたらよいなあと思ったが、今の日本に建ててもこの銅像の象徴している意味を理解できる人はほとんどなく、ただ卑猥なものとのみ感じるのではないのであろうか。
 私は日本人が、この銅像の象徴するものを素直に理解することができるまでに魂を向上せしめてほしいと思う。この意味をよく知りたいと思われる方は、私の書いた「正法と人生の原点」「正法と結婚の原理」をよくよんでいただきたい。

 女性は男性の愛を素直に受け入れ、その男性の魂を神にまで高め上げることができた時に、女性もまた自分が女性であったことへの限りない満足感を得ることができるのである。男性はその願いを女性に求めた時に同時に与えられ、女性は男性の願いを全面的に受け止めて愛を与えた時にまた求め得られるその魂の感動のふしぎさ。

 このようなことは釈迦時代の出家の教団ではよく説かれ得なかったし、キリストは独身であったからまたよく教えられるものではなかった。しかしキリストは淡々として説かれた。

 「神の合わせ賜うもの、人これを分かつべからず、別かるるほどのことあらば嫁がずしているか、
   或いは和解すべし」
 「夫は己自らの身を支配する権利を持たず、その権利を持つ者は妻なり。斯くの如く、
   妻もまた己自らの身を支配する権利を持たず、その権利を持つ者は夫なり」

 キリストの厳かな言葉によっても表されている、神の生命の営みの深さを味わうべきである。

 母性たる女性の愛によってよなげられた男の魂は、この世界を神の国にすることに献身するようになり、そうでない男性の力は破壊に赴くことになる。
 創造と破壊、その間にたゆとう母性の愛こそふしぎである。

 女性たる者よ、男がひざまずきたくなるなるような女性になってほしい。




「 グレース 第4号より 1990年12月10日 発行 」

2010.12.26




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