高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








【 祈願文の解説 - 心行の言魂 より



「祈りは人間に与えられた神の慈悲である。しかし我欲の願いは己の心を汚し、自分を失う。
つとめて祈るとき、神は惜しみない光を与えてくれよう。」






【 天と地のかけ橋 】

 いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通って発生したものなでしょうか。
 それは、人間が肉体を持ち、あの世、天上界(実在界)から地上に生をうけたときからはじまります。
 魂のふるさとである天上界では〝祈り〟は即行為そのものとなっているので、殊更に、祈らなくてもいいのです。思うこと、考えることが、そのまま祈りの行為となって、神仏と調和しているからです。ところが、人間は肉体を持つと、こうした全なる心、そうして、それにもとづく行為を忘れ、自我に生きようとします。五官に左右され、六根にその身を、心を、まかせてしまいます。すると、煩悩という迷いに、己自身を埋没させ、どうにもならなくなってしまいます。

 苦しい時の神だのみ。これは煩悩にふりまわされた人間が、最後に求めるものは、己自身の魂のふるさとであり、ふるさとこそ、救いの手をさしのべてくれるもう一人の自分自身であるということを、無意識のうちに知っているからにほかなりません。助けを求める自分と、救いの側に立つ自分は、ともに一つですが、救いの側に立っている自分は、「心行」の中に述べている潜在意識層の守護・指導霊であります。本当に、その人が煩悩にふりまわされた自分を反省し、どうぞ助けて下さいと祈ったときは、潜在意識層の守護・指導霊が救ってくれます。守護・指導霊に力がない場合は、より次元の高い天使が慈悲と愛の手をさしのべてくれます。

 
このように〝祈り〟というものは、自分自身の魂のふるさとを思いおこす想念であります。同時に、反省という、自分をあらためて見直す立場に立った〝祈り〟でないと、本当は、あまり意味がないし、救いにはならないということであります。

 苦しいから助けてくれ、というだけでは、愛の手はさしのべられません。なぜかといいますと、今の自分の運命は、自分自身でつくり出したものだからです。それは、他の誰の責任でもありません。自分自身の責任だからです。

 人間は神の子であり、神の子に反した行為は、その分量だけ償うことが神の子としての摂理です。反省し、懺悔して、祈るときに、神仏は慈悲と愛を与えてくれます。
 あやまちは、人間にはさけられないからです。

 祈りというものは、このように、肉体を持った人間の、神仏を思い起こす想念として発生しました。
 聖書の中に、「汝信仰あり、我行為あり」という意味の言葉が随所に出てきます。これは、単なる祈りでは意味がない、行為で示せということです。祈りは、行為にまで発なければ、真の祈りまで、高めることは出来ないのであります。また祈りは、神の子の人間を自覚したその心と、その感謝の気持ちが、〝祈り〟となるのであります。

 現在与えられた環境、境遇というものは、神が与えてくれた自分自身の魂の最良の修行場であり、ここを通らずして魂の向上はあり得ないとする自覚、感謝の心が天に向かった時に、祈りとなって、ほとばしるのです。人間は、所詮、神にはなれません。したがって、神仏の加護と人びとの協力なくしては、いっときといえども生きてはゆけません。自分の運命を天命として、その使命をこの世で果たすためには、人間は祈らずにはいられないものなのです。

 こうみてまいりますと、〝祈り〟には、段階があり、同じ祈りにしても、各人の心の所在、調和度によって、かなりの相違があるといえます。

 しかし、祈りの本質というものは変わりません。
 その本質とは、祈りは、天と地をつなぐ光のかけ橋であること。したがって神仏との対話であるということです。

 人が祈ったときは、天と地の光のかけ橋がかけられたことになります。
 ただしこのかけ橋は、各人の心の調和度によって、大きくもなり、小さくもなり、太くもなり、細くもなるものなのです。





【 祈りは行為 】

 祈願文について説明いたしましょう。
 祈願文は、既述のように六章から成っています。このうち、第一章から第四章までが、「心」にあたり、第五、
第六章が、「肉体」についての祈りの言葉です。
 それですから、祈願文は、心と肉体、宇宙と人間の関係を、もっとも短い言葉で表現し、魂と神仏の一体化、己自身と守護・指導霊の調和をはかる、もっとも身近な想念であり、魂の叫びであります。
 またこれを唱えるとき、人は、各人の心の調和度によって調和され、その調和した心で行為に移るときは、心の位置はいっそう高まってまいります。





【 第一章 】


まず第一章をあげてみましょう。


大宇宙大神霊・仏よ
我が心に光をお与え下さい
心に安らぎをお与え下さい
心行を己の糧として 日々の生活をします
(己の心に一日の反省をする)



 さて、ここまでの第一章は大宇宙の全なる大神霊にたいして光と安らぎを求めています。
 大宇宙は、生命発祥の母体であり、大宇宙なくして、我々は存在いたしませんので、発祥の母体に、まず光を求めます。すると、その光は各人の心の調和度にしたがって降りそそいでくるのであります。心から唱えますと、心に安らぎを覚えます。安らぎは、各人の魂・意識に光が伝わって来るためにおこる現象です。

 光を身に受けたなら、大宇宙の正法の生活こそ宇宙の法に適うものでありますから、
宇宙の経典、人間の経典である「心行」にもとづいた生活を送ります。と最後の節で宣言するのです。この宣言が、非常に大事なところです。

 ふつう祈りというと、お願いごとで終わる場合が多いようです。お願いすればなんでも適えられると思いがちです。これは人間の弱さ、もろさくる迷いです。神と人間を切り離した迷信からくる自己満足です。

 祈りというものは、人間が神の子としての自覚と、それへの感謝の心が湧き上がってくるときにおこる人間本来の感情であり、そうした感情が湧き上がってくれば、当然、これにもとずいた行為というものがなければならないからです。祈りの根本は感謝であり、その感謝の心は行為となるものでなければ本物とはなりません。

 大宇宙大神霊の光を求めると同時に、心行を己の糧として日々の生活をします、と唱えるのも、こうした理由からです。また真の調和は、己の心を信じ、行うことにあります。そうして、信じて行なう過程に〝祈り〟というものがあるのです。

 正しいと思っても、間違いを犯すのも人間、善なる行為と信じても、相手のうけとり方いかんでは、不善と見なされる場合もあるかも知れません。人間の想念、行為というものには、これが絶対正しいと自分では思っても、そうでない場合がひじょうに多いのであります。そこで、人間は、神仏の偉大な救いを求め、その求めた中から生活するように心がけることが大事であり、救いも、またそこから生まれてくるものです。

 「 日々のご指導 心から感謝します 」

 祈願文第一章の最後の節はこう結んでいます。
 日々のご指導ということは、太陽が東から昇り、西に没する、春夏秋冬の転生輪廻、植物の生態、動物たちの生活・・・こうした姿というものは、われわれ人間に対して無言のうちに正法の実体、実相というものを教えています。人はパンのみにて生きるに非(あら)ず、まず自然の姿、人間の存在というものを静かにふりかえる時に、そこに、大宇宙、大自然界の計らいというものを人間は知ることが出来ましょう。自然の日々の教えにたいして私たちは、心から感謝の気持ちが湧き上がり、その心が第一章の最後の節となるのであります。





【 第二章 】


 
第二章は、神の命を受けた上々段階、あるいは上段階光の天使に、光を求め、感謝するための祈りです。
 
すなわち、第二章の祈願文をあげると次のとおりです。


天上界の諸如来 諸菩薩(光の天使)
我が心に光をお与え下さい
心に安らぎをお与え下さい
心行を己の糧として日々の生活をします
日々のご指導 心から感謝します



 諸如来、諸菩薩は、あの世とこの世を善導する光の使者であります。
 私たち人間にとって、一番身近に感じ、救いの手をさしのべてくれる人が、光の天使であります。

 人間が迷いの淵に立たされたとき、決断を迫られた瞬間、あるいは病床の中にあって、心を新たにし、反省し、祈るときには、これらの天使がその人の魂・意識に光を投げ与え、その人を救ってくれます。

 人は誰しも転生輪廻の過程のなかで、こうした天使と接触を持っており、したがって救いはどんな人間にも与えられているのであります。

 縁なき衆生救い難(がた)し――という言葉がありますが、本当は、縁なき衆生というものは、一人もいないのであります。この意味は、今世で救われる者と、そうでない来世、再来世でなければ光のかけ橋にのぼれない人もあるので、今世と限定したときにこうした感慨がでてくるのであります。魂の遍歴というものは、外見では決してわかるものではありません。前世、過去世、あの世の生活、と一口にいえば簡単ですが、実は、過去世とあの世というものは、人間が想像する以上に複雑であり、魂によっては今世でどうすることもできない者もあるのであります。

 しかし、本来人間はみんな神の子、仏の子ですから、反省するときには光の天使の救いをうけられるのであります。

 この意味で、第二章を唱えたときは、上々段階光の大指導霊の光をはじめ、諸如来、諸菩薩の光が伝わってくるのであります。






【 第三章 諸天善神の加護 】


第三章は、諸天善神の加護を求める祈りです。


天上界の諸天善神
我が心に光をお与え下さい
心に安らぎをお与え下さい
我が心を正し 一切の魔よりお守り下さい
日々のご指導 心から感謝します



 諸天善神とは、人間の魂を悪魔から守るいわば法の番人です。心が正しく、慈悲と愛の心を失わず、調和の生活を送っている人たちにたいして、これらの天使は、いつでもどこにいても守ってくれます。

 諸天善神にはどのようなものがあるかといいますと、不動明王、摩利支天、八大竜王、大黒天、稲荷大明神・・・といったものがあります。



不動明王
- 心の正しき者を守護する天使。

摩利支天
- 心の正しき者が誤(あやま)ちを犯さぬように善導してくださる天使。

八大竜王
- 心の正しき人を守ると同時に、人間以外の一切の生物を統括管理し、生物相互の生活に
       必要な措置を講じてゆく天使。


大黒天
 - 光の天使を側面から応援する。地上においては心の正しき者、正法を護持するための
       経済援助をはかってゆく天使。


稲荷大明神
- 五穀豊穣の手助け、情報の収集、また正しき者を助けてゆく天使。その方法手段は、
        ある特定の動物霊を指導し神理を教え、その動物霊を手足のように使う。


 このように、諸天善神は、法を守り、光の天使の活動がしやすいように、その行動を側面から応援してゆくと同時に、心の正しき者の味方となって、あの世における人間の意識界と、現実の地上世界の両面にわたって、働いている天使達であります。諸天善神は、光の天使になるための修行の場であり、役柄であります。しかも、如来、菩薩をも救う力が与えられております。

 人間は所詮、神仏にはなれません。誤ちを犯し、これをさけられないのも人間であるとすれば、諸天善神の助けを借り、その救いにたいして、感謝し報恩するのは当然であります。






【 第四章 守護・指導霊への祈り 】


我が心の中にまします守護・指導霊よ
我が心を正しく お導き下さい
心に安らぎをお与え下さい
日々のご指導 心から感謝します



 第四章の祈りは、私たちの潜在意識層にある私たちの本体あるいは分身にたいしてであります。この本体、分身が、守護霊となり、指導霊となって、現象界に出ているその人の一生を見守り、魂の向上のためにあらゆる努力を払っています。

 守護霊、指導霊について若干の説明を加えますと、まず守護霊は、魂の兄弟(人間の生命は本体一人、分身五人から成る)の一人で、ほとんど専属的について守っている霊です。したがって、ある人の五十年の歴史(想念行為)を調べようとするならば、その人の守護霊からきけばわかります。この場合ききだすこちらの意識が相手より低いと、それは不可能になります。あの世の意識界は、自分の意識より下位の者の意識は見えても、上位の者の意識をのぞくことはできないからです。

 指導霊は、主として、その人の職業なり、現象界の目的使命にたいして、その方向を誤らないよう示唆を与えてくれる魂の友人あるいは先輩であります。たとえば、医者として過去世に経験のない者が今世で医者となった場合、その人の心の調和度によって、より高級な指導霊がついて示唆を与えてくれるのです。また人によっては、守護霊と指導霊を兼ねてその人を守り、指導している者もいます。

 ともかくこのように、私たち現象界の人間にとって、いちばん身近にいる魂の兄弟たちに、常に感謝し、「祈り」という調和された想念と行為を怠らないならば、その人の一生は、真に、安らぎのあるものとなりましょう。反対に不調和ですと守護霊はその人を守ることができず、これが長期にわたると不幸を招くことになります。





【 第五章 自然への感謝 】


 
これまで述べてきました一章から四章までの祈願文の内容は、宇宙の心と人間の心を結ぶ祈りです。人間は、心と肉体とから構成されておりますが、そのもっとも重要なのは、各人の心です。心は、素直に、のびやかで、自由自在でなければならないのに先天的、後天的因果によって、その円満さを欠き、性格がいびつになっています。それを修正し、もとのまるい心にするために、四章までに祈り、その祈り心にもとづいた実践行為によって、人の心は、次第に修正されてくるのであります。
 いうなれば、四章までの祈りは、天と地をつなぐ光のかけ橋です。
 
第五章は、肉体維持に協力される動・稙・鉱にたいする感謝の祈りです。


万生万物
我が現象界の修行にご協力
心から感謝します



 私たち人間は、五体という肉体を持っています。肉体のない人間、これはあの世の人です。あの世の人は、光子体という、肉体と異なるボデーを身にまといますが、この世では、原始細胞からできた肉体という舟に乗って人生航路を渡っています。したがって、舟を浮かべるには、水が必要、燃料が必要であります。この地上は、私たちが生まれる以前から、私たちの肉体保全のために、あらゆる素材を無料で与えてくれています。もしも、この地上に、私たちの生存に必要な食べ物、水、太陽の光が与えられていないとするならば、私たちはこの世に出ることも、生きてゆくこともできないと思います。科学の進歩によって、太陽光線を人工的に創り出すことが、仮に、できたとしても、その素材は大自然から求めてこなければなりません。つまり、肉体維持に必要な素材は、すべて、大自然から与えられているということを悟ることが大事です。
 万象万物にたいして感謝し、万象万物をいつくしむ心、これが第五章の祈りです。





【 第六章 先祖に対する感謝 】

第六章の祈りは、先祖代々に対する感謝と供養です。


先祖代々の諸霊
我に修行の体をお与え下さいまして
心から感謝します
諸霊の冥福を心から供養致します



 
現在、こうして肉体が与えられ千年に一度、二千年に一度しか出てこられない現象界にあるというのも、もとをただせば先祖のたゆまざる調和への努力の結果です。

 したがって、先祖にたいして心から感謝するのは人間として当然の義務であります。義務とは供養を意味します。供養とは、調和への行為です。感謝の心は、調和への行為となって、はじめて循環され、己も、そして先祖の諸霊も神に光をいただくことができます。

 この世の人が調和されるとあの世の人も調和されます。あの世の人はあの世の環境に安住しがちであり、向上は容易ではありません。これは自分が住んでいる下位の世界は見ることはできても、上位の世界をのぞくことができないからです。そこで先祖の諸霊は、時おり子孫の家庭を見に来ます。その時、家庭内が争いや不調和に満ちていますと、地獄霊の場合は、自分のおかれている環境が苦しいために、家庭人に憑依し、苦しみからのがれようとします。すると、その家庭内はいっそう不調和になります。家庭が調和されておれば、おかれている環境、想念に疑問を持ち反省するようになります。一方、高級霊の場合は、家庭が不調和ですとその家庭を守りたくても守りようがなく、反対に自分より調和されておれば、その家庭から反省の材料を得ることになり、その家庭を守りやすくなってますますその家庭内は調和されることになります。先祖の供養とは、感謝の心が祈りとなって調和の心が行為されたときに、はじめて実を結ぶものであります。





【 神仏との対話へ 】

 
祈願文に書かれている一章から六章までの意味は、これで一応おわかりいただいたことと思います。


 
 一、祈りというものは、感謝であり、行為である。
  一、祈りというものは、天と地をつなぐかけ橋である。
  一、祈りというものは、神仏との対話である。


 神仏との対話とは、各人の守護霊・指導霊との対話であり、守護霊・指導霊はあの世の天使の導きをうけており、天使は神の意を体していますので、守護霊・指導霊の導きは、そのまま神の導きであるといってもいいのです。

 ただいい得ることは、各人の心の調和度によって、その対話の内容もかわってくるということは否(いな)めません。このため、その毎日の生活の中で、正法に適った反省と努力、忍耐と献身、人間としての義務を果たしてゆくことが望まれます。そうして、こうした生活の積み重ねが、やがて自分自身の品性を高め、神仏との対話にまで向上してゆくのであります。

 祈りについて気をつけることは、人間はややもすれば、祈ることによって他力的になってゆくということです。祈りが他力にかわったとき、その祈りは祈りとしての意味をなさなくなってきます。勿論、祈りは、守護霊・指導霊の力を借りることにはちがいありません。しかし
正法の祈りは、神の子の自覚にもとづいた祈り心で行為するということが、祈りの眞意なのです。他力は行為を棚上げして、神仏の力にすがってゆくものです。人間凡夫という前提で・・・。この点を間違えますと、大変です。

 色心不二という言葉があります。物も心も、ともに大宇宙の心から出発し、この心を基点にして、万象万物ができあがっておりますので、人間の場合、心と肉体をすこやかに、健全に保つためには、中道という神意にそった生活をすることが必要です。

 私たちの祈り(行為)も、色心不二という中道の心にまで高めてゆきたいものです。


- 終わり -






2017.03.20 (月曜日-春分の日)UP






                                     3/18-20machikofufukifuku. 20hi kagosimahekitakusu!