高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








【 祈願文の解説 - 補足 】





【 巻頭の詩 】  園頭広周先生     正法誌 1984年9月 第73号 より


祈 り

あなたの祈りを 天上界は知っている

天上界は 正しく祈る人を待っている

その人を通して 神の光を輝かすために






高橋信次先生のことば     正法誌 1987年1月 第101号 より


祈りについて 】
  

( 問 )祈りについて ・・・ 。その必要性はありますか。どのような効果があるのでしょうか。

( 答 )あの世、実在界(天上界)では、祈りという想念はありません。なぜないかといえば、行為が祈りとなっているからです。いうなれば、現実の生活と理想とが一つにとけ合っているからです。調和されています。

 ところが、人間が肉体を持ち、地上の生活をする段になりますと、現実と理想のくいちがいが、毎日の生活の場において出て参ります。このために、肉体を持った人間は、どうしても、祈らずには、いられぬように出来ております。一つには、地上の人間は10%の意識で生活し、天上界は90%の意識で毎日を送るための違いといってもいいわけです。一寸先がヤミですから、祈る心のわくのも当然であります。

 さて、そこで、ではその必要性があるのかどうかです。これは大いにあります。

 祈る自分は10%の意識です。祈られる相手は、自分を守り続けている守護霊であり、指導霊でもあります。
 想えば、想われるで、守護・指導霊にたいして、絶えず、心を向けていれば、守護・指導霊は守りやすく、指導しやすくなります。守りやすく、指導しやすくなれば、その人の毎日の生活は、安心と喜びに満ちてきます。当然の帰結です。したがいまして、10%の意識で生活する地上の人間にとって、祈りは、欠くことのできない生活の、重要な行事に一つとなります。

 次に、祈りの効果です。これは重要です。
 祈りの本質は、10%の表面意識が、守護・指導霊の住む己の90%の潜在意識に投げかける光の橋です。
 守護・指導霊は、常に10%の意識で修行する現象界の人間にたいして、道を外さぬように見守り、指導していますので、10%の意識が想いを向ければ、祈れば、いつでも手をかし(光のかけ橋)てくれるからです。

 ただ問題は、その祈りが、自己保存のためか、調和のためかによって、大きな差が出てまいります。
 普通は、誰しも、病気や家庭不和、事業不振が出てこないと祈る気持ちは湧いてこないようです。ですから、最初はそれも仕方がありません。

 しかし、本当の祈りというものは、現実的な幸、不幸ではなく、現在、生かされているそれ自体に感謝することであり、その感謝の想いで、日々の生活を行じることが大切です。

 人間は、生かされ、生きてゆくものです。だが、調和の心で生きてゆく、という自覚が出た時は、感謝の気持ちが報恩の行為となってきます。いうなれば、10%の意識と、90%の意識が同通したことを意味します。
その時こそ、人は、真の安らぎを得、環境も、健康も整い、天命のままに生きることになります。

 天命に生きるということは、自分が地上に生まれてきた目的、使命が分かり、それに向かって生き続けることをいうのであります。

 私達の祈りも、ここまで高めたいものです。


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【 園頭先生 解説 】

 正法は自力だから祈ってはならないと考えている人がある。
 自力だからこそ、祈らなければならないのである。

 キリストは「求めよ、さらば、開かれん」「求めよ、さらば、与えられん」といわれた。

 正しい祈りと、そうでない祈りと、どこが違うかというと、その「求める」心、姿勢が違うのである。

 この世とあの世は相互に連繋されている。人間は生まれてくる時に、既に指導霊、守護霊があって、指導霊、守護霊は、求めによって指導しなければならないことに仕組まれているのである。

 しかし、生きている本人が求めてもいないのに、また、求めていても、その求めていることが、本人の魂の向上にならないと思う場合は、絶対にその祈りは実現しないのである。

 求めてもいないのに、一方的に与えることはその人の自由を妨げることになる。それは丁度、腹も減っていないのに、ご飯を食べろと無理矢理に口に押し込むようなものである。

 「求める」ということは自力である。赤ちゃんは泣くことによって母親に訴える。泣くとおっぱいが欲しいのだなとわかって、おっぱいを与えることになる。泣いて訴えないと母親はおっぱいが欲しいのかどうか全くわからない。赤ちゃんは切実におっぱいが欲しくなって泣くのである。その「泣く」のは自力である。「祈る」のは自力である。するとお母さんはおっぱいを与える。それは他力である。

 だから「自力の極に他力がある」のである。その人が祈って求めると、その祈りが実現することがその人の魂の向上になる場合は、守護霊、指導霊があの世(天上界)から協力してくれて実現するのである。

 だから、「人間釈迦」第1巻118ページにも、次のように書かれているのである。
 「正しき生活行為、つまり調和に向かって努めているときには、その願いごと、祈りはたいてい叶えられる。正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。この意味から「祈り」は天使との対話であるといえる。奇跡は、こうした「祈り」によって起こるものである」と。

 ここで注目すべきことは、
 「つまり調和に向かって努めている時には」と書かれてあることである。
 調和に向かってであるから、まだ完全な調和になっていなくてもよいのである。
 調和に向かって努力していればよいのである。

 夫婦調和しようと思う切実な心があって、一生懸命に努力しているが、まだ時々喧嘩していてもよいのである。クヨクヨ、イライラしていてもいいのである。なにも完全に調和しきらなければ祈ってはならないということはないのである。泣きながら、くやしいと思っていても祈ればよいのである。

 調和に向かって努力する心もなく、ただ欲望だけで祈ることはいけないのである。

 他力本願がいけないというのは、自分は何の努力もせずにいて、また、切実に必要でもないのに欲望だけで、まるで神仏を、自分の欲望を満たしてくれる下男か下女みたいに思って、あれこれと祈って、祈りを聞いてくれるのが神仏の勤めだと思うような心掛けがいけないのである。

 私の人生は祈りの連続である。もうこれ以上は自分の力ではどうにもならないと思う時ほど真剣に祈った。その祈りの時の心得が、キリストが祈りの始めにいわれた、
「み心ならば・・・・・・」ということである。

 「その祈りが実現することが、全ての人の幸せにつながることでありましたら、どうぞこの祈りを実現せしめて下さい。もし、それが実現することが、ふさわしくないのでありましたら、祈りは実現しなくてもよろしゅうございます。」という心が大事である。

 それを「全托」というのである。

 他力信仰の教団が説いているような、自分は何の努力もしないで、ただ自分勝手な欲望で祈って後はお委せするというのは本当の全宅ではないのである。

 正法は自力だというので、祈ることは何か悪い事のように思って祈らない人があるようである。
 正法だからこそ、切実に祈らなければならないのである。

 今年一年の目標を決めて。最も必要なことを堂々と祈りなさい。結果がどうなるかは天上界の守護霊、指導霊に委せて、やることは勇気を持ってやりなさい。

 隣に病人があったら、その人のために祈ってあげなさい。
 正法者は、正法を日常生活に実践しつつ、祈ることは臆せずに祈る「祈りの勇者」でなければならない。

 祈ることによって奇跡は起こるのであって、祈りのないところには奇跡も起こらないのである。


  - 完 -





2017.04.08 (土曜日)UP ・・・・・・ お釈迦さまの誕生日に