高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








【 高橋信次先生 最後のメッセージ 】




アナタ達ハ、自分ノ使命ヲ果シナサイ。
コレカラ、ドノ様ナ事ガアッテモ心ヲ動カシテハイケマセン。
私ガアナタタチノ心ノ中ニ生キ続ケテイル事ヲ知リナサイ。
私ノ地上ノ生命ハ間モナク終ワリマス。
然シ悲シンデハイケマセン。
自分ノ心ノ中ニシッカリト法灯ヲトモシテイキナサイ。
コレカラハアナタタチノ本当ノ使命ヲ果ストキデス。
アナタタチハモット多クノ人々ヲ救ッテイカネバナリマセン。
私ハ間モナク地上カラ去リマス。
然シ必ズ天上界カラ働キカケマス。
例ヘ肉体ハナクトモ、アナタガタトイツデモ通信出来ル事ヲ知リナサイ。
アナタガタハ何故悲シムノデス、生命ノ永遠ヲ知リナサイ。
アナタタチハ、自分ノ心ヲ作リナサイ。
自分ノ心ノ中ノサマザマナ誤リヲ正シ真実ノ自分ヲ作リ、
ソシテソノ愛ヲ拡メテユクノデス。
コレガ私ノアナタ方ヘノ最後ノ言葉デス。









【 偉大なる出家 】


≪ 正法誌88号 1985年12月号

 特輯 如来を呼べ - 運命を修正するには ・・・ より ≫






 昭和五十一年六月二十五日、高橋信次先生は自ら予言していられた通り四十八歳で昇天された。その二日前、即ち二十三日、とにかく上京してほしい理由はいえないという電話で上京した時は既に高橋先生は昏睡状態であった。
 人は死ぬ時は、たとえどこにいても自分の家に帰って死にたいと思うものである。だのに高橋先生は浅草八起ビルの三階のいつもよく使っていられた部屋に寝ていられた。高橋先生はなくなられる一週間前に八起ビルに移られたということであった。

 キリストの復活と同じような奇跡が起こることを念じつづけたが、私達の祈りは空しかった。高橋先生の肉体はその酷使によって肉体生理の限界を越えて修復不可能にもなっていたのであった。

 私はそこに如来の慈悲に溢れた崇高な死を見た。自分の肉体の最後のひと呼吸までをも衆生のために捧げ尽くされたのであった。自らのためには生きられなかったのである。求める人があれば、既に限界を越えている肉体を酷使して「法」を時に行かれたのである。

 
今から二千五百年前、インドでは釈尊は二十九歳の時に出家をされた。私はなぜ今回は高橋先生が死の一週間前に大森の自宅を出られたかを考えた。その時、私の頭にひらめいたのは「これは出家だ」ということであった。

 肉体的には既に昏睡状態であった高橋先生が、意識の中で私達に伝えられたのは、
「わたしは一人一人の人の心の中にあります。わたしに逢いたければ私の名を呼びなさい」ということであった。

 「心行」の中に、
 「神仏と表裏一体の諸霊は、光明に満ち
  実在の世界にあって
  諸々の諸霊を善導する光の天使なり
  光の天使、すなわち
  諸如来、諸菩薩のことなり
  この現象界は
  神仏よりいっさいの権限を
  光の天使に委ねしところなり・・・」と書かれてあるが、

 高橋先生は、
「この地球上の人類の指導の責任は、神より私に委ねられてあるのです。なにかあったら私の名を呼びなさい。私の本を読んだ人、私の話を聞いた人の心のテープレコーダーには、私のいったことが金色の文字で書かれております。私の名を呼ぶことによってその心の記憶が甦り、救われてゆきます」といっていられた。

 「私の話を・・・」というのは今生だけではない。或いはインドで、或いはギリシャで、或いはエジプトで・・・高橋信次先生が過去世でいろいろな名で出世された時であって、だから、「過去世で、どこかで、私の話を聞いたことのある人は、私の本を読み、また、私の話を聞くと、一ぺんで、あゝ、これが本当だとわかるのであります」ということになってくるのである。

 しかしまた有る時は、
 
「私の名を、そう簡単に呼んでもらっては困ります。私も天上界ではしなければならないことが一ぱいあるんです。呼ばれれば行かなければならないが、それだけ私の仕事は中断されるんです」とも言っていられた。

 
当然自分で考え、自分でしなければならない分野であるのに、その努力を怠ってみだりに如来の名を呼ぶことは許されないのである。そうすることは自分のためにならないのである。如来の名を呼ぶのはぎりぎりの、のっぴきならない時だけにしなければならない。

 
妄りに如来の名を呼ぶことは慎まなければならないが、しかし、わが心の中に高橋先生の名を呼び、高橋先生に感謝し、その教えをよく心に銘じ、実践してゆくことを誓い、日々に、時にふれて思い出し、わが心を大きく向上させてゆくことを願わなければいけない。

 インドの「マントラ」(真言)は、そのために唱えたものなのであるが、現在はそれが念仏とか題目という形になり、わが心の中に仏を念じ、仏の教えを実践してゆくというわが心の誓いではなくて、心の中に達成したい欲望を一杯持って、その欲望を叶えてもらいたいために、(現世利益を求めて)、人間が手でこしらえた仏像や日蓮上人の像に向かって上げるということになってしまっている。これは宗教の堕落である。

 
高橋先生は全人類の師であった。この世に肉体を持つには、父母を通してどこかの家に生まれてこなければならない。そのために今回は長野県の高橋という家を選ばれた。だから高橋の姓を名乗られた。だが高橋先生は全人類の師であって、単に高橋という一氏族に属される方ではなかった。
 「自分は高橋という一氏族に所属する人間ではない。わが肉体も、わが魂も、すべては全人類のものである。」
 そう思われたことが、死の一週間前に大森の自宅を出られて八起ビルに来られたのではなかったのか。

 「偉大なる出家だ」

 天からの声を聞いたとたん、高橋先生の肉体は黄金色に輝き、その瞬間、高橋先生の黄金の姿が空間に見えた。しかし瞬時にしてその姿も消え、そこには普通の人の死と変わらない姿があった。

 私は今まで誰にもこのことを話さなかった。しかし、私の知っていることのすべてを後世の人々に書き残して置かなければならない。大森の自宅で死なれるということになると、それは高橋家の人の死という印象が強くなって、高橋先生が説かれた「正法」までが高橋家のものとして私物化される恐れがある。
 高橋先生が説かれた「正法」も、高橋先生の肉体も、高橋家のものとして私物化してはならないのである。そのために高橋先生は死の一週間前に大森の自宅を出て「出家」されたのである。
 私は前からそう思っていたのであったが・・・・・・


中略

 
生まれ変わり死に変わりしてきたこの地球上の全人類の指導の責任を神から委ねられてある如来、メシア、その中心的存在が釈尊即ち高橋信次先生であり、その補助的な働きをされるのがイエス・キリスト、モーゼであり、この三人の意識の統一者をエル・ランティというのである。

昭和四十八年九月、インド当時と同じような修業をしましょうといわれて奥志賀高原に十日間行った時の三日目に、高橋先生の頭上に現われた光、意識、その権威の前に思わず頭が下がって涙して感謝の言葉を述べずにはいられなかった尊い存在、それを高橋先生は「エル・ランティ」といわれたのであった。それを見たのは私一人であった。

 
われわれを救う責任を持っていられる方であれば、「どうぞお救い下さい」といってお願いするのは当然のことであって決して間違ったことではない。

 
キリストもある時は「わが名を呼べ」といっていられるし、また、ある時は「妄りにわが名を呼ぶな」といっていられる。

 エジプト時代、アモンと呼ばれていたキリストのみ名を呼ぶことが、後に「アーメン」となった。

 
われわれの心の中に内在する高橋信次先生のみ名を通して神を呼ぶことをためらってはならない。
常にそのみ名を唱えて神に感謝することが、過って犯した罪を浄化して、自らを神の子とすることになるのである。
知らず知らずのうちに犯した過去の輪廻転生の中に置ける罪を浄化するには、われとわが心の中に神と神の子の自覚を復活させることである。


過去におけるヨーロッパのメシア信仰が失敗に終わったのは。メシアなる人物の出現のみを待望して、霊の復活を図らなかったからである。

 
「肉によって生まれるものは肉なり。霊によって生まれるものは霊なり」
 「神のものは、神にかえせ」


 と、キリストがいっていられるように、われわれが願わなければならないのはやがて滅びるべき肉の身の復活ではなく、霊の復活なのである。



正法誌第88号 1985年12月号
特輯 如来を呼べ - 運命を修正するには ・・・ より


- 完 -







≪ 高橋信次師の記録 園頭広周書簡集(下) 
                    宗教指導者の条件 より





書簡集について---園頭先生がある人を指導者に育て上げようと手紙を書き続けられました。
  その手紙を二冊の本としてまとめられたものです。 -注解- は出版に当たり補足説明的に追記されたものです。


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高橋信次先生の昇天 (昭和五十一年六月二十五日)

 高橋信次先生が昇天された。私は二十三日から高橋先生の枕頭に侍していた。復活を願っていたが成らなかった。
 悲しんでばかりもいられない。高橋先生が説かれた教えを待っている人達がいる。正しく伝えてゆくしかないことを決意する。
 師を失うということはかなしい。力の抜ける思いがした。しかし誰かが法を継いでゆかなければならない。


 
- 注 解 -

高橋先生昇天の枕頭で私は思い、かつ誓った。
GLA本部や関西本部の講師の人々を見て、最後は正法を正しく継ぐ者は自分一人になるであろう。
私より早く講師になった人達が、後から講師になった私の存在を認めて、私の指導を受けるということになってゆくならば、GLAは一つにまとまってゆくであろうが、そうはならないであろう、と思った。

しかしそういうことは自分からいい出すことではなかった。恐らく他の講師達は間違ったことをいい出すであろう。
自分一人は間違ってはならないと思った。一人になっても説いてゆくと私は悲壮な決意をした。

 六月二十三日から枕頭に侍していた私は、高橋先生の昇天は時間の問題だと思って、高橋先生が昇天された後のことを考えていた。二十四日の夜も一睡もせずに枕頭に座っていた。

二十五日の朝になった。高橋先生の弟の興和氏が部屋に入ってきて、「みなさん、疲れられたでしょう。サウナ風呂にでも行ってこられたらどうですか」といった。関西本部長の中谷義雄氏が「そんなら、そうさしてもらいましょうか」といって立ち上がった。

 偉大なる師の昇天を前にして、なんと不謹慎な人達であろうか、よくもそういう気になれるものだと悲しく思った。だから、私は一人、別な行動をとった。ここでも私の考えと他の講師達の考えは食い違った。偉大なる師の昇天を前にして、風呂になど浸っている心になれるであろうか。

 私はそれまで、自分の生活の基盤、活動の基盤が変わって、新しい決意を持って行動を開始しなければならないという時に、いつも古い靴を捨てて新しい靴を穿いた。高橋先生はもう間もなく昇天されるのである。すると確実にこれからの活動の土台、舞台が変わるのである。その新しく変わった新しい舞台で活動する決意の象徴として、他の講師はみんなサウナ風呂に行くといって出たのに、私は一人、浅草の本部を出て靴屋に走った。
新しい靴を穿いて帰ってきて間もなく高橋先生は昇天された。

 後世の人々のために書いておく。

 人は旅にあると、最後は家に帰って、愛する家族に見守られて死にたいと思うものである。しかし高橋先生は、昇天される一週間前に大森の自宅を出られて、浅草の八起ビルの自分の部屋に休まれたのである。このことの意義について考えた者は私以外にはいないようである。私にいわれて「そうですね」とはいっても、死の間際に家を出て(出家して)公開の場である八起ビルで昇天されたことに不思議さを感じた人はいなかった。

 二千五百年前、インドの釈尊の時は二十九歳で妻子を置いて出家された。その時から釈尊は、妻たる者の夫でもなく、子たる者の親でもなく、全人類の親であり師であるとの自覚を持たれた。

 今回は死の直前に出家(家を出られた)され、自分の死を公開のものとされた。だから、高橋一栄未亡人は、個人的な妻である私の夫が死んだという個人的な悲しみの涙を流すべきではなかった。高橋佳子氏は、私の父が死んだという涙を流すべきではなかった。妻と子という個人的なつながりを超越して、それまで教えを受けた者と同座して、偉大なる救世主の昇天に涙しなければならなかった。

 かつてインドで妃であったヤショダラが、ブッダとなった夫を師として崇めたように、高橋一栄未亡人は、夫を人類の師として崇め、教えの弟子としての涙は流しても、夫に死なれた妻としての涙は流すべきではなかった。

  中略

 高橋信次先生の昇天をめぐって、高橋先生の昇天を普通の人の死のように軽く考えているGLA指導者陣に肌寒くなる思いがし、そうであればこそ、自分一人ででもしっかりしていかなければと、ますます強く決意したのであった。


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ただ一人正法がわかっていたといわれたこと (昭和五十一年七月三日)

 高橋信次先生が亡くなられてみて、つくづくと今まで遠慮してきたことを後悔しています。こんなことになるのでしたら、もっと積極的にやればよかったと思っています。

 しかし、
関西本部の四月の講演会の時に、中谷本部長宅に泊まっていられた先生が、朝食の時に、「ぼくが説いたことを一から十まで全部わかっているのは、園頭さんが一人だ」といわれたということで、講演が始まる前に中谷本部長が話してくれました。
 私は照れかくしに、「いや、みんなわかっていますよ」といいましたが、私は「そうだ」と内心思っていました。

 高橋先生が亡くなられた以上、私がしっかりしなければならないと腹を決めました。
問題は、入信年月日で、序列を決めてしまっている東京、関西の講師達が、一番後から帰依した私の指導を受けるというかどうか、この点が今後GLAがどうなるかの分かれ岐(みち)なります。

 今までの空気から考えて、そうはならないと思っています。私の予感が当たらないことを願っていますが、しかし、当たることになるでしょう。

 そうなったらそれで、私は一人で高橋先生の教えを正しく伝えてゆく以外にありません。

 予定されていた、宮崎、鹿児島、熊本の講演をすませました。高橋先生は亡くなられたのに、かえって集まる人は増えてきました。

 今までも何べんか、私が持っている本当の力を出さなければいけないと思ってきたのですが、東京本部の空気がおかしかったし、まあそのうちに高橋先生がいわれるだろうと思ってなんにもいわずにきたのでしたが、講師のあり方などについては何もいわれずに昇天されました。まことに残念なことです。


 - 注 解 -

 高橋先生の死は全く意外であった。あれもこれも聞いておきたいことが一ぱいあった。師がいないということが、こんなにさびしくかなしいものであるとは。とにかく歩んでいかなければならない。
 私は自分自身、高橋先生がいわれることを全部わかっているのは自分だけだと思っていた。中谷本部長からいわれて、内心では、「やはりそうであったのか、そういわれたのか」と思ったが、そうは自分でいうわけにはゆかなかった。
 GLAは果たしてこれからどうやってゆくのか、それを考えると気が重かった。しかし高橋信次先生が「一人だ」といって下さった。ありがたかった。生長の家にいた時は自分を知ってくれる人がなくて、いつも残念な思いをしてきたものであった。


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高橋信次先生の告別式
 (昭和五十一年七月三日)

 合掌、本葬も極めて順調に終わりましたね。献花はやはりあなた方が決められたようにしてよかったですね。
 私が今まで遠慮してきていたのは、東京、関西の講師達に、自分達が先に高橋先生に帰依して、高橋先生に一番近いのだと、みんな気負っている点がありましたし、あえてその中に割って入るのも大人気ないと思っていたからでした。
 このことは高橋先生が一番よく知っていられましたから、三月の白浜研修会の時に、 「あなたはまだインド当時の智慧を出し切っていない」といわれたわけです。

先月二十七日告別式が終わった後、中谷関西本部長が初めて私に、「これからよろしくお願いします」といいました。

 本葬が終わって、先生のご遺骨のお供をして、大森の自宅へ行きました。

 一栄先生が、「ありがとうございました。これからよろしくお願いします」といって下さいました。

 私は先生が「私を信ぜよ」となぜいわれないのか不思議に思っていました。
ところが今年になってから、「私を信ぜよ。私は光であり、道であり、法である」といわれるようになり、びっくりしたのでした。それがこのようなことになることだったのだとは、今になって知ることです。

 
一栄先生が私に「よろしくお願いします」といわれたとたんに、佳子さんに高橋先生の霊が出られて、
 「そなた達は今、みな心を一つにしている。その心を忘れてはならない。絶対に分裂することがあってはならない。今、そなた達は心を一つにしているが、なぜ私が生きていた時にそのように心を一つにしてくれなかったのだ」といわれました。みんな厳粛な気持ちで聞いて、恐れ入ったのでした。

 そういわれた後に、高橋先生の心中を一番よく知っていたのは自分だった。
 やはりそのことを気にしていられたのだと思って涙が出てきました。

 
GLA誌七月号の中に、「妄りに固有の天使の名を呼んではならない。それは他力につながる」と戒めてあります。正法を実践せずにいて、苦しくなると「高橋先生、なんとかして下さい」ということは絶対にいけないというわけです。
 しかし、高橋先生は亡くなられる直前に、
「私はあなた方一人一人の心の中にある」といわれました。

 私達自身が自覚を深めるために、高橋先生のお教えに違わざらんことを期するために、自分の内なる魂に向かって、

 「わが心の外にも、わが心の内にも、神とともに(ま)しまして、私どもの光となり給い、法となり給い、道であり給う偉大なる高橋先生と呼ばれ仕方よ、なにとぞ私達を正しくお導き下さい」と唱え、
高橋先生の愛によってすっぽり包まれている状態を心の内に描くことは、よいことであります。

 私達の表面意識は五官を通して常に外に向けられていますから、こうして生かされているのも高橋先生のお蔭であることを確認し、いつも内なる心を目覚めさせておくために、高橋先生の名を呼ぶことは許されるわけです。

 私は高橋先生が亡くなられてから、常に高橋先生と共にあることを忘れないために、
高橋先生が
「私はあなた方一人一人の心の中にある」といわれたその言葉を忘れないために、自分で自分の心に向かって、「わが心の中に、神とともに在(いま)す高橋先生よ」と呼びかけています。
そうして心の安らぎを得ています。

キリストは、「汝ら一人なる時も二人なりと思え。その一人はわれである」といっていられました。

四国八十八カ所を巡る人達の笠に「同行二人」と書いてあるその一人は弘法大師です。
常に弘法大師と共にあるというのが遍路される人達の自覚です。

「汝らの心の中にある」という言葉は、人類の救いの神秘を示すものです。

高橋先生は
「われと常に二人なりと思え」といっていられるわけです。


 創世記の始めに、「はじめに言葉あり、言葉は神なりき」とあります。
 この天地一切のものは、神の言葉、想念によってつくられたのです。
 その創造の原理が人間に与えられてあるのです。

 言葉は想念を形象化する一つの方法です。「認めたものが存在に入る」のです。
そこにあっても、認めることをしないと、それはないのと等しいのです。
確かにわれわれは神に生かされているのですが、「神に生かされている」と認めて自覚し、言葉で宣言した時に、神に生かされている実感が感じられてきます。

 だから、心の内に向かって「高橋先生と共にある」と宣言するのです。
この宣言することが「祈り」「生命で宣(の)ること」なので、やはりいうべきです。

 「言葉」は口に発音する言葉だけでなく、想念も言葉です。
自分の自覚を強めるためには言葉(想念)に出していうことです。
想念していて口には出さなくてもよいわけですが、しかし、自分の耳に聞こえてくるくらいの小さな声で自分に向かっていうと、自覚が強まります。


 
この一月から私は、「なぜありがたいというのか、その意味をよく考えなさい」という話をしてきましたが、
「ありがたい」というのも、やはり思っているよりも、「ありがたい」と口に出していった方がありがた味が強く感じられます。



以上 書簡集から抜粋



- 完 -







【 正法と高橋信次師3 】より





 
昇天直前の信次先生

 【 矢野氏の話 】
 私に信次先生の本を勧め、正法帰依のきっかけをつくってくれた、サンフレンドの矢野氏は、昇天直前の信次先生の姿を次のようにいった。
 「私が六月の初め、店の前(原宿の生長の家本部前)に来たら、一人の痩せた青年が立っていて、『矢野さん』という。よく見たら高橋先生でした。『病院へ行って帰りです』といわれる。『まあ、お茶でも・・・』と家の中に入ってもらった。『矢野さん、こんなに肉体を酷使するんじゃなかった』と涙をためていらっしゃいました」
 私はこのことを、七月の高橋先生の葬儀の時に矢野氏から聞いた。
 高橋先生の自宅は大森である。病院は渋谷であった。病院は大森の反対側である。病院を出られて、自宅とは反対側の原宿へ来て、矢野氏の店を訪ねられたということは、私に高橋先生のことを知らせてくれたのは矢野氏であったから、矢野氏に知らせておけば、矢野氏が私に知らせるであろう、とお思いになったのであろうと思った。しかし、矢野氏から私には何の連絡もなかった。
 高橋先生の昇天後、高橋先生の霊が出てくる助安という人がいて、矢野氏はその人を師としていた。私が矢野氏に、高橋先生の本当の教えを知ってもらいたいと思って、矢野氏の原宿の店に行ったら、矢野氏は不在で、助安氏が書いた色紙が掛けてあったので、それっきり行ったことはない。



【 堀田氏の話 】
 三宝出版社長、堀田和成氏は昇天前の信次先生のことを著書に次のように書いている。

 死の四カ月ほど前、釈迦に説法とは思いましたが、折にふれ、休養なさるようおすすめしました。そんな時、先生は、「わかっています。私の体は私が一番よく知っている。だが、やるべきことをやらなければ私の役目が果たせなくなる。私はただやるだけなのです」といわれます。先生は死を覚悟していられました。残された時間をいかに有効に使うか、それだけがお心を支配していたようです。「先生のお気持ちはお察しします。細く長くということもあります。今のお体には休息が一番と思います。ゆっくりお体をお休めになって下さい」。くり返しそう申し上げました。



【 一栄氏の話 】
 高橋信次先生の妻、高橋一栄氏は次のように語っている。・・・「心に法ありて」より

『「さあ、起こしてくれ、上衣を出してくれ。私は行かねばならない。みんなが待っている」
 主人は、床の中で、そう私にいい続けます。自分の体が自由にならないのに。明日に迫った関西講演に、早や心は飛んでいるようでした。(中略)
 しかし、主人はもう何日も物を食べていません。それどころか東北講演ですっかり体を使い果たし、そのうえ、ある方が八起ビルに訪ねて来るというのでわざわざ出掛けて行き、夜、十時過ぎまで話し合っていたというのです。
 今にして思えば、あの時の主人は、家族の者の理解を越えたある使命感だけに、己の魂を燃焼させて生きていたと思います。それから十日余りして主人は昇天しました。』


 昇天の二日前、即ち二十三日、とにかく上京してほしい、理由はいえない、という電話で私は上京した。その時、すでに信次先生は昏睡状態であった。八起ビルには、GLA東京本部の理事と、関西本部の理事が三人、一栄夫人、佳子氏、実弟の興和氏がいた。
 人は死ぬ時は、たとえ何処にいても、自分の家に帰って死にたいと思うのが常であるのに、信次先生は、死の一週間前に八起ビルに移って、いつも使っていた部屋に寝ていられた。私は、二十四日の夜も一睡もせず、信次先生が昇天された後のことを考えていた。
 二十五日の朝、実弟の興和氏が「みなさん、お疲れでしょう。サウナ風呂にでも・・・」と勧めた。何人かが勧めによってサウナ風呂へ行った。偉大なる師の昇天を目前にして不謹慎な礼を知らない人々の行動に驚き、私は一人、別行動をとった、
 私はこれまで、生活の基盤、活動の基盤が変わって、新しい決意をもって行動を開始する時、いつも古い靴を捨てて新しい靴を履いた。
 信次先生の昇天によって、新しい局面を開いてゆかなければならないのである。その新しい局面を開く責任が自分にかかっているのを感じ、新しい決意を秘めて、地下鉄の浅草駅近くに靴を買いに行った。新しい靴を履いて帰って来て間もなく、信次先生は昇天された。



偉大なる出家

 
高橋信次先生昇天される

 昭和五十一年六月二十五日、信次先生は、自ら予言された通り、四十八歳で亡くなられた。直接の死因は、過度の過労からくる肝臓と膵臓の悪化にあった。
 天はこの世に、三億六千年前、七大天使とともに飛来した、エル・ランティ「高橋信次」を遣わした。モーゼ・釈迦・イエスを分身に持って、人類に正法神理を伝えることを使命とした高橋信次先生は、四十八歳にして昇天された。
 
「正法はアメリカに渡り、アメリカで広がった正法が日本に帰って来て、そうして日本中が正法になる。今世紀末には全世界の二十%が正法に帰依する」と、予言された。
 昇天される一年前くらいから、「今日は何を話しましょうか」と、伝えるべきすべての神理を説き終わって昇天された。「もはや、天上界から手を打たねばならなくなった」と世界情勢を睨み、地上ユートピアの建設に思いを馳せ、昇天された。信次先生は、四百六十余件の特許権を有する超一流の科学者でもあった。

 高橋信次先生は、宇宙の神理、正法の流布拡大の行く末を楽しみ、天上界より見守っていられる。まさしく「光は東方より」である。



 【 渡辺泰男氏の話 】
 私が会社で執務していると、午後二時頃、GLA本部から電話が来て、「本日午前十一時二十八分、高橋先生が亡くなられた」というのである。明後日から和歌山の白浜で関西地区の研修会があるので、それに出席してくれないかというのであった。(中略)
私は五階に安置されていた先生のご遺体に最後のお別れをさせていただいた。安らかに目を閉じていらっしゃる先生のお姿を拝しながら、お釈迦様の涅槃とは、このことをいっていられるのだと思った。



 【高橋佳子氏 「回想の父」・・・真創世記・地獄篇より引用】
 父は、もう自分の肉体に自信がないというのです。父の咽喉を食事が通らなくなりました。父は力の限りを振り絞って公演を続け、最後の本にする原稿を書き続けました。父はこの本は世界を動かすものとなるだろうと、いい続けていました。異様に腫れ上がって、食事もできない不自由な手がペンを執りつづけたのです。(中略)
約束が守れないと知った父は、関西の講演会場の方に向かって土下座しました。
「行けなくて皆さん申し訳ありません」
涙をボロボロ流して詫びるのです。
六月十八日、死の一週間前、一人では動けなくなった父は、自宅から浅草の八起ビルへ移りました。死の三日前になって、父は漸(ようや)く布団を敷いて体を横にし、「ああ、やっとオレも病人らしくなったなあ」といいました。
脈拍が乱れはじめた時、あと六時間だけ生きていて頂戴と哀願しました。全てが正常に戻り、父は正確に六時間生きてくれました。そして心臓が停止しました。そのとたん、私は危篤の時の父と同じ状態になりました。死と同時に肉体を離れた父が、私に身体の中に入ったのでした。その夜から、父は私の身体を借りて語り始めました。私の記憶はないのですが、完全に父の口調で母と語り合い、別れを告げたといいます。



 信次先生の意識による最後の霊的通信

信次先生の意識が、完全に肉体を離れようとする時、その意識が、佳子氏の肉体を通して、通信してきた。

「あなた達は、自分の使命を果たしなさい。どのようなことがあっても、心を動かしてはいけません。私があなた達の心の中に生き続けていることを知りなさい。私の地上の生命は間もなく終わります。しかし悲しんではいけません。自分の心の中にしっかりと法灯をともしていきなさい。これからはあなた達の本当の使命を果たす時です。あなた達は、自分の心をつくりなさい。自分の心の中のさまざまな誤りを正し、真実の自分をつくり、そしてその愛を広めてゆくのです。これが私のあなた方への最後の言葉です」

 肉体を去りつつある高橋先生の霊が、直ちに自分の娘に乗り憑って、人生の肉体の最後の思いを、後々の人々に伝えるというこのような現象は、歴史上、未だかつてあったことのなかった稀有な現象である。



 偉大なる出家

 私は、信次先生の昇天について「偉大なる出家」と題し、次のような文章を書いた。

 キリストの復活と同じような奇跡が起こることを念じ続けたが、私達の祈りは空しかった。高橋先生の肉体はその酷使によって、肉体生理の限界を超えて修復不可能になっていた。
私は、そこに如来の慈悲に溢れた崇高な死を見た。自分の肉体のひと呼吸までをも衆生のために捧げ尽くされたのであった。自らのためには生きられなかったのである。求める人があれば、すでに限界を超えていた肉体を酷使して「法」を説きに行かれたのである。
今から二千五百年前、インドの時、釈尊は二十九歳で出家された。そして、八十歳になられて、生まれ故郷のカピラへ帰られる途中、クシナガラで涅槃に入られた。
私はなぜ今回、高橋先生が死の一週間前に大森の自宅を出られたのかを考えた。
その時、私に頭にひらめいたのは、「これが出家だ」ということであった。
「偉大なる出家だ」
私がなぜ大森の自宅を出られたのか、考え始めて一分としないうちに、天からの声を聞いた。天からの声を聞いたとたん、高橋先生の肉体は黄金色に輝いて、瞬間にしてその黄金色の肉体は消え、そこには普通の人と変わらない姿があった。(中略)
そうだとするならば、なぜ高橋先生はいよいよという時になって自宅を出られたのであろうか。私はそこに「偉大なる出家」をみたのである。
我々はこの地上を去る時、金や物や地位、名誉、そして、人に対しても、たとえ血族の者に対しても、執着してはならないのである。高橋先生の慈悲は、全人類にあまねく及ぶのであって、家族だけのものではない。高橋先生が大森の自宅で亡くなられるということになると、それは高橋家という一族の中の一人の死という印象が強くなって、衆生大衆の者の悲しみとはなりにくい。「正法」までもが高橋家のものとして私物化される恐れがある。
高橋先生その人も、高橋先生が説かれた「正法」も、高橋家の私物としてはならないのである。

「自分は“高橋”という一族に属する人間ではない。わが肉体も、わが魂も、すべては全人類のものである」と、高橋先生は考えられたのである。高橋先生は「偉大なる出家」により、正法は親子夫婦などの血縁のものにしてはならない、血縁はこの地上に肉体を持つ時の手続きに過ぎず、血縁を超越して、血縁に捉われずに正見(正しく見ること)を教えられたのである。



村上宥快和尚の話

 私は次の述べることを書くべきかどうか迷った。しかし、後世の人々の正しい判断を求めるためには書くべきであると思った。

 信次先生昇天の報に駆けつけて来た観音寺の村上宥快和尚は、信次先生の臨終を悲しみながら、一栄夫人を睨みつけて怒って私にいった。
「あの一栄の馬鹿野郎が・・・」

 しばらくして興奮を静めて語った。
そのことを村上和尚から聞いたのは私一人だったであろう。
しかし、他にも聞いた人もあるかもしれない。
その村上和尚も死んでしまった今、私は村上和尚の霊にことわりながら書く。

村上和尚の話とは以下のようなことである。

 電話が来た。最初は信次先生とはわからなかった。
「高橋です」といわれるのでびっくりした。
「和尚さん、今度はもうダメなようです」といわれるので、夫婦で大森の自宅へ行った。
そうしたら、油じみて薄くなった布団に寝ていられたので、早速、奥さんに新しい布団をつくらせて届けた。
信次先生が昇天され、ご遺体が八起ビルから大森の自宅へ移された。
お通夜に行ってみたら、
「せっかく持っていった布団は敷かずに押入れに入れたままにしてあって、先生のご遺体はやはり薄いせんべいふとんに寝かされてありました」
と村上和尚は激していわれた。

村上和尚は、私に会うとそのことをいって
「一栄氏を反省させなければ・・・」といっていたが、一栄氏が反省しないうちに村上和尚は亡くなってしまった。



信次先生昇天直後の混乱

心を一つにするということ


 七月十日、東京・青山斎場で信次先生の葬儀が行われた。参列者は約六千人に上った。
 祭壇中央には、剣道衣姿の全身像が大きく掲げられていた。この写真は、昭和四十八年九月、長野県奥志賀高原の特別研修会の時に写されたものである。

 本葬が終わって、先生のご遺骨のお供をして大森の自宅へ行った。一栄先生が「これからよろしくお願いします」といわれた時に、高橋先生の霊が佳子さんに出られて、

「あなた達は、今、私が説いた正法をどのようにして伝えてゆこうかと、心を一つにしている。その心を忘れてはならない。絶対に分裂することがあってはならない。なぜ私が生きていた時に、そのように心を一つにしてくれなかったのだ」
 といわれた。

みんな厳粛な気持ちで聞いて、恐れ入ったのであった。

 私は高橋先生が、なぜ「私を信ぜよ」とこれまでいわれないのか不思議に思っていた。ところが昭和五十一年になってから、「私を信ぜよ。私は光であり、法である」といわれるようになりびっくりしたのである。
それは、今日のこの日を迎えなければならないことになっていたからなのだ、ということを知ることであった。

そのあと八起ビルで「今後のGLAをどのようにしてゆくか」という協議が行われた。
私が中心になり、長老会議を開き、当時大学生であった佳子氏が卒業したら、一人前の宗教家にするために、外国にでも修行にやり、会長は一栄先生にしてやってゆくということになった。

 一栄氏は私に、「今後とも、よろしく御指導ください。
今後、あなたも『GLA』誌に書いてください」といわれた。

本葬の翌日の十一日、会議が開かれた。
最高首脳者会議を設定し、一栄氏を補佐してゆくということになった。
首脳者会議のメンバーは、GLA関西本部長・中谷義雄氏、GLA東京本部長・小柴敏雄氏、三方出版社長・堀田和成氏、GLA本部事務局長・高橋武氏、会計担当・佐藤要氏、GLA西日本本部長の私である。

次回の会議は八月十一日、九月十八日とし、九月十八日は追悼講演会を開催すると決定した。


以上 正法と高橋信次師3・・・から抜粋




- 完 -



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附記 《 正法誌88号 1985年12月号
           特輯 如来を呼べ - 運命を修正するには ・・・ より 》

 八月になると一栄会長より手紙が来た。
 「最高指導者会議はなかったことにします。あなたは西日本だけの教化をやって下さい」斯くして最高指導者会議は 一回も開かれないままにつぶれてしまった。

 - 以 上 -





高橋信次先生昇天前後の状況をより詳しく知りたい方は、
【高橋信次師の記録 園頭広周書簡集(下)】
【正法と高橋信次師3】
をお読み下さい。





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正法会及び正法出版社は、著者他界後に法的整理が行われ解散致しました。
   園頭先生のご著書は、今後販売される予定はありません。在庫限りの販売です。





2016.10.16 (日曜日)UP

                                          
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