高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







お釈迦様の説法  


【 八正道 】

 正見-正しく見る
 正思-正しく思う
 正語-正しく語る
 正業-正しく仕事をなす
 正命-正しく生活する
    ・・・(自分を正した生活をし、業(カルマ)の修正を図って行く)
 正進-正しく道に精進する
・・・(人間関係の調和)
 正念-正しく念じる
 正定-正しく反省をする 

(1.正見・正思・正語 ・・・ という順序になっているのは、この順序が想念を具象化する順序であるからである。
 2.正しくとは、神の心を基準とするということである。・・・・・・ 園頭先生解説)






1.八正道とお釈迦様の反省

多くの場合、肉体の眼を通して得た自らの体験と知識は、我欲を土台にした偏見になっている。そのために、人間社会は、諸々の矛盾と撞着をつくり、自然が教える中道の心から離れているのだ。真実が不明のなっている。わからなくなってしまった。国と国との争いについても、そんのモトをただせば欲望である。自国の利益だ。自国の利益が失われる。あるいは、より大きくするために他国を侵略する。そうして、勝ったり、負けたりの繰り返しである。勝ち負けの輪廻は、その渦中から抜け出さないかぎり、永遠に続くだろう。すなわち、苦しみの輪廻は、その苦しみの中に想いが止まるかぎり、果てしなく続いていくものである。
 中道にそった調和を、人が志さないあいだは、真の幸福を摑むことはできない。

 まず人は、
正しく見る目を養うこと。我欲を去った調和ある見解を持つよう努めることであろう。それには、己という立場があっては、正しさを求めることはできまい。正しさの尺度は、男女の別、老若の別、地位、名誉の別、こうした立場を捨て去って、一個の人間として、大自然の己として、そしてその心の目で、ものを見る、相手を見る、現象を眺めることである。
 
調和の基本は、まず何はさておき見ることの正しい評価にあるといえよう。現われた現象の背後には必ずその現象を映し出す原因がなければならないからだ。また、自分に直接関係のある諸問題が派生したときは、まず自分自身の心の姿を見ることが大事だ。肉体の眼を通して外界の動きを正しく見るためには、その眼の奥にある心眼がキレイに磨かれていないと肉眼に映った諸現象もゆがんでしまうからである。各人の心は鏡である。その想念という鏡をたえず掃除しておくことだ。掃除は反省を通して磨かれてゆくであろう。

 「正見」につづいて、
「思う」ことについても中道の尺度は必要だろう。
 
思うことも、自己中心になると人との衝突はさけられまい。思うことは具象化するからである。親愛の心を持って人に接すれば、人もまたそれに応えてくれるだろうし、食べ物も、食器も、家も、着物も、テーブルも、橋も、馬車も、すべて「思う」ことから出発し発明化している。それゆえ、思うことが自己本位に流れると、人と人との調和を崩し、争いの種をまくことになろう。

 
「言葉」にしてもそうだ。
 ヒョウタンから駒が・・・・・という個人の経験的な教訓は、一面の真実を語っている。
相手を見下す言葉、野卑な言葉を使っていると、いつしかその言葉に自分の心までが犯され、相手の心を刺激し、争いの原因をつくる。言葉は言魂であり、生きた波動である。謙虚な言葉、いつくしむ言葉、優しい言葉、勇気ある言葉、思いやりの言葉など、正しく語ることの重要性は、人間が社会生活を営むかぎり、絶対に欠くことのできない要件の一つである。

 ゴーダマは、明と暗の心について、一気にここまで追求してきた。そして正道に入る三つの尺度を発見し、正道の尺度は、これだけだろうかと思った。気持ちをリラックスし、さらに考えをめぐらしてみた。考えると、スーッと浮かんできた。以上三つのほかに「仕事」「生活」「正進」「念」「定」の五つがうかび上ってくる。

 まず
「正業」に考えを進めてみた。「仕事」は、自らの生活を助けると同時に、人々の生活にうるおいをもたらすものである。健康で、快活に仕事が出来るのは、自然の恵みと、人々の協力の賜であろう。正しく仕事をするには、まず感謝の心が大事であろう。そうして、その感謝の心は、報恩という布施の行為となって実を結ぶものであろう。地上の調和は、この「仕事」に対する心構えによって大分ちがってこよう。感謝と報恩を軸として、勇気と努力、それに智慧が三位一体となって働くときに、この地上はよりいっそうの豊かさをましてこよう。

 
「正しい生活」とは、人生の目的と意義を知った生活であろう。人間の生活は、大自然が調和されているように、調和にあるはずだ。助け合い、補い合い、笑いのある生活でなければなるまい。それにはまず己自身の調和をつくってゆく。自分の長所を伸ばし、短所を修正してゆくものだ。自分が円満になれば周囲もまるくなるはずである。自己をみつめる厳しい態度をはずして、正しい生活はあり得ないものだ。

 
「道に精進」とは、親子、兄弟、友人、隣人における人間としての在り方であろう。人間は大自然と人との関係を通して、はじめて自分自身の大きな自覚に到達できるものである。大自然もない、自分以外の人間も存在しないなどと考えるのは愚かなことだ。同時に、自分以外のあらゆる存在は、自己を認識するための材料であり、魂の向上に不可欠なものであろう。親子、友人、隣人の関係を通じて、自己の魂を正しく磨いてゆける現象界は、天が人間に与えてくれた慈悲でなければならない。
 道への精進は、人間の特権であり、神の慈悲である。動物にはみられぬ偉大な要素を持った者が人間であるからだ。


 
「正念」、念は願いである。念のない人生、念のない生活はあり得ない。人は今日より明日を思うから生き甲斐が生まれるのであり、明日のない人生は死を意味しよう。今日に生きるものは強者だが、人間は、死の瞬間まで希望を託して生活していくものだ。その希望が自己本位に傾くと人との調和が崩れ、自分自身も立ってはいられない。念のあり方も調和という中道に適ったものでなければならないし、「正しき念」は無制限に発展する欲望をコントロールし、足ることを知った、人生の目的を自覚した願いでなくてはなるまい。

 ここで念と祈りについて考えてみよう。

 
念も祈りも、ともにエネルギーの働きから生まれる。
 ものを考える、思うことが出来るのは、人間の五体の中に、そうした創造能力を生み出すエネルギーの働きがあるから可能なのである。睡眠中は、こうした能力は働かない。これは、エネルギーの休息であり、同時に、エネルギーの補給のために、人間は、睡眠中に、次元の異なる世界に旅立つからである。
 魂というと、否定するものもあろう。しかし、魂のない人間は一人もいないのだ。
魂とは個性を持った意識をいうのである。睡眠は、魂と肉体との分離であり、このため、グッスリ眠ると鼻をつままれても、地震が起きても、わからないのである。眼がさめるとは、魂が肉体に入ることである。考える、思うことは、肉体がするのではなく、魂を形成しているエネルギーの働きがあるから、可能になってくるのである。
 
念も祈りも、個性を持った魂の働きによって行われる。念は、人間の目的意識を表した働きである。誰々と結婚したい、出世したい、事業をひろげたい、老後の生活を安定させたい、子供が素直に育って欲しい、というように。
 人間である以上、こうした目的意識を持たぬ者は一人もいない。目的意識があるから、文明や文化が育ち、社会生活がエンジョイされてくる。
 ところが人間は、肉体を持つと、肉体にまつわる想念に支配されてくる。自己本位になってくる。これは俺のものだ、人に構っていると生きてゆけないというように。争いのモトは、こうした自己本位の想念、つまり、そうした目的意識を持った念の働きが作用する為に起こってくる。
 
そこで人間の目的は、調和にあるのだし、調和とは、喜びをわかち合うことなのだから、人間の目的意識も、ここに焦点を合わす必要があるのである。
 正念は、こうした調和という尺度を通してなされるものであるし、正念の次元は、それゆえ、非常に高いものになってくる。

 仕事について考えると、仕事そのものは、社会に、従業員に、家庭にたいして、その生活を保障し、うるおいをもたらすものだ。仕事に忠実であることは、正念のあり方に適ってくる。このことは、主義や、主張や、社会制度に関係がない。社会主義であろうと、資本主義であろうと、仕事に忠実に打ち込んでいく態度は、そうした制度とは本来無関係であるからである。
問題は、それによって生み出された利益、収入をどのように使っていくかによって、それぞれの念のあり方がどのようなものであったか、ちがってくる。つまり欲望を満たす自己本位のためだったか、それとも、その利益を家庭に、従業員に、社会に還元する為だったか。
 
足ることを知った念の在り方は、人間は自己本位に流れやすいので、正念を生かす一つの尺度として、必要なことなのである。
 正念の在り方、生かし方は、こうした足ることを知った考え方を踏み台にして、昇華してゆくものである。


 
つぎに祈りについて考えてみると、祈りは感謝の心を表し、その心で生活行為をしていく思念である。
 人間は、一寸先闇の中で生活している。明日がわからない。いつ災難がふりかかり、あるいは喜びごとがあるかも知れない。隣の人が今、どのように生活しているかもわからない。そうした中で、健康で、楽しく、明るく生活できることにたいして感謝する気持ちが湧き上がってきたときに、私たちは祈られずにはいられない気持ちになるものだ。しかし通常は、願い事に終わっている。神社仏閣にいって、こうして欲しい、ああして欲しいと手を合わせる。

 
正しき生活行為、つまり調和に向かって努めているときには、その願いごと、祈りはたいてい叶えられる。正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。この意味から「祈り」は天子との対話であるといえる。奇跡は、こうした「祈り」によって起こるものである。
 人間生活にとって、「祈り」のない生活は考えられないし、独裁者が自分以外の人間のこうした思念を押さえようとしてもおさえることはできない。

 ただこれまでの「祈り」は、我欲のそれに使われ、祈っておればタナボタ式に、なんでも叶えられると思われている。念仏を唱えればうまいことがある。祈っておれば救われるという風に考えられてきた。そんなものではないのである。

 こうみてくると
念は、目的意識であり、創造活動の源泉であり、祈りは、生かされている感謝と報恩の心、進んでは神との対話であるわけである。そうしてそのどちらも、エネルギーという力の波動によって為されていることが明らかになったと思う。

 さて、
「正定」についてゴーダマは考えるのであった。正定の根本は反省であろう。反省は光明世界に住するかけ橋であろう。ねたみ、怒り、そしり、そして諸々の執着から離れるには、反省をおいてほかにはない。反省を積むことによって、心と肉体の調和が生まれ、進んでは己の心と大宇宙の心との合一がはかられよう。反省をせずして、心を空にするとマーラー(魔王)、ヤクシャー(夜叉)アスラー(阿修羅)、ナガー(竜・蛇)に支配され、自分の心を悪魔たちに売り渡してしまうことになる。

 
正定は反省という止観の行為でなければなるまい。
 ゴーダマは三十六年間の人生を、以上の八つの規範に照らして、洗い出してみようと決意するのだった。
 すなわち、
八正道という仏法(正法)に照らして、自分の過去をふりかえることにしたのであった。

 
ゴーダマは、過ぎし日をふりかえってみると、自分が歩いてきたその想念と行為は、自己保存のエゴしか見当たらないことを知ったのであった。そうして、心の遍歴について、中道という仏法(正法)の照明を当てていくと、至るところ、黒雲が渦をまき、正法に適う行為のすくなさに唖然とするのであった。父や義母に対する態度、部下との競争意識、動物愛護にしてもそのほとんどが独りよがりであったり、自己主張の現われであった。これまで六年間の山中での修行にしても、一日でも早く悟りたいという自己の欲望が先に立ち、外見にとらわれたみせかけの修行であった。悟りへの重要な課程は、心の内面に対する反省であり、正法という大自然の摂理に照らしてみて、ものの見方、考え方、とらえ方、そして、それにもとずく行動が、果たして正しいものであるかどうかを、内省することがキメ手になるのであった。そうして、正しくないめんが浮彫されたならば、二度と再び、同じことをくりかえさないように、想念と行為のうえで現わしていくことであった。

 ゴーダマは過去をふりかえり、反省することによって、心の曇りを、一つ一つ払いのけていった。

 
三十六年間の過去をふりかえり、その想念と行為について、黒白をつけてゆくことは、大変なことであった。黒白をつけるには、中道を根本として第三者の立場で自分を眺めなければならない。身びいきがあっては意味を持たない。これでは反省にならないからだ。それだけに、反省が厳正なものであればあるほど、愚かな自分が浮彫されてくる。人に話すこともできない。

 反省して悪いと自認したとしても、その事実を消すことはできない。要はその事実を、これからの人生の課程において、改めてゆく以外にないのである。また、過去のその善悪について、それに執着を持つと、これからの行動が束縛されてくる。本来の自由性がそこなわれてしまう。とくに悪の行為について、
「悪かった・・・・・・」
と認めたまではいいが、それにとらわれると暗い想念をつくりだしてしまう。この点も中道の心が大事である。過去の全体験は、魂の修行の一過程であるからである。反省の功徳は反省後の中道の実践にかかっている。功徳は心身の調和という姿で現れてくる。

 ゴーダマは三十六年の過去を反省し、開眼する。そうして開眼後の実践によって、開眼の領域とその内容を、いっそう充実したものにしてゆくのである。





2.お釈迦様の説法  その1  五人の最初の弟子への説法

 そなたたちは片寄りすぎた生活を続けている。ミガダヤの樹木の姿を見るがよい。幹が太ければ、その根も広く張っているはず。枝は幹から出、小枝は枝を足場に、緑の葉を繁茂させる。美しい花を咲かせる樹木もあろう。もしも、枝が幹より太く、幹より根が小さければどのようになるか。葉が小枝より重ければ小枝は折れてしまう。根と幹、幹と枝、枝と小枝が調和されているから、大木は風雨にさらされても安定している。根を張った幹と枝葉は、中道の心を教えている。人の心もこれと同じだ。心という幹を忘れ、法という根を失って、五官という枝葉の煩悩にふり回されるから、正しい人生を送ることが出来ない。

 私も幼い頃から、中道をはずれた人生を過ごしてきた。権力をカサに、何不自由なく優雅な生活をつづけた。だが、欲望が満たされても、心は安まらなかった。否むしろ、満ち足りた生活がつづくほど、疑問が広がった。場内のクシャトリアと場外の貧しいシュドラー(奴隷)の生活は、あまりにもかけ離れている。同じ人間でありながら、なぜ不平等な階級制度があるのだろう。太陽の光は、階級を越えて、あまねく照らしている。人の世だけが不平等である。なぜだろう。私は、生母の顔を知らない。義母に育てられ、何不自由なく育っても、生みの親でないことを知ってから、生母への追憶は、消えることがなかった。他国との戦い、そして破壊、罪もない者の死。いつ殺されるか知れぬ不安の日々。四季に応じた館はあっても、心の安住はなかった。人間の悟りは、このような環境の中からは得られるものではなかった。カピラを出た六年間は、衣食住に気を使う必要がなく、敵を意識することもない安穏の生活だった。しかし煩悩を滅する厳しい肉体行は、かえって肉体にまつわる執着をつくり出し、正道を悟ることができなかった。カピラの低落な生活も、厳しい肉体行も、ともに正道を自覚することのない修行方法であることを悟ったのだ。

 コスターニアよ、そなたはカピラ・バーストで芸妓の奏でる弦の音を聞いたことがあろう。あの弦の糸を強く締めたらどうなるか、また、弱いとどんな音色になるか知っているか。

 ハ、ハイ ・・・ 強く締めれば切れてしまいます。弱くては調和された音色がでません。

 その通りだ。ではどうすれば良いのだ、それを説明しなさい。

 はい、弦の糸は中程に締めてこそ調和された音色が出ます。

 その通りだ。人生も同じだ、弦の糸のように、強ければ切れてしまうものだ。
厳しい肉体行は、かえって煩悩をつくり出し、一つ間違えば肉体舟はおろか、心は執着の権化に変わってしまう。肉体は人生の乗り舟にしか過ぎない。その船頭さんである心こそ永遠に変わることのない本当の自分自身であるということを忘れ、肉体舟の五官だけに翻弄されて、本当の自分を忘れていたのだ。丸い心の自分を忘れると、うらみ、ねたみ、そしり、怒り、欲望の渦の中に入り、本当の自分自身を見つけ出すことが出来ない。しかしそれがわかれば、苦しみは自分の心と行為がつくり出していたと気づくのだ。生まれたことによって病気をし、老いて、死んでゆく。人生は苦しみといってもいい。人間がこの苦しみから解脱するには、心と行いについて、その両極の生活から離れ、中道の生活を修めることが最も大事なのだ。心を忘れた厳しい肉体行によって煩悩を捨て去ることは、非常にむずかしい。肉体舟の五官は、客観的にあらゆる諸現象をとらえるが、判断は自らの心がする。通常はその判断が、諸現象にとらわれる。このために、思うこと、行うことが、心を忘れた諸現象となって生み出されてゆく。自分に都合が悪ければ、他人に平気で嘘をつく。表面をつくろい、自己保存に明け暮れてしまう。自分の心は自分に忠実だ。自分の心に自分は嘘がつけない。この事実は何人も否定できないし、人間が善なる神の子の証しでもあるのだ。生まれた時は人間は丸い豊かな心だったが、生まれた環境、思想、習慣を経るにしたがい、丸い心に歪みをつくり出してしまう。その結果、心の曇りが光明の安らぎを失い、苦しみをつくり出す。私は安らぎの道を求めて出家し、そなたたちとウルヴェラの森で、厳しい修行を六年もやった。疑問と模索の中にさまよったが、解脱できなかった。少女の布施してくれた一件から、そなたたちは、ゴーダマは堕落した、修行を捨てたと思って、常日頃の不満を爆発させてウルヴェラを去ってしまった。ネランジャラ河を下って行く後姿を私は見送ったが、麻の実やごまの種をとっていたのでは肉体が滅んでしまう。肉体が亡んで何の修行があろう。私は、あの時、決意したのだ。体をつくり、自分をふり返ってみようと。そなたたちと別れた私は、死を覚悟し、ピパラの大木の根元で、三十六年余の自分を反省した。中道という尺度を基準に。その結果は、生と死の執着から離れることができたのだ。そうして、生老病死というものは、一切の苦しみであり、これから解脱するには、心と行いにどのような物差しを持って生活すればよいかということがわかったのだ。

 サロモンたちよ、心を落ち着けて、私の法を聴くがよい。

 
そなたたちは、天国において、自らが両親を選び、肉体舟の縁を結んでこの世に生まれた。生まれた環境も、みんな自らの意思がそれを決めた。だが、この世の生活になれるにしたがって、両親にたいする感謝の心を忘れ、報恩の心をないがしろにしていく。不平不満の人生を送るというのが大半の人生である。ところが、人生における冨、地位、名誉というものは、この世限りで永遠のものではない。それをまず腹に収めることだ。生まれたときが裸なら、死ぬときも裸である。ところがこうした真実を忘れ、貧しい家に生まれると、心まで貧しくなり、反対に、裕福な家庭に生まれると、感謝の心を忘れ、堕落していく。ある者は、それぞれの環境の中から欲望の虜となり、足ることを忘れて、苦しみをつくって行く。哀れというより、人間とは、なんと愚かしきものよ。

 サロモンたちよ、そなたたちは、まずこうした事実に、目覚めなくてはならない。そうして、この苦しみから解脱しなければならない。自らの心を、自らがしばりつけてしまう。その繋縛(けいばく)を解くには、正しい心の物差しを持って、毎日の生活を送ること以外にないのだ。よこしまな考え、行いを捨てることだ。
ミガダヤの自然を見るがよい。山川草木の自然は調和している。生かされるままに生きているではないか。小鳥や動物たちの生活は、一見弱肉強食のように見ているが、よく見ると、彼らは、自分を生かしながら、他を生かしている。虎やハイエナは、腹が満たされれば、他を襲うことはしない。草食動物がふえれば、草木が枯れてしまう。といって草食動物がいないと、草木は育ちにくい。彼らは、自然の条理にしたがって、自然を生かし、自らも生きている。自然は、相互に依存し合いながら、全体を調和させている。動物たちの弱肉強食の姿をとらえて、人間に当てはめようとすると無理が出る。彼らは、そうした姿を通して、全体を生かしているものであるからだ。人間は、たがいに助け合い、自然をも含めて、より高い調和をめざすものである。ところが、欲望の渦中に自らを置き、争うために生きている。虎同士で殺し合いをするだろうか。よくよく考えなければならない。私の法は、大自然の万生万物が、相互に関係し合い、そうして、全体を安定させているように、まず、自己保存、自我我欲の心と行いを捨て、人類は皆兄弟だという心境になることである。そうして、社会人類に奉仕することだ。苦と思わず、実践することだ。苦と思える自分があっては、実践は覚束(おぼつか)ない。そこで苦と思えない自分をつくることが先決であり、自己の確立が大事な要件になってくる。その要件を満たすには、八つの条理を、生活の基礎におき、物差しにして、自分自身の心と行いを整えることだ。
 
正しく見ること
 正しく語ること

 
正しくとは、片寄りのない中道をいう。相手のいうこと、そして自分の見方、見解に偏見がないかどうか。人間はえてして、自己中心となり、他人を傷つけ、自分の心にも傷をつけてしまう。不利なことであっても、常に第三者の立場に立って、正しい判断と、正しい言葉を忘れてはならない。
 
正しく思うこと
 正しく念ずること

 五官を通して私達の心の中に生ずる現象、つまり思う、考えることについても、偏らせてはいけない。
思うことは「もの」をつくり出す原動力であり、創造の源であるからだ。心の中で不調和なことを思い、そうして念じて行くと、やがてその不調和を人々に及ぼし、自分にかえってくる。自己の利益だけを思ったり、相手の不幸を決して念ずるようなことがあってはならない。常に円満な、中道の心を持ち、怒り、そしり、ねたみ、うらみ、ぐちることなく、足ることを知った心の状態を心掛ければ、心は光明に満たされ、安らぎの境地に至ることができる。
 
正しく仕事をすること
 
自ら選び、与えられたその職業は、それはそのまま天職であり、その仕事を通して、人生を学習してゆく。仕事、職業は、人生経験を豊かにする新しい学習の場であることを忘れてはならない。職業は、人々が生きて行く上の相互依存の大事な場であり、したがって、健康で働けることに感謝しなければならない。感謝は報恩となって実を結ぶ。百姓たちが野良に出て精を出し、収穫を得ることによって家計が保たれる。報恩とは余ったものを人々に布施することだ。困っている人々を見て、みぬふりをし、自己保存に耽る心は、自らが苦しみの種を蒔いていることになる。仕事といっても、他に害を及ぼす仕事は正しいとはいえまい。
 
正しく生きること 
 正しく道に精進すること
 正しく定に入ること

 片寄りのない人生を歩いているか、いないか。人としての道を外していないかどうか。
瞑想という反省を通して、心の曇りを晴らした生活が大事なのである。私は、三十六年間の人生において、思ったこと、行ったことの一つ一つを反省し、心の曇りをとり除き、一切の執着から離れることが出来た。安らぎの境地は、こうして得られた。そなたたちも今から、今までの人生体験の善悪を反省し、八正道にそむいた想念行為があったならば、心から神に詫び、同じ間違いを犯さないようにすることだ。反省は、盲目の人生航路を修行する人間に与えられている神の偉大な慈悲なのだ。動物たちに反省の能力のないことをみてもわかるだろう。


 
人間は誰もメクラだ。過失を犯しやすい。他人の心がわかれば、調和への道も開かれよう。しかし、ほとんどの人は、自己保存の心に束縛されて、他人も、自分も見失ってしまう。不調和はそこから生まれ、苦しみ、悲しみの原因をつくってしまうことを悟るがよかろう。心の正しい基準を知って、良くその原因を追究し、反省することが大事なのだ。過失は素直に認めて修正し、同じ過失を犯さないような生活が、自らの心を豊かにし、苦しみの人生から脱皮することが出来るのだ。心を正すには、即座に実践することが大事であって、明日があるという考えを捨てることだ。
 人生は無常であり、死はいつ襲ってくるかわからない。今日のことは今日のうちになし、常に心の整理をして、一日生きられたことに感謝することがもっとも大事だ。一日一生は心と行いが充実した毎日でなくてはならないだろう。
 禅定は、自らの心と行為の一切を、正道によってよく反省し、心の中の曇りを除くことである。心に曇りがあれば、光明への安らぎの心をみずからが閉ざしていることになるからだ。曇った心は不調和な暗い世界に通じ、その状態で禅譲すると、心はマラー、キンナラ、マゴラガ、アスラーのような地獄霊に支配され、心の自由を失ってしまう。
 心の中にこだわりをつくってはならない。こだわりは、やがて、正しい自分の心と行いの自覚から遠ざかり、一生を棒にふってしまうことになる。
 執着から離れ、常に心が安らぎに満たされておれば、禅定の心はそのまま実在の世界に住し、三昧の喜びにひたることが出来るものである。今日から八つの正道を、心の物差しとして、精進するがよかろう。





3.お釈迦様の説法  その2  留守中の
弟子達へ

 サロモン達よ、私は近々ウルヴェラに行く。しばらく皆と別れるが、その間に、バラモン種のサロモン、サマナー達が、そなた達にむずかしい議論を持ちかけて来ても、決して論争に巻き込まれてはならない。
 
相手の感情を高ぶらせれば、そなた達もまた心の中に歪みをつくり出し、相手を屈服させようと思うだろう。それはかえって自らが苦しみの原因をつくることになる。絶対にこちらから論争をしかけてはならない。
 どんなことを相手が言おうと忍辱の心を忘れないことだ。しかしその忍辱によって、心の中にわだかまりをつくっては、なおいけない。わだかまりは、心の中に怒りの炎を燃やし、苦しみの原因をつくるからだ。見ても、聞いても、心の中に毒の種を蒔かぬことだ。必要なことだけを心に止め、自らの修行に役立たせることである。
 大木は決して風に逆らうことはないだろう。自然のままに生きているから、倒れることがないのだ。中道の心は、大木に似て、自然に逆らわないことだ。自然が与えた、あるがままの心で、感謝と報恩の行為を為していくことだ。
 中道を根本として、お互いの欠点を優しく教え、互いに仕事を扶け合う。仕事を手伝うごとに、お返しを求めてはならない。期待や報奨を求めることは我欲の温床をつくっていく。といって、手助けしてもらった者は、感謝の心を忘れず、感謝の心を具体的に示すことが報恩というものだ。太陽や自然は、私達の生存に、無報酬でつくしてくれる。私達の感謝と報恩の行為は、多くの衆生のために尽くすことである。衆生の先達として、その苦しみ悲しみから開放することが、私達サロモンに与えられた役目である。
 私は、これよりウルヴェラにおもむくが、留守中はしっかりと修行し、より心を浄化し、自分をつくって欲しい。





4.お釈迦様の説法  その3  弟子達への説法-火は燃ゆる

 諸々のサロモンたちよ---。
そなた達の眼は燃えている。
燃えている眼で物を正しく見ようとしても見ることはできない。
欲望に心が移り、足ることを忘れた心があるかぎり、正しきものの判断は出来ないし、安らぎの境地も得られない。

 そなた達の耳は燃えている。
燃えている耳で、正しくものを聞くことが出来るであろうか、それは出来ない。
ひとりよがりの増長慢がそうした耳をつくり出し、他人の言うことが聞こえないのである。
心の高ぶりを捨てねば、心の平和は得られぬであろう。


 そなた達の口は燃えている。
口角泡を飛ばし、感情をむき出しにして、相手の心を忘れて論争をする。論争は感情を刺激し、対立を生み闘争に発展する。
何処に慈悲の心があるのか。語る言葉に慈悲があれば、相手の心を燃やすことはないであろう。
言葉によって、相手に意思が正しく伝わってこそ、燃えている言葉も静まるというものである。

 味覚が燃えれば、美食に耽り、強欲の心が燃えてこよう。

その火が燃え、とどまることを知らねば、欲望の渦の中に身を沈めることになろう。

 臭いも亦同じだ。
心の中を燃やす元凶にもなろう。
体の感触に心が燃えると、情欲のとりことなり、自らの本性を失ってしまうだろう。

 このように五官は心を燃えさせ、心はますます五官にふり回されて行く。
苦しみはこうして、つくり出されていくものだ。


 火を拝んで、来世の幸福を望んでも、
正しい心を失えば、苦しみから解脱することは出来ない。

生老病死は、他力の苦行では決して解放されることはないのだ。常に不安と不信が同居し、疑問があっても明らかにできず、永い習慣に心まで柔軟さを失ってゆくものだ。

 燃える心を静めるためには、心と行いによる八つの正しい道を生かすことである。生活の物差しとすることである。そうして、燃えてる原因を除くことが大事なのだ。原因を除かぬかぎり、また残り火によって、燃え出すであろう。心は常に、丸く、大きく、豊かでなければならない。
 燃えれば、煙も出るだろうし、その煙は心を蔽い、神の慈悲の光をさえぎってしまうだろう。正しい八つの道を尺度として、反省の中から、その残り火さえも根絶させなければならないのだ。その時に、人の心は慈悲の光に埋まり、苦しみから解脱し、光明という世界がひらけてくる。五官にとらわれた肉の身のはかなさ、無意味さ、人間のなんたるかを知り、安らぎの心を悟るのだ。

 光明の世界を、実在界という。その実在界は、やがてそなたたちの帰るべき安住の地なのだ。本当の世界なのだ。肉体は無常であり、人生行路の乗り舟にしかすぎぬ。今、そなた達の持っている肉体と同居している実在界への乗り舟は、眼に見えぬが厳として存在しているのだ。


 
見えない世界に帰る心と舟は、今、そなた達と共にあるのだ。実在の世界と、現象の世界とを永遠に輪廻して、今、そなた達は私の説法を耳にしていることを知るべきである。そなた達の肉体舟はその環境に適応されて、縁により約束されて現れて来ているということを知るがよかろう。

 ウルヴェラの森からラジャグリハに来るためには、道を歩いてくる者、馬の背にまたがって来る者、象に乗って来る者、さまざまであったろう。乗り物は馬でも象でも、ラジャグリハに来た当人自身は変わらない筈である。
 人生におけるそなた達の肉体も、馬や象の乗り物なのだ。人生航路に適応した乗り舟なのだ。その乗り舟に執着を持ってはならない。生老病死の悩み苦しみは、そうした乗り舟に執着を持つためにおこるのである。正しい八つの道こそ、生老病死から解脱する道なのである。

 何十年も信じて来た信仰をすべて捨て去り、私の弟子となったカシャパー兄弟は立派である。勇気あるサロモンだ。

 自分の欠点を、勇気と智恵と努力によって修正した者こそ、燃える心の炎を消しとめたサロモンといえよう。
旧来の陋習を破り、正道に励む者に神は惜しみなく光を与えてくれるだろう。





5.お釈迦様の説法  その4  ビンビサラ王への説法

 
ラージャンよ、私達の肉体は人生行路の乗り舟であり、心という船頭さんがあってこそ、自分の存在を知るものです。もし船頭さんである心がないとしたならば、思い煩うことも、苦楽の経験すらありません。その心があるために、いろいろな思いが生じ、欲望が生まれて来るものです。また肉体の五官を通して、生まれた環境、教育、思想、習慣の中で、丸い豊かな心に歪みをつくり、苦しみの因縁をつくり出してしまうものです。肉体というものは本来、苦楽の人生を渡るための船であり、それをあやつる各人の心こそ、永遠不滅の自分であり、五官でとらえられる一切の諸現象は心を豊かにするための媒体にすぎないのです。にも拘らず、その現象に振り回されて、本当の自分を失って苦の因をつくり出しているということを知らなくてはなりません。良き縁により良き原因をつくり、良き果を得る道を実践することが安らぎの心を得る道だといえましょう。そのためには、苦しみの因を断ち生と死を解脱する以外にありません。

 解脱の道は、まずもって、相手の言われることを正しく聴くことです。自己を中心としていては正しく聴くことが出来ません。
相手の言葉で怒りの心が生じたり、へつらい、うらみ、ねたみ、そしりの心が出たりすることは、自己中心の心で聴いているために起こるのであり、苦しみの因となるでしょう。

 次に、正しく語ることです。言葉によって他人を傷つけますと、その傷ついた心が自分にかえって来ます。また、自分の言葉によって誤解の因をつくると、自分自身の心に苦しみをつくることになります。
言葉は正しく、相手の心に調和を与えるように心掛けることが大事です。

 心を外に向ければ欲望をつくり、苦しみの原因となり、心を内に向ければ正しくものが見られ、苦しみをつくりません。解脱はこうした正しき心の物差しによって得られて行くものであり、人の世の調和が築かれてゆきます。





6.お釈迦様の説法  その5  縁生の弟子達

 人は誰しも転生輪廻の体験をつみ、永遠の生命だということを知るがよかろう。実在の意識界と物質的現象界を転生し、今、人々はここに在る。心を失った現象界の中で、人々は自ら選んだその環境で自らの魂の新しい体験を学んでいる。人は皆盲目の人生を送りながらも、その体験を通して、豊かな心と調和された社会をつくる内在された目的を持って毎日をすごしているが、ブッタは、その内在された目的をひき出すべく、盲目の衆生に光明を与えるために生まれて来たのだ。

 サロモン達よ、そなた達は、小さな気持ちで、早くから弟子入りした者もあるであろう。しかし転生の過程において既に広く大きく、豊かな心を持っているサロモン達も生まれているのだ。過去世を通して、ブッタの縁にふれ、道を学び、今世では他の弟子達より遅れて、ブッタの下にたどりつく者もあろう。しかし今世のそうした早い遅いによって、その人達の魂の大きさを推し量ることは出来ないのだ。

 ウパテッサ、コリータの両人は、ブッタの前世において、肉体を持った時、すでにボサッターとしての悟りを得た弟子達である。
サロモン達よ、今世において、早くからブッタの縁にふれた者は、法を心と行いの物差しとして日々の修行に精進したならば、その事実を自ら悟ることが出来るのだ。そなた達は心の内に、過去の転生の体験を記憶し、偉大なる智慧の宝庫を持っている。
 その扉は誰が開くか。ほかならぬそなた達自身だ。宝庫の扉は法の実践によって開くことが出来る。
 そなた達の心の王国の主人公は他人ではなく、そなた達自身である。
 マーハー・パニャー・パラー・ミター(偉大なる内在された智慧に到達する)の境地になるには、一切の執着を断って、調和された安らぎの境地、彼岸に到達することを目標としなくてはならない。

 サロモン達よ。

 ブッタの弟子として、今世だけの縁生をもって、先輩、後輩の不平不満をいだいてはならない。
不平や不満は、自己の欲望が満たされないために起こるのである。欲望は心に歪みをつくり、人々に毒を与え、自らをして苦悩の種をまくことになる。ブッタの弟子は、このような小さな心を持ってはならない。今世において、弟子として縁生に早くめぐり合えた者達は、後輩に対してより謙虚な心と行為を持って当たり、自己の確立を図らなければならない。

 諸々のサロモン達よ。

 
ブッタは過去六仏の転生を通して、その法灯を、諸々の衆生の心に灯し、救済して来た。そなた達は、ブッタの過去六仏の何れかの縁によって、現世の弟子となったのだ。ウパテッサ、コリータは、ブッタの過去六仏の縁生をことごとく体験した。今世ではあらゆる師を求めて迷い、仏の法を求めてようやく現在のブッタの縁にたどりついたのだ。そのため、ウパテッサからも、コリータからも、五体から出ている光明は、恰もヒマラヤの山頂から転がって来た雪の塊のように、大きな後光となって満たされている。そなた達も、法をよりどころとして生活するならば、自ら、その光明を見ることが出来るだろう。

 ブッタがここまで語ると、アサジが立ち上がって、
 ブッター、私がウパテッサと初めてお会いした時の体験ですが、その時は頭の周囲に丸い黄金色の淡い光を見ましたが、今のそれは、実に大きく、体全体を包んでいます。前と今では、どうしてその光明の大きさに相違があるのでしょうか。

 ブッタはアサジの顔を見つめ微笑した。

 アサジよ、その通りだ。
雨季の時節はマガダの空は雲に覆われ、太陽が見えないだろう。また、雨季が去っても度々雲に蔽われて太陽の光がさえぎられることもあろう。
 
ブッタの法をよりどころとして、思うこと、行うことを正し、執着から離れれば、心の曇りは除かれ、反省、禅定の中身によって、光明が異なってくるものだ。太陽の光は総て平等であり、雲の上は光で満ちている。神仏の光もすべて平等である。人びとの心の調和度によって、その人びとの後光に相違が出てくるといえよう。

 ウパテッサ、コリータは既にブッタの法に触れて修行に精進しているため、心の曇りが除かれているのだ。やがて、アラハンとなり、更に、修行を積みボサッターの境地に達するであろう。





7.お釈迦様の説法  その6  精舎内の説法

 法を頼りとした遊行によって、調和された生活を送るサロモンたちに接し、わたしは本当に生きがいを感じる。ますます、正道に励んで欲しい。だが、この中には、旧来の厳しい肉体行を捨てがたく、法を頭だけで理解し、心の実体を忘れ、真の安らぎを得ることなく、心に、重荷を持ったまま、苦悩している者もいる。
わたしの説く法は、人の道である。その法を、そなたたちの思うこと行うことの中に実践したときに、心の曇りは晴れ、仏の慈悲による光明が真の安らぎとなり、心の世界を調和させてゆく。

 そなたたちのアートマン(自我)の中には、善なる我と、偽りの我が存在している。一切の苦悩は偽りの我によってつくり出されている。この偽りの我は、一見、自己の欲望を満たしてくれるかのように見えるが、じつは、大きな執着の荷物となって、苦悩をつくっているのである。苦悩の原因、苦悩の根を除かないかぎり、人生の苦悩からのがれることはできない。
 そのためには、自己保存の欲望をつくり出している偽りの我を支配し、自分に嘘のつけない善我なる仏性に目覚めることである。

 サロモンたちよ。雨に打たれている草木を見よ。まっすぐにのびている竹をよく見ることだ。彼らは自然の風雨によく耐えて、その中で立派に成長している。それは自然にさからわないからである。同時に、草木は、しっかりとした根を地中深く張っているので、どんな風雨にも耐えられるのだ。そればかりか、彼らは、互いに譲り合い、助け合って生きている。この事実を、しっかりと見ることである。

 そなたたちも、法を悟って生活したならば、五官煩悩にふりまわされず、いかなる諸現象も正しく理解し、心の中に苦悩の毒をつくり出すことはないであろう。不調和ないかなる物を見ようと、聞こうとも、法に照らして思念すれば、心を動かすことも、不調和な行動に流されることもなくなるであろう。

 
不退転の心は、法の実践によってつくり出されてゆくことを知るがよかろう。

 そのためには、
生活の基準は、五官ではなく、心に中心をおくことである。すべてのものは、心が根本であり、不調和な中道から外れた心の状態で物を言ったり、生活を続けてゆくと、常に苦しみと同居し、苦悩という荷物を肩からおろすことができない。
 そのような人生は、坂道を重い荷物を背負って上るようなものである。
 しかし、中道の心がわかり、善我の心でものを思い、生活をしてゆくと、心の中は安らぎ、その喜びは自分と一体となり、自分の影が自分から離れないように、光と一体となり、光明の生活となる。

 また、そなたたちは、他人から暴力をふるわれたり、ののしられたり、うらまれたりすると、その言動にとらわれ、心はイライラし、怒りをいだいてしまうが、これでは怒りから、いつまでも解放されることはない。
 
許すことも慈悲であり、怒りから解放される仏の光である。怒りの原因をよく知って、心の中に怒りの毒を食べてはならない。怒りは怒りによって報いるものではない。そうしたところで、心の中の怒りは決して消えるものではない。

 外は、今、しきりと雨が降っている。もし、この家の屋根のふき方が悪かったとしたら、雨漏りがして、家の用をなさないことになる。 それと同じように、
法をよく修めないと、心にむさぼりが生じてきて、堕落の道におちて行くことになる。
 智慧ある者は、煩悩の炎に心を燃やすことなく、法を柱に生きてゆくだろう。勇気と努力、そして智慧によって、心の中の偽りの我を支配し、善我なる己に嘘のつけない正しい心を持って生活したならば、やがて、輝かしい悟りの境地に到達することができるであろう。


 人間は足ることを知ったとき、偉大なる財宝を手に入れることができよう。
 偉大なる財宝とは、そなたたちが転生の過程において体験した人生の智慧であり、安らぎの泉である。その扉を開くことである。一切の迷妄が、その扉を開くことによって、明らかにされる。
 人はそのとき、ゆるぎない永遠の生命を悟り、眼前に映る現象、物質は無常であり、その無常の姿は、永遠の生命を運んでくれる綾なす糸のようなものだと悟ることができよう。
 
欲望にほんろうされる生活を(いと)い、正しき道を歩もうとする者は、やがては、智慧ある財宝の扉を開き、悟りの境地に至ることであろう。
 弓を作る者は、同時にまっすぐな矢をこしらえる。弓と矢はこうしてはじめて、その力を発揮するが、
そなたたちの生活も、心をまっすぐに正してこそ、はじめて、確立することができる。
 だが、人の心は常に欲望を満たそうとする。調和の心を維持することは非常にむずかしいものである。しかし、むずかしいからといって、怒りや、むさぼりに心を許したならば、心はいつまでも安らぎを得ることはできない。

 美辞麗句をならべ、実行の伴わない者は、色あせた香りのない花に似ている。蜜のない色あせた花には、蝶も、蜜蜂も、寄りつかぬであろう。花はいきいきと咲いてこそ、蝶も蜜蜂も寄ってきて、ともに生き長らえることができる。
実行こそが、その人を生かし、その周囲を明るく栄えさせるものである。

 そなたたちは、己の美しい丸い心を輝かせることによって、人びとに法の灯を与えることである。

 ウパラー(蓮の華)やヤンダン、タガラーバシキツのような花は美しく香りもゆたかであるが、法の香りはもっと素晴らしく、気高く、崇高なものである。そうした香りを発散させる自分をつくって欲しい。

 
遊行中に寝苦しい夜を迎えた体験者もあることであろう。眠れぬ夜は長く感じるものだ。また、それと同じように、彼岸に渡り切っていない人びとにとっては、その毎日は、険しい山道を登るように苦しく感じられるものである。正しい法を知らない者は、盲目の人生を歩いているので、苦悩と迷いを長く感ずるものなのである。

 遊行の道を歩む者は、自分より優れた者か、あるいは同等の者たちと行くがよかろう。なぜならば、悪友とともにあると、そなたたちの心まで荒らされ、不調和な道を歩むことになりやすいからである。悪友は、猛獣よりも恐ろしいことを知らなくてはならない。野にいる猛獣はそなたたちの肉体を滅ぼしてしまうかもしれないが、しかし、心まで滅ぼすことはできない。だが、悪友は、その大事な心まで毒してしまう。注意すべきは悪友であり、悪友にこそ正しく接しなければならない。


 どんなにかわいい我が子であっても、最愛の妻であっても、そしてまた、恵まれた財産を持っていようとも、足ることを忘れ、欲望のままにその身が流されると、苦しみはつきることはない。

 この肉体は、自分のものであって自分のものではない。時が経てば、この地上に置いてゆくしかないのである。いわんや、かわいい子どもも、最愛の妻も、ともに自分の所有物ではなく、財産もまた自分のものではない。
 すべて、これらは転生の過程において、縁によって生じたものであって、
それぞれの縁生には、それぞれの使命と目的があることを知らなくてはならないだろう。

 
永遠の所有物とは、そなたたちの生命であり、心である。これ以外に何一つとして、所有物はない。

 自分のかわいい子どもとはいっても、成長するにしたがって、親の考えと異なってくる。当然である。
子どもは子どもの個性を持っており、魂は親と異なるからである。しかし、両親は、子供を育てるためには、あたかも、太陽のように無償の慈愛によって育てて行くだろう。子どもは、生み育ててくれた偉大な両親の慈悲と愛に感謝しなければならない。そこにまた、人の道というものがあるわけであり、それは、生きて行く者の務めというべきであろう。

 
感謝の心は報恩の行為となって実を結ぶ。孝養は、子どもとしての当然の行為であり、それが失われると、人の世は瓦解するしかないであろう。
 社会の中に自分を置いている以上は、より良い社会の調和に奉仕してこそ、法が実践されたことになり、仏国土の道が開かれてゆくことになる。
社会は自己の欲望を満たすための場ではないことを、悟らなくてはならないだろう。
  
万生万物は相互の助け合いによって調和が保たれ、それによって平和と安らぎが生まれてくる。

 智慧ある者は、知識の限界をよく知っている。
愚かな者ほど、知識に酔い、自分を高く見せようとする。

 バラモンの修行者の中には、ヴェーダやウパニシャードの聖典に通じ、知識は豊かであるが、実践がないので、知識の枠から一歩も外に出ることができず、聖典をもて遊ぶ者が多い。哀れというほかはない。

 
真の智慧は、心の中から湧き出ずるパニャー・パラミタ(内在された偉大なる智慧)の境地から生まれてくる。それは、人から借り物のような知識からは、決して生じてはこない。法の実践によって得た安らぎ、感謝、調和の心から湧きでるものである。そなたたちは、知識におぼれてはいけない。知識の枠をいくら広げたからといって、心が豊かになるものではない。むしろ、その反対に、迷いと、不安と、混乱を増すだけである。知識は智慧から生じた現象であって、智慧そのものではないのだ。

 
智慧の湧現は法の実践にある。心の中につくり出された不調和な曇りを除かない限り、無明はいつになっても晴れることはないであろう。
 曇りを除くには、法の物差しにより思念と行為をふりかえり、その間違いを修正することが最も大事である。つまり、反省である。そうして、心の中に曇りをつくらないように、常に正道を歩まなくてはならない。

 正道を歩むとは、煩悩の偽我を支配することである。そなたたちの心の中に本来ある、己に嘘のつけない善我なる心で修行することが、正道を歩む修行者といえよう。


心を外に向けると、遊興な生活におちこむことになる。そこには千仭の谷が待ち構え、苦悩しか与えないだろう。
 悪業は、即座に報いとなって現れることはないが、しかし、山中で焚火をたいた後の灰にかくれた火種のように、風によって、いつ山野を焼きつくしてしまうかしれないものだ。
 また、愚かな者たちは、常に地位や名誉の欲望に苦しみ、物質、財宝、情欲への執着心のため、自らを苦しめている。サロモンは名聞に耳を傾けてはなるまい。利他の行為を忘れることなく、自己保存の欲望を捨て、常に安らぎの生活の中に住すべきである。
 法の水を飲んだものものたちは、心が洗われているから、物にこだわることがなく、平和で安らいでいよう。

 グリドラクターの岩場を見よ。

 あの岩場はどんな風にもゆらぐことはないであろう。自然の中に安住しているので、物に動かされることがないからだ。
 修行者もこれと同じように、
そしりや怒り、あるいはほめられても心を動かしてはならないのだ。一方に心が揺れると、もう一方にも心が働いてくるからである。

 いかなる言動にたいしても、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事を為し、正しく生活し、正しく道に精進し、正しく念じ、そうして、常に反省を怠ることなく、心を丸く豊かに保ち、禅定を楽しまなくてはならない。楽に溺れる欲望を捨て、いかなる苦難にあっても、その原因を究明し、原因の根をのぞき、心の中に法灯を燃やしつづけなければなるまい。
しかし、そうした中にあっても、悟りの彼岸に到達する者は少なく、無常な物質世界に執着し、さまようことのなんと多いことか。そなたたちは転生の過程で学んだ偉大な智慧によって、すべての欲望に足ることを悟り、人と争うことなく、あの大空のように、清く澄んだ、広い心でいなければならない。生死の輪廻からは、足ることを知った心によって解脱できよう。

 修行者よ、百万巻の書物より、安らぎの一言の方がすぐれていることを知らなくてはならない。真の救いは言葉ではない。知識でもない。慈悲心にあるからである。また、心の中の偽我に打ち克つことは、戦場で百万の敵に勝つより、すぐれた勝利者であることを銘記すべきである。
なぜなら、大きな堤も蟻の一穴によって崩壊するであろうし、心の苦悩は、心をいやすことによってしか得られないからだ。

 
智慧ある者は、まずこの世の業火から急いで逃げ出さなくてはならない。この世は、怒りと愚痴に満ち、足ることを知らぬ欲望が渦をまいているからだ。そなたたちの心がこの業火に見舞われ、火の粉を浴びると、迷いと苦しみをうけよう。
 
善なる心こそ、そなたたちの主である。その主は永遠にして不滅の自己だ。その自己を失わぬためにも業火から離れることだ。

 安らぎと調和は真に自己を愛する者によって得られよう。自己の喜びは他にも転化しよう。つまり、自己を愛するものは、他を愛することもできるのだ。まず、自分自身を修めなくてはならない。法を依りどころとして、自己を確立することだ。業火の見舞われても、その火を消し去るだけの自分をつくることが先決なのだ。遊行に出て、法の種を蒔いても、心の開拓がおろそかになっていては、あたかも粗悪な大地に種を蒔くのに似て、収穫は実り少ないものとなろう。
 智慧、努力、勇気---。
これこそが自己を確立し、人びとを迷いの淵から彼岸に至らせる唯一のあり方なのだ。
人をアテにしてはならない。
人のせいにしてはならない。
善・悪いずれの結果が現われようとも、その一切は自らの心と行いがつくり出したものであり、他人のせいではないことを悟らなくてはならないだろう。
 
 そなたたちの修行の目的は、自らに克つことであり、他人に勝つことではない。





8.お釈迦様の説法  その7  ブッタの辻説法

 諸々の衆生よ。

 旅人を見よ、旅人は先人のつくられた道を歩んで目的地にゆく。もし先人のつくられた道がなく、山野は草木に蔽われ、道なき道を歩んで目的地に行くとしたら、その苦難はひとしお深いものがあろう。しかし、先人の自らの智慧によって、暗中でも火をかざすことができ、橋がつくられ、歩くのに困らないよう道がつくられた。 人生航路の旅もこれに似て、先人の教えがその苦難をさけさせ、心素直になれば、より豊かな明るい一生を終えることができよう。しかし、それにもかかわらず、人びとの一生は暗闇の中に旅するようなもので、煩悩の中で苦しみ、あえぐことが多い。

 なぜ、先人の光を素直にうけ取らないのだろう。
 なぜ安らぎのある人生を送ろうとしないのだろう。

 人びとは煩悩にほんろうされ、欲望に心を売り渡してしまうからである。さらには、先人の教えが後世に素直に伝わらず、後世の人びとがその教えを曲げてしまうので、ますます光明を失い、方向がわからなくなってしまう。知と意というものは、もともと欲望によって働くもので、心が不在になるとあらゆる方向へ走り出すものなのである。
 動物の中でも知が働くものに猿がいる。猿は小ざかしい知が働くので、これを捕らえるには、その知を利用すればよい。
 丸いツボの一端に紐を結び木の根元にくくりつけ、ツボの中に果物を入れておく。猿はそのツボの中をのぞき、果物を見ると、それを欲しさにツボの中に手を差し入れる。そうして果物を摑む。ツボの入口は狭く小さく、手がやっと入る程なので、果物をつかみ出そうとすると果物をにぎった手が狭いツボの出口にさえぎられ、抜くことができない。猿は果物を離せば、やすやすとツボから手を抜くことができるが、果物欲しさに、それができない。
 こうして猿は欲望に負けて捕らえられてしまうが、
人間の苦しみもこれと同じように、欲望から離れれば、身の破滅を招かずに済むのである。果物は山野にいくらでも()っていよう。しかし、小ざかしい知が働き、欲望に心が働かされるので、このようになってしまう。
 
智慧ある者は、物にとらわれることの愚を悟り、主人である己の心の善我の声をきき、正しく生きるであろう。

 衆生よ---。

 
肉体舟の五官に触れる一切の物は無常なものであり、善我なる己の心のままに生き、多くの人びとに奉仕することだ。その心が行動に移されたとき、人は皆、仏の子となり、調和に満ちた平等の社会が築かれてゆくであろう。
 大自然は私たちに差別なく、生活の条件を平等に与えている。平等でないのは、人びとの心が欲望にほんろうされ、さまざまな垣根や階級をつくっているからである。






9.お釈迦様の説法  その8  今という時に自己を正せ

 サロモンたちよ。そなたたちの修行場は、ベル・ベェナーだけにあるのではない。もしそうだとしたならば、すでにベル・ベェナーへの執着にとらわれているということだ。
そなたたちの行く所、すべてそなたたちの修行場だと心得なければならない。今いるベッサリーの都も、そなたたちの、今という貴重な時間が与えられている修行場だということだ。

 
今という時に、自己を正せ。今という時に自己を正さなければ、先にゆけばゆくほど更に大きなお荷物となって、常に苦悩と同居することになろう。場所によってそなたたちの心が定まらないとしたならば、やがて日は暮れ、一寸先は闇の人生が待っているということを知らなくてはならないだろう。

場所や時間に関係なく、今に生きることが大事だ、ということだ。
明日があるという心を捨てよ。明日があると思うところに、気のゆるみが生じ、放逸な心で今日を過ごす。このような者たちこそ、愚かな人生を送ってしまうことになる。


 そなたたちサロモンは、そのような小さな心であってはならぬ。この大自然すべてが、そなたたちの住家である。そうしたブッタの心の中に住することだ。






10.お釈迦様の説法  その9  コーサラ国での初めての説法

 諸々の衆生よ。

 この大自然の恵みに感謝せよ。
天は雨を降らせ、地を洗い、母なる大地は植物に栄養を与え、美しく自然を飾っている。
この恵まれた大自然の中で衆生は生きているのだ。この大自然の恵みのよって、私たちは生かされているのだ。そしてこの大自然は、何の差別なく、すべてに平等であろう。

 真実のバラモンは、すべてに平等な、普遍的な法を知っているであろう。その法の中には、バラモンもなく、クシャトリヤもなく、ヴェシャーもなく、シュドラーもないのだ。
 ただ、平等な人間だけが存在しているのだ。差別は、職業、地位などによって人間が勝手につくり出しているのだ。仏の教えは、人間の知によって、意によって、変えることの出来ない全人類救済の道だといえよう。
 人は祭のよって救われるのではない。
 
心の中にこそ偉大なる神の慈悲が存在し、心の外には神はないということを知らなくてはならないだろう。

 諸々の衆生よ。

 
そなたたちの心こそ、永遠の自分自身だということを知らなくてはならない。
 その心は、この大自然のすべてが相互関係の大調和の中にあるように、すべてに平等であり、片寄らない中道だということである。

 たとえ貧しい生活をしていても、やはり人間であり、富める生活をしていても、また同じ人間である。
 
生活に貧しきものたちは、いかに貧しかろうとも、心まで貧しくしてはならない。
 貧しいがゆえに、他人の物を盗み取ったり、他人に嘘をついて利を得ようとしてはならない。
 
貧しき生活をしていても、お互いに相助け、相和して、一切に足ることを知って明るい生活をしている人びとこそ、真実に心の富める人びとというのだ。

 富める生活をしていても、他人の存在を認めることなく、偽我のままに自己保存の生活をし、貧しい人々に布施の心もなく、足ることを忘れ去っている人びとこそ、本当の心の貧しい人間だといえよう。


 
諸々の衆生よ。

 
心以外の一切の諸現象は無常である。たとえ何を所有しようとも、それは永遠の所有物とはならないのだ。金銀財宝、すべてが無常だということを知らなくてはならない。この世を去るときには、一切の物を置いて帰らなくてはならない。この無常な物にとらわれて、自らの心を狂わせ苦しんでいるのだ。一切の苦悩は、私たちが生活の中でつくり出しているといえよう。人は盲目なるがゆえに、物におぼれ、情欲に心を失い、自ら苦しみの渦の中であえいでいるのだ。

しかし自ら蒔いた苦しみの種は、自ら刈り取らなくてはならないのだ。そなたたち一人一人の心の世界は、自分が支配者であり、偉大なるラージャン(王)であるということを知らなくてはならない。その責任は重大だといえよう。それゆえに、自らの心の世界に蒔いた種は、他人が刈り取ることは出来ないのだ。
 原因、結果、すべて己自身の責任だということだ。

 諸々の衆生よ。

 毎日の生活を通して、心の中に苦悩の種を蒔くことを止めよ。
 苦悩の種とは、むさぼりの種、怒りの種、そしりの種、ねたみの種、そねみの種、増上慢の種、虚栄の種、足ることを忘れ去った欲望の種、情欲のみにとらわれている不安な種、嫉妬と独占の種。
 諸々の衆生よ。この種は、やがて心の中をおおい、神の光明をさえぎってしまう。一切の苦悩の種だということを知るがよかろう。
今までに蒔き散らしてしまった苦悩の種は、今の苦しみとなって心の中に繁茂している。
 苦悩から解脱するにはその根を除く以外にない。刈り取るだけでは、また新しい芽が生えて、ふたたび苦悩にあえぐことになろう。その根を断つ以外に、苦悩から逃れることは出来ないのだ。

 苦悩の根を除くには実践しかない。正道にそった生活しかないのだ。実践したときに、その実践に従って、安らぎという光明の種が、広い心の世界を満たしてくれるのだ。






11.お釈迦様の説法  その10  パセナティー王への説法

 マーハー・ラージャンよ。
悟りは年齢によるものではありません。正しい心と行いの積み重ねによって得られるものです。それゆえに、どんなに小さな国の王子であっても、その人を馬鹿にしてはならないでしょう。やがて成長して、マーハー・ラージャンになるかも知れませんから。同じように、たとえ小さなシャミーだからといって、馬鹿にしてはならないでしょう。なぜなら、このシャミーがよく法を悟り、やがて心と行いが法に適ったときは、迷える衆生を救うアポロキティー・シュバラー(観自在菩薩)になるかも知れないからです。
 また、小さな火を馬鹿にしてはいけません。その小さな火も大火となれば、この大都市も、この美しい大自然の草木をも焼きつくす力を持っているからです。
 シャミーも、やがてサロモンとなり、心を清浄にしてよく道を守れば、誰でも無上の悟りを得ることが出来るものです。悟りをひらき、神理を知り得たならば、苦悩にあえぐ人々を救済するでしょう。

 
法といい、道というものは、己に足ることを知り、怒り、そしり、恨み、愚痴の心を返上し、その恐ろしさを悟り、心の中にある重荷を捨て去ることです。

 一方、正法を説くものを誹謗したり、迫害すれば、その罪は、容易に消すことはできないでしょう。なんとなれば、神の心はもとより、己の中にある神性、仏性を冒瀆し、汚すことになるからです。



「ブッタよ、国の指導者としての心構えや行いについて教えて欲しい。」


 マーハー・ラージャンよ。
あなたの愛する子どものように、衆生を愛することです。分け隔てなく、すべての人びとに対して、平等の心を忘れてはならないでしょう。
 権力や武力によっては、人民の行動を一時は押さえることはできても、心の自由までしばることはできない。しかし正しい心の法にそった指導をしていけば、衆生はよろこんでそれに従い、国を平和に治めることができるでしょう。そのためには、たとえ小さな子どもであっても大事にせねばならない。やがてその子どもたちが正しく成長し、悪の心を支配して、正しい中道の道を歩むことになるからです。衆生の犠牲の上に、自らの幸福を築くことは、やがて自らを亡ぼすことになります。苦役にあえいでいる人びとには、愛の手をさしのべる。悩める者には、その悩みを除き、病める者には、苦悩を取り除くよう
慈愛の心をもって接することです。
  たとえ王なりといえども、その地位を特別なものと考えず、また、側近の者たちの間違った言葉に迷わされてはなりません。

 
煩悩の苦しみから遠ざかり、人間としての道を歩み、悟りの境地に到達するように努力することが大事でしょう。そのためには、自らの心の在り方から正さなければなりません。火が激しく燃えている所には、生き物は住まないでしょう。情欲の炎が燃える所に、正しい道は存在しません。怒りによって心が燃えていると、正しい理性が働かないばかりか、人の忠告が忠告として聞こえず、かえって火に油を注ぐような結果になってしまう。情欲に支配されると、ものの筋道が分からなくなり、身や国を滅ぼすことになる。
 また知識だけが先に立ち、行いが伴わないものは、絵に描いたマンゴーのようなもので、その味は、永遠に分からないでしょう。知識は、行いによってのみ智慧に変わるもので、種は肥沃な土の中でこそ、芽を出し、成長するものです。
 人が多くの険路を越えて旅するように、生きる道を歩むにも、たゆまざる精進が必要です。道を歩む過程に苦楽はつきものですが、しかし、本当は、正しい道を踏みはずしたときにしか、苦悩というものは生まれないものです。苦悩を生み出す原因は、他人ではなく自分自身にあります。このことに大抵の人は気付かない。 他人に転嫁した方が気が楽ですからね。だが、苦しんでいるのは、ほかならぬ当人だということを知る必要があるでしょう。

 苦悩を除くためには、苦悩の根を除かない限り、また芽が出て来るでしょう。この苦悩を除くためには、智慧と勇気と努力が必要です。

 今迄の人生においてつくり出した苦悩の根を除き、今後の人生に苦の種を蒔かぬことが、人生を、平和と安らぎの生活に導くものです。
この精舎の建物も、固い土の上にしっかりとした土台が組まれ、その上を太い柱が屋根を支えています。ですから風雨に耐え、そこに住む人びとも安心して安住できるわけです。

 
心の安住にも、正しい法の柱が必要になります。

 法の柱とは、自己中心の心を改め、他人があって自分があり、大自然の中でたがいに生かされ、生きているように、相互の調和が柱になります。そのためには、他人の言葉を正しく聞き、いやしくも、自己の感情でそれを受け取り、曲解してはならないということです。また、どんなことをいわれても、怒りの心、そしりの心、恨みの心、愚痴の心、情欲の心、虚栄の心、増上慢の心などをつくらないことです。つくったときは心の中に毒を飲んだことになり、また新たな苦悩の種を蒔いていることになります。思っても、語っても、同じ結果になります。正しく語るということは、このような不調和な心では不可能でしょう。言葉は相手に意思を伝えるものであって、不調和な言葉は、自分の心の毒を飲むばかりではなく、他人に対して、毒を飲ませることになるものです。特に気をつけなくてはならないでしょう。


 マーハー・ラージャンよ。

心の中で思うことが正しくない場合は、心の中に苦悩の原因をつくり出すものであり、行為したと同じことになるということを知らなくてはならないでしょう。慈愛の心は、光明の世界に住することになり、その行為は、より大調和への近道だといえましょう。

 
心の中には、己自身に嘘のつけない善我なる心と、自己を中心とした不調和な偽我なる心が存在しています。一切の苦悩は偽我がつくりだすものです。
 善我なる心は、親が、わが子を愛し、育てるように、慈愛に富んだ行為となって現れます。それは、あたかも太陽のように、報いを求めることなく、万生万物をはぐくみ、大調和の根元をなしている神仏の心であり、行為に通じているわけです。

 他人に、自分をよく見せようとする虚栄心は、心を毒すだけの、自己満足の無常なものといえるでしょう。このような心を持つことはまことに愚かしい、心の貧しい行為といえましょう。

 心の中で思うことの自由は、いかなるマーハー・ラージャンといえども、これを支配することはできないでしょう。しかし慈愛に富んだ善政をしくならば、衆生の心に素直さをよみがえらせ、真の平和を築くことができるでしょう。しかしその反対に、欲望をもって、衆生を調和させようとしても、それは不可能ということになります。

 思う、考える心は、善悪いずれにも自由なために、真実な慈愛は、衆生の心の中に、感謝の心が生じ、報恩の行為となって現れて来るものだからです。

 マーハー・ラージャンよ。
人が真実に気付いたときには、その罪はなかば許されるものです。
人は盲目なるがゆえに、その愚かさに気がつかないだけです。間違いであったと知ったならば、二度とその愚を繰返さないことです。そういう人びとこそ、真に勇気ある者といえましょう。


 マーハー・ラージャンよ。
心の中で念ずることは、善悪いずれにも通ずるものであり、衆生の幸福を念ずることは、衆生の心に、安らぎを与えるものです。正しく念ずることが大事だといえましょう。他力ではなく、自力なる慈愛の心で念ずることは、光明となって、人民の心に安らぎとなり、現れてくるでしょう。
 正しく念じたならば、実践することが、指導者として大事なことだといえましょう。

 仕事についても、正しく仕事をすることが、大事になってきます。
毎日の仕事も、修行の大切な過程であり、偽りもなく、愚痴もなく、怒りもなく、生きてゆくための手段であることを知らなくてはならないでしょう。健康なるがゆえに、正しく仕事をすることが可能であり、仕事のできる環境に感謝することが大事なことだといえましょう。

 真実の感謝は、行為となるものであり、行為のない感謝は、真の感謝とはいえないものです。

 衆生のために奉仕する行為こそ、マーハー・ラージャンにとっては、第一の義の道であります。

 人は、進むばかりがよいとはいえない。今まで歩いてきた道をふり返ってみることも必要なこと。間違った道を歩んでいるかどうかをふり返ってみなくては目的も不明になります。それには、これまでの思念と行為を正しく反省してみることです。正しい法は、人の知や意によって変えることのできない大自然の姿が示しています。その正しい法とは、中道であり、片寄りのない、調和の心が基準であり、それは善我なる心であり、また善意なる第三者の心ともいえるでしょう。その心で、自分の行ったこと、思ったことを、一つ一つ正してみることであり、そうした間違いの原因を除き、自分の心をより豊かにするために反省するわけです。こうして、想いと行いを正し、心の中に何の執着もなく、光明に満たされた時に、禅定に入るならば、心と肉体は、調和によって光明の世界に住することができるようになります。
 瞑想による禅定は、神々との対話であるといえましょう。
おごりや怒り、ねたみやそしりのままで、心の中の歪みを除くことなく禅定に入れば、その心に相応した世界に住することになり、魔界に住む者に己の心を支配されてしまう。これは、非常に危険であるといえましょう。
 正しい心による以外に、光明の世界に住することは不可能だということです。私の説く八つの正しい道を、心と行いの物差しとして生活する人びとこそ、真の修行者といえましょう。一切の苦悩から解脱するには、この道の実践以外にないでしょう。


 マーハー・ラージャンよ。
この世の中には、洞窟の暗がりの中から、太陽の光がサンサンと輝く明るい世界に出て来る人もあり、また、わざわざこの明るい太陽の下から、暗い洞窟の中に入る人もありましょう。
 
人生航路は暗中模索であり、一寸先も分からぬ暗闇といえましょう。しかし、その心の中に法の灯火を点し、光明に満たされた世界に入って、無常な物から執着を断ち、自らの心を救い、迷える暗闇の世界で苦しんでいる衆生を救う者もおりましょう。
 この肉体ですら、自分のものではありません。もし自分の持ち物であるならば、いつまでも若く、永遠に自分のものとして持っていられるはずです。
この肉体も、いつの日か死という現実に見舞われ、みにくい姿と変わり果て、腐敗し、燃やされて、灰となり、大地に帰ってしまうものです。どんなマーハー・ラージャンであっても、貧しいシュドラーであっても、」人の力によってこの現実を変えることはできません。無常なものだからです。
 
幸福を心の外に求めると苦しみになります。金銀財宝、地位、名誉、情欲、すべて無常なものであり、これらによって本当の幸福は得られないものです。満たされれば、また次の欲望が生まれ、悪の循環は尽きることがないでしょう。

 心はこの大自然のように無限に広がっています。欲望の心が外に向けば、足ることを忘れてしまうのです。しかし心の内に幸福を求める場合は、真の満足が得られるはずです。すでに足ることを知っているために、執着から離れているからです。法を一切の物差しとして生活した時は、他の一切の何物にも心を動かされることがなくなり、本当の安らぎが得られ、悟りの境涯に入ることができるでしょう。

 その時にこそ、真の仏国土が造り出されていきます。






12.お釈迦様の説法  その11
        
シラバスティの町での初めての説法

 諸々の衆生よ、この灯火に集まってくる虫を見よ。その短い命にもかかわらず、光を求めて精いっぱいに生きている。火に近づけば体を焼かれる恐ろしさを知ることもなく、多くの虫は死んでいくではないか。日中は、鳥や他の小動物の餌となり、自らの身を他の生き物の食べ物として、供養している。あるものは土の肥料と化し、植物の栄養となり、奉仕している。動物もまた自らの排泄物を大地にまき、植物の肥料となし、植物は動物に食糧としてその実や葉を提供している。そうして、おのおのが互いに他を生かし、生かされ、血や肉や骨となって助け合っている。すべてのものはたがいに関係し合い、調和し合って生きている。単独で生きているものは一つとして存在しないことに気付くだろう。

 しかし衆生よ、多くの人は、この自然のルールを忘れ、自分だけの存在を主張し、譲り合い、助け合うことを忘れている。

 大自然を見よ。この自然界は、生きていく人に正しい道を教えている。調和ということを教えている。もし、この地上に雨が降らなかったならば、どうなるであろう。草木は枯れて動物は食物を失い、人間もまた生きてはいけないのだ。雨は大地を洗い、浄め、肥料を土の中で溶かし、植物の成長を助けている。山から流れた水は渓流となり、大河となり、大地にうるおいを与えながら、やがて、大海に流れ合流する。どんなに汚れた水であっても、大海に流れ込むと浄まり、太陽の熱によって蒸発し、再び、雨となって地上をうるおしてくれる。その輪廻の仕組みは、永遠に変わることなくつづいている。

 
諸々の衆生よ、自らの存在を直視せよ。
すべての力を持ち、地上の楽園をつくる能力を与えられている人間が、自分のことのみしか考えず、争いや嫉妬に狂い、自らを滅ぼしているが、これでいいかどうか。
 
自然は相互に調和し合っているのに、人間だけが単独で生きようとしている。種姓によって人間を差別している。自分たちの種姓の繁栄だけを願い、他は滅びてもよいものかどうか。
 権力や暴力によって、弱気者を犠牲にしたり、嘘をついたり、盗みを働いたり、怒ったり、愚痴をいったり、他人を誹謗したり、恨んだり、ねたんだり、そねんだり、情欲に溺れたり、足ることを忘れたり、欲望の虜になったりしているが、これでよいのかどうか。

 このような諸現象によって、人は自らに苦悩の種を蒔き、あえいでいる。蒔いた種を刈り取る者は、ほかならぬ自分自身である。

 衆生よ。そなたたちの肉体は、自分のもののようだが、自分のものではない。もし、肉体が自分のものであるならば、自分の思うとおりに動いてくれてもいいはずである。しかし、自分の思うようには動いてくれない。
 病気をしたくなくても病気をし、年をとりたくなくても肉体は間違いなく老化していくではないか。どんなに栄養をとっても、長寿の薬を口にしても、死は間違いなく訪れてくる。いかに財産をつくっても、死と共にそれを持ち去ることはできない。地位があっても、名誉が与えられても、死という現実の前にはどうすることもできない。
 愛する妻や子どもたちとも、死は、残酷にも引き裂いてしまう。

 大自然は無常なのだ。

一切の物は、無常という掟からのがれることはできないのだ。
しかし、諸々の衆生よ、恐れてはならない。
そなたたちの肉体を支配している心は、永遠にして、不滅なのだ。個性を持った魂は、永遠に生き通しであり、死を知らない。自然界の無常という掟から、何一つ束縛をうけていないのだ。そればかりか、魂である心の中には、過去、現在の転生における偉大な宝物が存在し、いつでも役に立とうとその時を待っている。現世において体験した人生経験よりも、はるかに莫大な、そして、より豊かなパラミタが内蔵されているということである。

 
今、与えられている生活環境は、人それぞれがその魂をより豊かに、より広く学習するために与えられた場であるということである。それゆえ、今の立場に固執したり、おごったり、卑下したりしてはならないのだ。貧しき者も、富める者も、その魂のよりよき修行のためにあるということを知らなくてはならない。
 人類は皆兄弟であり平等だということは、このことをいっている。


 また、貧富の差が価値の基準でもない。人間の心の大きさ、豊かさによって決まるものである。
 富める者は貧しき者をいたわり、与えよ。
 貧しき者は人生の価値を知り、心を大きく持て。
 相互の理解の中で、正しく仕事をなすことによって、大自然の大調和に調和されていくのだ。

 
智慧をしぼり、慈愛の心を根本にして、たがいに奉仕の精神がよみがえってくれば、報恩と感謝のきずなはより一層強まり、明るい、豊かな社会がひらかれていくだろう。

 
衆生よ。

 短い、限りある人生である。その短い人生に、醜い争いや、独占の欲望に自らの心を毒してはならない。
 法とともに、永遠の歩みをつづけることだ。
 そなたたちの心の中に、神仏の慈愛が厳として存在しているのだ。その慈愛の偉大さを、自らの生活の中に生かさなければならない。パラミタは、そうした善意なる生活に生きた時に、その扉は開き、生前の自分を知ることによって、よりよく現世を生きることができるようになる。

 アラハンの境地とは、そうした心境と生活であり、誰も彼も、法にそった生活をするならば、その域に達することができるものである。






13.お釈迦様の説法  その12  女の道について

 ある時、彼女はブッタに直接指導を受けた。
「ブッタ、私のような女が尊いお方の前に出てご指導をお受けするのは失礼とは思いますが、女の道というものを教えていただければ仕合わせです。」


 「ペシャキャよ、そなたは女でありながら、多くの使用人に慈悲の心で接している。お互い心が通じ合い、むさぼることなく、愚痴もなく、正しく仕事をしているようだ。働く使用人の生活を守り、あの太陽のような心で、皆平等に仕事をしているので商売も繁盛しているはずだ。

 多くの女性の中には、何事にもすぐ腹を立て、気まぐれで足ることを知らない欲深き者であっても、苦しい人びとに対しては施すことを知っている者もある。また一方で、心が丸く豊かで、怒ることもなく常に心を正し、一切に足ることを知ってはいるが、苦しい人びとに慈悲の心を与えない者もある。そうかと思うと、心が豊かで広い心を持ち、心の中に怒りもなく、欲望に足ることを悟り、そうして、他人の幸福を喜び、苦しい人びとには自らの慈悲をもって奉仕している者もある。
 この三者の型のうち、正法に適った生き方はどれかといえば、最後の女性がそれに当たるだろう。

 法を心の糧として生活している女性は、よく自らの偽我を支配し、一切の執着から離れ、安らぎの心の中に住んでいる女性である。

 男女は平等であっても、その働きは剛と柔であり、両者の調和が大事な要件となろう。
 女は家庭にあって光明を満たす大事な役割を果たさなくてはなるまい。男女は肉体的には平等とはいえないが、心は平等である。真実は、男女の性別に関係なく、均等に与えてあるからだ。
 女性が他家に嫁していけば、やがて子どもが生まれよう。妻は家にあって子どもを守り育ててゆく。
 良い子を育てるには、夫婦の対話と信頼がいちばんである。たがいに相助け、相譲り心の豊かな健康な子どもを育てて行かなければならない。こうした家庭が多くなればなるほど、地上の調和は促進されよう。

 嫁にゆけば夫の両親がいて、孝養をつくさなければならないが、この間にあって、いかなる理由がそこにあろうとも、自らの心の中に怒りや愚痴の種を蒔くことなく、忍辱の二字を忘れず、明るく、豊かな生活を忘れないことが大事だ。

 心の中の苦悩は、自らがつくり出すということを忘れてはならないだろう。言葉や行動を通して、自分の都合が悪いからといって、怒りや、ねたみ、恨みの心があると、その種が心の中で発芽し、ぐるぐるとその渦中に自分をおとし入れてしまうことになる。調和を忘れた家庭は、ついには争いとなり、破壊へとつながって行く。よれゆえ、家庭に対立があってはならない。
夫の仕事をよく理解し、それを助け、そうして自らも教養を高めるようにするのが女の道といえよう。

 家庭に対しても、召使に対しても、親切な心と行いが大事である。家の外で得た夫の収入は、自分のために使うのではなく、緊急の場合に備えて貯えることも必要であろう。決して、自分の欲望のために使ってはならない。

 夫婦は家庭という、いわば社会の中の協同生活者であって、また、偶然によって一緒になったものではない。転生輪廻の過程における深い縁生の絆によって結ばれたものである。
 夫婦は一つの家に住みながら、社会全体に調和をもたらしていくものだ。それだけに、夫婦は、相和し、心から愛し、愛される関係を持続しなければならない。また、そうした縁生のつながりで結ばれている、といえるのだ。夫婦の縁生をよりよく前進させるには、法を正しく理解し、行うことだ。それによって、ますますより価値の高い調和へと導かれてゆくものだ。

 女は、顔が美しいとすぐうぬぼれる。本当の美しさは正しい心を持って生活している女性である。美しいがゆえに、女は増上慢となり、他人を見くだし、優越感に浸る。このような女性が男を誘惑しても、正しい法を学んでいる者たちは、その誘惑に乗ることはないだろう。誘惑に心を乱す男性は愚かな男性しかいない。

 増上慢や愚かさに支配された男女は心ない情欲のとりことなり、身を修めることなく、不幸な一生を終えることになろう。

 心ない女性は、自分をより美しく見せようと躍起になり、虚栄心が心の中を占領し、それを満たすために苦労をする。こうした女性は男の玩具になり易く、常に悩み、苦しみから抜けることはできない。

 ともあれ、女性は、幼少から子どもの時代にかけて、両親から保護されるという立場からその自由を妨げられ、成人して他家に嫁げば夫から自由を妨げられ、老いては子どもに自由を奪われる。

 女にはこの三つのさわりがあるといえよう。

 また、女性は、男とちがって、誕生してもあまり喜ばれない。まず婚姻で両親に心配をかける一方で、常に心は他人をおそれる。他家に嫁げば出産の苦しみが待ち、夫をおそれて生活をする。このため、自在の境涯はなかなか得られないばかりか、心は常に不安定である。」

 ペシャキャは、女性についてのひと通りの説法をきくと、それまで気付かなかった自分の
(さが)にハッとする思いだった。






14.お釈迦様の説法  その13  魂の先祖について

 父上---。
私の申し上げる先祖は、魂の先祖です。
魂の先祖は、自分の心の中に存在し、永遠の生命であります。
私たちの心の中には、過去世からの体験した人生の宝物が存在しています。父上にも、それがあります。その人生の宝物を智慧といい、智慧をひらけば、地上の諸相がわかり、不安や迷い、煩悩に心をわずらわせることがなくなります。

 ところが、その智慧の泉を、自らの愚行によって閉ざしているのが現状です。

 愚行とは、恨み、妬み、そしり、怒り、愚痴、そして、もっとも心を迷わす足ることを知らぬ欲望、これによって、智慧の門を閉ざしているのです。

 智慧の門が開けば、人間は不死の永遠の生命であり、転生輪廻の実相が理解できるのです。
 つまり、生老病死の苦悩が解明できます。
 私は、その苦悩の原因である煩悩を除く道を説いています。肉体先祖は、人生航路の舟の提供者であり、魂の先祖ではありません。肉体先祖は、転生の過程において結ばれた深い縁生の絆であって、この先祖に対しては、美しく豊かな心と、健康な体をつくることが、いちばんの供養となるでしょう。

 人は肉眼で見える狭い世界のみを信じていますが、心の眼で見れば、深遠な世界を一望の下に見渡すことができます。一望の下に見渡せば、人間がつくり出した地位、名誉、財産といったものは無常なものであり、永遠のものではありません。

 父王の子どもであるこの私は、今は見たとおり、その日暮らしの一修行者でございます。他人が私と父王を比較すれば、乞食坊主と王様としか見えません。外見は、たしかにそうであっても、私は父上の子であることに変わりません。このように外見では真実はわかりません。

 苦悩にあえぐ人びとは、その原因を除かずして、結果だけに翻弄されるから迷うわけです。智慧ある者は、その原因を除くために、法にもとづいた生活をします。
 法とは、あの太陽のように、空気のように、人の貴賎に関係なく、平等に与えられている慈悲の光です。おごりやへつらう心がなくなり、法にそって生活し、物の真実の理解を深めて行くときに、私たちの心に安らぎが生じ、真実の幸福にひたることができるわけです。人の幸せは、そこにしか方法がないと私は悟りました。





15.お釈迦様の説法  その14
        
カピラでの初めての説法ー解脱への道

 シャキャ・プトラーの友よ。

多くの衆生は、盲目の人生を送っている。場内の友は、なに不自由なく優雅な生活を送っているが、一歩城外に出ると、生活に疲れた賎民たちの群れがいる。同じ太陽の下で生活しながら、カースト制度によって社会悪をつくり出している。
 
人は、生まれによってその価値が定まるのではない。また、聖者は、慈悲の心と行いで、いかに多くの人に生きる喜びを与えたかということで定まるものである。

 人間の欲望にはかぎりがない。
その限りない欲望に、自らを苦しめている。自分を解放するには、欲望の奴隷から抜け出すことである。欲望から抜け出すには、自分の利益だけを追求せず、自らを省みて、貧しい人びとの生活を思いやることから始まる。

 人が敵味方に分かれて、争いに走るのは、自己の利益のみにとらわれるからである。自分にベンベンとしていると、いつ寝首をかかれるかしれない。毒殺からもまぬがれたいという思いにかられ、夜もろくろく安眠できない。
 私は出家してから、まったくこの問題から開放されてしまった。家もなければ、国すらない。あたかも、空を飛ぶ鳥のように、何処へ行くにも自由な身だ。それゆえ、この大自然、全ヨジャーナーが我が住家といえる。

 武力によって他を支配しても、いつの日かまた武力によって支配されよう。それは片寄った思い、片寄った物質偏重の生活態度が因をつくり、果となってめぐってくるからである。侵された者は、復讐の念に燃えよう。その念によって、侵し、侵され、因果をつくるのだ。力によって、肉体の行動を支配しても、人間の心まで支配することはできない。
 物は無常であり、武力は自らを滅ぼす。しかし、心の価値、不変の神理を理解するならば、いかなる大国の王たちといえども、争いと破壊のむなしさを悟ることができよう。

 
シャキャ・プトラーの友よ。

人間は、闘争と破壊の歴史をくりかえすために生まれてきたのではない。より豊かな心と、調和された社会をつくるために生まれてきたのである。それが同胞相争い、自己の権益を守るために一生を終わってしまう。いったいどこに人生の目的と意義があるのであろう。愚かというほかはない。

 旧来の信仰では、自らを救うことはできない。 インドラの神でもなく、ヴァーユ、ヤマ、アルカ、アグニー、ヴェルナ、チャンドラ、マトラーの神々でもない。いわんや、ヤクシ、ヤクシャー、キンナラ、マゴラーでもないのだ。

 
自分を救う者は、自分以外にない。
 思うこと、行なうことが、タルマー(法)に適った生活以外に道はない。
なぜなら、人それぞれの心の中に、アートマン(我)というものがあろう。この我に、目覚めることなのだ。我なる自分は、天地創造のすべてを知っている。我以外に他に頼る必要のない自分。正しき自己こそ頼るべきすべてである。偽りも憎しみもなく、赤子のような安らぎの自己、天真爛漫な素直な心。これこそ、アートマンの姿である。

 しかるに人は、生まれた環境、教育、思想、習慣におぼれ、自己保存の偽我に蔽われ、自らして苦悩をつくり出して行く。

 この娑婆世界を苦界ともいう。自らがつくり出した苦しみの世界だからである。苦界のままで人生を送れば、死後の人生もまた苦界である。苦界とは地獄である。あの世、この世の転生は、生命ある者に課せられた天命であるが、輪廻の解脱こそ、悟りの条件である。悟れば、輪廻の絆から離れ、時と場所を超えて、今ある自己の生命の偉大さに気付き、永遠の自己を見出すことができよう。

 
地獄といい、極楽といえども、神がつくられたものではない。人びとの想念と行為が生み出したものだ。

 恐れてはならない。自らを卑下してはならない。希望を持って謙虚に、与えられた環境を十全に生きようと努力する者に、神仏の慈悲が惜しみなく与えられるであろう。

 シャキャ・プトラーの友よ。
目覚めよ。そして、立て。
 この意義ある人生を、記念すべき日々の生活に変えよ。






16.お釈迦様の説法  その15 
      
アナン ・ アニルダ ・ キンピラ ・ ウパリ への言葉

 アナン---。
正道で一番大事なことは、感情に心を動かされないということだ。感情のない人間、それは人間とはいえないが、表面的な好き嫌いの感情にとらわれ、それに翻弄されると心に曇りをつくり、心がすさんでくる。憎悪、怒り、しっと、増上慢・・・・・・。
 みな感情がなせるわざだ。こうしたときは安心はえられない。公平にものをみることができない。自分を苦しめ、人をも悲しませる。

 
心の調和はいかに自己の心を落着かせ、心の安らぎを保つかということだ。それには自己の感情のぶれをなくすことしかない。

 波立ち多き感情の修正は、そのよってきた原因を知り、それにふりまわされぬことが基本だ
が、しかしそれを知ってもなお振りまわされるのが人の常だ。それを人の業ともいう。そこで人を見ないことが大事だ。意見が合わず、怒りが燃えるということは、相手をみるからだ。相手が怒りに燃えたときは、それにさからわず、熱がさめるまで受け流してしまう。ひと息ついたときに事の道理を話すようにすれば、心の揺れは少なくなろう。

 
苦しみの原因は、ものに対する執着である。執着を離れ、冷静になってくると、事の道理がよく見えてくるものだ。神理の実相は、そうした心を保っていると、次第に明らかになってくる。

 アニルダ---。
そなたは不動の心をつくれ。あれこれ思いわずらうな。なにごとによらず、気を散らすと、ものは成就しない。物事の成就は一心集中にある。一念の心は万事に通ずる。

 そなたは山に登った経験があろう。山の頂きに立つと、視界がひらけ、下界はひと眼で見おろせる。その頂上はどの登山口からも登れよう。登り口はいくつもあるが、頂上は一つなのだ。どの道を選ぼうと、一念の努力は、やがて頂上に達し、頂上に立てば、どの道も同じであり、ものの真実をつかむことができる。一芸に秀でた者が、他を理解することができるのはそのためなのだ。頂上に立てば、なにもかも見渡せる。

 キンピラ---。
そなたは、心を大きく持て。そう心を堅く閉じてはならない。
誤ちは誰にもあるもの。その誤ちをどう修正し他山の石とするかが問題だ。人はたいてい自己を誤魔化して生きようとする。しかし、自己は誤魔化せない。誤魔化せば誤魔化した分だけ苦しまねばならない。

 自己を正し、自己に忠実に生きることが正道である。自己に忠実に生きようとすると、人の心はえてして小さくなるものだ。忠実ということに心がとらわれるからだ。忠実に生きながら心がそれにとらわれないようにするには、中天に輝くあの太陽のように、胸に丸く大きな心を描き、その心を自己の心とすることだ。すると次第に心が大きくなり、些事にこだわらず、しかも些事をないがしろにしなくなってくる。

 正法は中道の道だ。人としての道を外さず、それでいて道におもねることのない道なのだ。万物を生かす道なのだ。

 人間は、肉体を持つと同時に、心を持って生きている。肉体と心は、そのどちらかに片寄っても人は苦しむようにできている。この二つは、もともと一つのもので、肉体と心の調和こそ中道の在り方なのだ。肉体が苦しめば心も病む。心が動揺すれば食欲も起こらなくなろう。色心は一つであるが、心を悟り、魂の永遠を知ったときは、無明の原因は肉の身の五官にあって、心が肉体に片寄り過ぎていたことに気付くのである。心のこだわりを一つ一つ取りのぞき、中道の真実を悟るようにしなさい。

 ウパリ---。
仏法はこの地上に調和を築くものだ。それぞれが己を知り、より豊かな心をつくる。不平や不満があるうちは心に調和は得られないし、安らぎも真実もわからない。

 そなたはよく自己をみつめてきた。より広い心をつくるにはどうすればよいか。それがそなたの課題になるだろう。
自己に厳しく、人には寛容であることが仏法だが、自己に厳しいと人にも厳しくなるのが人の常だ。なぜそうなるかといえば、他人を意識しての自己統御であるからだ。自己統御は自己を知るためのもの、自己を試すためのものだ。他人のためにするのではない。

 ところが、人びととともにあると、他のなかの自己を見出そうとする。そのため自己に厳しい者は他人にも厳しくなる。自己に甘いものは他人に甘いかというと、そうもいかない。やはり厳しくなる。自分に甘い者は自己保存の念が強いので、他人には厳しいのだ。

 どちらにせよ、自己を見つめるためには他を意識しては正しい自己は発見しにくい。他はあくまで、自己の心を正す材料であって、自己の延長とみてはなるまい。人の心は一つだが、人間はそれぞれが主体性を持って修行するものなので、自己に厳しくても、他人には寛容でなくてはなるまい。
この意味、そなたにわかってもらえるかな。






17.お釈迦様の説法  その16  まことの法の実践者

 異性問題で心が揺れるようなことがあれば、在家に戻りなさい。ブッタ・サンガーは、自己を開発するすることにある。人びとに法を伝えるためにある。異性問題でサンガーの空気を汚し、目的から離れてはならない。また、修行はどこにあってもできるのであり、出家に執着を持ち心をせまくしてはならないだろう。サンガー人となり、一度は出家しても在家に戻ることを恥と考えてはならない。人にはそれぞれの場があり、サンガー人だからといって悟れるというものではない。

 ただサンガー人は、心を開く環境のなかで修行するので、在家の人たちよりは恵まれていようが、しかし、多くの人たちの布施によって修行していることを忘れたならば、在家の人たちよりも劣り、心を開くことはできないだろう。

 
そなたたちは縁生の絆を通して、ここに集い来たった者たちである。この縁生を粗略にし、五官に翻弄されることがあれば、再び苦しみの縁生を重ねることになろう。いまをおいて、自己を知る機会はないことを悟らなければならない。

 法は、正しく行ずる者のなかにある。姿や形、形式のなかにあるものではない。ふだんの心の動き、そして行為が法に適っているかどうかが問題なのである。そなたたちは法の実践者でなければならない。また、それを望み、求めてきた者であろう。それがいつのまにか五官にに迷い、六根に翻弄されるとすれば出家の資格者とはいえまい。

 感覚が問題として肉体を裂いたとしても、心を正さなければなんにもならない。肉体は心の乗り舟であり、肉体そのものに六根があるのではない。肉体を縁にして、心が肉体にまつわる思いにとらわれるので六根が生まれる。つまり、六根の根は、すでに心にある。心が原因である。だから、心を正さなければ肉体にまつわる思いが再び襲ってくる。

 したがって、この手がいけない、この足が悪いというものではない。そなたたちの五体は両親を縁として神仏よりあたえられたものである。そしてこの五体はこの地上にふさわしい形で適応されている。つまりは調和されている。調和されているから健康で生きられる。健康でないのは心である。本来、健全なのだが、地上の生活になれてくるにしたがって、自我が芽生え、心がいびつになってくる。いびつはやがて六根となり、そなたたちの想念と行為となって現れてくるわけである。

 
正しく見、、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生き、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入る八正道の実践こそ、私がいう法である。

 八正道の中心は、神仏の光につながっている各人の心である。その光を八正道の歩みによって現わす、これが法の実践である。仏法は他人のためにあるのではない。すべては各人一人一人のためにある。そうして、その喜びを、慈悲を、他に及ぼしていくものだ。かくして、この地上に仏国土が生まれよう。

 仏国土はまず各人の心の中に築かなければならない。


 現在のそなたたちの修行は、心に仏国土をつくる。すなわち悟りの境涯に至ることだ。彼岸に至る修行が、今そなたたちの生活であり、目標だ。在家の人たちに劣るような行為があってはならないだろう。もし、サンガーの生活に堪えられず、在家に戻りたい者があれば遠慮なく申し出でよ。いつでもその希望を叶えるであろうし、自己を誤魔化してはならない。






18.お釈迦様の偉大なる悟り

 
「この大宇宙は神によってつくられた。
大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。
神は、その意識の中で意志を持たれた。
大宇宙の創造は、神の意志によってはじまった。
意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。
意識界の宇宙はその意志をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。
神の意識は、永遠の調和をめざし、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。
人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産声をあげた。
人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。
そうして、神の意志である調和をめざす神の子として、物質界に降り立ったのである。物質界に降り立った最初の人間を、地上の眼でみるならば、大地の一隅に、忽然と物質化されたといえるだろう。
人間以外の動物、植物、鉱物も、こうしたプロセスを経て、大地に姿を現した。
こうして、あらゆる生命物質は、意識界(実在界)と現象界(地上)の間を、輪廻することになった。
地球に生物が住むようになったのは、今から数億年も前である。最初の生物は、太陽の熱・光と、大地と、海水と、空気と、それに意識界と表裏一体の宇宙空間の、相互作用によって、地上に現われた。微生物の誕生である。
続いて植物が発生し、動物が姿をみはじめた。
やがて爬虫類時代を迎え、一時期、地上は
荒寥(こうりょう)とした姿に変貌をとげる。恐竜の時代も下火になった今から二億年前に、人類は、特殊な乗り物に乗って、他の天体から飛来した。
当時の移住者は、かなりの数にのぼった。
人類は、神の意志にもとずいて、調和という仏国土をつくりはじめた。
当時の人類は、荒寥たる地上を開墾し、人類が住める環境として神がつくられた大地に、動物、植物の、相互依存のしやすい調和をつくることが目的であった。
人類は栄えた。動物、植物もすくすくと育った。
人々の年齢は、五百歳、千歳の長命を保った。
人類の数は増えていった。子孫が子孫を生み、人々の転生輪廻が、地球という場において、回転をはじめたのである。
人々は次元の異なる意識界と自由に交流ができた。
文明は高度に発達した。
人間は自由に空を駆けめぐり、地下にも大都市をつくった。
しかしやがてその文明も終焉を迎える時がやってきた。
人々の間に、自我が生まれ、国境がつくられ、争いがはじまったからである。
人々の不調和、暗い想念の曇りは偉大な神の光をさえぎった。その結果、大地は怒り、黒雲は天を
(おお)った。至るところで火山が爆発し、陸は海に、海は陸になった。
ホンのひと握りの心ある人々を残して、人類は土中に、海中に、消えていった。
こうして人類は、栄えては滅び、滅びては栄えた。
天変地異は、人類がこの地上に住みつくようになってから、何回となく繰り返されてきたものである。
天変地異は、自然現象ではない。人類が住みつくようになってから、この地上で、神が有する創造の権能を、人類が行使し、人類の心と行為がつくり出したものであった。
人類の地上での目的と使命は、二億年前も現代も変わらない。
それは神の意志である調和という仏国土を建設するために人類は存在し、人々の魂はそうした建設を通して、永遠の進化をめざすものであったのである。
人間は小宇宙を形成している。小宇宙とは大宇宙の縮図である。大宇宙に展開する無数の星々は、人間の肉体を形作っている光の数(細胞数)とほぼ同数である。太陽系は太陽を中心に九つの星々(惑星)と三万数千個の小惑星郡をしたがえ、太陽の周りを循環している。極小の世界(素粒子)も、中心となる核とその周囲に陰外電子がまわっている。太陽系という宇宙も、極小の世界と同じように、一つの法則のもとに循環し、生かされ、生きている。
人間の肉体は、そうした極小の光が集まって集団を構成し、体を成している。これらの集団は、脳、心臓、肝臓、膵臓、胃、腸などを形成し、これはそのまま太陽であり、九つの星々(水星、金星、地球、火星、木星、土星、など)を意味し、さらには、大宇宙に展開する多くの太陽系の、それぞれの個性を持った集団郡と同じようにつくられているのである。
人間は肉体のほかに心(意識、あるいは魂)を持っている。その心は、肉体という
(ころも)衣を通して、物質界、現象界に調和をもたらすことを目的とする反面、大宇宙の心に同通し、それぞれの役割に応じた使命を担っている、生き通しの意識である。
肉体は仮の宿にすぎない。物質と非物質の世界は、交互に循環することによって、調和という運動形態を永遠に持続するためにあり、このため、肉体という物質は時が経てば、物質的形態を変えた世界に戻らなければならないからである。
しかし、人間の意識、心、魂は、物質、非物質に左右されず、永遠に、その姿を変えることはない。
このように人間の意識は、神の意識に通じながら、物質という現象界と、非物質の意識界を循環し、個の意識である魂を持って、生き続けているのである。
神の子とのしての人間が、現象界において何故に悪をつくり出したか、不幸をどうして生み出したか。
それは肉体の自分が自分であると思うようになり、肉体にまつわる諸々の考え方が、本来、自由自在な心を、肉体の中に閉じこめてしまったためにほかならない。
全能の神が人間の不幸を予測できないはずはないと誰しも考えよう。不幸を事前に、どうして防げないかと。では人間の親子がしばしばちがった方向にどうして歩んでしまうのだろう。子供は成人すると親の自由にならない。子は子としての人格と主体性を持っているからである。神と人間もこれと同じで、主体性をもつ人間を自由には出来ない。自由に行使できる者は、神の子である人間自身であるからである。
神は調和という中道の中で、厳然と生命の火を燃やしている。人間が、その自由の権能をみだりに使い、中道に反した創造行為をすれば、その分量だけ、反作用が伴うよう仕組んでいるのである。そうすることによって、神と人間の絆が保たれ、調和という永遠の目標に向かうように計画されている。人間の魂が肉体に宿ると五官にふりまわされる。五官とは眼、耳、鼻、舌、身の五つである。この五官に、魂・意識が幻惑される。美しいものを見ると欲しいと思う。気持ちの良い香りには心がひかれる。自分の都合の良い話には、つい乗ってしまう。舌触りのよい物は食べすぎてしまう。苦役より楽な方に身を置きたい。肉体五官はこのように、人の心を動かして行く。
五官が働かなければ肉体維持はむずかしくなる。さりとて、五官に心を奪われると欲望がつのってくる。欲望の源は五官にふりまわされる心の動きにあったわけである。諸々の欲望、争い、不調和、悪の根源は、五官に心を奪われる六根という煩悩にあった。
さまざまな不幸は、肉体にまつわるこうした心の動き、カルパー(業)の想念行為によって生み出されていった。
業は執着である。執着は五官から生ずる肉体的想念が、魂に根を張ることによって作り出されて行く。地位、名誉、金、情欲、その他さまざまな欲望が、人間の神性仏性を侵して行く。
こうして人間は、その意識を、あの世と現象界であるこの世を循環するたびに、その業を修正して行く者もあるが、大部分の魂は、新たな業をつくって、輪廻している。
このために人類は、地上に仏国土を建設する前に、まず己の業を修正しなければならなくなった。
同時にさまざまな執着を生み出して来たがために、神性の自分から次第に遠のいていったのである。
しかし、人間の魂から神性仏性を捨て去ることは出来ない。他の動物、植物は、この地上の循環を維持するための媒体物であって、人間は、それらの媒体物を調和していく任を、神から与えられ、まかされているからである。
その証拠に、己の心に偽りの証を立てることはできない。人にはウソをいえても、自分には、ウソはいえない。文明文化は、人間の社会にのみあって、動物、植物の世界にはない。人間はどこまで行っても人間である。動物、植物もそれぞれの個性にしたがって転生を輪廻し、進化を続けるものである。しかし彼らが人間になることは出来ない。人間も彼らにかわることはない。水が土になることができないのと同じである。
人間が神の子の己を自覚し、業を修正し、本来の神性に戻るためには、神の心に触れなければならない。神性の我に帰るとは、苦界の自分から離れることである。生老病死のとらわれから脱皮することである。
神の心は中道という調和の大宇宙に流れており、その流れに自分の魂がふれるよう努力を惜しんではならない。
一日は昼があって夜がある。決して一方に偏することがない。どんなに人類がふえても、空気、水の質量は変わらない。太陽の熱、光についても、その放射する質量を変えることがない。人間社会には男と女が生存する。男女の比は常に一定に保たれている。戦争、災害など人々の心が自己保存、我欲に傾かないかぎり、男女の比は均等に維持される。人間の肉体も、休息と運動という循環から切り離せない。夜も眠らずに仕事を続ければ、肉体的支障が現われ、精神の平衡を失ってくる。
すべての生命、物質は、このように、中道から離れては保たれないようにできている。悲しみや苦しみは、こうした中道から離れた想念行為があるからである。
中道の心は、毎日の生活行為に対して、反省し反省したことを実践することから得られる。実践には努力が伴う。勇気がいる。智慧を働かせれば、業の修正は以外に早まるだろう。
反省の尺度は、八つの規範がモトである。「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正進」「正念」「正定」である。
人の心は、こうした規範を尺度として、毎日の生活行為の中で、正しく修正されて行く。
人間の魂は、生き通しの意識である。肉体は時が経てば脱ぎ捨てなければならない。中道の心にふれると、こうした
摂理(ことわり)が明らかになり、神の意識である永遠の安らぎを保つことができよう。
意識が拡大すると、宇宙をかたどっている太陽をはじめとした星々(惑星郡)が、すべて自己の意識の中で回転し、そうしてその中で呼吸する一切の生物は、我が肉体の一部であることに気付く。
人は宇宙大の意識を持って生活している。肉体にその意識が小さく固まり、とどまるために、宇宙大の自己を見失ってしまうのだ。小さな人間になっても、神は、人間の生存に必要な環境を与えている。もだえ、迷い、地獄に身を焼く人間に対しても、神は、心棒強く、救いの手を差し伸べている。太陽を与え、水を与え、空気を与え、土地を与え、食べ物を与えている。我が子の行く末を案じぬ親がないのと同じように、神は人間に、無限の慈悲を与えている。
人間は、その慈悲に
(こた)えなければならない。応えることによって、人間は神性の己を自覚するのだ。
神は平等を宗としている。その証拠に、太陽の熱、光はあまねく万生万物平等に照らし続けている。差別することがない。人間社会に階級が生まれ、貧富が生じ、競争意識に心が翻弄されることは、神の意に反する。能力の別、力の相違、得手不得手は、すべて努力の所産であるが、しかしだからといって、神の子の人間に、上下の差別をつくる理由にはならない。
人にはそれぞれ太陽系の姿と同じように、役割がある。人間の五体にも胴があり、手足があり、頭がある。それぞれがその役割に応じた務めを果たすことによって、太陽系が保たれ、五体が満足に動いて行く。
中道に接する事は、己を知る、もっとも早道な方法なのである。
人類の歴史は、己を知ることよりも、我欲を満たすための歴史であった。闘争と破壊は、そのために繰り返された。己を知り、人間の目的を悟れば、現象界の小さな自分に、心を奪われることがなくなる。
人々は苦界からのがれようと、さまざまな信仰を持っている。肉体を痛め、苦行を積めば救われる、自己が発見できるとしており、また拝めば功徳がある、祈れば安穏の生活ができると信じている。大きな間違いである。苦行は、肉体に心をしばり、祈ればよいとする他力は、人間の神性を失わしめる。いずれも片寄った信仰である。中道の神理は、神に通じたウソのつけない己の心を信じ、八正道という生活行為を為して行くところにある。真の安心は、自己満足や逃避ではない。自分の生死を見られる自分が確立できてこそ、安心というものが得られる。
人間は神の子である。神は天地を創造された。人間もまた己の天地を調和させ、自己のおかれた環境を調和して行くものである。神から与えられたその肉体を痛めることでも、あなたまかせの他力に自己満足するものでもない。
世はまさに末法である。
正法という中道の神理を失い、人類は迷いの中に埋没している。この迷いから人々を救うには、正法という法灯を点じ、大自然の慈悲に、めざめさせなければならない。
法は慈悲と愛を喚起する力である。神は無限の慈悲とその力をもって、正法を信ずる者の行く手に、光明の道をひらいてくれよう。



  - 終了 -




高橋信次先生著 人間釈迦より  三宝出版より販売中

1.人間釈迦 No-1 P111~
2.人間釈迦 No-1 P238~
3.人間釈迦 No-2 P036~
4.人間釈迦 No-2 P100~
5.人間釈迦 No-2 P139~
6.人間釈迦 No-2 P217~
7.人間釈迦 No-3 P183~
8.人間釈迦 No-3 P218~
9.人間釈迦 No-3 P227~
10.人間釈迦 No-3 P236~
11.人間釈迦 No-3 P250~
12.人間釈迦 No-4 P11~
13.人間釈迦 No-4 P35~
14.人間釈迦 No-4 P131~
15.人間釈迦 No-4 P135~
16.人間釈迦 No-4 P184~
17.人間釈迦 No-4 P245~
18.人間釈迦 No-1 P157~




2011.07.18 UP