高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








八正道 ・・・・・   正見正思正語正業

         正命 、正進 、正念 、正定





 四、正業 ・・・ 正しく仕事をすること





1.人間釈迦より 【 全文 】

 まず「正業」に考えを進めてみた。

 「仕事」は、自らの生活を助けると同時に、人々の生活にうるおいをもたらすものである。健康で、快活に仕事ができるのは、自然の恵みと、人々の協力の賜であろう。

 正しく仕事をするには、まず感謝の心が大事であろう。

 そうして、その感謝の心は、報恩という布施の行為となって実を結ぶものであろう。

 地上の調和は、この「仕事」に対する心構えによって大分ちがってこよう。

 感謝と報恩を軸として、勇気と努力、それに智慧が三位一体となって働くときに、この地上はよりいっそうの豊かさをましてこよう。





2.心の指針より 【 全文 】

 私たちのこの地上での目的は、魂を磨くことと、仏国土ユートピアを造ることです。
 正業とは、この目的に適ったものでものでなければなりません。
 感謝と報恩、そして、より大きく、豊かな心と魂をつくる場が仕事のはずです。
 こう考えますと、正業の在り方はまず心を豊かにすることにあり、仕事は己の魂の経験の範囲を広げてゆくことになります。
 ペテロはイエス・キリストの第一の弟子として後世に名を遺しましたが、そのペテロは、当時は漁師でありました。学問に縁が薄かったために、伝道には随分と苦労しました。そこで今世は学問をみっちりと学び、魂の経験を広げてゆこうと、今世は学者の道を志したのです。
 元東大総長の故矢内原忠雄氏が、かつてのペテロであったのです。
 こういうと人はそんなバカなと、いうかも知れませんが、同氏が書き遺した「イエス伝」を見れば、当時の経験がなければ書けないような個所が随所に見られます。
 このほか現代の著名人の中には歴史上に名をつらねた人がおり、あの人がこんな仕事を、という例が非常に多い。
 普通は前世の職業が今世につながっている人もありますが、百八十度ちがった職業を持って今世を送る人も多いのです。
 このように職業を通して、己の魂の経験をより豊かにし、広い心を養うことが正業の第一の目的なのです。
 第二の在り方は、職業を通して、人びとの調和をはかることです。自分を含め、人びとの生活を守ってゆくことにあります。
 南方の原住民のように、一から十まで自給自足する時代は過ぎました。しかし原住民でさえ、男女の役割が決まっており、男は狩に、女は子供と食事の用意をするように、やはりそれぞれの分担がるようです。何もかも一人で生きることは、事実上不可能ですし、社会生活という永続性を持った生活は一人では期待できません。それぞれが持ち場を守り、その分を果たすことによって自分も生かされ、他をも生かすことになるのです。
 職業に就くということは、自分を生かすばかりか、他の人びととの共同生活に欠かせない役割なのです。
 私たちの肉体の機能を見ても、心臓は心臓として、胃腸は胃腸の働きを果たすことによって体は維持されます。心臓や胃腸が勝手に動き、持ち場を放棄すれば、私たちに肉体は一日として保つことは出来ません。
 職業とはこのように、自分を生かし、他をも生かす大事な場です。
 第三の在り方は、奉仕です。
 私たちが健康で働ける環境にあるということは、自分を生かし、さらに他をも生かす原動力となるものです。
 職業の第一の目的が魂の経験の範囲を広げてゆくことにあれば、健康で働けることは神の偉大な慈悲があるからであり、感謝と報恩の行為こそ正業の第三の在り方のはずです。
 こうみてまいりますと、職業の在り方、仕事の目的がハッキリしてきたと思います
 ところが現実がどうでしょうか。利益のためなら人を押しのけても無理押しする。公害が出ようが、人が苦しもうが、最少の費用で最大の利益を挙げる、それが企業目的になっています。
 消費は最大の美徳とかいって、地球資源の乱獲に狂奔し、将来の人類の生存のことなどあまり考えずに、儲かればいい、自分さえよければよいというのがこれまでの企業精神のようでした。
 さらには労使の争い。労働者も人の子、食えるだけよこせと経営者に迫る。賃金と物価はニワトリ・卵の論争のごとく、年々エスカレートし、労働者の生活福祉を目的とした組合運動は、ここへ来てようやく反省期に入ろうとしています。
 経営者と労働者の対立は、やがて経済全体のバランスを失う要因をはらんでいます。
 企業エゴ、個人エゴが正業から見た場合、いかに人類全体の破壊行為につながるか、魂の前進にブレーキをかけているかが、これで明らかになるでしょう。
 物を主体にしたものの考え方は、必ず破壊につながってゆきます。
 心を中心とした物心両面の考え方こそ、私たち人類の調和の基礎でなければなりませんし、人類が永遠の平和を望みたいならば、ウソのいえないその心を大事にし、その心をもとにした生活が大事なのです。





3.心の発見 神理篇より 【 全文 】

 この現象界においての修行は、物質、経済の場である。
 過去における修行者達は、現代のように物質経済文明の進歩の早い環境ではなかったから、生活条件もゆるやかであった。しかし、権力者により多大な犠牲を払ったり、戦争というような不調和に、心の安らぎは常に得られなかった。それだけに、安らぎを求める人々も多かったのである。
 状況は異なるが、現代も己の心を失っている人々は多い。生活の知恵から生じている物質文明に押し流されてである。しかし私達は、生活の基盤を放棄することはできない。物質経済の根本は失うことはできない。生きていられなくなる。
そうした中で、与えられた仕事こそ天職であり、そのために生命の保存ができるのであるから、努力して、成果を上げなくてはならないのである。
 生活のための仕事に対して、不平不満の心が存在することは、すでに感謝の心を失っているからである。もちろん正しい努力の結果に対しては、報酬の基準が、生活経済との調和の上に成り立つべきである。生活環境における基準の調和が崩れている場合は、己の心と良く相談し、生活できる経済の確立を、計らなくてはならない。自己保存のみによる物質経済の独占は、必ず心の不調和を起こし、これが原因となり他の生活環境にも不調和な結果を作り上げてしまうことになるのである。あくまでも大衆の調和を根底にした正しい仕事に専念することが、本当の修行である。その仕事についても、社会の人々に貢献できる目的を持った、正しい仕事を私達は修行の目的としても行わなければならない。
 まして、集団の指導者でもある事業体の責任者は、自我我欲を捨て、従業員を幸福にするための目的を根底にして、労使協調の心を果たすことが人要であり、事業はその心によって発展し、不朽の事業にもなり得るのである。
 新製品の開発にしても、心を悟った行いの中から、その研究努力に対し、より以上の霊感が与えられるというものである。
 現代社会における労使の闘争は、不自然である。資本家も労働者も、物質的、経済的な考えのみで、人間として、神の子としての尊厳を失っている。資本家は経済観念の上に、より次元の高い心を悟り、自己利益の追求の仕事に終始しないことである。利益は労働力によって得られるのであるから、やはり報恩の心はその労働力に対して感謝の心を示さなくてはならない。
 感謝の心の表現は、生活の安定を保証することである。
 また労働力の提供者は、正しい仕事の提供者に対して報恩感謝の印として、仕事に専念し、己に足ることを知った生活の基盤を築かなくてはならない。労使協調の精神は、闘争を根底にした協調であってはならないのである。
 働いた金を当然のごとくもぎとろうとする心、行為は、すでに正しい仕事とはいえない。賃上げ交渉にしても、本来相互理解を根本とすべきである。相互の心からの話し合いが、正しい神理なのである。
 現代社会の歪は、資本家も労働提供者もともに正すべきであるし、ともに心という内面を、より正しい神理によって開発することが第一歩である。

   【 労・使の葬儀の解決について 】
 闘争の場が職場であると考えることは、己の首を己で絞める結果を呼ぶものである。
 闘争の職場は、すでに不調和な黒い想念で包まれ、安らぎの正しい職場とはいいにくい。
 人々の争いと破壊の心は、そのまま地獄の阿修羅界に通じているからである。事業の実体について、常に労使の心を調和させ、より向上するための努力の結果には、神仏の光がもたらせられ、正しい仕事ができるであろう。

   【 不退転の正しい事業体とは 】
 労使の心と心の調和がとれ、互いに幸福のための団結が計られ、自己保存、自我我欲を捨てた事業体は、神意に適った団体である。
 正しい仕事への情熱、人々の心の調和度に比例した環境は、神仏の光によって保護される。他の事業場でできない立派な技術を生み出した環境は、不退転である。技術がなくても営業活動が勤勉で、正しい仕事に専念し、良い調和のとれた得意先を持っている環境は、不退転である。研究努力の結果、常に社会人類のために貢献する新製品の開発によって得た専売特許の活用は、不退転である。
 常に大自然の法則に適った正しい仕事は、知情意を伴って社会人類を幸福に導き、より高い次元へ己の魂を磨き、調和の環境を築き上げて行く。これが、仕事の本質である。たずさわる人々の心が大切なのである。
 人々の心に安らぎと調和、そうした娯楽を与える人々の仕事は、人々の心とこの心との調和の中により高い次元の芸術を生む。このような人々の正しい生活もまた、不退転である。自己慢心、は孤立を招く。心を失った芸術は自我そのものと化す。
 また、心を失った科学は、智と意のみによって闘争と破壊の社会を作ってしまう。
 心を失った指導者は一時は栄えても、いつかその指導力を失い、犯した罪を己で償わなくてはならないようになる。
 闘争と暴力によって造り上げたすべての結果は、闘争と暴力によってまた覆えされる。心をモットーとし、勤勉と努力によって造り出された社会は調和と安らぎの環境となり、より高い文明を築き、私達の魂はより高い次元に進化されて行く。
 このように、正しい仕事はそのまま人生の修行であり、その場はそのまま魂の修行場である。私達は皆、個の生命であり、その開発努力により、さらにより高い調和のある社会を築き上げることができる。
 万象万物、皆相互の関係にあって、独り人間のみが特別存在であると認識するのは誤りであり、神仏の体である万象万物を正しい心で活用してこそ正しい仕事ができるのである。
 指導者が自分自身に足ることを悟り、利益は働く人々に還元し、常に心の対話によってより高い業績を挙げ、余った利潤の一部は社会福祉の方向へも還元する。そうしたことによって経営者たちの菩薩心は磨かれて行くのである。
 こうした問題は、一人一人の人間が、神仏の子としての自覚を持ってこそ初めて実践されて行くものだ。
 私達は、物質や経済の奴隷になってはならない。己自身の心を持った生活こそ、神理に適った生活といい得るのである。





4.心行の言魂より 【 全文 】

 地上のあらゆる生物は、働くように仕組まれています。動物も植物も、そして、鉱物さえも、この地上の生きとし生けるものに、その体を提供しています。
 人間の場合も、その点は老若男女を問いません。幼児は乳をのみ、眠ることが務めです。それによって、やがて、成人し、次代を背負う、大事な働き手となるのです。学生は学校で学問を学び、社会人は社会のために働きます。主婦は家庭にあって子供を守り、夫の仕事が円滑にゆくよう、安らぎの場を与えるものです。
 安らぎの安の字は、宀(うかんむり)に、女と書きます。宀はもともと家の宀からきており、その宀に女が加わると、安、つまり、その周囲は安らぎとなるのです。
 男は、田と力が合わさって男となります。男は外に出て田畠で仕事に精を出す。女は、家庭にあって安らぎの場を提供します。男性が女性に美を求めるのは、美は安らぎの象徴であり、女性が男性に求めるもの、力は、たくましさの象徴だからです。男女の性が、それぞれ機能することによって、人間社会は円滑に回転します。
 働くということは、人間としての義務であります。同時に、職業に就き働くということは、人びとに必要なものを提供することを意味します。職業のない者、働くことの必要のない者は一人もいないはずです。
 今日の社会はそれぞれの業務を分け合い、たがいに、その生活を補い合い、助け合っています。すなわち、分業化によって、それぞれの生活を支えているというのが実情です。
 私たちが仕事をし働くということは自らの生活を維持し、人びとの生活を支えることです。ですから、それは愛の行為につながるのです。
 愛は他を生かすことであり、助け合うことです。
 仕事をし、働くことは他を生かすことですから、愛の行為なのです。仕事をし、職業に就くことが愛の行為にも拘らず、社会がこのように混乱するのは、仕事を単に金儲けの手段と考え、人はどうでも自分さえよければいいと思うのが、その原因です。ですから、今日の多くの人びとは正しく仕事をしているとはいえないでしょう。
 正業の在り方は、この地上界の調和に役立てることであり、その基礎は愛であり、奉仕の心なのです。
 戦後の企業は労使の対立が深まり、常に争いと混乱が絶えません。一部の指導者や扇動者は、文明の発達と社会の進歩は、こうした闘争の中から生まれるとみています。が、とんでもないことです。人間は、文明や科学技術のドレイではありません。人間のための文明や社会の進歩であって、進歩のために人間があるのではありません。闘争はどこまでいっても闘争であり、平和はきません。平和のない文明ならそんな文明は必要ありません。
 労使の対立が激しい企業ほど不調和であり、やがて倒産へと発展してゆきます。企業が倒産すれば労使ともども生活に困り、家族は路頭にさ迷うことになります。
 労使の対立はどうして起こるか、それは、組合も使用者もたがいに自己主張してゆずらず、それぞれが自己保存の中に埋没しているからです。使用者はできるだけ賃金を払うまいとし、労働者はより以上の賃金を獲得しようとします。これでは両者の争いはエスカレートせざるを得ません。労使が裸になり、常に対話の姿勢を持つならば、こうした争いというものは起きません。
 経済社会がどんなに合理化されたとしても、お互いに汗して働かなければ、生活に必要な物、つまり衣・食・住は得られないのです。経済の合理化とは分配の公平にあるわけですが、分配の公平はまず人間尊重の対話からであり、対話の前提は自己保存による自己主張をまず捨て、人間本来の目的と使命を自覚したところからはじまります。物事は対立を通しては、決して満足な結果は得られません。
 こうした意味で、まず、人間とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか、ということを理解すること必要です。人間は経済のドレイではありません。人間は己の魂を磨くために、この世に生まれてきています。それぞれの職業、役割というものは、その時々の自分の魂を磨く材料、環境であるということを知る必要があるでしょう。
 すでに、これまで既述してきたように、人間の魂は転生を輪廻し、ある時は王として、君臨し、ある時は一介の農夫で身を粉にして働き、ある時は医者として人々を救って来ました。そうして今世は一介の労働者であり、経営者の立場に立っているわけであり、そうした立場は、己の魂をより広く、豊かに育ててゆくためのものであリ、対立や争いにあるのではないのです。
 人間はみな兄弟であり、友です。
 こうなりますと、一つのパイ(物)をめぐって相争うことの愚が理解され、たがいに愛を持って、助け合う、他を生かすことの意義を見出すことでしょう。
 こうした意味から正業とは、次の三つの目的から成り立っています。
  一、魂の修行
  一、地上界の調和
  一、奉仕
 すなわち、人間の魂(心)は転生を輪廻して行くものですから、現在の環境、立場は自分の魂を磨いてゆく修行の場です。
 地上界の調和とは、そこに住む人びと、それぞれが、職業を持ち働き、自分の生活を保持し、人びとの生活を維持するということなのです。つまり、働くことは地上の調和に役立っているわけです。
 次に、その調和というものは、各人が人びとに奉仕するという愛の心が根底になければなりませんし、調和は愛の心によって支えられるわけです。





5.園頭広周先生著 心行の解説 下巻より 【 抜粋 】

 日本人は、人間は神の世界から天孫降臨した神の子であると知っていた。神が天地を創造された。しかし神は大きな部分を創造され、小さな部分は神の子である人間にその創造を任された。即ち「天業恢弘」(てんぎょうかいこう)(神さまの仕事を手助けして、それをすべてに押し広めて神さまの仕事を完成させる)が人間の目的であると考えてきた。この考え方が日本民族の労働観となっている。即ち、仕事をすることは神さまの仕事の手伝いをすることであって、仕事をすることそのことが喜びで楽しみなのであると考えるのである。

釈尊が説かれた正業(正しく仕事をする)の根本的精神は、それぞれの人々が仕事を通して自分の生活を維持し、人々の生活を支え、そうしてこの地上界を調和させることにあった。働くことは「側(はた)をラクにする」ことだとよくいわれるが、一人でなんでもできるわけはないのだから、それぞれが分業して助け合ってゆくこと、即ち働くことは奉仕であり愛の行為なのである。

 釈尊の教え
 「財を求めるということは、単に意欲だけでできることではない。それぞれの職業についての知識、訓練が必要であり、初めに技術を学び、後に財物を求むべし」
 人はいかにして財を得るか、という問いに対しては、
「適宜に事を為し、忍耐強く努力するものは財を得る。正直の徳を守ることによって信用を得、施与することによって交友を結ぶ」
釈尊は、祈祷をすれば商売が繁盛するというようなことは全く説いてはいられない。なにもしないで祈ってさえいれば金儲けができるというようなことをいわれたのではない。
まことに、極めて平凡に、当たり前であることを当たり前に、まずなんの仕事をするか、まずその仕事に対する知識と技術を身につけて、一生懸命に努力して信用を得れば自然に財を得ると教えていられる。
「正業」(正しく仕事をする)とは、全くそうすることである。

正しく仕事をすることは悟りに至る道の一つである。正しく仕事をすれば心が安らかになるというのが釈尊の教えである。
最近は、人間の欲望に奉仕し、人の欲望を利用して金儲けをする仕事がふえてきた。いわゆる第三次産業といわれるものの中にそういうものがある。そういう仕事をしている人は一般の仕事をしている人以上に儲けた金の使い道を考えないといけない。
仕事の中における人間観 ・・・ 人間観には、「性善説」と「性悪説」がある。日本人の労働観、人間観はもともと「性善説」であった。日本人の「大福帳」という記帳の仕方は性善説に基づいているが、外国の複式簿記は、どこで間違ったか、悪いことができないようにという仕方である。
 昔の日本人は借金に担保は取らなかったし、借用証書も書かなかった。借金を返せなかったら「満座の中でお笑い下さるべく候」であった。日本人は「恥」ということを大事にした。恥をかくことは人間失格を意味していた。明治維新になって西洋式の「性悪説」による」労働観、経済観が日本に入ってきた。
 その西洋式の労働観、経済観、人間観が百二十年間経って修正され、日本人が古来持ってきた、そして釈尊が説かれた労働観、経済観、人間観に復帰しようとしている。
 時代は変わりつつある。

 「八正道」の最後は「正定」「禅定」である。正しく瞑想する、正しく禅定をするための準備段階として「正業」(正しく仕事をする)が必要であるのである。時代は変わりつつある。古い考え方は通用しなくなる。だが神理は永遠に古くして、永遠に新しい。

 働くということは、人間としての義務であり、同時に、仕事を通して必要なものを提供してゆく慈愛の行為である。
 資本主義思想、唯物論の影響によって、仕事を単に金儲けの手段と考え、仕事をせずに金儲けしよう、遊んでいて食いたいなどと考えて財テクに走ったりしているが、そういう考えが社会を混乱させているのである。だから、現在の多くの人々は正しく仕事をしているとはいえない。
正業のあり方は、この地上界の調和に役立てることであり、その基礎は慈愛、奉仕でなければならないのである。


 - 完 -



2015.04.26 (日曜日)UP