高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








八正道 ・・・・・   正見正思正語正業

         正命 、
正進 、正念 、正定




 六、正進 ・・・ 正しく道に精進すること

            
・人間関係の調和




1.人間釈迦より 【 全文 】

 「道に精進」とは、親子、兄弟、友人、隣人における人間としての在り方であろう。人間は大自然と人との関係を通して、はじめて自分自身の大きな自覚に到達できるものである。大自然もない、自分以外の人間も存在しないなどと考えるのは愚かなことだ。同時に、自分以外のあらゆる存在は、自己を認識するための材料であり、魂の向上に不可欠なものであろう。親子、友人、隣人の関係を通じて、自己の魂を正しく磨いてゆける現象界は、天が人間に与えてくれた慈悲でなければならない。
 道への精進は、人間の特権であり、神の慈悲である。動物には見られぬ偉大な要素を持った者が人間であるからだ。





2.心の指針より 【 全文 】

 私たちの人生は、いくら長生きしても八十年か九十年、その短い一生を目先の利益のために過してしまうことは惜しいかぎりです。意識の10%しか働かないとすればそれも仕方ないかもしれませんが、しかしそうした環境だからこそ修行が出来るといえます。何もかもわかったならば、この世に生まれた意義はありません。
精進の目的は対人関係と地上の環境を整備し、調和させる事です。
人は単独では生きられないし、また生まれてもきません。必ず両親がおり、そして兄弟姉妹、夫婦、隣人、友人、先輩、後輩というように、そうした環境の中で生活しています。
そして、そうした関係の中で、己自身の心が練磨され、尊重し合う心がつくられてゆくのです。
最近のように物質オンリーの風潮が強くなりますと、親子でも心は他人であり、夫婦は享楽の手段としか考えぬ人も出てきます。友人は利益追求の手段であり、自分以外はすべて他人というようになってきます。恐ろしいかぎりです。
親子といえども魂はちがいますが、しかし自分を生み、育て、今この世に在るということは、両親の賜です。もし、その両親があの世(出生する前に親子の約束を交わす)の約束を果たさず、放蕩したり、あるいは胎児をおろしたりすることがあれば、話は別ですが、そうでなければ、この世に生まれ、魂の修行の機会を与えてくれた両親を安心させるような自分自身に成長することが、人の道に適った生き方でしょう。
夫婦にしても、大抵は前世で夫婦であるという場合が多く、そうだとすれば互いに助け合う、愛の環境を作ることが大事なのです。
兄弟姉妹、友人、隣人にしても、それぞれが助け合い、補い合い、話し合える愛の行為が出来るよう励むことが、人の道です。
正進の目的は、人の道、神の道を具現してゆくことです。
第二の目的は、私たちの共同生活が末長く続けられるように、動物、植物、鉱物資源を整備し活用してゆくことです。
私たちの生活は、こうした動・植・鉱物の資源を活用しなければ生きてゆけません。
そのため、こうした資源が循環の法則にそうように、大切に保存しながら、そして、それらを生活の上に活用してゆくことです。
神は私たちが平穏に生活できるよう、大地と、資源と、生きる環境とを与えてくれました。これを、半永久的に保存し、活用してゆくためには、私たちは、資源の再生産が常に可能になるよう、それらを大切に扱ってゆかねばなりません。
つい最近まで鳥や獣を見ると勝手放題に殺してしまっていました。必要なものなら許されますが、面白半分に動物を殺傷することは、植物資源の枯渇にも影響してきます。
石油や石炭も今日のように使い放題、掘り放題にしてゆきますと、これに代わる動力資源が出来る前に、ガスや電気はとまり、再び原始時代がやってくるでしょう。
こうした自然の資源は大切に活用し、科学の進歩と歩調を合わせて使ってゆかなければいけないものです。
資源を大切にする、ものを大切にすることも、道に適った生き方なのです。
私たちは常に反省し、行き過ぎや怠惰にならないよう、自戒してゆかなければなりません。





3.心の発見 神理篇より 【 全文 】

  私達の人生は、肉体を持って八十年か九十年であり、肉体に舟に乗ってしまうと表面意識が一〇%、潜在意識が九〇%という比率で、ほとんど目先のことしか分からないために、自分自身が悟る修行の場としては非常に良い環境である。
 この現象界は、人々の心の中が分からないため互いに誤りを犯すのであり、一寸先は闇というようなことをいうのである。しかし、人間生活はだから有意義といえる。心の精進を日夜にし、より高い次元の世界に魂を磨いて行くことができるのである。
 また逆に目先のことが分からぬから、苦悩の原因を自ら作り出し、悪いことも堂々とするようになる。人生は闇だ、などという考えになってしまう。人生は、正しい生活をしていれば、決して暗闇ではない。
 人々の心を重んじ、我欲にもとずいた考えを正して、自身の言動を、第三者のつもりで注意深く見守りながら生活することが、正しい生活というのである。こうした生活の中から、私達の潜在意識に包まれている無限大の智恵が解き明かされ、人間として生活をしている喜びを悟ることができるのである。
 実在界、あの世から見ると、私達現象界における生活状態や心の在り方は、丁度四方透明のガラスの中でのように見える。心の嘘も分かってしまう。
 私達はその次元の異なる世界の存在を、否定することはできないのである。自分の生活がこのようにガラス張りと知ったら、人間は苦しみなどは造れないことを悟るであろう。
 自分だけの心にしまっている不調和な生活を精算し、真実己の心に忠実な、正しい生活に励むよう実践することである。精進、この言葉の意味はここにある。





4.心行の言魂より 【 全文 】

 私たち人間の道は、中道に沿った調和の生活にあります。いうなれば、正しい普遍的な法にあるわけです。
法とは、循環の法則であり、循環の法はこの地上界のあらゆる面に適用されています。正道の生活とは、この意味で循環の法に乗った生活であり、正しい生活です。正しい生活とは前述の通り、中道の生活であり、中道の生活は、人びとをして調和の生活に導いてゆくものです。
中道の生活は慈悲と愛の生活であり、その想念行為は再び自分にめぐってくるものです。自己保存の片寄った独りよがりの生活は、この地上界が相互扶助の調和を軸に動いているので、当然その反作用として、苦しみを招きます。循環の法が働いているからです。
正進の目的は、人間関係の調和にあります。正命の目的が自分を正すものでありますから、その次にくるものは、人びととの調和なのです。
人間関係とは、夫婦、親子、兄弟、友人、隣人、そうして個人と社会の関係であり、それは、まず自分の足元から始まって、全体にまで発展してゆく調和のリズムであり、波動であります。夫婦の関係は、たがいに足りないものを補い合い、よき子孫を育て上げてゆくものであり、親子の関係は、過去世の縁によって生じたものなので、親は子をいつくしみ、子は親を敬うのは当然な事です。兄弟は、たがいに向上し合う切磋琢磨する間柄であり、友人は、社会生活上のよき協力者といえましょう。こうした人間関係の調和に一貫して貫く柱は何かというと、それは他を生かし、助け合う「愛」の心です。愛こそ、調和の姿であり、この地上の光なのです。
この地上は、男女の両性から成り立っています。一方が増えても困るし、減っても困る。男だけでも女だけでも人間社会は成り立ちません。考えてみてください。もし、一方だけが存在し、一方が存在しないとすれば、人間社会は、百年を待たずに絶滅してしまいます。これでは、この地上界に仏国土もユートピアもできません。 男女の両性があって、はじめて、社会生活(それはまず家庭から)が生まれ、子孫を育てることができます。人類の永遠の生活は、こうした男女の両性の存在によって可能であり、調和ある仏国土も完成されてくるのです。男女の両性にはそれぞれ特性と役割があり、それぞれが助け合うことによって調和されます。
色心不二の中道の精神はここでも生きています。現象界は、天地に分かれてはじめて空間が生まれ立体となり、生命の生きる場がつくられます。地球は南極、北極に分かれ、地球の自転、公転を正しく回転させ、地上の生命を育てています。
人間の世界も男女の両性があって、人間社会が永遠に続いて行きます。調和、中道、愛、慈悲という言葉の意味を現実的に、実際的によく考えてください。そして、こうした言葉が現実的に生きてくるのは、常に複数という関係の中においてです。これらの言葉は単独では決して成り立っていないことを考えてみてください。
正しい道に精進するとは、私たちが複数という社会の中で、他を生かし、助け合ってゆくことによって、はじめてその意義が生まれ、本来の目的に適ってくるわけなのです。





5.園頭広周先生著 心行の解説 下巻より 【 抜粋 】

 「正命」の目的は自分自身を正す事であった。つぎにくるものは、人々との調和である。
正進の目的は、人間関係の調和である。親子、夫婦、兄弟、友人、隣人、そうして個人と社会、個人と国家、個人と世界、個人と自然、個人と大宇宙、まず自分の足元から始まって、全体にまで発展してゆく調和のリズムであり、波動である。親子の縁は、過去世の縁によって生じたもので、親は子を慈しみ、子は親を敬うのは当然のことであり、夫婦は補足の原理によって互いに足りないところを補い合い、よき子孫を育て上げてゆくものであり、兄弟姉妹は、お互いに切磋琢磨して向上し合う間柄であり、友人は、社会生活のよき協力者である。

正進は、調和を目的としての行動であって、自分がしたことを自分で喜ぶ生活である。誰からほめられなくても、自分がそのことを喜べば、それはそのまま神に、天上界に認められ記録されるのである。

高橋信次先生が常に強調していられたのは「自己の確立」であった。正進ということは自己確立の道を歩むことである。何事もまず自分を見つめるところから始めよということである。人から言われたときにそれが事実であったら反省すれば自分がそれだけ成長するのであるし、そうでなかったら真実を知らないかわいそうな人だと思えばよいのである。
「自己の確立」とは、自分が神の子であり、仏の子であることを自覚したところのその良心に従った行為のできる人間になることである。


釈尊が説かれた正進とは、慈悲と愛の心による家庭・夫婦の調和と、複雑な国家社会に対する調和を目的とした行為にあったのである。それはあくまでも中道に沿った実践でなければならない。

高橋信次先生は、「正しく道に正進するとは、私たちが複数という社会の中で、他を生かし、助け合っていくことによって、はじめてその意義が生まれ、本来の目的に適ってくるのである。」と説かれているのである。

正進の目的は、人間関係の調和である。人間関係の調和に一貫しているものは、他を生かし、助け合うという「愛」の心である。この地上は男と女しかいないのである。一方が多過ぎても、少なすぎても困るのである。この男女の両性があって初めて子供が生まれ、調和関係が成立する。家庭は社会生活の単位である。人類の永遠の生活は、こうした男女の両性の存在によって可能であり、調和ある仏国土も完成されていく。人間社会は複数の関係によって成り立っている。だから正しく道に正進するとは、男女、夫婦、親子の関係を中心として広がる複数の社会の中で、お互いに生かし合い、助け合っていって、初めて本当の目的に適うことになってくるわけである。


 - 完 -



2015.04.26 (日曜日)UP