高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








八正道 ・・・・・   正見正思正語正業

         正命 、正進 、正念 、
正定




 八、正定 ・・・ 正しく定に入ること

            




1.人間釈迦より 【 全文 】

 さて、「正定」についてゴーダマは考えるのであった。正定の根本は反省であろう。反省は光明世界に住するかけ橋であろう。ねたみ、怒り、そしり、そして諸々の執着から離れるには、反省をおいてほかにはない。反省を積むことによって、心と肉体の調和が生れ、進んでは己の心と大宇宙の心との合一がはかられよう。反省せずして、心を空にするとマーラー(魔王)、ヤクシャ―(夜叉・やしゃ)、アスラー(阿修羅)、ナガー(龍、蛇)に支配され、自分の心を悪魔たちに売り渡してしまうことになる。
 正定は反省という止観(しかん)の行為でなければなるまい。
 ゴーダマは三十六年間の人生を、以上の八つの規範に照らして、洗い出してみようと決意するのだった。
 すなわち、八正道という仏法(正法)に照らして、自分の過去をふりかえってみることにしたのであった。

 ゴーダマは、過ぎし日をふりかえってみると、自分が歩いてきたその想念と行為は、自己保存のエゴしか見当たらないことを知ったのであった。そうして、心の遍歴について、中道という仏法(正法)の照明を当てていくと、至るところ、黒雲が渦をまき、正法に適う行為のすくなさに唖然とするのであった。父や義母に対する態度、部下との競争意識、動物愛護にしても、そのほとんどが独りよがりであったり、自己主張の現れであった。これまで六年間の山中での修業にしても、一日も早く悟りたいという自己の欲望が先に立ち、外見にとらわれたみせかけの修行であった。悟りへの重要な過程は、心の内面にたいする反省であり、正法という大自然の摂理に照らしてみて、ものの見方、考え方、とらえ方、そして、それにもとづく行動が、果たして正しいものであるかどうかを、内省することがキメ手になるのであった。そうして、正しくない面が浮彫りされたならば、二度と再び、同じことをくりかえさないように、想念と行為のうえで現わしていくことであった。
 ゴーダマは過去をふりかえり、反省することによって、心の曇りを、一つ一つ払いのけていった。

 三十六年間の過去をふりかえり、その想念と行為について、黒白をつけてゆくことは、大変なことであった。黒白をつけるには、中道を根本とした第三者の立場で自分を眺めなければならない。身びいきがあっては意味を持たない。これでは反省にはならないからだ。それだけに、反省が厳正なものであればあれほど、愚かな自分が浮彫りされてくる。人に話すことも出来ない。
 反省して悪いと自認したとしても、その事実を消すことはできない。要はその事実を、これからの人生の過程において、改めてゆく以外にないのである。また、過去のその善悪について、それに執着を持つと、これからの行動が束縛されてくる。本来の自由性がそこなわれてしまう。特に悪の行為について、
 「悪かった・・・・・・」
と認めたまではいいが、それにとらわれると暗い想念をつくりだしてしまう。この点も中道の心が大事である。過去の全体験は、魂の修行の一過程であるからである。反省の功徳は反省後の中道の実践に掛かっている。功徳は身心の調和という姿で現れてくる。
 ゴーダマは三十六年の過去を反省し、開眼する。そうして開眼後の実践によって、開眼の領域とその内容を、いっそう充実したものにしていくのである。





2.心の指針より 【 全文 】

 正定の在り方は、日常生活における正しい想念で生活が行えることを意味します。
つまり、八正道の神理に適った生活行為なのです。
それにはまず、八正道の正見、正思、正語、正業、正命、正進、正念について、反省をすることから始まります。
今日一日をふりかえり、八正道の正しさに反した想念と行為がなかったかどうか。あったとしたら、どこに、なぜ………というように、静かに反省し、思念と行為について検討する事です。そして、正道に反したことは、神に詫び、明日からは、二度と再び同じ過失をくりかえさないよう努力することです。
こうして日常生活が神理に適った生活行為が出来るように、毎日の努力を積み重ねて行くことです。
 正定は、反省から始まり、そうして、神の心である調和の心と自分の心が一体になることです。しかもそうした神の心を、日常の生活の中に具現できるようになることです。
つまり、正定の第一歩は、禅定と言う反省的瞑想から始まり、やがて、守護・指導霊との対話となり、菩薩の心である慈悲と愛の行為が出来るようになることが第一の目的。
第二の目的は、禅定の心が、そのまま日常生活に生かされてゆくことです。
禅定は、日常生活をより豊かに、自己の心がより大きく、広く、神理に適った生活が出来るようになるためのものですから、禅定のための禅定、つまり、反省のための反省では、本当の反省にはならない、ということです。
 一日中禅定しているわけにはゆきません。私たちは仕事を持ち、家庭を持ち、そして、社会の一員として生活してゆくのですから、禅定は、一日のうちの一部であり、一日の活動の動力源としなければなりません。そうした意味から、正定の在り方は、禅定そのものではなく、反省そのものでもなく、一日の生活行為が八正道に適ったものでなければならないわけです。
 こうして、私たちは、正定を日常生活のものとすることによって、はじめて、如心(にょしん)という段階に到達します。
如心とは、己の心がある程度理解できた事であり、それはまた相手の心をも見通せる能力を備えた状態をいいます。
普通は人の心とか、性格というものは長いこと交際してみないとわからないものです。あの男とは二十年もつき合ってきたが、あんな男とは知らなかった、という話をしばしば耳にします。
ところが、如心の心を体得すると、未知の相手でも、名前さえわかれば、その人の意識の程度、性格、生活態度がわかってしまうのです。
同時にまた、日常生活が安心して送れるようになります。
こういうように、八正道の功徳というものは、普通では考えられないようなすばらしいものがあるわけです。





3.心の発見 神理篇より 【 全文 】

 私達が、神仏の子としての自覚ができることにより、毎日の生活自体変わってくるはずである。この世は修行所である以上、やがては帰らなくてはならない世界が存在しているのである。私達は煩悩という海の中でも悟ることはできる。心の調和を計り、反省の瞑想は、己の霊域(オーラー)を造り出し、己の心の神性、仏性が潜在意識の扉を開き、不滅の世界、あの世の生活をも思い出すことができるのである。
 意識は実在界も、現象界のどこにも自由自在に行ける。
 私達が眠っているときは、肉体からの霊子線を通して、実在界や、この現象界の知っている場所や、かつて自分の生まれた過去世の場所に行っている場合もある。さらに神仏から安らぎの光のエネルギーを意識は吸収してくる。
 眠る、ということは、肉体という舟を休めるとともに、意識、心の洗濯にもなるのである。また、意識はその天使達に磨かれるときもある。酒も呑まないのに二日酔いのような状態や、風邪でも引いたのではないか、という肉体的症状がそのために起きる場合がある。ときには、心臓の動悸がしたりして気分が悪くなるときもある。
 しかし、守護霊や指導霊に磨かれた十数時間後はすっきりする。ただし、その肉体的症状は病気ではないから医者に診せても治らない。
 人々の中で、もしこのような現象に悩まされている方々があったら、良く反省し、早速正法に適った生活をすることをおすすめする。
 これ以外にも、イライラ、怒りっぽい、などという状態になっている人々は、これは不調和な低級霊に支配されている場合が多い。神仏の光の保護を受けることができないとこういうふうになるときがる。
 良く頭痛持ちなどという人があるが、これは取り越し苦労をする人に多い。あらゆることを全部頭に詰めこみすぎるのである。
 私達の頭脳は、体全体の細胞集団の総合指令室であり、コントロールセンターなのである。記憶室は、大脳皮質の神経線維に流れる一切の電気的な波動粒子によって成立している。そこから発信された振動のエネルギーは、意識に伝達されて記録される。
「私達のすべては脳内部に記録されている」
という考え方はだから間違っているのである。もし私達の脳が、一切の記憶装置を持ち、考えるエネルギーを発信する場所、と考えるならば、眠っているときに、考えたり見聞したりすることは出来ないはずであろう。
 私達が眠っていても脳波の振動が発信されているというのは、意識とのコンタクトを計っているためであり、霊子線が切れて意識がもどらなくなったときは、脳波の振動は停止し、肉体は光子体と分離され、あの世に帰ること、死を意味することになるのである。
 脳波の振動数も、五官を通して脳内に通じ、その発信振動により意識に報告されているのだが、睡眠中の振動数が異なっているのは、このような組み合わせになっているからである。過去世は、肉体細胞では思い出せない、ということである。
 私達は日本にばかり生誕するわけではない。肉体条件の異なるあらゆる世界の国々に自分が望んで転生輪廻している生命であることを知るべきで、肉体的先祖がすべてであると考えている人々は、ここに誤りを起こすのである。
 生命は両親から、と考えるなら、なぜ親子の間に不調和な現象が起るのか。なぜ性格が異なるのか、なぜ考え方が異なるのか。
 これには答えられないはずである。
 メンデルの遺伝の法則は、肉体遺伝であることを忘れてはならない。
 私達の脳細胞は約二百億ある、といわれている。しかしそこは、記憶の道程路にしかすぎない。もし人々が、記憶脳細胞を唱えるならば、私達の交信の実験をお目にかけよう。
 私達霊道者は、あらゆる次元の異なった世界との交信が可能になっているのである。
 正しい神理の実践生活の中で、定(じょう)に入ることにより、私達は、体が宇宙大に拡大され、神仏の意識と調和され、心の安らぎを味わうことができるのである。
 ある人は、想念停止によって悟りを開いたという。万象万物一切の現象は、一時も停止することがないにもかかわらず、想念停止の瞬間に動物霊に支配され、俺は神だ、などという偽善者もいるが、そういう本人は常に病弱であり、また物欲念を拭い去ることのできない人なのである。病弱の原因を、信者の業を受けたのだ、と逃げ口上をいうが、事実は、暗い想念によって憑依霊に憑かれているのである。
 また、山中に入って修行したと称する者が、あたかも立派な修行者のように思われがちであるが、これは逆である。
 滝に打たれたからといって、煩悩は滅するものではない。肉体修行の苦しさに、意識と肉体が調和せず、その瞬間に主として動物霊に支配され、その変化(へんげ)を見たり、霊聴を聞いたとかいっているが、これは本物ではない。千人界や、天狗界の人々に多い修行法であるが、このような人々は自我が強く、慈悲心もなく、本人が常に不調和で安らぎのない者であり、悟りには遠い人間である。神秘の術に通じている、などという手合いにはこうした動物霊に支配されている人々が多い。
 このような、行ないは、正しい定とはいいがたい。
 正法に帰依して悟りを開いている人々は、皆謙虚である。驕る心はないのである。この人々は、一切の現象にとらわれず、正しく八正道を実践し、三世を見通す力を持っている。
 人間は山中に入って修行するために生まれてきたのではない。正しい仕事に専念し、人間らしく生きるために肉体舟を持ったのである。
 インドのゴーダマも、六年間の山中の修行では、遂に悟ることができなかったことを知るべきである。
 イスラエルのイエスも、子供の頃、山中に入ったが、ほとんど肉体的荒行はしていない。
 神理を悟らないで、禅行をしても、それは形式にしかすぎない。神理を悟った実践生活の中での肉体的な山中行など、スポーツとしてなら良い。だが、悟りは、形式や理論ではない。
 形式や理屈のみにとらわれている人々は、未だ悟りの一歩にも踏み込んでいない。
 正しい定とは、神理の悟りと、正しい想念と行いの中に成就するものなのである。
 学問仏教でも、形式仏教でも、観光仏教でも、また葬式仏教でも、もはや悟りを得ることはできない。
 インドの時代に説いたゴーダマの仏教によってこそ、悟りへの道は開けることを悟るべきである。
 イエスの時代にもどることである。
 なぜなら、その当時の神理に帰ることが、現代社会の人々に、本当の心の尊厳を悟らせ得る早道だからである。
 このような、自分自身の悟りを、如心、という。
 八正道は、己自身の悟りであり、人間は最低この悟りを得るために生まれてきたのである。

 正法は一国家のみに通ずるものではなく、全宇宙の神理であることを知らなくてはならない。仏教も、キリスト教も、ゴーダマの時代、イエスの時代に帰ることが、先決である。
 神理は、時代に拘束されるものではない。物質文明は生活の知恵であり、より高い次元に心を持つことが万物の霊長であることを悟らなくてはならない。





4.心行の言魂より 【 抜粋 】

 正定とは、反省を言います。
私たちは、自己反省を通して、ものの道理が理解され、同じ間違いの愚かさから解放されてゆきます。
反省こそ、神が人間に与えた慈悲であり、愛の能力といえましょう。
動物にも本能・感情はありますが、反省という理性の能力、知性の働きは、人間をおいてほかにはありません。
この意味で、正定の反省は、人間だけに神から与えられた特権であり、その特権を生かしてこそ、進歩があり、無限の調和に向かうことが出来るのです。
反省は正見・正思・正語・正業・正命・正進・正念の七つの規範について行います。
中道の尺度を持って、今日一日をふりかえり、ものを正しく見たか、思ったか、語ったか、働いたか、生活したか、念じたか、友をいたわったか、と反省します。
人の個性と業(カルマ)というものは、一見似てるようだが、ちがうのです。しかし、その個性と業というものが、日常席活の上に非常に大きく影響しており、したがってその個性と業のちがいを、まず発見する努力、そして反省をしてみたいものです。
それにはまず、ずっとさかのぼって、一才から十才、十才から二十才、二十才から三十才、三十才から四十才、というように、年代別に自己反省をしてゆきますと、自分の業はどのようなものであり、全体の中での自分の在り方、自分の役割が明らかになると思います。個性というのは、ここでは、人それぞれの持味、特性、そうして、ここから生ずるその人の人格、役割を指します。
年代別に反省をしていきますと、人それぞれの性格が、大体、三才頃から十才ぐらいまでに、ほぼ形づくられていることに気付きます。

業というものは、自分自身にとっても、人にとってもプラスになる面が少なく、いわゆるその人の欠点、短所という形で現れています。
業はもともと執着の想念であり、それは家庭の環境、教育、思想、習慣、友人などの影響をうけて、つくられて行(ゆ)きます。

また業というものは、常にリンネしており、短気という性格は、ふだんは出なくとも、その場面に会うと、つい出てしまうという性質を持っています。つまり短気のリンネです。
そこで、反省し、その原因をつきとめたならば、勇気と努力と知恵をつかって、二度、三度と同じ事を繰り返すことがないようにして行くことです。
原因がわかり、その原因にほんろうされていたことに気付きますと、その原因によって影響を与えてきた人びと、そうしてまた、神に対して詫びなければいられない気持ちになるものです。
悔い改めの心こそ、業を超えて行く足場になるからです。
もし、本当に悪かった、あるいは感謝と報恩の気持ちが湧いてこないとすれば、その人の反省は、まだまだ本物とはいえないでしょう。

反省に仕方としては、各人が工夫してやってもらってよいのです。が、一つの方法として、まず、現在の欠点、短所をノートに書き記(しる)し、その一つ一つについて、年代を追って、原因をつきとめます。
もう一つのやり方は、両親と自分、夫と自分、子供と自分、兄弟姉妹と自分、友人と自分、上役と自分、後輩と自分、得意先の人々と自分、隣人と自分、というように、他と自分とを対比させ、これまで生きて来たさまざまな状況の中で、自分の心がどのように動き、どのような態度ですごしてきたか。
これらを前と同じように年代別に追ってゆく方法です。
ものを対比しながら反省をしますと、比較的自分本位の傾向から離れ、客観的に真実をとらえることができます。

中道の反省は、自分の在りのままの姿、内在する正直な心に照らして、両親に対して自分はどう対処してきたか、両親の献身に対して、自分はどれほど孝養したか、と疑問、追及して行くものです。

こうして自分の欠点はすべて自己保存という自我の想念がつくり出しており、この想念に自分が支配されているかぎりは、正見、正思、正語といった正しい生活、調和された生活は期待できないわけです。不幸の100%は自分の想念の在り方にありますから、幸福を望むなら、中道の生活に軌道修正する必要があるわけです。

さて、正定の反省は、このようにして、正しい想念を軸として行われることが必要です。
反省後の瞑想は、心を豊かに安定させます。
心のバイブレーションは神の心に近づいて行(ゆ)きます。
心が落着き平静になりますと、守護霊の通信をうけやすくなり、示唆に豊(と)んだ考えが腹の当たりから浮かんでくるようになります。
平静な心を生活の場に保ちつづけますと、外界の動きに心を動揺させることがなくなり、外界のさまざまな動きを正確にキャッチすることができます。
心を内に向け、外に向けるなということは、外界の動きに心をとらわれず、これらをすべて心の糧とすることです。
誰かが自分を中傷したとします。心が外に向いているときは、すぐそれに反発し、心をいらだてます。ところが内に向いているときは、その中傷を平静にうけとめ、冷静な立場でその中傷の中身を考えます。もし自分に非のないものとすれば、中傷した人は真実を知らぬ気の毒な人であるわけですから、誤解を解く機会がなければ相手のために祈ってやることです。中傷の中に自分を置くと、それだけ心を不安定にさせ、生活のバランスを崩してゆきます。毒は食わないことでありますが、中傷という一つの事柄を通して、人間の心の姿を知る機会ができたのですから、心が内に向いているときは、すべてが心の糧になるということです。
こうして正定を重ねていきますと、やがて静(心)と動(生活)のバランスが保たれ、不動の心が養われてきます。つまり、正定の目的は、一つには中道に照らした反省にありますが、今一つは、その静なる心を日常生活の中で活かしつづける不動心にあるということです。





5.園頭広周先生著 心行の解説 下巻より 【 抜粋 】

 反省ということで多くの人が間違いを犯しやすいのは、欠点、業の修正にばかり気を取られて、よいことをどしどし実践して前進することを怠ることである。

反省をしたら、「よし、やるぞ」という勇気が出てきて、反省したことを積極的に実践して、そうしてその反省したことに打ち克って、人生の勝利者となり、業を修正して乗り越えられたことに対して感謝する事が出来る、という反省をしなければいけないのである。正しい反省は積極的な人生の推進力になるが、間違った反省は、かえって業に執着して人生を暗くしてしまう。
「業(カルマ)というと、多くの人が悪い業だけを考えてしまう。業には悪い業もあれば、良い業もあるのである。よいことをする習慣性、傾向性もあるのである。だから、よいことはどんどん実践してゆく事である。よいことを実践した時には、心に喜びが感じられてくる。よいことをしないと、生きる喜びが感じられないのである。

反省をする場合は、自分の良い面(長所)よ、悪い面(短所)とを書き出してみることである。短所だけを書いてはいけない。そうして自分のよい面(長所)を確認して上で、こういうことはいかんなと短所を反省して、「よし、今度はこれをこのようにしてやろう」と反省することである。

反省は、悪を善に、欠点を長所に置き換える作業なのである。だから反省は楽しいことなのである。「反省は、ああ楽しいな、これでまた自分が良くなる。」と明るい心で座れるようになったら合格である。欠点が修正されてくると心が安らかになる。自分の心が安らかになると自分の心が明るくなり、自分の心が明るくなると周囲も明るくなる。

反省が大事であるのは、反省によってのみ心は浄化できるので、他のどんな方法をもってしても心をきれいに浄化することはできないからである。

われわれの想念を絶えず神に、善にふり向ける。そのために禅定はするものである。

正定、または、禅定、瞑想ともいう。天台大師は、止観といわれた。
止 ― 反省
観 ― 観ずること
正定とは正しい禅定、正しい瞑想であり、そのためには反省によって心を安らかにすることが大事である。心が乱れていたのでは正しい禅定、瞑想ができない。反省は神が人間にだけ与えられた特権であり、この反省を通してのみ、物の道理が理解され、同じ間違いを犯すことから開放される。私たちは反省を通してのみ進歩向上することができる。反省こそ神が人間に与えられた慈悲である。いかに多くの罪を犯したものといえども、この反省を通してのみ神に近づき、神を知ることができる。それ以外の方法で神を知ることはできない。反省は、今日一日をふり返り、物を正しく見たか、思ったか、語ったか、働いたか、生活したか、念じたかなどを反省するのである。

反省、懺悔、悔い改めによって、私たちは性格をつくり変え、業を超えていく。心からの反省、懺悔、悔い改めには、感謝と報恩、「すまなかった」という思いの涙が伴う。反省の後で感謝が出てこなかったら、その反省はまだホンモノではない。

反省の基本はなんといっても親と自分の関係である。反省によって心から涙を流して両親に、感謝できるようになると、すべてのことについてスラスラと深い反省ができるようになってゆくものである。

瞑想、禅定を重ねていくと、静(心)と動(生活)とのバランスが保たれて、不動心が自然にもてるようになる。よく「不動心をもて」といわれるが、不動心は持とうと思って、いくら祈ってみても、それによって得られるものではない。静かな心で日常生活を実践していく中で得られるものである。

八正道を実践し、瞑想、禅定をしたらそのまま一直線に最高の悟りの境地に達するのではない。瞑想、禅定をすると、今までわからなかった自分の心がわかってきて、心が一段と飛躍向上していることがわかってくる。そうした心でまた物を見る(正見する)と、以前とは違った物の見方ができるようになる。するとその違った新しいものの見方を本にして物を考える(正思する)と、また一段と深く物を考えることができるというようになって、以下順次に正語も正業も正命も・・・・・・深くなってきて、瞑想、禅定も新しい心で座ってすることができ、それだけにまた深い境地が得られるようになってゆく。このようにして八正道は循環してゆくことによって悟りの新たな境地は開かれてゆくのである。


正法の根本は中道であり、中道の極点は調和である。調和が神仏の心である。


 - 完 -





高橋信次先生著 「人間釈迦①~④」・「心の指針」・「心の発見 三部作」
         も併せてお読みください。― 三宝出版社 刊行


園頭広周先生著 「心行の解説 上・下巻」も併せてお読みください。

         ジュンク堂書店福岡店、及びMARUZEN&ジュンク堂書店梅田店
         の二店舗にて販売中。
         遠方方は宅配可能です。直接該当店舗へ電話にて注文下さい。

  
--------------------------------------------------------------------------------

  
正法会及び正法出版社は、著者他界後に法的整理が行われ解散致しました。
  園頭先生のご著書は、今後販売される予定はありません。在庫限りの販売です。





2015.04.26 (日曜日)UP