高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







特 集 昭和48年7月(1973年)

    講師幹部研修での高橋信次先生の講話

             八起ビルに於いて



 私達が神理を広めて行くのに、一番重要なことは、「自分をつらなけばいけない」ということです。自分をつくるほど難しいことはありません。人に色々ということは案外楽です。

 末法という時代になりますと、人間は本当の心の状態を忘れてしまいますから、心の柱がなくなってしまう。自分自身の中にそれを求めなければいけないということを忘れてしまって、遠くの方へ神仏を求めて行くわけです。
 ところが神仏は、皆さんの心の中にあるのです。遠い世界でもなければ、インドの時十万億土の西の方だといったというように伝えられていますがそうではないのです。

 イエス様は、「あの世とこの世は「あ」と「こ」の違いで、一ころびだよ」といっていられるように「いま、ここ」にあるのです。

(園頭先生注:「いま、ここ」にあってもそれが自分の心の中にあると気づかずに、自分の外に求めれば、自分の外にどこかに神があるという訳ではありませんから、求めても求めても得られない訳で、精神的には無限の百千万億の彼方にいられるという気持ちになるのは当然のことである)

 全ての諸現象には原因と結果があります。多くの人は結果だけを見て原因を見ることをしません。

 ある電気会社の社長の息子さんが、6月17日に交通事故を起こしました。もう1ケ月意識不明のままです。高校3年生です。霊視すると、本人の霊は肉体に戻りたいと真っ赤な炎の中でいっています。だが戻ることができないのです。頭をやられているので頭をコントロールできないのです。750ccという4気筒の大きなバイクで、スピードを出していたためにぶつかった時にくるくると廻って飛んで頭をぶつけた。60キロでぶつかった時の衝撃は、8階建のビルの屋上から飛んだと同じ衝撃であるから、100キロとなると相当なものです。この場合も原因は両親にあります。両親が余り甘やかし過ぎている。

 人間は本来、病気とか、経済的、家庭的な苦しみを通して一つの道を求める場合が多いのですが、しかし正法というものは、そういう人ばかりを相手にしていてはいけないのです。病気でもない。経済的に困っている訳ではない。第一線でバリバリ働いているという人達が本当は知ってほしいのです。

 苦しみを縁として道を求めるということもいいことですが、どうしてそうなったか原因を反省しようとはしないで、結果だけを求めようという考え方では困るんです。苦しみがなくても、そういう人に神理を知らせるということが大事だと思います。

 たいていの宗教というものは、「あなたは何年前から入信したのか」ということを問題にしますが、心のあり方というものは、時間的に古い新しいはないのです。わかってしまったら即座に知ってしまうのです。それが現実には「園頭さん」という方でした。生長の家の大幹部だった人ですが真理に触れて、即座に現証が出てしまいました。こういうように私の所に来たのが古いとか新しいとかということは問題ではないのです。

 それだけに正法というものについたならば、自分が実行してみるということが大事だと思います。自分というものはどうしても甘くなり易いものですが、自分にきびしさを持って欲しいのです。そういう意味からいっても園頭さんのように、荒削りではあっても、自分を見つめてブルドーザーで自分の人生航路の凹凸を直してあの人は来たのです。その位の熱意があなた方に欲しいのです。そうしてあの人は心の偉大性を発見したのです。そうしないと自分の心の偉大性は発見できないのです。

(園頭先生注:昭和48年(1973年)1月13日、当時私は大阪に本部のあるトールス教団本部に在職していました。所用で東京へ出張した時に成長の家関係の人から高橋信次先生の本をもらったのです。「心の発見」「原説般若心経」の2冊を読んだ時に思ったのは「あゝ今までの信仰は間違っていた」ということ、「自分に対する反省」(それはそれまで一ぺんも失敗のない人生を私は送ってきたわけではありませんでした。信仰しながらも、しかも宗教団体の指導者として人に道を説く立場にあっても、数々の間違いを犯してきました。それまで善いと思って自分も信じ、人にも説いてきたことが、決して善いことでなかったということも沢山あったことに気がつきました。そのことについて全部反省しました)と、その反省の結果から「よし、今までのことはもう仕方がない。もう一ぺん出直しだ。」ということでした。私が高橋先生に初めてお逢いした時にいわれたのは、「宇宙即我を体験しましたね」という次には、「あなたはもう一ぺんやり直しだ」と決心しましたね。ということであったのです。
 過去を洗えば、誰だって間違いを犯していないという人は一人もいないと思います。その過去の失敗にいつまでもとらわれていてはいけないのです。「もう一ぺん出直しだ」という決意と、それによる実践が必要なのです。ですから、私の本当の人生は昭和48年1月からの9年間で、それまでの約50年間は真実の正法に辿りつくまでの準備期間であって、そのような過去があったればこそ正法を知ることができたのであるとは思っても、正法を知っていればあのような失敗もなかったものを、と思うと、なぜかムダな人生であったようにも思われて、そうであればこそ、正法を知ってからの人生が短くてこの世を去ることはもったいないような気がして、もっと大いに長生きしたいと思っているわけです。
 正法を知ったら、そこで心に決まりをつけることが大事なのです。いつまでも過去の惰性の中で正法を実践しようとしてはならないのです。
「よし、これからは正法によって新しい人生を送るのだ」という自覚をキリスト教では「新生」といい、仏教では「回心」というのです。)


 アニルッタという人がありました。この人はアナン達と一緒にカピラから来た人で、現在は三橋さんといって70才ですが、カピラから来られた時は20代でした。人生というものは楽しいものだということを悟ったのはよいのですが、仏陀の説法を聞きながら居眠りをしたことを注意され、この眼があるから眠るのであると、それに負けてはならぬと眠らないことをやったために逆に眼が見えなくなりました。
 眼というものは、ねむってこそ栄養になるのです。

(園頭先生注:眠る時にはよく眠るということが正しいのです。だが長く眠ればよいというものではなく、長く眠るクセがつくとかえって身体は疲れてしまいますから、何事も中道が大事だということになります。)

 
先日、高田馬場の観音寺で講演した時に、煮えたぎった湯が子供にかかって、その子供の眼が見えなくなったという人がありました。
 これはその母親が、「見たくない」という想念を持っていたからです。
想念というものは、ものをつくり出してしまうのです。

 アニルッタさんは眼は見えなくなったが、そのためにそのために一切の執着がなくなったために、逆に心の眼が開いてしまいました。あの世もこの世も見えるようになりました。盲目であってもどこえでも行けるようになりました。

 学問は人生を生きるための知識を与えるもので生活を豊かにする手段である。智慧は心に内在されているもので、その内在されたものを湧現させる力である。両方とも必要なものであるが、心のあり方、道というものがわかったら、素直に歩む以外にない筈である。そのためには、己に負けない自分をつくることです。

 それにはどうするかというと、インドでは、アートマンといっている「我」があります。これには「善なる我」と「偽りの我」とがあります。これを選別するのが正道を物差しとした反省です。

 大きく一まとめにして反省しようとするよりも、小さいことでも一つ一つ反省して心を丸く豊につくり上げて行くことが大事です。皆さんの心の中のスモッグを晴らすにはこれ以外にはありません。

 反省的瞑想は、正しい心の物差しを知らないでやっては何にもならないのです。心の物差しを持って善我であるか偽我であるかをはっきり見極めることです。

「反」というのは「ふりかえって、かえり見る」ということであり、「省」とは「少な目にかえり見る」ということで、一ぺんにどかっとかえり見るということではなくて、少しづつ少しづつ、じっくりと省り見ることです。

 これ以外心のスモッグを晴らす道はないのです。このスモッグがかかるから苦しみとなるのです


 万生万物の相互関係という環境を忘れ去って、足ることを忘れた欲望を持ち、自分さえ都合がよければよいという考えを持ったことが、人類最初の犠牲者が出て、これではいけないということにことになったのです。

 自然の中に我々は共存しているんだということがわかったら、そこに出てくるものは調和しかありませんが、現在の人はそれがわからなくなってきている。そのために斗争と破壊、自然破壊もそこから起こってきているわけです。

 現代社会のあらゆる思想はみな斗争の段階です。斗争と破壊というものは、万物の霊長である人類は卒業してきたのです。ところが肉体を持ってしまうと永い歴史の中で人類がつくり出した不調和というものが、いつの間にか我々の生活の中に習い性となって斗争と破壊をつくり出してしまった。

(園頭先生注:斗争と破壊は卒業して来たということは、斗争と破壊の心をなくさないと天上界へ上れないし、天上界からでないとこの地上に生まれて来ることができない。過去世で斗争と破壊を行った場合は一ぺん地獄へ堕ちるが、地獄界からはこの地上に生まれてくることはできない。斗争と破壊の心をなくして地獄界から天上界へ上ってからでないと生まれてくることができない。だからこの地上に生まれてくる人々は、斗争と破壊の心をなくして天上界へ行ってから生まれてきた人達であるから、卒業してきた人達であるというのです。その人達がまたどうして斗争と破壊の持つのかといいますと、それが生まれた環境、その後のしつけ、教育、思想、習慣によっていつしか斗争と破壊の心を持ってしまうのです。だから正法を知った者は、生まれてくる子供に斗争と破壊の心を与えないように、調和が大事であることを教え、また学校でも調和の道を教えて斗争と破壊を教えないようにしなければいけないのです。)

 その意味からして我々は正道という偏らない道、中道という道でしっかり自分自身の心を照らして、心の曇りを晴らさなければいけないのです。

 もう私の話だけを聞いている時ではなく、重要なことは如何に実行するかということです。その実行が正道に叶っていれば、誰でも結論を出すことができるのです。


 私の下に早く来た人達は、一日も早く自分をつくることです。年を取っているから、若いからとか、私のところに早く来たから遅くきたからということは問題ではないのです。

 あせってはいけません。とにかくやることです。たとえば今、自分が不調和であったとしたら、その不調和の原因がどこにあるかをはっきり見抜くだけの力を持つことです。そうすれば第三者を指導することもラクになります。

(園頭先生注:自分で自分の心の動きをじっとよく見る経験、自分の過ちを反省して正しく実践したことからどのような結果が出てきたかの体験が、人を指導する場合の基本になるのです。高橋先生がいわれたことがどういうことであるかを私がよくわかることができたのは、それまで私は自分の心を見つめ、実践してみて、いろいろな体験をしてきたからです。人を指導するには自分ができていないといけません。だからといって完成されるまでは人を指導できないとなると、私達はいつまで経っても人を救うことはできないということになります。もしそういうことだということであれば、人を指導できるのはお釈迦様やキリストだけで、その外の人は誰も指導できないということになります。それでは一向に正法によるユートピアも実現しません。高橋先生がいっていられるように、たとえ不調和であってもその不調和がどうして起こったか、その原因を見抜くことができれば(原因がわかれば実践せずにはいられなくなります)人を指導することもできるようになるというのです。完全によくなるまでと待つ必要はないので、自分も反省し実践しながら人にもすすめることです。)

 相手を誹謗し混乱させる心は、常に自分が幸せでありたいという我、偽りの我があるのです。この偽りの我が自分自身を大きく暗くしてしまいます。

(園頭先生注:我々は誰しもが幸福でありたいと思います。ところが自分より先に人が幸福になると、自分がその人に負けたように思ってその人に嫉妬し、羨ましがり、悪口をいったり中傷したりしてしまいます。そういう心は偽我であるというのです。
 金持ちを見ると、その人が正しく儲けたものであっても、「今頃悪いことでもしなければあんなに儲けられるものか」といったり人が幸せになったと聞くと、なにかケチをつけたくなったりする心、それは人はどうあっても、自分さえ幸福になればよいという自我があるから、人がよくなったと聞くと癪に障るということになるのです。そういうケチな心を持っていては人間は幸福になれません。人が幸せになったことを、自分が幸せになったように喜ぶ心を持つようになると運命は開けてゆくのです。羨ましがるというのは、相手と自分とを比較して、相手がよくて自分がみじめに見える時に起こる感情ですから、人を羨ましがるという人は潜在意識(心の奥底)で、いつも自分を不幸だと思っていることになりますから、余り人を羨ましがる人は幸福にはなりません。自分よりもすぐれている人を見たら、その人がそうあることを喜び、自分もその人のようになるように努力すればよいのです。)

 正法という正しい道を知っている人達は、第三者から入ることを八正道というフィルターにかけて見ることが大事です。

 京都の田中さんは、東京に本部のある教団の責任者でした。その教団の実体を正しくフィルターにかけて見なかったために、相手からいわれた言葉をそのまま受け入れて動物霊を見てしまった。人間というものは、言葉でころっと参るものです。その結果あらゆる試練を受けました。そうしてトラック2台分の祭ってあった道具を運び出して捨て、祭ってあった所を取りはずし、畳も何枚か替えました。

 私がそけへ行って見た所、そこには私も初めて見る竜がその下に居ました。表面で私に見せているのは十一面観音、竜樹観音という姿です。この竜がそこに来る人達に、あのブラインドよりはもう少し明るいですが鈍い光を与えていたようです。ゴールドカラーの後光とは全く程遠い光ですが、それでも素人の人達はそれを見て感心しているわけです。


(園頭先生注:動物霊を祭っている所では、そこにお詣りする人の心がもう動かないなと見ると、その動物霊が毒気を吐き掛けます。すると心を暗くしてお詣りする人は霊気を与えられた、光を見たというように感ずるわけです。そうしてますます一生懸命に信心することになります。その人が観音さまにお救いを求めていれば観音さまの、不動明王を念じていれば不動明王の姿を見せたりするわけです。だから、拝む対象物を心の中に念じて拝むと動物霊につけ込まれることになります。)

 私はそれを見破る力を持っていますから、「お前達は、竜神だの、千手観音だのといって人間を狂わすのではない」といって光を当てたのです。彼も私を見てしまいました。そうして取り払ったのです。
 背中は大きな松の木の肌みたいで大きなこけらがついていました。そのため田中さんは一週間デーンと倒れて意識不明になったのです。そういうことになるのは類は類を呼ぶということになるのです。
 求めもとめていつの間にか偶像を祭るようになると、耳元で「われは○○なるぞ」といわれるとそれで信じてしまうのです。

 今日個人指導に来た青年も、「先生、私の所に観世音菩薩が現れて、即座に悟れ、観世音菩薩の絵を描いてそれを人々に弘めよ、というのです」といっていましたが、そういわれると人間はすぐ信じてしまうのです。ある拝み屋に行ってその話しをしたら、「あなたは観世音菩薩の化身で、人を救う使命を持っている人だ」といわれたというのです。そうして昨年11月夫婦喧嘩して別れたというのです。

 そのように、動物霊、地獄霊が傍に憑いている人達は、言うこととやることと、裏腹な行為をするのです。
「君は、自分が本当に観世音菩薩の化身だと思っているのか、観世音菩薩がお前のようにいつもイライラしていると思うか、君はいつもトサカに来ているじゃないか」といってやったのです。

(園頭先生注:正しい信仰は、自分の心の中に光を見るのです。そうすると神の光もわかるようになるのです。私が、霊能力を求めて信仰してはいけないと度々いうのは霊能を求めている人の心の中には、まず第一に自分自身に対する劣等感、自分をつまらないものだと思う暗い心があります。第二に自分を自分でつまらないと思っている反面に、自分を実力以上に見せて優越感を満足させたいという野心があります。第三に、自分自身を実践によって向上させようという努力はせずに、安易に地位名誉金銭を得たいという欲望があります。そういう汚い心を、純粋な信仰に見せかけたオブラートで包んで人に威張ります。もともとそういう心を持っているから動物霊や地獄霊に支配され易くなるのです。
 少しばかり霊能があると自己宣伝する人を私が厳しく批判してきたのは、そういう人は自己宣伝が上手であるし、何も知らない人はそれに騙されて迷わされてしまうからです。
 毎日の実践の中で、少しづつでも心を丸く大きく豊かにして行くのが正法であって霊能を求めてはいけないのです。だからといって、正しい霊能まで否定しているのではありません。
 霊能は求めなくても、正法を着実に日常生活に実践して行けば、その生活が正しいか正しくないかは、現証としてあなた方自身が確かめることができます。


 正しい道(法)を知っていないと、目に見えない世界からいわれると、すぐ信じてしまうということは新興宗教の中には多いのです。そういう所では偶像を祭って拝ませてしまう。指導者にとって拝ませてしまうほどラクなことはない。動物霊などの霊気に当てられて脳細胞を狂わせてしまいますから、正しい判断力がなくなって盲信狂信してゆきます。
 中道の心は盲信狂信ではなく、正しいものの見解で、思うこと、行うことの、生活行為の積み重ねにあるのです。間違った信仰はその苦しみがどこから生じたか、その苦しみの原因を勇気をもって直視させることをせず、その苦しみから逃れようとして逃避的な祈りをさせます。
 我々の基準は、宇宙の神理、にあるということです。この法は心の法です。心の法は行いの法です。人を指導する上からは、この法に照らして見るということが一番よいのです。

(園頭先生注:高橋先生が「素直に信ぜよ、という人を信じてはならない」といわれたのは、正法に照らしてそれが正しいかどうかを判断させようとされる愛の心の現われです。
 盲信狂信すると、考え方の枠をはめられるから、外の人はみんな悪く見えて自分ばかりが立派に見え、外の人のいうことを冷静に聞けなくなります。ですから、その人がどんなにこの信仰は素晴らしいといっても、その人がこっちの話は少しも聞かずに自分でしゃべってばかりいる人は間違った信仰をしていると見て間違いはありません。高圧的な「○○せよ」式の教えをしている所は正しくありません。
 正しい指導者は「これはどう考えますか」「こっちとこっちと、どちらがいいと思いますか」というように、その人の心の底にある智慧を引き出すような指導をするのですから、決して命令的に高圧的に、「こうしないと幸福にはならぬ」というようなことはいわないのです。
 まして「今月は何人会員を増やせ」とか「何冊本を買え」というようなこともさせません。)


 相手に疑問を抱かせることが大事なのです。なぜかというと、
 疑問は必ず解答を求めます。疑問-解答-疑問-解答の繰り返しによって、最後にはもはやどうしても疑うことのできない、信ずるより外はない絶対的な神理が残ります。ですから私は、講演の時に「信じなさい」といったことはありません。ただし、瀕死の状態でもうこの世を去ろうとしている人達には信じなさいといいます。その結果奇跡が起こることもあります。

(園頭先生注:キリストは奇跡を起こす前に、「汝は、信ずるか」ということをいっています。「まあ、奇跡が起こったら信じましょう」というのでは奇跡は起こりません。この世界は心に思った通りに展開する世界ですから、心の底で疑っていればその通りに現われるわけです。
「人間性の神秘」の阿闍世王コンプレックスの中で、お釈迦さまがイダイケ夫人に、「あの世にいられるアミーといわれる方の言われることを信じなさい」と説かれてことが、「阿弥陀信仰」になったことを書きましたが、阿弥陀信仰というものは、この世の生はもういくばくもないという、死にさし迫った人に説かれたのであって、これからまだ何年も何十年も生きなければならない人に説かれた教えではないのです。それを若い人達にも差別なく説かれたということは、法然、親鸞上人の間違いであります。
 信ずることによって奇跡は起こるわけですが、然し既に肉体が生存には耐えられないまでに損傷しているか、肉体を持って生きるよりも、早くあの世へ行って勉強する方がよいと、本人の霊が自覚している場合、また、守護霊指導霊がそのように考えている場合は、祈っても奇跡が起こらないということもありますから、ただ肉体が元気になった、ならない、ということだけで判断してはならないのです。)


 昨日は、林家木久蔵という人が来ました。丁度、山形から来ていた若い女性があって、少し後光が出ていたものですから光を入れたら、最初は中国語で、後はインドの言葉で語りだして木久蔵さんはしばらくそれを見ていました。彼は札幌の飛行場で待っている間に、売店で「心の発見・現証編」を買って、飛行機の中で、家へ帰って読んで、色々本を買って読んだけれども、心がこんなに感動した本はないというのです。外の本も全部読んだと。
 彼が今まで考えてきたことと同じだというのです。正法を知った以上、人々にも伝えたいというのです。何しろ本に書いてあることと同じことを今目の前で見たわけで、さらに感銘を深めたのです。
 差し当たり身近な人からやりますといっていましたが、私の師匠の林家正蔵という人は、今丁度テレビで幽霊をやっているんですが、幽霊の話をしている時に師匠の家に行くとゾクッとする。師匠が幽霊が見える。「ああ師匠にはいつでも幽霊が憑いているんだな、だから顔色が悪いし、少しおかしいんだな」と思うのです。林家三平というもう一人の師匠は、一生懸命お稲荷さん信仰をしている。朝晩ローソクをつけてやっているそうです。本に書いてある通りなんです。と、それでまず奥さん方に読ませてから師匠の方に手を打とうと思いますと。
 このように、自分が疑問に思っていることを追求して、自分自身、正法を実践すれば、それが一番大事なことで必ず体験を得ます。その体験を皆の前で発表すると、それはまた自分の自信にも通じて行きます。

(園頭先生注:人の前に体験を発表することは、自分と同じか、或いは似たような悩みを持っている人にこうすればよいという行動に指針を与える愛行になりますし、また自分というものを、多くの人に知ってもらった以上、もはや自分を自分で堕落させるということが出来なくなり、前進する以外に道がないということになりますから、発表に機会があったら、それを感謝して発表する方はよいです。その場合に大事なことは、誤った優越感を持ってはならない、謙虚さを失ってはならないということです。)

 ある人は、ある宗教に入って恐怖心を持っておりました。私は「心行」を枕元に置きなさいといっておきました。「心行」からは光が出ているから、彼らは近寄れません。
 家の中がガタガタする。夜、胸を圧迫される。それで枕元から足元にも置いた。その晩から出ないそうです。しかしこれを宣伝されると困るんです。「心行」がお守りになってしまいますから。
 その人がそういう霊に出会うということは、そういう暗い想念を持っているわけです。ですからその心を自分で直さなければいけないのです。それをせずに、「心行」から出ている光に頼ろうとするとそれはお守りになってしまいます。
 ですから、もう少しあなたは実践して自分の心から光を出すようにしなさい。そうすれば家の中にいる自縛霊も傍に近寄れなくなると教えてやりました。

 地獄霊、動物霊は光が怖いのです。彼らは生活の場を失っているのです。
「お前達は、この人の体身に憑いているが、例え地獄に堕ちようとも神の子ではないか神理に目覚めていない盲目の人間に憑いて、不調和な肉体的現象を起こして、あなた達は正しい行為だと思いますか」

と「心行」を読んで神理を教えて

「お前達はそんな寒い所に居らず、心というものを知りなさい。お前達は動物であっても本性を持っているだろう。ウソのつけない心があるだろう。こうしたら悪いという心があるだろう。その善なる心をもってもう一ぺん自分の心を見直しなさい。間違っていたら素直に神様に赦して下さいと、心から祈りなさい。その時にお前達も心の中の黒いものを排除することができるのだ」と教えてやるのです。

そうするとサッと離れます。

皆さんが、神理を知った慈愛の心でやればそれは即、光ですから奇跡は起こるんです。

 私の専売特許ではありません。誰でもできるのです。ただし、自分が正法を通した生活をしていなかったらいけないのです。そうでなければ見せかけです。格好よさです。

 手当てというのは最近は給料等のことだと思っていますが、人間は自分自身を治し、相手を治すその力を、誰でも持っているのです。常の私達はそれを活用することです。

 奇跡は皆さんが起こすのではなくてあの世の協力を得ているのですから、皆さんには出来なくてもあっちはできるんです。その準備は、正道を実行して行くことです。出来る条件をこちらで整えて置けば、後はあの世で協力してくれるんですから自身を持つことが大事ですね。
 病気を治すのでも、本当に治るかしら、これは良くありません。自分の心をあくまでも調和してやれば必ず結果が出ます。なぜならば、次元の違った光の世界から協力してくれるからです。
 愛の心で相手の痛みを良くしてやろうと手を伸ばした時は、その手は霊視すると黄金色になっています。

慈悲の心を満たすには実践することです。そうすれば自信が出来ます。


(園頭先生注:ここには個人指導の極意が示されております。個人指導する時に先ず第一に不安になることは、自分みたいなものが指導しても・・・という気持ちが起こることです。そういう心になるのは、自分が治すと思うからです。自分が治すのではありません。奇跡は全部天上界から行われるのでありますから、我々はその天上界の力を信ずればいいのです。天上界の力をこの地上界に誘導するのが、我々の心の中に慈悲の心があるかないかということです。自分が治してやって人々をあっと驚かせてやろうとか、自分に力があることを人に誇示しようとか、野心があると天上界からの協力は得られません。)

 我慢には抑圧があって争いに発展する種子がある。だから忍辱でないといけません。忍辱とは、どんな辱めを受けてもそれを心の中に入れずに心はいつも安らかにして置くことです。例えば相手から言われたことが事実であって自分が反省すべきことであればそれを素直に反省して、言いにくいことを良く言ってもらったことに感謝し、事実でなければ憎むことなく、そういった相手を許してそのことを心の中に入れないことです。

 我慢という場合は必ず自己中心的で、忍辱という場合は耐え忍ぶ心であって、自分の心の中は冷静で第三者の立場で見ますから毒を食べません。心の中の毒、心の中の曇りをつくらないのです。

 腹が痛い、切り傷が痛い、貧乏している、こういう時は相手がなく自分一人のことですから我慢しなければいけません。我慢する、辛抱するということは良いことです。しかし相手がある場合は忍辱でないといけません。相手から言われた、何故言われたか、自分の心の中であらゆる角度から考えて、自分に言われるようなことはないということがわかったら、心の中に入れないこと、そのことに執着せずさらりと流すこと。そして相手を気の毒な人だ、人を落とし入れようとしている憐れな人だとそう思うことです。
 そして、もし自分に欠点があったら、素直に自分の欠点を認めることです。自分を裸にして反省することです。ところが、我慢の方は、今は言われるままに我慢しといて、いつかこの仇を取ってやろうと思う。こらは困ります。心の中に曇りをつくりますね。

 肉体だけの中毒、不調和、風邪をひいた、食あたりした、転んで怪我をした等は、心まで毒しませんが、心を毒することが一番怖いことだと言うことを知って下さい。

 肉体の毒はこの世限りですが、心の毒はあの世まで持ち越します。そのことからしても我慢と忍辱の差というものを知って置くことは大事なことです。

 だから地獄霊が憑いている人でも、地獄霊を祓えばよいという霊能中心の考えを捨てて、「あなたのそういう心が地獄霊を招くんですよ、あなたの心の中に慈悲と愛の心があるならば、それを実践して見なさい」

 こうやって生活の中に正法を実践させることが大事なんです。そうすれば地獄霊も憑けなくなります。心の曇りがなくなって光明に満たされるからなんで、野狐など憑けなくなります。そのように教えることですね。
 まあ一回で取ることは出来ないでしょうが、何回も何回もそうして実践しているうちに完全に憑けなくなるのです。憑いている人に正法の話をすると、「そんなこと、言われんでも知っている。当たり前のことじゃないか」と、開き直る場合があります。「おれ、もう帰るよ」と、帰る人もいます。それは正法の効き目があったのであって、効き目がなかったのではないから、何べんでも同じことを繰り返しているうちに段々良くなって行くのです。

 こっちがしっかり正法というものを実践して智慧と為していたら、「ああ、これはこういうことだな」と直感的にわかるようになるし、現証も出てくるから彼らを説得し易くなるのです。

 だから指導者として大事なことは、

1.正法をよく理解すること。
2.理解したら実践してみること。
3.実践すると必ず結果が出る。

 そうするとこういう心になった時に天上界からも協力があるんだなということもわかってきて人をどのように指導すればよいか自然にひとりでわかってくる。

(園頭先生注:横浜にTさんという人がある。この方は小さいときから宗教心があって、結婚して女の子が生まれると、お釈迦様を生んだマヤ夫人のような人になって欲しいと思って「麻弥」という名をつけられた。昭和55年(1980年)正法会第一回の仏蹟巡拝には母娘二人で行かれた。79歳のお母さんが脳の動脈瘤破裂で手術しなければならないことになった。手術してもらいたいと思っている有名な先生は3年先まで予約が一杯だということであった。自分みたいな心の弱い者が祈ってみてもと思われたが、「よし、やってみよう」と、心を強くして祈られた。そうしたらすぐ入院、手術ということになった。そのお母さんが暴れて暴れて、手足を寝台にくくりつけても暴れる。「お前もここに居ると死ぬから、早く帰んなさい」と、死神が憑いたみたいにわめく。若い看護婦さんが来て、「お婆ちゃん、あなたみたいな人を「死に下手の病み上手」というのよ」といってアショカ王の話を始めたのでTさんはびっくりしてしまわれた。インドへ行ってアショカ王の宮殿跡も見て来られたし、また、若い看護婦さんでアショカ王のことなど知ってる人はほとんどないと思っていたので、そういう看護婦さんが母の看護について下さるということも、天上界からのはからいだと思わざるを得なかったというのである。
「手術しないでしないでそのまま死なせることが母のためではないのか」「それとも手術したら万一助かるかもしれないし」「しかし手術しても死ぬかもしれないし」、手術させようと決心するまでには毎日毎夜苦しまれたという。そしてやっと「母に寿命があるならば手術によって助かるであろうし、寿命がなければ死ぬであろうし」と決心が出来て、全ては神にゆだねて手術が成功することを祈られた。その結果、手術も成功して今は健康になられたという話をしていられた。
 脳の構造は人間の体の中で一番複雑微妙であるから、ちょっとした微妙な差で意識が頭脳が完全に支配できる場合と、出来ないで意識が回復しない場合とがある。手術する医師の心身の状態も、一日の中で違うから、心身の状態がうまくゆかないとちょっとしたことで手術が思うようにゆかない場合がある。だから脳の手術(脳の手術だけではないが)は特に、手術する医師と、手術される人と、家族の心の状態がピタッと一つにならないと手術してもうまくゆかず意識が回復しない場合があるから、手術する以前の心の調整が大事になってくる。それが「祈り」である。既に寿命がない場合は手術しても死ぬことになる。だからその場合は祈っても死を迎えることになる。
 Tさんは、お母さんの手術ということを通して一段ときびしく心を見つめ、神を信ずるという体験をされたわけである。

 自分がそういう体験をしていると、自分と同じような環境にある人を指導できることになる。即ち、実践のない人は人を指導できないのである。

 光の天使といえども、この世に肉体を持つと、色々な体験を経験することによって内在された智慧を引き出され、人を指導できるようになって行くのであって、何の人生経験もない若い人が、いきなり、人を指導できるような仕組みにはなっていないのである。)


 正法を知って生活している人々の家は、あの世から見ますと光に包まれていますから、地獄霊が近寄れません。心の暗い、憑かれている人がそういう家に入ると、地獄霊は光が大の苦手ですから憑いていられなくなって離れてしまいます。地獄霊は暗い家はすがわかるから、すーっとその家に入ってしまうのです。私の家に、私の傍に着ただけで身体が軽くなった、病気が治ったというのはそういう現証です。だけど、心から変わらないと、私の傍にいた時は身体が軽くても、私の傍を離れて暫くするとまた地獄霊が舞い戻ってくるから
また身体が重くなるということになる。

 どんな泥沼の中にでも蓮華の花は咲くんです。どんな地獄霊がいようが、そこに住んでいる人が正法を知って実践していると、そこは光に満たされてくるんです。ノイローゼや病人のいる家は、光を閉ざして暗くなっています。ということは、地球上の全ての家から光が出るようになれば、地球自体が後光に包まれることになります。今は後光でなしにスモッグが余計に出ています。

 日本に住んでいる人が、みな混乱を撒き散らすことになると、日本沈没です。アトランテスです。それは、神の体の一部が調和されない為に、神の体全体の調和がとれなくなれば、外にどういう手段をもってしても調和がとれないとなれば、切開してとる以外に方法がないからです。我々の肉体が不調和になって、外の方法では仕方がないとなると、手術して切り取ることになるのと同じです。ですから万物の霊長である人間が、先ず自分の住んでいる所から光明化するということが大事なんだということです。

 転変地変というものも、正法を遵奉(じゅんぽう)しようとする人がいる所には起こりません。

(園頭先生注:1999年の終末を恐れる必要はない。例えどんなことが起ころうとも、光が出ている家、人は助かるからである。高橋先生がここで言っていられることは、未来に対する予言である。
 混乱をつくり出している国家、人種、民族、宗教団体、組織等は、ある程度までその存在を許されるが、もうこれ以上はいけない、ということになれば自然の摂理による大手術が行われるというのである。なんでも限界というものがある。少々悪いことをしたからといってその罰がすぐ来ることはない。罰が来ないからといっていい気になって同じようなことを続けていると、思いがけない時に手術されるということになる。
 共産主義を輸出して世界を混乱させている国、人種宗教差別によって戦争を続発せしめた民族、宗教によって対立抗争を生み出している宗教団体、思想の対立によって争っている思想団体、経済的独占を図っている会社等、それぞれの歴史、即ち時間の長さによって、いずれは手術切開される時が来る。「驕る平家は久しからず」横暴を極めるものはいずれ自滅するというのが因縁の理法である。21世紀まで後18年、混乱の多い時を迎えるが、そこを通過しなければ世界の平和は来ない。

 日本列島は危険な状態になっています。駒ヶ岳、木曽、桜島、三原山、阿蘇等が時々爆発しているのは、時々爆発しているのは、実際は浜松附近から遠州灘、関東にかける地震のエネルギーを、ああいう形で分散し発散させて日本沈没を防いでいるのです。

 地球は、今発熱している状態になっています。それは、そこに住んでいる人々の心が不調和であるからです。地球の内部にはマントルがあって、何万度何千度というマグマが対流しています。それを海洋の水や、雨が地中にしみ込んで冷やしています。その水が地熱で温められて温泉となるのです。この地核の中からのエネルギーが表面に近く噴出してきて、ある程度たまると爆発する。しかし地球のエネルギーは、太陽から比べたら問題になりません。何万分の一です。最近、富士火山系の温泉の温度が少し高くなっているのもそのためです。

 この八起ビルをつくる時に予告されています。たとえ、どんな地震があっても倒れないように3階の所に十字架が入れてあり、強度を強くしてあります。しかし、関東を直撃する地震は起こりません。

 大正12年の関東大震災は、当時の人々の心が遊弱に流れていたために、それに対する警告でもあったわけです。先月、キリストが私の所へ来て、「これじゃいけないから、関東に地震を起こさないと仕方がない、日本人は目覚めない。」というので、「今、関東を直撃したら最低300万人は死ぬ。それでは余りにもむごい、一時、その関東を直撃するエネルギーを除けてくれ」といって、地下に貯まっていたエネルギーを伊豆半島から遠州灘よりに移動させて、それでも余ったエネルギーがあるので、それを日本列島全体に拡散して死火山からも排出させるということになって駒ケ岳も爆発させたのです。しかし、いずれ地震と爆発が起こって、ある宗教団体の大本堂が壊滅することになっています。

 地球表面の温度差によって電気が発生します。それが地球を回転させるエネルギーです。回転することによってNとSの磁極が出来る。その磁極が、そこに住んでいる人々の心によって位置が変わって行きます。現在でも磁針は真北を指していません。偏差しています。
 エジプト、アトランテス、ギリシャ、インド、アンデスと、この地帯が昔は春夏秋冬が一番はっきりしていたので、人が住みやすく文化が発達したのです。食料もよくできました。今はこの時と比べると地軸が傾斜して磁針が偏差しその地方の気候が変化し、日本列島が位置する線が春夏秋冬がはっきりするようになってきた。
 極端に暑い所、極端に寒い所は住むのに不便であるから人も集まらないし、そういう所へは光の天使は出ないのです。やはり気候も中道の所でないと如来や光の天使は出て行かないのです。

 地軸がだんだん変わって行きます。

(園頭先生注:北極が南極になり南極が北極となって地球が逆転したことがあることは、岩石の中に遺されている磁石の方向によって証明されている)

 私が何故このことを自信を持っていえるかというと、昭和42年(1967年)11月23日の夜、あの世で講演しました。金剛界で一時間半講演した時に、ワンツースリー即ちモーゼが、
「お前、ここをポンと押せば地震が起こるんだよ、お前が地上界へ帰った瞬間に、震度3の地震を起こすから心配するなよ」といわれたのです。そうして、私の意識が肉体に帰ったのが丁度一時間半、その時間に震度3の地震がありました。震源地は利根川の下流、まさかワンツースリー・モーゼが起こしたとしたら、あいつ、気違いではないか、といわれると思うのですがそれでもよいのです。僕はそういうことを知っているんですから。

 現代の科学者達は、特に地震の問題については自身がないんです。地震計そのものも一番最初は私がつくったんです。長野県の地下を掘って、私が設計した地震計が全部入れてあります。新幹線のモーターにも地震計が接続してあって、震度2になったらモーターが止まるように設計してあります。
 近似値というもの程、不確実なものはないので、地震学会の予告はあれは自信がないのです。しかし、次元の違ったあの世からの指令は正確です。

 「日本沈没」という本がベストセラーになりました。あの方(小松左京氏)はテレビへ出て、「あれを信じられたら困るんです。あれは私が創造した虚構ですから」と断っていましたが、ああいうものをすぐ信じて心を動揺させる人が多いことになると大変だと思います。
 まあ、そういうことで、話を元に戻しますが、大事なのは、「心」と「行い」にあるということです。

(園頭先生附記:心を大きく大きく、明るく明るく、宇宙と大調和するにはどうすればよいかということを考えて実践して行けば、あなたは確実に人生を全うすることができるのである。
 高橋信次先生がこの講話の中で、「要は正法を理解して、それを実践する以外にない。指導者となる道もそれしかない」と、くり返し言っていられることに注目して頂きたい。



   -おわり-



月刊誌 正法52号 (1982.12月)
月刊誌 正法54号 (1983.2月)
月刊誌 正法55号 (1983.3月)
月刊誌 正法57号 (1983.5月)
月刊誌 正法58号 (1983.6月) より



2011.02.06 UP