高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







祇園精舎の名物男 ハンドフのさとり - 高橋一栄


 悟りといいますと、私達は何か力んでしまうようです。宇宙をみんな悟りたいような気持ちでおりますが、それよりもまず私達の身の回りの生活を改善することが大きな悟りであります。

 千五百有余年の昔、インドのある祇園精舎の近くに、ハンドフという人がいました。

 ある時、ハンドフは大声で「ワアワア・・・・・・」と泣いていました。ブッダはそれを見て、「お前はなぜそんなに大きな声で泣いているのか」と、聞きますと、ハンドフは「私には兄がおります。その兄が色々教えてくれるのですが、何一つ覚えることができません。どうすれば覚えることが出来ますか。私には悟りのようなことが出来ないものでしょうか」と彼は必死に頼みます。

ワアワア泣くぐらいな人ですから、余り利口とはいえません。しかしながら、利口とか馬鹿というようなことで悟りが決められてしまうものではありません。
知能が少し良いから利口、足りないから馬鹿だといっても、その人達にはその人達の良い所がある筈です。

 彼は正直で勤勉だったのです。御釈迦さまはハンドフを連れて帰りました。少しでも私の側にいて、お前の悟りの役に立つなら一緒に力になってやると言って連れて帰られたのです。

 ハンドフはお釈迦さまの弟子の一員になりました。弟子達はハンドフに色々教えましたが、案にたがわず、ものを全然覚えません。日がたつに連れ弟子達もとてもこれではたまらんと、みんな手を上げてしまいました。
これを見ていたお釈迦さまは、ある日ハンドフにこう言われました。

  ちりをはらい、あかをのぞく
  あかをのぞき、ちりをはらう

「お前はそういう言葉を覚えられるか、言ってごらん」
と言うとハンドフはもう全然わかりません。毎日言っても全然わからないのです。そこで
「お前は掃除が出来るか。人の履いて来た物をきれいにすることができるか」と言われるので、ハンドフは、

「ええ、それなら私は何時でも出来ます」と喜んで皆が修行に行って帰って来たその履物を、

  ちりをはらい、あかをのぞく
  ちりをはらい、あかをのぞく

そう言ってやったのですが、昔の修行は、自分のことは自分でするという修行の目的がありましたので、皆はハンドフにやられては困りますので、「自分のことは自分でする」と言ってやらせてくれません。
ハンドフは困ってしまいました。お釈迦さまにいわれた仕事が、これではなくなってしまいます。

 そこでお釈迦さまは皆に頼んで、履物の整理は全てハンドフにまかせることになりました。

 ハンドフが履物をそろえに来り、きれいにしたりした時に、みなさんは感謝を込めて、

  ちりをはらい、あかをのぞく
  ちりをはらい、あかをのぞく

とハンドフに言ってあげたのです。みんなが毎日ハンドフに

  ちりをはらい、あかをのぞく
  ちりをはらい、あかをのぞく

と言っているうちに、ハンドフはこの言葉の意味がだんだんわかってきて、ちりをはらい、あかをのぞくということは、物をきれいににすることだ、と言う事が彼にもわかってきて、もしかしたらこれには何か訳があるのだろうという心が、ハンドフの心の中に湧いてきました。そうして、チリとはどんなものだろう、アカとはどんなものだろうかということを、今度は一つ一つ考えて行きました。

 そうだ、アカとは衣類や身体のまわりにつく汚いものだし、のぞくとは、その汚いものをみんな取ることだ。目に見えぬアカも取ることだ。アカが取れたらどういうことになるのだろう。私はみんなの物をきれいにした。その時にとても気持ちが良かった。心の中までサッパリしてくる。アカを除くとは、自分が努力した結果ではないか、と言う事を考えて行きました。

 ハンドフはこのように、毎日実行しながら考えていったのです。

 そうして心の中の汚れはなんだろう。これは執着かな、こだわりかな、心の中の引っ掛かりかな。この引っ掛かりがあるから人間は汚れてしまうのかな。欲が出てしまうのかな。欲はほこりかな、汚れかな。もし汚れなら履物のほこりのように掃除し、取ればよいのだ。履物の汚れを取ったらきれいになった。自分の心の執着を取ったら、どうなるだろう。引っ掛かりを取った時にはどういうことになるだろう。そして欲を取った時にはどんな風になるだろう。欲を取れば特に悩む人はなくなるだろう。そしてまた、その引っ掛かりに中に怒るということはチリだろうか、アカだろうか。怒るということは、自分が傷つくばかりでなく他人をも傷つけてしまう。これはアカでもチリでもよいから、先ず取り除くことだ。そして思慮が足りないと言うことは、みんな自分自身にブレーキがかからないことだ。自分がしまったと思ったら、すぐ直せる心の余裕のない人のやることだ。これでは人に迷惑をかけてしまう、これはいけない。

 そのようにハンドフは、毎日自分のやっている履物を直し、水を汲み足にそそぐ、というような毎日の仕事の中から、ちりをはらい、あかをのぞく、という言葉の意味を考えて実践して来たのです。そのうちに自分の心の中と、言葉の意味がしっかりととけ合って来ました。やがて自分の心が、自分に引っ掛かりがなくなってきました。
 ああこの気持ちは素晴らしいものだ。それはちりをのぞき、あかをのぞいた、その結果ではないだろうかということが身体中の隅々になびいてきました。

そうだ、これこそ「さとり」というものではないだろうかと、早速お釈迦様の所へやって来ました。
「お釈迦様、私は言われたことを守ってきました。きっとこれが、ちりやあかを除いた心ではないでしょうか。」とお釈迦様に言われました。お釈迦様はハンドフに向かって、「良くやった。人間というものは、一つの〝ほっく〟にしてもみんな神理があるものだ。その単純な〝ほっく〟がわかるということはお前は馬鹿ではない、利口なのだ。己の馬鹿さを知っているものは利口なのだ。己の馬鹿さを知らない者こそ哀れな人間である」と言われたそうです。

 そのように私達は一つの言葉の中にも偉大な響きがあり、教えられることが多いと思います。こんにち公害公害と騒がれています。が、少しも公害を取り除こうという実行がなされていないようです。私達の生活の中に少しでもハンドフのような、しっかりと心の中に植えつけた行為がなされれば、それはやがて自分自身の大きな悟りとなって来るものではないかと思います。そして御釈迦様はその時に言われました。

「比丘達よ、ハンドフのように自分自身がその意味をしっかりとつかみ、その意味の中で生活してこそ、初めてお前達は悟りというものに到達することが出来る」と言われました。

 まわりの比丘達は驚きました。わかるように一生懸命に言ってあげたのも自分達です。だが、句読の一つ、経文の一つさえもあげることの出来なかったハンドフが悟りを開いたのですから、驚くのも当然です。

 このように私達人間として、出来ること、これが私達の悟りなのです。

そのようにこのハンドフという男はそれからも毎日、「ちりをはらい、あかをのぞく」を続け、いくら自分が悟っても偉ぶる心もなく、後からあとから入ってくる比丘経ちの履物やすすぎを持って来ては、「ちりをはらい、あかをのぞく」をやり、やがて祇園精舎の名物男となったそうでございます。

 皆様もこれから「ちりをはらい、あかをのぞく」そして自分達の身の廻りを清浄にし、心の角を取り、そして引っかかりのない生活に高めてゆきたいと思います。

 これは、はるか二千五百有余年昔のお話でございますが、この話は今日でも立派に通用出来ると思います。私達は難しい顔をしているよりもほがらかな顔をして、「おはようございます」の一言にもハンドフと同じような心になれるのではないかと思います。


 講演要旨をまとめました。 - 以上 -



GLA誌 1972年1月号より



2011.05.31 UP