高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








高橋信次講演集 より    GLA関西本部 発行



神理と科学


 中国の玄奘三蔵が、大般若経の中からそのエキスを抽出し『般若心経』という小さく纏めた経典があります。その般若心経の解説を通して、過去においての仏教というものが、現代の物理学でも解けるということを、今日はもっと突込んで説明したいと思います。

 私たちはややもすると、仏教と科学とは全然違ったものだと思っております。また宗教家たちは自然科学というものに対する研究が疎かなために、仏教の真実の心を解くことなく、宗教と科学は全く別なものであるがごとく説いて間違いを犯しているのであります。

 過去におけるところの哲学者と称する人たちのほとんど100パーセントが、自然科学を根本として説いておりますが、仏教でもハッキリと〃色心不二〃という表現をつかってこれを説いているのであります。
アリストテレスにしても、ソクラテスにしても、ターレスにしても、あるいはハーバード・スペンサーにしても、それぞれの角度から神理というものは不変的なものであって、観念的なものではないとしています。
特に日本の場合の宗教は、外国から輸入されたものが非常に多いために、いつのまにか難しい哲学的に書かれたものを、拝むことが信仰だというように変わってしまいました。

 「
摩訶般若波羅蜜多心経」という言葉があります。このマカとは、マハーと呼ばれている古代インドの言葉で、意味は、特別とか、偉大ということであります。ゴーダマ・シッタルダーを育てた母親は〃マハー・パジャパティーと呼ばれております。中国の天台智顗の説いたひとつの理論体系の中に「摩訶止観」という言葉があります。これにもマハーの摩訶が入っております。偉大ということです。止観というのは止まって観る。すなわち自分自身の思ったことや行為、また生活、実践の中から生じた黒い想念を反省して、神の光によって自分の心を美しくする。 これを具体的に著わしたのが法華経の根本になっている摩訶止観であります。「般若波羅蜜多心経」はインドのゴーダマ・シッタルダーの時代は、パラミターストラーといっています。 

 皆さんは氷をご存知でしょう。氷というものはほとんど水の中に沈んでおります。〃氷山の一角〃というように水面に出ているのはわずか10パーセントです。90パーセントは水の中に潜在しています。10パーセントが表面に出ております。

 皆さん自身が人生航路に両親の縁によって頂いた肉体というものは、あくまでもこの地上界という場に適応して、地上界の万生万物相互の作用によって肉体保存ができるのであります。しかし皆さんの魂は、その肉体という舟に乗ってしまいますと、意識は10パーセントしか表面に出ていないのです。これが逆にあの世に帰りますと、この10パーセントは潜在してしまい90パーセントが表面に出て参ります。そのために実在界(あの世)に帰ってしまうと修行ができなくなります。何故ならば皆さん自身、自分の心がオープンになって、みな相手にわかってしまうからです。

 「私は今このように思いました」「私は今このように考えています」ということが、まったく嘘をつくことができず表面に出ているのです。こんな状態で皆さんは修行できますか。

 自分自身のしたことを、思ったことを、後ろの方に全部がコンタクトされて、思っていることの全てが後ろに出されたら、皆さんはオープンで歩けますか。 
 あの世はそのような世界です。思ったことが即座に出てまいります。

 それだけに神の光というものは万生万物、太陽の光のように全く地位や名誉に関係なく、平等に、愛と慈悲の光は与えられております。しかし、それはその人の心と比例したものが与えられます。それゆえに私達の心というものが全ての基準なのです。

 この地上界に出てくると、今何がないといっても自由です。ところが、今ここに一つ新しい計器を持って来て、その人たちの思っていることが、パチパチとここへ出てきたら、皆さんはどのようになるでしょう。修行などできません。見えないからこそ修行ができるのです。しかし、心の窓が開いてしまうとそれがわかってしまいます。何故ならば、我々は肉体という舟に乗ってしまうと、90パーセントは潜在意識になって、表面に出ている10パーセント、つまり目や耳やあるいは五官を通して人生々活を送り、その中で間違いであるか、正しいものであるかを、自らの環境を通して判断をしなければならないのです。所が、潜在している90パーセントの中には、皆さんの何億年、何兆億万年も転生輪廻をして来た所の偉大なる智慧が、偉大なる皆さんの体験記録が、記憶されているので、その是非が自ずとわかってくるということです。これをパラミターといいます。その心の教えが即ちパラミター(波羅蜜多)心経であります。

 それゆえに内在する所の、我々の90パーセントのテープ・レコーダーを紐解けば、私達は何億万年前にこういう事をした、ああいうことした、そして、今肉体を持ってこのような生活をしているということが、誰にもわかるのです。

 人間は皆万物の霊長であり、地球上という場で、己自身の転生輪廻してきた所の、不調和な分野を修正すると共に、自身が過去において学ばなかった新しい人生航路の智慧を学習しなければならないのです。それと同時に、神の体であるこの地球上の環境に、人々の心と心の調和のとれた、平和なユートピアを作ることが本来人間に課せられた使命なのです。

 八正道は、皆さん自身が、神の子としての己を自覚し90パーセントの潜在意識を紐解く為の一つの道であり、感謝と報恩の行為という布施の心は、多くの人々の存在を知って、万生万物の相互環境に対して、私達は、自分だけに頼らずに、多くの人々に協力をし、お互に譲り合い助け合い、心からの愛と慈悲の実践行動によってこそ、この地上界の環境が調和されるのです。
 所が、人類は万物の霊長以下の動物達の闘争本能の姿を見て、そのまま生存本能だとし、争い、闘争、などの不調和な行為をすることが、あたかも人間的であるように判断をしている学者や、一般の人たちが大勢います。
人間は、神の子として大調和という一つの大使命を持って出ているのであって、ケニヤの動物のような不調和な、闘争と破壊を繰り返すべきではありません。皆さんは〃あの世〃に帰った時に、それを反省しても遅いのです。生きているうちに、私達は偉大なる90パーセントの調和された己自身の心の本性というものを悟らなくてはならないのです。

 般若心経というのは、インドから中国に渡って来たあの膨大な大般若経の経文を圧縮したものです。ここで「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」、観自在菩薩とはいったい何だろう? 自由にある菩薩、自由に見る事ができる菩薩が般若波羅蜜多を深く行じた時に・・・・・直訳するとこんなことになります。皆さんわかるでしょうか?

 経文を一生懸命にあげれば、幸福になるのだと思っている人がありますが、そうではありません。
 「観自在菩薩」というのは、ゴーダマ・シッタルダーの時代には、〃アボロキティ・シュバラー〃と呼ばれ、自由自在に見ることのできる能力を持った悟られた方、ということです。このような方は、潜在意識の90パーセントが紐解かれて、八正道を実践し、しかもまた人々に慈悲と愛を与えてゆきます。太陽は迷える多くの人々に、万生万物に、その熱・光のエネルギーを平等に与え、ガス会社や電力会社のように集金には来ません。
太陽はタダで我々人類にそれらを与えております。これが慈悲であり、愛なのです。私達はその愛や慈悲に感謝するだけではなく、報恩の実践をする行為が必要なのです。感謝する心は、行為として実践した時に初めて循環してくるのです。

 この大自然界に存在する所の万生万物は、一つとして同じ所に止ることはできないのです。全てが転生輪廻を繰り返しております。我々は、自由自在にあらゆる状態を見ることができます。我々はこの場所にいて、アメリカのワシントンで何が起っているかが、みなわかります。観自在菩薩というのは、そのように自由自在に皆さんの心の中から、あらゆる地獄・極楽、全てを見通す能力を持った悟られた方、ということです。
 これはゴーダマ・シッタルダーの二千五百有余年前の当時に、マノ・ホーテンとか、あるいはテイラー・ウパニッシャードというのがありますが、そういう難しい経文の中にも、アボロキティ・シュバラーという言葉がいっぱい出てまいります。ということは、すでに二千五百有余年以前においても人間自身の心の偉大性、神と人間というような事柄が解明されていたということです。

 人間は、この世に生まれてしまうと、〃肉体が絶対だ〃 〃自分の産まれた両親が絶対だ〃 〃家系が絶対だ〃と、このような無用のもの、無縁のもの、不縁のものが全てだと思ってしまうために、そういうものが基準となって、自己保存が強くなる。自我、我欲が強くなるから暗い想念をつくり、神の光が遮られる。光が遮られる為に、ラジオではないけれども、他所の音波が出てきても自分自身がわからなくなってしまいます。そのうちに動物霊か何かが、憑依して「神様だァ」なんていうようになると、本当に神様になったような気になってしまい、僧上慢になる。そこにまた新しい宗教が生まれてゆくのです。

 所が、必ず人間はこのパラミタの潜在意識の中に、正しい神理を知って、あの世で、さらにその前の世の中で、修行をしてきているのです。その経験されたことが心の中に全部記憶されているから、いろいろと疑問が起こってきます。しかし疑問、解答、疑問、解答がやがて不動の神理に到達してゆくのです。所が普通は「お前さんは一生懸命に念仏を上げていれば幸福になるんだヨ」たまたま病気でもすると、「あなたは念仏を上げないから病気になった」・・・・・・ 上げれば上げる程ますます、おかしくなってしまうのです。皆さん自身が「なぜ?」とわいてくる問題に気がついた時、そのような病気や、あるいは経済的な不調和、家庭の不調和は、原因があるから起こっているということに気がつくはずです。神仏を拝めばよい、拝み足りないから不幸になるのだ、という間違った考えから離れてゆくはずです。

 まず私達はこの地上界において、一切の諸現象は縁というものによって成り立っていることを知らなければなりません。縁無くして現象は起こりません。あらゆる森羅万象も縁によって起こっています。まず地球を含めて、太陽や地球やあるいは月、この関係という物の全てが縁によって動いているのです。太陽から出ている熱・光のエネルギーがもとになり、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星という九つの惑星を初めとして、三万数千個から成る小衛星集団が一糸乱れずに循環を繰り返しているのであり、大宇宙そのものも、また同じ原理により循環しているのです。

 あらゆる森羅万象は、人類の生存のできる最も調和された環境としてあります。しかし心ない人間自身の作り出した不調和は、公害となって現われ、やがて人類は、公害によって滅亡するのではないかと多くの人々が騒ぎ始めています。神から与えられたものは、人類の調和された環境を保障していました。しかし我欲に基づいて心を失った特権階級、その取巻きの人達の作り出したものは、物質至上主義に走った為に、現代のように化学スモッグといった、様々な公害による大気汚染、河川の汚染、海の汚染というものになって自然というものを破壊しております。人間自身の心を失った姿は、自分自身の住む世界を破壊してゆくのです。我々は肉体保存の為にも、そしてまた神の子として、地球上に修行を目的として出ている環境においても、肉体を健全なものとして保護しなければならないのです。

 あらゆる現代社会の歪の根本になっている〃心〃という問題を、我々は本来学ばなければならないにもかかわらず、その道を説くべき宗教家が、ただ単にお経を上げることによって救われるとか、また般若心経を読誦する、一万遍上げる、百万遍上げることによって人間は救われるのだ、という間違った考えをしているのです。あるいは法華経を、ある特定の宗教家達は、「南無妙法蓮華経」の題目闘争によって人間は救われるのだという、本末転倒も甚だしいといわねばなりません。真実は、「法華経」に説かれているその道を実践することに価値があるのです。

 法華経とは、ゴーダマ・シッタルダーが二千五百余年前に、多くの無学文盲の衆生に方便として道を説いたものなのです。当時のベルベーナーにしても、マーハーベラにしても、あるいはカピラヴァーストでも蓮(はす)の池が非常に多かったのです。その蓮の池と云うものは非常に汚い、その池に赤、白、黄の蓮の花がいっぱいに咲いています。その例をとって「見なさい。あなたたちの肉体というものはあの泥沼のごとく汚いものだ。体から出るものには何一つとしてきれいなものはない。その汚い肉体をもっていても、心が調和され、神理に適った生活をしていれば、泥沼の中でもきれいな花が咲くように、仏の心に調和されてゆくのだ」ということを説いたのです。「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・・」と唱えることに価値があるのではないのです。
たとえ、この地上界において不調和な環境の中にあっても、蓮の花のように心を清らかにし、神理に調和された日々の生活をすることが、本当に神の子として己の潜在意識を紐解いて、神の子としての自覚に至ることができるのだ、というふうに説いたのです。

 皆さまはまず自分自身は神の子、仏の子だ、真実に神の子としての尊厳を自覚せねばならない、ということを知ったならば、不自然なものに手を合わすことはないのです。
実在界(あの世)へ帰れば90パーセントの意識が表面に出て参ります。人間以下のモノを一生懸命に信仰してきて、あの世に帰って「自分はどこそこの神様を一生懸命に拝んでいたが、あれは動物だった」と思う人たちが多いのです。その時は遅いのです。一つ間違えば畜生界まで堕ちてしまいます。『般若心経』一つを見ても決してそのようなことは説いていません。人間の心と大自然の問題を説いているのです。

 般若心経の中に「
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子」とあります。
観自在菩薩といわれる方が、般若波羅蜜多すなわち、自分自身の心に内在するパラミタ、心を開発する日々の生活を〃行深〃深く行ずるということは、人間らしく生活する、八正道を実践する、この行をした時に初めて、自分自身の潜在された意識をも紐解いて、内在された偉大なる智慧を、自分の体験を通して心の90パーセントの意識の中に記録されているものが出て来るのです。その時に、〃五蘊〃というのは皆さまの肉体についている五官、眼耳鼻舌身から起こる煩悩のことであります。〃皆空〃の空ということをカラッポと説いている人がおりますが、とんでもないまちがいです。実在界を指して空というのです。

 私達はこの世界に広がる空間を「ソラ(空)」と呼びます。この空には水の蒸発したものがいっぱいあります。大気中の水蒸気は、H2Oという酸素分子が一つ、水素分子の二つが結ばれたものです。また氷もH2Oです。更に水自身もH2Oです。このように氷という固体、水という液体、水蒸気という気体、こういった状態総てが熱という縁によって変化を起こします。冷えて零度以下になると氷に成り、熱して百度以上に成ると気体に変わってゆきます。気体になると大気中を昇ってゆきますが、大気中の温度は千メートル上ることによって、五、六度ごと降下してゆきます。一万メートルも上ったら、大変に冷たい環境になってゆきます。そして温度が下るにしたがって水蒸気はごく細かい水滴となり、それが集まって、雨となって地上に降って参ります。皆さんがお勝手元などの仕事をしている時に、ドンドン湯気が立ちますが、その湯気は、ガラスや金物に当って冷えて水滴になってポタポタと落ちて参ります。我々自身には見えなくなった気体がまた冷却されて、水蒸気同志がくっつき合って水になって落ちてくるように、水は地上と大気中とを循環しております。総て熱という縁によってこの現象が起きているのであります。

 皆さま自身は空の世界である実在界(あの世)において、両親という縁によって、この地上界に肉体を持ったのです。このように万生万物は縁というものがなくては起らないものです。所がこの空(くう)という世界に対しては、私達は見えないから〃ない〃と思う。しかし私たちの目で見える範囲は非常に狭いものです。目で見えない世界の方が遙かに多い。目で見ることはできなくても在存することは否定できないでしょう。

 実在界という次元の異なった世界において、総てコントロールされているのです。これがあの世です。皆さん自身がやがて帰らなくてはならない世界です。しかも私達がこの地上に持っている、財産や地位、名誉も、この世を去る時には持ち帰ることはできません。もし持ち帰るとしたならば〃執着〃という大きな荷物になってしまうので間違いなく地獄に堕ちます。我々は執着を離れることです。足ることを知らなくてはいけないのです。

 人間は足ることを忘れがちで、百万残せば二百万を、一億残せば、また二億というふうに欲望が発展して、その欲望の虜となって苦しみをつくってゆきます。そのようにして五蘊という肉体舟にまつわる執着は、非常に苦しみや災難を作り出す。一切がこのような現象によって起るのだよ、「舎利子よ」。

〃舎利子〃とはゴーダマ・シッタルダーの弟子の中にシャーリー・プトラーという人がいまして、非常によくゴーダマの神理を理解し、さらに多くの衆生に対して正法を説いた弟子の一人です。そのシャーリー・プトラーは、当時においてはゴーダマの右腕のような人であったために、弟子の代名詞のようになって、舎利子といっているので、これは諸々の衆生よ、比丘(びく)、比丘尼(びくに)よ、サロモン、サマナー達よということです。

 そういたしますと、自由自在に過去・現在・未来の三世を見通すことのできる、悟られた方をアボロキティー・シュバラーといいますが、観自在菩薩すなわち悟られた方は、自分自身の心に内在された過去・現在のパラミタ、偉大な90パーセントの潜在意識を開く一つの生活、正道を実践する生活を、深く行じた時に、我々の肉体の五蘊すなわち眼耳鼻舌身という、肉体舟に付属した五官で総てを判断することによって、一切の苦しみや悲しみの原因を作り出していることをよく知ることができるのだ、舎利子よ、よく解ったか、とこういうことになるのです。

 所がこの空(くう)という根本がわからないから、「むなしいものだ」とか「あると思えばなく、ないと思えばある」というふうな説明になるのです。こんなことを言っても皆さまにわかるでしょうか。ある宗教団体の方に、「空というものを知ったならば悟りだ」と言われました。大僧正と言われるような人です。大学の教授のその専門の方に「空(くう)とは何ですか」と聞いたところが「それが解れば俺は大学教授なんかやってないよ」という返事でした。馬鹿みたいなものです。

 空というのは実在の世界、何でもある世界、実在する世界、意識の世界、この世にないものもある世界です。現象界とはこの空気中のH2Oの粒子がお互いに熱の縁によって、集中固体化され物質となっている世界です。我々自身はあの世というこの地上界以外の、次元の異なった世界で、魂の意識界を通して、両親の縁によって結ばれた肉体の舟に乗って来て、この地上界で苦しみや、悲しみや、喜びの体験を通して、より魂を進化させて偉大な自分自身をつくり上げてゆくものです。

 現在のこの世界は、三次元の世界です。立体の世界にいてこそ、私達はこの様な立体の肉体をもって、人生航路を歩んでおります。その中で五蘊(五官、六根)を通して我々は色々と、肉体の船頭さんである魂によって目で見た現象を、正しく八正道を通し、中道の道を通して自分自身を眺め、人から言われたことに対しても、すぐに感情的にならずに、なぜあの方は私にこのようなひどいことを言うのか、まず自分自身の心の中で分析してみて、相手の心にもなり、自分自身の立場を中立に保って判断をしていったならば決して感情的にはならないのです。感情的になると、その感情がふくらんで丸い心に歪が起きて来て、当然、神の光は遮られます。暗い想念ができるために苦しみや悲しみの原因を作ってゆくのです。「照見五蘊皆空 度一切空厄」であります。

 そこで「
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」ということが出て参ります。空は色に異ならず、色は空に異ならず、色は即ち空であり、空は即ちこれ色である。と解ったような、解らないような問題になって来るのですが、そこで皆さまは、お経というものはくどいなあと思います。

 というのは大体ゴーダマ・シッタルダーがインドの時代から、中道の道を説いている一つの教えを通して、誰にでも解るように、懇切丁寧に説いていったのです。所が書いてあることをよく見ると、色と空というものが入れ替りに並んでおります。色・空・色・空・色・空とずっとつながっているのです。色は即ち空なり、空は即ち色なり、そして色は空に異ならず、空は色に異らず、異ならずということは同じだということです。

 このように重なっているということは輪廻しているという意味なのです。色と空とが輪廻していると言うことです。即ち生命の永遠を説いているのです。

 皆さまが知っている〃色心不二〃ということ、これを心を空に置きかえてもよいのです。その色と空との関係というものが、私達はこの現象界(色)即ち皆さまの目で見える世界、赤や青や黄の光の三原色を通して色というものは無数に変わっています。この地上にある、この現象界にあるところの万生万物はみな色彩を通して皆さまの目に映るのです。

 その色彩を通して皆さまに見える物も、実際は虹の七色の七オングストロームから、四オングストロームの間の波長の光しか見えません。虹の七色の世界しか皆さまは見ることができないのです。この四オングストローム以下の波長は電波と呼ばれます。皆さまは電波を見ることはできません。しかしこの講堂の中にも電波は充満しています。また七オングストローム以上の波長は紫外線、X線、またガンマー線、デルター線に分けられます。こういった短い波長の光も皆さまは見ることができません。見えないからといって無いということにはならないはずです。

 そうなりますと、〃色という世界は目に見える世界である、万生万物である〃ということです。空というのは、その物を作り出している世界、次元の異なった世界です。あの世、この世、あの世、この世、というふうに輪廻している次元の違う「空の世界」と「色の世界」。これを皆さん自身が輪廻している訳です。

 それですから「そんな物があるものか」「空なんて世界があるものか」「肉体をもって死んだら総て終わりなんだ」ということになりますと、現代の物理学を否定することになります。何故ならば、色心不二を説いているところの根本法則の一つである、エネルギー不滅の法則にしても、質量不変の法則にしても、立派に物理学によって立証されている不変的な法則であるからです。私達はそのようなことを考えた時に、E=MC2エルグ。エネルギーというものは仕事をなし得る能力であり、そのエネルギーに対して質量というものと、光というものの二乗を掛けたならば、これは仕事を成し得る能力であるということになる。

 次に「
是色受想行識 亦復如是 舎利子」とあります。またこの如し・かくの如し、シャリー・プトラーよ。即ち皆さま自身の空即是色を通して見た、私達の思うこと、行うこと、皆さまの心の中に内在しているもの、心を通して行なうこと、こういうものもまた一切皆空だよ、実在を通してこそ存在しているんだよ、シャリープトラーよ解ったか、ということです。

 ところがこの通りに話してもお坊さん達にはわかりません。お坊さん達は物理や科学や自然法則も知らない。医学も知らない。現在まで過去から言われて来たものを学んで「あのお経をあげていれば善いんだよ。そうすれば救われるんだよ」と言っている。お坊さんですら知らないのに、昨日まで百姓をしていて、ポックリと死んだ。お坊さんを呼んで来てお経を上げてもらった。「お宅さんには般若心経を三回上げましたから・・・・」と言われても、亡くなった人は、死んで即座に仏様なぞにはなれません。地獄へ行くか、極楽へ行くか迷っている人に、ちょっと待って下さいと、自分の戒名も知らないのに戒名を上げられて、自分が泡をくっている時に、「摩訶般若波羅蜜多心経」なんて言われますと、ビックリしてしまいます。亡くなった人が、いくら90パーセントの意識になったところで、死んだばかりなのにそんなにすぐ解るはずはありません。それで「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」と言っても解らないのです。私達はこういう神理を、心を通してはっきりと自分自身が学んで、心と行ないが調和されて実践行動をしている時に、本当のものが解ってくるのです。

 次に「
是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」とあります。ここに来るとまた解りずらくなってきます。法というのは神理・大自然の神理・正法です。神理正法と云うものは空相であり(空相というのは心の中で瞑想することではないのです)実在を通しての神理であり、実相であります。それ故に、生まれず滅せず、汚なからず清らかならず、そして増えず減らずということです。こうなると、この問題をとけるお坊さん達は余程科学や物理を勉強していなければなりません。そうでなければとけない神理です。

このように実在界を通した一つの実相というものは、生まれることもなく、滅することもなく、そしてまた垢がついたりつかなかったりすることもない、増えることも減ることもないのである。ということは転生輪廻を続けているということであります。我々があの世とこの世という世界を考え、転生輪廻を続けている生命であるという事実を知ったならば、魂と肉体というものは不二一体であり、色心不二ということがとけてくるのです。

 ところで私たちのこの地上界での肉体というものは、約三十二種類からなるところの元素によって構成されております。それが一つの細胞を作り、人体は約六十兆からなる細胞集団によって出来上がっているのです。あの世は、空の世界は光です。全ては光子体によって出来ています。そういたしますと、この原子の次元よりも、あの世の次元の方が高次元であるということは否定できないはずです。

 私達は魂という面から考えれば、この地球上にAさんとBさんの縁によって肉体をいただいて出て参ります。そしてあの世に帰り、またこの地球上に出て来る時はCさんとDさんという人によって肉体を頂きます。あるいはもう一度AさんBさんから貰うかもしれません。それは皆さまがAさんBさんに親不孝をしたなら、今度は自分が望んでも「あなたを子供にしたらまた酷い目にあうから、もうご免だ」と断わられることもあるのです。
皆さんの中にもあの世から生まれる時に断わられた人もいます。私も断られた一人です。

 私は貧乏な所に生まれなければ悟ることができない、金持ちに生まれると転生輪廻におけるカルマがあって優雅になってしまうから、なるべく疑問をもてるような余り金のない所へ生まれようとして出て来ました。その結果はなかなか悟れませんでした。

 しかし金があったらなお悟れなかったと思います。このようにして私達はこの地球上に出て来て、また、あの世に帰ってゆくことを繰り返して進んで行くのですが、魂の乗り舟である肉体が違っているだけです。ただ舟ばかりを見ているから、私達は、有ったの無かったの、死んだの生まれたのと思いますが、魂から見れば肉体の乗り替えだけですから、当然生まれることもなく、滅することもないはずです。それで先ほどの物理学の(E=MC2エルグ)のエネルギー不滅の法則と一致するのです。仏教はそれを証明しております。しかもまた、熱の粒子に対する所のプランク常数と振動数の問題もピッタリと一致するのです。

 物理・科学・そして宗教の神理(真理)は一つも変わっていません。万古不滅のものであり、人間の知恵によって変えられるものではない、ということが解るはずです。皆さまがこの場所に来るまでには、それぞれ電車に乗りタクシーに乗り、あるいは自家用の乗物によって来ているけれども、皆さま自身は乗物が変わっても自分は変わっていないように、私達はこの地球上とあの世とを区分するから、肉体の死が総ての終わりだと思ってしまうのです。こういうことをよく知って、万生万物における所の、エネルギー不滅の法則と同じように、また質量不変の法則と同じように、皆さま自身の魂は永遠なのだということを知らなくてはいけません。


 - 完 -






般 若 心 経 の 解 説

 前回は、仏教という神理が、現代社会、現代物質文明の高度化された社会においても、我々が究め得た物理学の法則によっても異論を差し挟む余地のないような立派な科学的なものであるという事を説明したはずであります。
神理というものは永遠であり、その神理は唯物的な思想や知識の中から得られるものではありません。

 二千五百有余年前において、あの中インドを中心に、乱れ切った人々の心に安らぎと調和を与えるために、この地上界に生れ出たゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼物が、四十五年間にわたって説いた神理は、現代においても、我々の、また皆さん自身の心の中に内在されたテープ・レコーダーの中に、全て記録されています。

 所で、私達はこの地球上という場に出て来ますと、善と悪のミックスされている厳しい修行場であること、肉体という舟に乗ってしまうと私達の意識はわずか10パーセントしか表面に出ていないため、神理がわからなくなってしまいます。盲(めくら)のような私達の人生航路は、常に暗中模索するが、それは万物の霊長として、神の子としての本性を悟るまでの大きな厳しい修行の過程だといえます。我々はその中において、自分の生れた環境あるいは教育、思想、また、この地上界において先祖代々の肉体的な先祖を通して築き上げられた所の習慣、こういうものが大きく我々の悟りの前に厳しく横たわっているといえましょう。したがって、その中から神の偉大な慈悲と、我々の善なる心というものを悟り得る事は非常に至難なことになってきます。

 我々は、この地上界に自分自身が生れるその環境というものを選んで出てきます。貧乏人に生れてくる者もあれば、金持、地位、名誉のある家庭に生れてくる者もあり、それらは皆、自分自身が選んでくるのであります。まず第一に、この地上界に出て来る時の人類は、経済、物質文明という環境、肉体的先祖という環境、こういうものは修行の材料であって、これにとらわれてはいけないということを知っています。
そのために、あの世の規準はあくまでも肉体舟に乗って本能を備えたまま、神の子として如何に自分自身が正しい中道の生活をし、地上界において人々と調和して帰るかにかかっているのです。決して死んだ時の地位や名誉、権力を持って、功一級だの、或いはその他の色々な名誉を持って帰る事が規準にはならないのであります。
あくまでも皆さん自身の善なる心とその行為であります。嘘のつけない善なる自分に忠実な実践努力の結果が、あの世に持ち帰る規準になっていくのです。どんなに大金持ちであっても、この世から去る時に、それは持って帰れません。またどんなに大地主であっても、どんなに立派なお墓を作ってもあの世では通用しません。
通用するのは、ただその人の心が真実に正しい中道の道を実践したかという事です。
という事になると、あの世から出て来る時には、自分が最も悟りよい場所を選んで来るという事に皆さんは気がつくはずであります。

 もし二千年前に、イエス・キリストが、イラクという当時の王族の子供に生れたらどうなったでしょう。おそらくイエスたりといえども悟る事は出来なかったでしょう。最も厳しい左官屋としての不調和な生活環境に彼は出て来ております。そこでまず疑問を持ちます。社会におけるところのあのユダヤ教徒の宗教教義が果して正しいものであるか。一週間に一回、安息日には、仕事をしてはいけない、家庭の雑事も、仕事をも否定されるような、当時のユダヤ教徒の教え、あるいは、また厳しい律法制度、果して神がこのような事を人間に教えたであろうか、イエスは、当然、疑問を持ち始めます。一方においては、ノルマという厳しい環境の中におけるイスラエルの現状、ユダヤ人のあわれな生活環境、このようなものにも疑問をもって参ります。そういうあらゆる疑問を通して、まず同じ人間に生れながらにして、何故あのような厳しい階級があるんだろうか、そしてイエス自身は、神という疑問の探究を続け、最後は悟りの境地に到達します。

 過去における所の神理を説く多くの大天使達は、ほとんど自分自身のもっとも悟りやすい環境を選んで出生します。そのために大金持からは出ません。経済的に余りにも環境に恵まれた所に出てしまうと、人間は優雅な生活にどうしても溺れてしまうからです。
〃疑問と解答〃疑問の追究の結果が神理に到達していくからです。
インドの当時のゴーダマ・シッタルダーも、やはり同じように、出生の場所を選んでおります。後の仏典などには非常に優雅な大国の王の子供のようにして扱われているけれども、それは大きな間違いです。そして四十五年間説かれたゴーダマ・シッタルダーの神理は大般若経というものにまとめられたのであります。ナラジュルナ(龍樹)という僧侶が、それを更に取捨選択し、まとめて人々にわかりやすく書き上げました。般若心経は、こうした大般若経をもとに、中国の僧、玄奘(げんじょう)がまとめたものです。

 この般若心経というのは、過日も説明いたしましたが、日本へ伝わって来てからは、いつのまにか、仏壇や、神様の前で上げるものになってしまいました。また、清書(写経)して何回も書く事によって悟り得るという馬鹿げたものになってしまいました。字は上手になりますが、しかしそれでは悟れるものではないのです。その意味をよく知った生活をする事なのです。皆さんは法華経を今迄学んできました。南無妙法蓮華経とお経を上げて参りました。あれはやはり方便を通して人間はかくあるべきだ、人間の心はこういうものだ、これを説いたものなんです。

 インドのゴーダマ・シッタルダーの時代は、決して南無妙法蓮華経も上げておりませんし、南無阿弥陀仏も上げておりません。ただその意味をよく理解した生活をして、人間の価値、生れて来た目的と使命、このようなものを教えたのに過ぎないのであります。決して経文を上げろという事はやっていません。
第一、当時の多くの弟子たちは無学文盲です。文字など書けるような人は非常に少なかった。クシャトリヤという武士階級の中において婆羅門(バラモン)をやっている人達の多くは、一応は学問をしております。寺小屋のような所で婆羅門を中心とした、一つの経典を主体とした教えを学んでおります。その当時の文字も、仏教でいう梵字(ぼんじ)というのがありますが、それとはまるっきり違います。そのような事を考えたならば、般若心経を上げたり、書いたりする事が悟りへの道だとは思えないはずです。
 しかし、こういう般若心経というものを知る事によって、なるほど、仏教は科学であり、現代物理学の最極微を極めた神理であるという事がわかるはずです。


 摩訶般若波羅蜜多心経
 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子

 棒読みするとまるっきりわからない。この前にも説明致しましたように、摩訶とは偉大、当時はマハーといいました。マハー・パジャパテイー、また、皆さまの現在の会長様も、マハー・ナマといって偉大なるナマといわれた方です。ナマという名前でカピラ・ヴァーストのシュット・ダナーの四番目の弟さん、その弟さんの長男、その方をマハー・ナマといいました。その弟をアニルッターといいます。アニルッターといわれる方は、ゴーダマ・シッタルダーの十大弟子のアナリツ、このアナリツの兄さんが今の中谷会長であります。それはそのうちに、皆さんの中から霊道者が大分出てきておりますから証明されるでしょう。また別の所からそのような証明者が出て参ります。これだけは否定できないのであります。とにかく、そのようにマハーというのは偉大という事です。

 般若というのは智慧という事です。波羅蜜多という事は、到達する、という事です。そしてしかも彼岸に到達する迄には、自分に内在されている所の潜在意識の偉大なる智慧、この智慧に到達するいわば心の教え、心経はインド時代は、ストラーといっております。悟りへの道。ところが中国人はなかなか頭がよく、うまく語呂と意を合わせています。

 摩訶般若波羅蜜多心経の摩訶とは、また大いに不思議という意味もあり、摩訶不思議ともいいます、あの摩訶です。摩訶般若の般若というのは、ほとんどの人は般若の面ぐらいしか思い出しませんが、当時のインドではこの偉大なる智慧を蜜多ともいいました。というのは当時のインドでは、蜂蜜というものは非常に貴重なものでそう採れなかった。蜂蜜を採るには、蜂蜜を探す鳥がおりまして、その鳥に赤い布を付けて飛ばし、蜂の巣を見つけて蜜を採るのです。こうした事を商売にしていた人もいました。特に仏教々団の場合は、蜂蜜は高貴薬の様なものでした。そのためによく薬王菩薩とか薬師如来が、左の手に壷を持っており、これも実は蜜の壼、女王蜂の園から取り出して作られたところのローヤル・ゼリー、不老長寿の薬として持っていたものです。

 そのように蜜というものは、非常に高貴薬であるという事から、心の中の内在されている分野にはそのような高貴薬のような偉大なものがあるんだよ。即ち偉大なる智慧、内在している偉大なる智慧に到達する心の教え。このように摩訶般若波羅蜜多という意味は、つけられても結構だと思います。

 観自在菩薩、この観自在菩薩というのは、これも又、中国流に訳しております。漢字で読んで字の通り、自在にものを見る菩薩。皆さまの中には菩薩といえば、ああ立派な偉い神様だと思っているでしょう。

 菩薩というのはインドの当時は、サマナー、サロモン、アラハン、ボサター、その次がプッターといって、それは悟りの段階を指すのです。観世音菩薩像を見ますと必ずネックレスをはめたり、王冠を付けております。また文殊菩薩・マンチュリァーも矢張り王冠をかむっております。このように王冠等飾りつけているうちは、執着があるという事なのです。そうすると未だ菩薩は悟り得ぬ段階なのです。

 そこで観自在菩薩といわれる者は、ゴーダマ・シッタルダーが今から二千五百有余年前のヴェダーとかウパニシャドという現代の日本の仏典、教典と同じようなものがありまして、その中に書き込まれているものなのです。自由自在に見る事の出来る菩薩、本当は如来を指しているのであり、これをアポロキティ・シュバラーともいっております。

 今、皆さまのうちに、私の神理を聞いた人々の中から、シュバラーに近い状態になる人が出始めております。私の講演が終った後に、その人達の心に光を入れれば波羅蜜多の偉大なるその智慧、潜在された、内在された過去に学んできた所の自分自身の体験が、今の肉体を持った人を通して語り始めます。
 菩薩とは、ボサターをいうのですから、まだポサッとしている所がある。だから菩薩といっても決してまだ立派なものではありません。

 そこで観自在菩薩といわれるようになるには、神理に叶うよう行ずるのですが、大抵は間違いを犯してしまう場合が多いのです。行深というと行を深くするということになる。
 そこでハァ行をするというんだから、山の中へ入って滝にでも打たれ、厳しい肉体的な修行をする事によって悟り得るんだなぁーと。それには、この摩訶般若波羅蜜多を一生懸命に上げればよいんだなぁーと、こう思ってしまって金剛杖か何かを持って、観自在菩薩行深般若波羅蜜多といって、厳しい肉体行をしていく。その内に心がカラッポになったところへ、動物霊か何かが入ってくる。するとその人に入った動物霊が出て、ついに神様が出て来たなんていう事になって稲荷大明神が一つ出来上る訳です。そういう事をよく考えると、この行深という意味が非常に重要な意味を持ってくるのです。

 行深という事は、神理に適った毎日の生活、これを深く行う。そうすると智慧の波羅蜜多が涌現(ゆげん)されてくる。この波羅蜜多という内在された自分の心を涌現する、思い出すには、先ず中道の神理に適した生活をしなかったならば、心の中に曇りが出てしまって神の光を遮ってしまいます。遮ってしまうから、暗い心に閉ざされるからあの世とは通じません。あの世と通じないから凡人です。明日の事も目先の事もわからなくなってしまいます。そこで自分の心の中が綺麗であれば光が差し込んで参ります。そういう生活をする事が一番重要であり、深く行ずる事なのです。そこで般若波羅蜜多時、悟りに到達するために深く自分自身がそういう生活をした時に、観自在菩薩、つまり自由自在に見る事が出来るのです。

 五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子――、ここで苦厄というのは苦しみや災難、それはここでいう五蘊という皆さまの目や耳や鼻や口、肉体の五官を通してそのような苦しみが出てくるのです。その苦しみも実は、五官から生ずる六根のため神の光を遮ぎってしまうので、我々はそのよう苦しみを作ってしまうということを観自在菩薩はよくわかっております。

 舎利子というのは、シャーリ・プトラー、これを日本でいうと舎利弗(しゃりほつ)、インドの時代はシャーリ・プトラーといっております。このシャーリ・プトラーという人は、ゴーダマ・シッタルダーの四十二才の頃にデンドーナーという所へ尋ねて来たアサンジャーといわれる大波羅門の従兄弟です。その友達にマハー・モンガラナー(大目蓮)という男がおりました。この人は理論的にも多くの神理を説く事ができ、ゴーダマ・シッタルダーも重用しました。何れにせよ、シャリー・プトラーは九十七、八才でこの世を去りました。

 ここではシャリー・プトラーは弟子に対する一つの代名詞のようなものなので、舎利子とは「諸々の衆生よ」ということになり、偉大なる般若波羅蜜多という悟りの境地は、観自在菩薩という自由自在に見る事の出来る境地であり、あの世もこの世もアポロキティ・シュバラーという方は、この地上界とあの世、そして又未来、皆さまの過去と現在と未来、これらのものを自由自在に見る事の出来る悟られた方であるということを舎利子にいっているのです。

 また、苦しみ悲しみをつくる五官を通した六根に翻弄(ほんろう)されてはならない、もともと六根というものは実体のないものであり、これにとらわれるから不幸をつくるのであり、これから厭離(おんり・けがれた現世から離れること)しなければならない、わかったか舎利子よ、ということも合わせていっています。

 次ぎに、この皆空(かいくう)、一切は空であるという、空というのは、あの世の事をいっております。実在界あの世、あの世というのは実際に、ものが実在する世界で、そのあの世からこの地上界に投映されている世界、あの世から映写機でいわば幕を透して此の三次元という世界に、宇宙というものが投映されていて、しかも立体モーションピクチャーであの世から操つられている訳です。操つられて皆さまは生活しているにもかかわらず、その操り人形が勝手な行動をしてしまうから、いろいろと問題が出てきてしまう訳です。五蘊という目や耳や鼻や舌を通して、皆さまは嫌な事を聞くと、つい頭にきてしまったり、感情的になってしまったりして、自分で苦しみや災難を作ってしまうのです。そうなって参りますと私たちは、その様な操られている事に対して反省をする事によって、我々はなんでこのような苦しみや災難が起るのかという事が、自分でよくわかるはずです。それもしないで自分の苦しみだけを他人のせいにしたり、生活環境を妬んだり、恨んでしまったりするのです。またその操られている者が、つい生命を持っているから自分勝手な方向へ行ってしまう。そこで、あちらの人は、どうするんだろうといっている訳なんです。

 実は皆さまも、毎日の生活の一秒一秒はあちらから皆見られているのです。それを知ったら全く自由はないのです。それが肉体をもつ自分が、自由という事をはき違えてなお苦しみを作っています。死ぬ時には、いずれそれを自分が裁かなければならないのです。

 一つ大きな目的を持って出て来て、よし、今度こそは一つ悟って人々を救って来るよといって、救うどころではなく自分をも救われず、あの世へ帰ってしまう人が多いんです。そういう人は先ず地獄です。何百年間じっくり地獄で味わってくる事です。それでは実際困ります。何故ならば、皆さまの魂の兄弟達が困るからです。魂の兄弟の内、一人でも地獄に落ちてしまうと、この地上界に皆さまの魂のグループ、即ち六親眷族(ろくしんけんぞく)は生れてくる事が出来ないのです。そうすると自分一人のために多くの人に迷惑をかけるという事を知るべきです。

 さて次ぎに
色不異空、空不異色と出て来ます。この場合の色というのは物質、我々の目に見えるところの物質、色、即ち色彩、赤、青、黄という色彩は何万色にも変る。その何万色もある我々の、この地上界の万生万物は全て色彩をもっております。このように色とは万生万物を指します。

 不異空という事は、異ならずという事、即ち色と空は異ならないのだ、同じだということです。色は空に異ならず、空は又色に異ならずとこういう訳です。そうするとなんだかチットもわからなくなる。そこえもってきて更に又念を押す訳です。

 
色即是空と空即是色――、しかしこれが重要なんです。この空という問題に、あるお坊さんは、この空さえ解かればもう悟りだなんて言っているんです。冗談じゃない、空がわかっても悟れないんです。空という事を知ったら実践しなければダメです。深く行わなければダメです。そこでこのように物質というものは、実在を通して、あの世を通して存在しているんだから、いわばこの地上界は、実在界とは異ならない、同じだよ、変っていないんだ、しかも又、あの世実在界は、この地上界とも異なってはいないんだよ、連続体だ、即ち同じ事を行なっているから、生れたり、滅したりすることはないと説明をしている訳です。そのために異ならないから、ここでダメ押ししている訳ですね。

 この地上界はあの世だよ。あの世は即ちこの世だよ。当然同じ結果になるはずです。
 ただ次元が違うだけなんです。「あ」と「こ」の違いだけで、「あ」と「こ」を外したならば一つになってしまいます。あの世もこの世も、そんなむつかしい世界ではなく一転びなのですから、この理論というものは成り立つはずです。そこで仏教でいう所の〃色心不二〃という事も又同じような姿を表わしております。物理学でもこれは証明出来ますね。

そこでこのような所から、
受想行識 亦復如是 舎利子

 又舎利子が出ておりまずけれど、人に聞いたらお釈迦様の骨の事をシャリっていうんだよ。このように答えているお坊さんがありました。最近はシャリといったら米の飯の事を銀シャリといっとりますが、これもシャリには変りないでしょう。米は肉体を保存するための物ですから、米を主食とする人々にとっては大事な食糧です。したがってお米は諸々の衆生にとって欠くことのできないものですね。
 シャリ・プトラーは人の名ですが、般若心経の中では〃諸々の衆生よ〃という事ですから、お米をシャリという語源は、案外ここから出たかもわかりませんね。(笑)

 受想行識・・・・・・即ち皆さまの想念と行為というものは、実はこの地上界という場に出てしまうと、空即是色にも関わらず、現象にとらわれ現象に溺れてしまって、常に堂々廻りを繰り替えしてしまう、愚かなものだとここでは言っているのです。色即是空、空即是色といっても、現代のお坊さんでも物理や、科学や、医学というものを通して、自分が神理というものを実践してみないとこの問題は解けないのです。ここが分かれば、受想行識も自然と理解されて来る訳です。

 そこで
是諸法空相、このようにして一切の神理というものは、実在の実相を通し、神の意志に基づいてつくられているものだよ、と言う事になりますね。そこで色即是空というものは、私はよく声を大にして説明します。
皆さまの肉体は、地上界に適応した人生航路の乗り舟である。この舟に乗っている船頭さんが、魂であり、意識であり、心なのです。その中心の心というものが又どのようになっているかというと、我々の魂というものは、
不生不滅である。生れず滅せずなのです。ですから垢もない、浄ということもないのです。ですからその次に不増不減、増えず減らずとこうくる訳です。このように全てを否定しているように見えるけれども、実は大肯定なのです。

 心とはそのようなものなのです。

 皆さまの魂というものは、あの世とこの世を転生輪廻してきております。

 太陽も今日の太陽と明日の太陽は一つも変っていないのです。キリスト教の古い宗教の中には、地球は平面の板の様なものだと教えているようです。東の方から新しい太陽が出て、海の彼方に沈んで、又明日になると新しい太陽が出てきて又沈むのだ。ところが文明が発達し、科学が発展するに従って、コペルニクスや、或はガリレイ達は地動説を唱えて、地球はこのように回わっているんだ、だから太陽は一つなんだと、いわゆる地球軌道説を唱えた。この説を強く主張したこれらの弟子たちは、世を惑わすということで首を切られて死んでおります。宗教というのは恐しいものです。

 イエス様は、そんな事を教えなかった。途中の弟子たちが色々と考えなくてはならなかった。地球は板のようなもので、地平線の彼方からポンと新しい太陽が出てきて、スーッと落っこちてしまって、又明日になったら新しいのが出てくると考えていた。しかしなんと説明しようと太陽は一つで、今日も昨日も変っていない、同じ太陽である。

 皆さんの魂も、ある時は中国に肉体を持って一生懸命に学んだ人や、あるいはエジプトで、又フランスで、それぞれの国を転生輪廻してきて、今日、日本人として自分が日本の環境の中で肉体を持って生活をしております。
その船頭さんである皆さんの魂は一つも変っていないのです。ですから魂は生れる事もなげれば、滅する事もないという事実は、皆さんもわかるはずです。エネルギー不滅の法則、質量不変の法則というのがございます。これと同じように我々の魂も永遠である。
不垢不浄、当然垢も付く事もない、清らかであり、増える事もなげれば、減る事もないのです。

 さて次ぎに、
是故空中、つまり実在界は、無色無受想行識だ。

 皆さんの目で見ている五官というもの、あちらでは心の内面で見て参りますから問題は少ない。この地上界についてもそれはいえるし、地上界的なものの考え方であってはいけませんという訳です。それ故にこのような物質的な光景というもの、我々のこの地上界における原子というものを根本としたところのいわば物質的な光景はあの世にはない。実在界は光ですから当然こういう現象はないはずであります。
 しかし、この地上界と同様に、目や、耳や、鼻を通して見るような一つの想念と行為があれば、あの世は心の世界ですから、思えば即座に現象化されていきます。特に地獄界などは、心の中で思った事が即座に現象化されます。それだけに恐しい世界です。

 実在界においても又同じ、心で暗い想念を持つと即座に神の光はスーと消えていきますから反省してしまいます。なぜ私は光が暗くなったのだろうか、反省していけばそこで直り、自分自身が神の心に調和させる事によって、神の光がパーと入りますから元に戻ってしまいます。そのために人と人との間に嘘がない、嘘をついても直ぐわかってしまいます。便利です。しかし、この地上界でそうなると不幸が来ると思う人があるでしょう。

 ところが不幸は本当はないのです。争いや闘争や、苦しみや、悲しみや、災難というものは、本来は起らないのです。心がきれいな状態になってしまえば、そこが実在界となり、当然、眼、耳、鼻、舌、身、意という煩悩というものも消えてしまいます。煩悩が消えるから、目で色々な色彩を見たり、耳で色々な事を聞いたり、或は鼻を通して色々な臭いを感じたり、又舌で味をおぼえたり、身で感触をもったり、このようなものにも影響がなくなります。それはあくまでも原子細胞というものを通して、今のこの地上的なものの考え方で見るから間違いが出てくるのです。心の実相というものは関係ないんだ、という訳です。

 
無眼界乃至無意識界 あの世は我々の肉体だけで見るような、そんなちっぽけなものではないんだ。広い広いもっと大きな神の意識に基づいた光の光明に満ちた世界なんだ。それこそこの地上の想像を越えた世界であるといえます。

 それ故、
無無明亦 それこそ無明の無い世界であり、明るいことを意味するが、無無明尽だから、その明かるさの尽きるところがないという事になりますね。これは中国特有の言葉であり、これはここの文句と合せるための、いわば語呂(ごろ)合せだったようです。

 生れず滅せずといっても人間にはわからない。かえってしつこくいったらなおわからんと思うんですが、それを有難がって拝んでいる方は、なお有難い人という事になりましょうか。

 次に出てくるのが、
乃至無老死 亦無老死尽 年をとったり死ぬ事もないということですが、それはそうでしょう。あの世へ行って死ぬ訳はないんですから。前節で不生不滅、生れる事も、滅する事もないといっているのですから、我々があの世へ帰って死んじゃったといったら、おかしい事ですね。一回死んだら死ぬ訳がないんで、死というものは肉体という形を見ているから、死んだの生れたのとみな言うんですが、魂は別にチットも痛くも痒くもないんです。肉体という舟が、この地球上に沈没しちゃっても、その船頭さんは一つも変っていないのです。だから我々は年をとる事もなげれば、死ぬ事もないはずです。

 ですから皆さんがあの世へ帰った時には、この世で年をとっていっても、あの世へ帰ったら三十か四十才位の人が多いんですよ。お年寄りの方に「おばあちゃんいくつになるの」と聞いたら「私は三十五才位だよ」なんてね。
この前の講演の時に東京でしたけれども、七十八才にもなった人に年はどの位いと聞いたら、「私はまだ三十八、九才の気持です。」又隣りの旦那さん、どうですか、といったら六十才位なのに「私はまだ二十五才位の気持です」と、これは皆さま自身ね、年をとっていても決して自分は人には負けないつもりでいるんです。当然、魂、船頭さんは若い気持でも、肉体がいう事をきかないから、しかたがないと思っているだけです、そうですね。

 このようにあの世へ行った時には今皆さんが思っている心の意識年令、これがあの世なんですよ。イエス様でも、あちらへ行きますと若いですね。ちょっと計算していきますと、二千何百才になるはずです。ところが事実は四十才代です。モーゼも同じです。観世音菩薩、弥勒菩薩もやはり、三十一才~三十五才位です。ですからあの世へ行ってみるとみんな若いんです。ただ色々な状態で年寄の格好ならよいと思って生活している人もあります。

 そういう事で、あの世は年をとって死ぬ事も、尽きる事もない、不生不滅だから当然の事です。即ち
苦集滅道も生老病死もない。
 こうした意味で般若心経は、人間の生命という問題を解いている訳です。

 般若心経で問題な点は、五蘊つまり、眼耳鼻舌身が全ての苦しみをつくっていることですが、ではその苦しみから解放されるには、どうしたらよいのかというと、この中には書いてないのです。
このため神、仏様の前で般若心経を毎日一生懸命あげたり、拝むことが即ち自分達が救われるんだと早合点してしまうのですが、こういうような人たちは、何にも分かっていないという事になります。この中にも何人かいますけれどね。
 まあ、このように我々の魂の永遠性というもの、この地上界に出てくる苦しみというものは一切、我々は自分自身がつくりだしている事を知るべきであります。

 所で、人間は何故この地球上に生れて来るのでしょう。

 それは皆さま自身が転生輪廻を繰り返して来て、心に記録された不調和な面を自分自身がよく見つめて、〃自分にはこのような欠点がある〃ということを知り、それを八正道という中道の尺度を通してその欠点を直そうと決心をして生れてくるのです。
それには先ず勇気と努力、そしてその欠点を超えてゆくにはどうするかという工夫をこらすことがなければ、心の修正は出来ません。即ちカルマ(業)の修正であります。このようにして我々は、地球上の人類が本当に心と心が通い合った、神の子としてみな兄弟であるとの自覚が芽生えてくるのです。

 ところがこの地上界に出てくると、その国の思想とか環境に振り回されるから、自分というものがわからなくなって来ます。井の中の蛙大海を知らずで、ついには神の子である事も忘れて、外国人というと、かつて自分の生れた国の子孫たちにも拘わらず、まるで赤の他人扱いをしてしまう。

 皆さまの多くは、殆んど中国を経由して日本に生れております。中国の文化も皆さまの心の中の意識のテープ・レコーダーには、輪廻転生の中に全部記録されております。それを日本は中国と戦争をした。考えてみれば肉体の子孫と喧嘩をして来た事になるのです。あの世へ帰ったならば、ああ馬鹿々々しかった、なぜ争いなどやったんだと、そのように思うでしょう。

 心というものは、永遠に転生輪廻し、あらゆる国々を経て来ているので、今生の僅か五十年、六十年の体験などホンの小さなものなのです。皆さま自身の過去に体験されて来たところの偉大なる智慧の宝庫が、潜在意識の九〇パーセントの中に記録されております。そうゆうものを涌現する道がこの般若心経の中に書かれております。

 我々は心というものを本当に知ったならば、心は実在の世界に通じ、是故空中なのです。
 実在界は光明に満ちた世界であり、神理を悟っている為に生老病死の苦しみというものが無いんだよといっております。ゴーダマ・シッタルダーもイエス・キリストも、あの世とこの世の〃神理〃を悟り、此の肉体を持っていても、あの世へ自由に行く事が出来るようになったのです。だから肉体というものは、ただの途中の乗り舟にしか過ぎないという事で永遠の輪廻から解脱しているのです。神理の境地というものを知っているために、もうすでに輪廻の苦しみから解脱しているという事です。

 この地上界にあるもの、万生万物は総て輪廻を繰り返しております。たとえ悟った人なりといえども、永遠の輪廻の中の過程にあるのですが、その輪廻の苦しみから解脱して、あの世もこの世も自由自在に見る能力を持ってしまうために、現象界において、苦しみに見舞われる事もなく、生老病死の原因を知っております。そこで宇宙は一つ、宇宙即我の心境であり、自分自身に足る事を知っているので所得の有無に左右されることがない故に、悟られた方たちは
般若波羅蜜多、内在されたる偉大なる智慧を悟っているために、心の中は、無罣礙である。引っ掛りが無い、引っ掛りが無いから、自分の心の中にも、生活の中にも、恐怖する事も何も無い。夢のような間違った考え方を総て遠く離している、厭離(おんり)している。何時死んでもよい、一日一生という神理を自分自身が悟ってしまう。執着というものが何一つ無い、涅槃の境地なのです。

 過去、現在、未来におけるところの、それぞれ悟られた諸仏は、此のようなパラミタという内在された九〇パーセントの潜在意識・偉大なる智慧を過去世で体験し己の心に記録している。
すなわち次ぎに出てくる
阿縟多羅三藐三菩提。これは一切のものから解脱して、神の心と調和されている最終段階の悟りの境地をいいます。これをインドの言葉では、アーヌクタラー・サンミヤク・サンボデーというのです。

 その境地は偉大な智慧の泉である
大神呪であり、そうして光に満ち満ちた神の世界、大明呪であるという訳です。したがってもうここまでくると比較するものがない、これ以上のものは無い、無等等呪である。このように我々は内在された偉大なる智慧を涌現して、アポロキティ・シュバラーとなるが、それには般若波羅蜜多という神理に到達する道を理解し行うことです。

 衆生よ、悟りの彼岸に到達しようという事で、
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆呵。と所謂(いわゆる)呪文を唱えれば幸福に成る、もうこの辺から当時の玄装三蔵も違って来たようです。こんなものではないのです。呪文を唱えなくともよいのです。

 このような神理を知って実践をする生活が大事なのです。日蓮の南無妙法蓮華経を拝めば幸せになる、日蓮はそのような事は教えなかったけれども、後の者がそのような方向に持って行ってしまったのです。

 人間という者は、色々解らないと、我流の知恵で自分達の都合のよいように変えてしまったといえるでしょう。
 呪文のぎゃていぎゃてい・・・・・云々とは、インドの当時の言葉では、カーティ、カーティ、パラーカーティ、パラサンカーティ、ボデースバハーといっておりました。一切衆生よ、迷いの岸から悟りの彼岸に到達して、仏の境地と調和されて、一切を成就しようと、このようになるのです。

 人間は拝む事ではなく、その神理をよく知った日常生活をする事で、心が本当に神の心、仏の心と調和された時には、本当の安らぎが出て来て、内在する過去、転生輪廻した皆さまの偉大な体験された宝庫が、そして仏性が心の中にあるんだ、というのが般若心経です。

 私は、般若心経というものは実は知らないんです。知らない人間が皆様の前で教えているのは、私はあの世を通して教えを乞うているからです。そのために皆解ってしまいます。専門の方が聞けば尚良く解ると思います。

 そこで私は、ここに心経(現在は心行といっています)というものを書きました。

 私自身、全く仏教とか神様には縁の薄い男でしたが、自然科学の中から〃神理〃を三十数年間追い求めて来て、最終的にはこの問題に到達致しました。それまで私は、あの世を通して色々厳しい事を言われ、三日間で悟れというのです。

 昭和四十三年七月十二日、三日目の最終日、「自分はもう死んでもよい、地位も名誉も金も、一切何もいらんと、今まで苦しめた悪魔よ、出て来い、私は命も執着も捨てた」と、腹を決めました。その前の一週間というものは殆んど「お前は死んでも、地球上の果まで逃げても、宇宙の彼方へ行っても、俺は掴えてやるぞ、死ぬなら死んで見ろ」と徹底的に叱責されていたのですが、こうして自分自身が実在界(あの世)を通して光の天使から厳しく毎晩付いて回られて、苦しみ抜いた末、遂に自分自身という者が、神の子であり、その使命を果さねばとの自覚を得たのであります。

 その後、十月迄に神理を書けと指令がありましたが、私は電気屋です。電気の事ならばよく解りますが、神と称するものや、お経というものは全くズブの素人です。それがいつの間にか自然と書かされるようになりまして、ワン・ツー・スリー、又はフォアイシン・フォアイ・シンフォーと言われる上段階の光の天使達が、常に私の所へ付きっぱなしです。

 ぺンを持てば自然と手が動いてしまいます。そこで「大自然の波動と生命」という本を書きました。これを書きました時に、〃中のエキスをお前は作り出せ〃と大自然の波動と生命の中の、生命論の内部を収縮したものが、この「心行」なのです。

 心行を書き終った時に、実在界(あの世)から光の天使達が出て参りまして、読んで聞いてもらったところが、お前は四十二年間、本当に親不孝者だった、神を忘れ、自分の使命を忘れ、金儲けからあらゆる悪い事をしておった、こんな野郎は見た事が無い、一緒にキャバレーや料理屋へも度々行かせてもらったけれども、お前のような勝手な男はなかった。しかし、親不孝な子供ほど、可愛いいもんだよ、四十二年間付き添ったけれども、こうやって悟ってしまえば、もう私達には用はなくなった、淋しいものだ、といっていました。天上界の人達の親心というものは、この地上界よりもっと微妙なものです。光の指導霊たちは、そんな事でもう俺たちの手を借りなくとも、お前は一人歩き出来るだろう、と。

 これが日本語で喋ってくれるのなら、もっと解るのですが、何しろヘブライ語か、イスラエル語か解らない言葉でペラペラ喋べられるから、気分は半減しますけれども、しかし、矢張り私の心に響いてくるものは同じです。

 そこで私の書いた心行をみて「そうだ、そうだ神理はこれ以外にないんだ、人間は間違っている、神の子としての自覚をしてもらいたい。自分の心の中でよく消化し、消化した時には偉大なる内在された智慧が、皆さまの過去世である転生輪廻を続けてきたところの、心の宝庫が開かれるんだ」と言われたのであります。

 その時に始めて、ワン・ツー・スリーことモーゼだと本名を知らされたのです。どこかで聞いた事のある人だと思ったら、パァーと姿が現れ二メートル以上の大男です。数百年前のエジプトの格好をしております。
 フォアイシン・フォアイ・シンフォーと云われる難しい名前の方は、かって二千年前、イスラエルの地において人々の心に偉大なる愛の道を説いたイエス・キリストの分身だと名乗りました。

 私はその時に驚いてしまいました。まさかそんな偉い人が私の所なんか出て来る訳はない。所が色々な事を教えて貰いますから、これにはどうする事も出来ません。私一人なら私は否定して黙っておりますが、しかしいろいろと周囲の人達が、私と同じように他国語を喋り始め、又現象も出て参りました。私はそのようなものは余り信じない男なんですが、こうして既に皆さまの前で、神理を説いている間に、この中からも心の窓を開かれる人達が出て参りました。これは否定出来ません。

 何故そうなるのでしょう。

 皆さまも神の子であるからです。そうして心の窓が開かれた時には、もっと偉大なる不滅の世界の存在がある、という事を知らなくてはならないからです。同時に私達が多くの人々に偉大なる神の子としての道を説く時、その中から真に心の調和されている人たちは、我々の神理は正しいのだと、自分の10パーセントの声でなく、過去世に学んだ神の子としての道を悟った人達が現れ立証を与えて行くからです。

 聖書の中にも、イエスの弟子たち、パウロを初めとして、十何人の弟子達の心の窓が開かれて、今世で学ばなかった言葉や、当時の模様を彼等は語り出し、多くの人々にその道を説いたという事がハッキリと記録されています。

 仏教の中の華厳経十地品の中にも、ゴーダマ・シッタルダーの出られた当時に、多くの人々の心の窓が開かれて、あらゆる国々の言葉を喋り、私は何処で生れ、このような事をして、此処で死に、そして又此処で生れて、このようにしているという事が、心の窓の開かれた人々によって語られたことが記録されております。

 今我々の現象は、この地球上において二千年ぶりに起っている現象です。

 そのために今後も我々のグループの中から、心の窓が開き、その使命を自覚した人が沢山出て来るでしょう。
 それはそれぞれが神の子として自覚に立っているために、実在界より皆さまが出て来る時には、多くの人々を救済しよう、愛と慈悲の道を説いてこようと思い約束した人々が、類は類を呼び、友は友を呼ぶ法則に従って集まって来るからです。

 すでに我々の周囲には更に又何十何百という教団が同じような方向に転回しつつあります。大阪で最初の同じグループが転回しております。次々に関西、関東、或は九州方面へと、そして更に又、一つ海を越えて沖縄、中華民国(台湾)、アメリカ、南米にも火の手が上り初めております。

 皆さまの心の中には正しいものと、そうでないものの記録が全部載っており、それを各人の10パーセントの意識で、善なる意識で選択して行くのです。人間は思想とか、或は権力によって肉体の行動は制約出来ても、人間の不変的な魂まで、押える事は出来ないのです。心は自由であり、誰もが束縛する事の出来ない偉大なる生命です。

 そのような事を知った時に、現代の社会を修正する道は、混乱した世の中を救う道は、一人一人の人間が魂の普遍的尊厳性を悟って、人間らしく生きる、これを自覚した時に世の中は平和になって行くのです。

 アメリカはその軍事力と科学にものをいわせ南ベトナムの統一を電子計算機によって弾き出しておりました。しかしあのコンピューターによってすら、南ベトナムの人々の心を掴む事は出来なかったはずです。人の心は暴力や金や地位の力や、又思想によってコントロールする事は出来ないのです。

 善なる己の心が正しい道に導いて行った時に本当の平和が来るのです。

 そうゆう面を通して般若心経を更に一歩前進させた神理である「心行」を書いたのであります。


 - 完 -


高橋信次先生著 「原説般若心経」も併せてお読みください。― 三宝出版 発行





2013.07.01 UP





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