高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







高橋信次先生講演


「人生の目的と使命」


71.11.21 GLA関西本部 特別招待第4回公演会にて

 本日は、「私たちがこの地球上に何の目的を持ち、どのような使命をもって生まれて来たのであるか」という事について説明してみたいと思います。

 多くの人々の中には、両親が自分たちの都合によって、好き勝手に私たちを生んだのだと思っている人たちがいます。もう一つは、この地上界に肉体をもち、親、師、先輩より受ける教育、あるいは先祖や国が培って来た歴史的な環境の中において、自分なりに、悲しみや苦しみ、喜びなど、苦楽の人生を体験して一寸先は闇の人生だと考えている人たちもいます。いづれにしても、私たちがこの地球上に出て来た以上は、安閑として無為無作の人生をすごしてよいのでしょうか。その解決を求めたはずの信仰、その信仰に対する矛盾などを皆さまは痛感しているはずです。それは私たちが、肉体的な五官を通してとらえ得たものを、目を通して見たもの、耳から聞いたもの、あるいは肌で感じたものによって、その人の学んで来た、教育や、思想や、あるいは習慣によって判断をしているからです。

 あまりにも物質文明だけが発達してしまって、私たちは本当の人間としての価値と、そしてその使命というものを忘れてしまっているのが多くの現代の人々です。

 あくまでも私たちの肉体を通して感じ得たもの、あるいは皆さま自身が想像して、心の中で思うことによって、自分なりに判断して生活しているはずであります。その結果、女性の方はより美しく、そして結婚をして平和な生活をしようとか、良い子を生んで立派に育てようとか、経済的な安住を得て、もっと自分自身がより以上に優雅な生活をしたいとか・・・。
 
 男性の方は学校を出て、社会に出たならば、すくなくとも社会的な地位を築いて生活環境を安定しようとか。会社に勤めている人たちは、少しでも役職を得て地位を築いてゆこうとか。それぞれ人によって違いはありますが、私たちが生まれてきた目的は果たしてそのようなものなのでしょうか。

 皆さま自身がこの地球上に出てくる前、皆さまの中に、「そんな馬鹿なことはない、肉体が絶対なんだ。親から頂いたこの己自身の肉体が絶対であるんだ。それ以外に何物もない」と唯物的に考えるとしたならば、心と肉体の関係はどう説明したらよいのでしょうか。

 人間の脳細胞は約二百億あります。二百億の細胞からなる頭脳がすべてを記憶し、想像する能力を持っているとしたならば、皆さまは何故眠っている時に、私たちの耳の穴も、鼻の穴も、チャンと立派にあいているのに、視覚も、聴覚も働かないという事実を何と説明したらよいのでしょうか。現代医学においてはまだそこまで解明してはおりません。

 さらにまた、皆さまが学校やあるいは男女関係、恋愛問題、親子の対話などの不調和により心を悩まします。恋人にふられて悩んで身体が痩せ衰える人もあるでしょう。なぜ悩んで私たちの肉体は疲労を感ずるのでしょうか。これについて現代の医学も物理学も証明することはできないのです。

 悩みの原因というものは、どこから発するのか、苦しみの原因は、どこから出て来るのか。しかもなぜ肉体は年をとるに従って、老化現象を起こしてゆくのか。なぜ人間は死んでしまうのか。この大きな問題を追求していったならば、私たちは全く肉体以外に何物かの存在があることを否定することはできません。ということは私たちの現在持っているところの肉体は、この地球上という場に対して適応したもので神がつくり、我々は神の子として先祖代々継承されてきて、現在の肉体を持っているからなのです。

 そうなりますと肉体以外に何物かがあり、人は魂ともいう、あるいは意識ともいう、精神ともいう、その根本であるところの魂というものの存在を、皆さま自身は否定できないはずであります。なぜならば、今の皆さまの肉体は親から頂いたものですが、魂は親から頂いたものではありません。もし魂を親から頂いたものであるとしたならば、なぜ親が子供の心が解らず、子供が親の慈悲も解らず、親不孝という現象が起こるのでしょうか。もし魂を両親から頂いたものであるとしたならば、私たちはどこにいても、意思の断絶はないはずです。

 ラジオもテレビも無線機も、人間の作ったものです。私たちが今スイッチを入れれば、どこの放送局もキャッチできるだけの能力を持った受信機を発明しております。あるいは映像をも映し出せるだけのものを発明しています。しかしこれらは人間の文明生活の知恵がつくり出したものです。万物の霊長である人間自身が、なぜこのような能力を出せないのでしょうか。親と子の意思が、親と子の魂が、同一のものであるならば、どこにいても自由自在に、心の中で思っていることから考えていること、行なっていることが、通じ合わねばならないはずであります。ということは皆さまは、魂、意識の次元ということを考えねばならないのです。今の肉体舟を絶対なる基盤として考えるところに、間違いが起きて来るのです。

 そうなりますと肉体以外に、また別のものがあるということを私たちは否定できないはずであります。

 皆さんは自分の五官・六根がすべてだと思っているが、脳細胞の二百億の集団がすべてを思い想像し、計算もする場所であると思っているが、眠ってしまったら、ただの一個の物質にしか過ぎない。しかしこの物質である私たちの肉体も、五官を通して調和されずとも私達の五臓六腑は少しも機能は失っておりません。動いています。といたしますと、私たちの脳細胞は五体をコントロールしている制御室にしか過ぎないということを、皆さまは知らなくてはならないのです。なぜ制御室であるかというと、肉体以外の意識、魂が離れている時には、全く無能だということです。眠っている時に、数字の計算でも学んでいるものがわかるならば、それは脳細胞がすべて記憶しているということを私は肯定します。しかし、その事実はありません。

 私たちの感覚器官に感受された信号は、脳細胞の神経繊維の中に電気的振動を起こすのです。これを脳波といっております。この電気的振動の波動が、人間の肉体の船頭である意識・魂に通信されて記憶されているのです。このような次元の違った意識・魂の根本というものを考えた時に、肉体はただの人生航路を渡って行く一つの乗り舟しかすぎない、ということになるはずであります。しかもまた、神理というものは永遠不滅であり、線香花火のように消え去るものではないのです。肉体というものはこの地上界において、己の魂を磨く乗り舟にすぎず、魂というものこそ永遠不滅の己自身なのです。

 眠っている時に皆さまの魂は肉体から離れて次元の違った世界へ行っています。この地上界を皆さまが去る時に、帰らなければならない魂の世界へ行っているのであります。そうなりますと私たちはまず次元の違った世界、あの世こそが実在界だということになるのです。すべてのものを作り出しているところの空(くう)の世界、仏教の根本は〝空〟ということが判ったならば、すべて解決するとまでいわれているようですが、この空の根本原理、根本理念ですら、現代仏教はすでに忘れ去っております。実在界という次元の違った意識の世界は、この地上界より以上に文明も進歩し、地上界における原子細胞ではなく、精妙な光子体ともいうべき、光の細胞を持った肉体であるという事実、これは皆さまが、仏像を見たり、あるいはイエス様の像を見る時には、必ず体から後光というものが出ているはずです。これは皆さんのあの世に帰る時の自分の肉体なのです。
 
 あたかも太陽が熱・光のエネルギーを、この地球上の万生万物に平等に与えているように、神もまた、この地上界の万生万物に慈悲と愛の偉大なる光を、すべて平等に与えているということです。太陽の熱・光のエネルギーが、貧乏人、金持、地位、名誉、こんなものに全く関係なく平等に与えられるように、神の愛と慈悲もまた同じであります。しかるに私たちは、永い歴史の中で、先祖代々伝わって来たところの信仰体系の中から、一生懸命に祈ることが、本当の信仰の道だと大きな間違いを犯しているのであります。

 神は慈悲と愛の光を、万生万物に平等に与えていることを知らなくてはなりません。だが、神の慈悲と愛の光を受けることの出来ない人が多いのです。神の子たる己自身の本性を失ってしまっているために、怨み、妬み、誹り、自己保存、自我我欲の暗い想念が心の曇りを作り、あたかも太陽が地球上の曇りによってその光をさえぎられるように、神の光を己自身の不調和な想念と行為によってさえぎってしまうのです。

 仏教の根本精神は、人間がこの地球上に生まれてくると同時に、修行のために、神の子としての自覚の九〇パーセントが潜在してしまい、肉体舟の五官六根がもたらす自己保存、自我我欲の黒い想念が神の光をさえぎり、己の魂を曇らせて生老病死、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)といわれる四苦八苦の苦しみを作ってしまっていることを教えたのです。

 その苦しみの原因は全て、神の心を忘れた皆さんの魂・意識の中心である心というものが作るのです。その苦しみの中から、己自身の反省がその魂を調和させ、平和な、執着から離れた安らぎのある人間としての本性、己自身を悟ってゆかなければならないということを教えているのです。

 それを当時の無知文盲の衆生にも解りやすく説明するために、方便をもって説いたのです。それが、皆さんもよくご存知の法華経です。インドの当時も、中国の時代においても、泥沼の中に美しく咲く、あの一輪のハスの花の姿を通して教え導きました。
 「皆さん、あの泥沼の中をご覧なさい。あの泥の中は、ウジ虫やハエがいっぱい群っている。あの汚ない泥の中に咲く美しい一輪のハスの花をよく見るがよろしい。・・・・・・ あなたたちの肉体というものは、あの泥沼のようなものなのだ。なぜならば、目を見れば目糞しか出ないではないか、鼻を見れば鼻糞、口を開けば痰、あるいは体から出て来る汗、これも汚いものだ。このように大小便に至るまで、人間の肉体から出るものは一つとしてきれいなものは無いのです。この汚ない泥沼のような人生航路の乗り舟である肉体も、その船頭さんである意識、その中心である心というものが神理を悟って執着から離れ、生老病死という根本を悟って、己自身が八正道の神理を実践したならば、あの美しいハスの花のように、あなたたちの心は、仏の心と調和されて、安らぎの境地に到達して、苦しみから己自身を開放することができるのだ」とこのような方便の説話をしたのであります。

 しかるに仏教もいつの間にか難しくなり、智と意の哲学的学問に変わっております。〝観自在菩薩行深般若波羅蜜多〟といったところで解りますか。無学文盲のインドの当時の衆生に、ラジャグリハーの郊外において説かれたあの仏教の神理が、そのような難しいものであったと思いますか。

 「ゴーダマ様は、何によって生活しておられるのですか。私たちはこのように農耕をして、米を作って生活しております。あなたはなぜそのようにしておられますか」と問われたことがあります。その時に「あなたは米を作って生活をしているが、私はあなたたちの心に神理の種を蒔いて、その実るのを待って生活をしている。人間は米のみによって生きるのではないのだ。人間の心こそ偉大なる不変のものなのだ」。そして「あなたは今、このように肥沃の土地によって稲を蒔いて生活をしているが、まず稲を蒔くならば、あの上の方の痩せた土地に蒔くか」と聞きました。その時に農夫は「上の方の土地は砂利が多く、そのために米は実りません。土地に地味が足りません」といいました。ゴーダマは「私の説いている神理も、受け入れる機根の無い人たちに、いかに説いたところで、この神理の種は、人々の心の中に入って芽生えるものではない」とこのようにこんこんとその農夫に説きました。そのように方便を通して、その時の衆生の機根に応じて、神理を説いたのであります。

 仏教というものが二千五百余年の間に、本当の心の偉大性を失って排他的に変わってしまったのですが、本来は転生輪廻をくり返す毎に、自ら誓って来た皆さまの魂の意識の中のテープレコーダーには連綿として、神の子としての偉大なる真実があまさず記録されているのです。皆さま自身が、一心に信仰をしていても、なぜという疑問が出て来る原因もそこにあるのです。人間は心をふさいではなりません。あくまでも疑問は疑問として、解答を得た時に、皆さんの心の中に神理の芽が、芽生えてくるということです。

 このような事実をよく知ったならば、私たちは次元の異なったあの世があることを否定できないはずです。なぜならば物質というものを一つ考えても、仕事を成し得る能力であるエネルギーというものの存在をハッキリと物理学の上においても実証できるからです。そうなると物質に対するエネルギーというものの次元と、物質の次元というものは、物質とエネルギーは一体となっているはずです。物質そのものも、エネルギーの一形態である事実は、原子力科学の基礎理論になっているアインシュタインの理論においても正確に立証されているのです。

 そうなって参りますと、皆さま自身は、この肉体と、もう一つの肉体、光子体を支配している魂の偉大性を知らなくてはならないのです。

 皆さまは、実在界(あの世)から、すべて神の子としての偉大な智慧と、偉大な魂を兼ね備えて来ているのです。そして皆さんはあの世、次元の違った四次元以降、多次元の世界から、自分が望んで今度はこの日本に生まれよう。あの世においてお互いに、「あなたは今度はお父さんになって下さい」、「あなたは今度お母さんになって下さい」と、あの世ですでに約束して来ているのです。

ところが、お父さん、お母さんはこの地上界に先に出て来ます。生まれて来たこの環境や思想や教育と、長い歴史の中に、人間の作り出した習慣によって両親は、その中で盲目の人生を歩み、神の子としての自分自身を見失ってしまいます。お互いに適齢期になるに従って、ある者は恋愛や、見合いをして夫婦になって行き、ある者は夫婦になる約束を破棄して、いろいろと問題を起こして自分自身が苦しみを作ってゆくのです。そのうちにこの世において、夫婦としてお互いに愛の絆(きずな)で結ばれて、天上界からまた子供が出て来るということも知って出て来ているのです。あの世から皆さまが、光子体という肉体を持って、お母さんの腹の中に入る。三ヶ月頃まではみな大人なのです。そうしてその時には、皆さまの九〇パーセントの潜在意識というものが逆になります。実在界においては、潜在意識の九〇パーセントが表に出ていますが、この現象界においては、現在意識はわずかの一〇パーセントしか出ず、潜在意識の九〇パーセントは潜在しています。お母さんのお腹に入るまでは、九〇パーセントの意識を持っておりますから、人間はこの地球上に何の目的で生まれて来るかを自覚しております。

 昨日も三ヶ月位のひどいつわりの方が参りましたが、即座に癒しました。これもお母さんとあの世の子供との意識が合わないために起こる現象なのです。それも心でお互いが反省し調和されれば、そのようなものは即座になくなってしまいます。そこであの世から出て来る時は、今世においてこの地球上の一年間の修行は、あの世の百年にも匹敵するだけの、善と悪とがミックスされた厳しい修行所であり、だからこそ魂の修行になるのだということを知っているのです。嘘と真が並び合ったこの世の中において私たちは本当の魂の修行をして、その道を実践修行して来るということを、あの世にいる時に、皆さまはみな納得して生まれて来ているのです。

 そうして皆さまの魂の兄弟、あるいは多くの友だちに送られて勇んで出てくるのに、この地上界に出てしまうと、五十年、百年間というものはそれぞれ断絶します。心の窓が開ければ別ですが、窓が開けていない場合は断絶です。いうなればあの世からは、この地上界に出て来ることは死であります。

 そこである人は、今度は医者になって立派に多くの人々を救って来ます、といって出て来るのです。あるいはまた、その神理を、病める多くの人々に流布いたします、と出て参ります。あの世では、人類はみな兄弟だという事を悟っています。

 この地球上へ出ればそれぞれ長い歴史の中で、私利私欲、自我我欲に基づいて、神の体であるその地球上を占領して、ここは我が国である、ここはあの国であると、お互いに国と国との争いを繰り返しておりますが、そうした争いがあるのはこの地球上と地獄界だけです。実在界では全くそんな事はありません。

 人間はみな神の子である以上、皆さまは九十パーセントの潜在意識があの世では開いているから、光の天使と全く同じような光子体になっています。

 それですから自分自身の心で思うことは、即座に相手にも通じてしまいます。それだけ悪い心が起これば、即座に神の光は消えてしまいますから、自分ですぐ反省します。なぜこのように心が暗くなったのか、その原因を追求して来て、再び反省した時に、神の光は我々に燦々(さんさん)とふり注いで参ります。そしてこの地上界に出て来て「今度こそは、今度はやるぞ」といって出て来るのです。

 この地上界に出て、わずか一〇パーセントの表面意識で、人生を渡って行くために、私たちの心というものは解りません。そのために皆さま自身が今自由に行動をしておりますが、本当は暗中模索の人生ですから、また修行にもなるのです。このことは実在界においては全部解っております。今度こそ使命を果たしてきますと送られて出て来たところが、その約束を破棄して、自分自身が物質の奴隷となり、心というものを見失っていくのです。

 そういうことを皆さまが本当に知ったならば、今、両親に対して感謝する心を行為に表わし親孝行するのは、万物の霊長として、神の子として当然のことなのです。ところが現代の多くの人々は、そのような心の持ち合わせはなく、親が勝手に生んだのだとか、教育するのは親の当然の責任だとかいいます。貧乏に生まれれば、親を恨み、世間を恨みます。この地上界へ出て来る時、あの世において、金とか、地位とか、名誉とか、こんなものは関係ないのです。

 ただひたすら永遠に変わらないところの、皆さまの船頭さんである魂、この魂を磨くということがまず第一なのです。その魂の中心である心が、すべての苦しみや悲しみを作る、その根本を説くべきキリスト教も、また仏教も、永い歴史に中にゆがめられて宗教家や多くの人々の食いものになってしまったのです。そのために、偉大なる心の働きを説いている「正法」は、人々の知と意によって、ほこりとちりにまみれてしまったのです。私たちは、このほこりを払いに地上界に出てその道を説いているのです。私たちは今から二千年前のイエスの神理、また、二千五百余年前の釈迦の神理に戻すために、ほこりを払いに来ているのです。

 そこで皆さま自身が正法神理の偉大性を悟り、心こそ永遠に変わらない己自身であり永遠の生命の中で、今地球上の最も不安定な修行所において己自身が今も修行しているのだという自覚を得た時に、私たちは偉大なる神の子としての神理の実践行動の中に、皆さまの心は神の光によって包まれて行くのです。

 このような事実を我々は知って、実在を通し、神の子として、この世の中でなすべきことは、お互いに助け合うことなのです。己自身が足ることを知ることなのです。

 現代社会に心を失ってしまった多くの人々は、足ることを忘れて、己の私利私欲、自我我欲を満足させようとしております。果たしてそれで調和がありうるでしょうか、その事実を歴史を追って考えてみましょう。

 私たち人類は、この地上界に天孫降臨(てんそんこうりん)して来たのです。その当時の文明は、現代の科学よりはるかに進歩していました。そして地上界に出て来た人類は数千万人でした。この人類はこの間にユートピアを作り、心は実在界(あの世)と常に直接通信されていたために、心に執着がなく、このために当時は、八百才、千才と、この地上界で優雅な楽園を築いていたのです。そのうちに子孫が殖えるに従って、己が子孫を大事にするようになり、子孫子孫と一つの枠を作り、その中についに原始共産体制というものを作り、権力によってこれにはむかう者は滅ぼされていったのです。

 こうして武力はやがて豪族を生んで行きます。そして豪族はいつの間にか他の豪族との争いを展開していったのです。その展開していった豪族の争いは、武力、権力の力の差によって、弱肉強食の現象を起こして斗争と破壊を繰り返して行きます。そのうちの有力な豪族によって統一されて行くに従って、その武力は武将を生んでしまいます。武将は自分の地位と環境と名誉を守るために、彼らはその武器の力によって封建社会というものを作っていたのです。日本でいえば、士・農・工・商、自分の永久的地盤、子孫のために、金力と武力と権力によって、彼らは自分の地位を築き上げて行きました。その中に武器というものを商品とした商人が、彼らと組んで要領よく介入して、不調和な争いと斗争をしかけていくようになったのです。そして彼らは資本主義社会というものを作っていったのです。武力の時代には自由というものがありません。

 日本では特に日蓮の出た当時などは、厳しい封建社会の環境でありました。そういった時代に正しい法が説けるでしょうか。いわんや私たちがかっての封建時代に、今のようなことをいったらどんな事態になるでしょうか。
商人の台頭により徐々に封建社会が崩れ、ついに資本力がこの世の中を支配するようになって行きます。この資本主義社会というものでは、経済という力を持って相手が築き上げてきた会社、株を買い占めることもできるのです。金力をもって人間を奴隷にすることもできるのです。

 このような不平等な社会に、常に疑問をもって底辺の人たちが、このような世の中で良いのだろうかと、ついにこれが理論体系づけられて、一七九八年、オーギユスト・コントという人が出て実証哲学というものを発表します。この世の中というものは、ナポレオンのような権力者によって多くの人々が犠牲になってよいだろうか、これが本当だろうか、彼らは疑問を持ち、社会というものはこんなものであってはいけないのだと説きました。

 一八二〇年には、ハーバード・スペンサーといわれる方がイギリスに出て、社会有機体説というものを発表し、、カール・マルクスは資本家と労働者が斗争する中に文明は発達して行くのだと、斗争によってこそ勝ち得ることができるのだ、というマルクス・エンゲルスの唯物史観というものが生まれて参りました。こうして資本主義に対する共産主義が生まれて来たのであります。

 しかし、資本主義にしても共産主義にしても、その根本になる心というものの存在がどこにあるでしょうか。すべて物質と経済という、この二つのものを根底にして、彼らの基礎は成り立っているのです。

 
しかし自らの真の心を己自身が求めようとするならば、もはやこのような資本主義にしても共産主義にしても、この中から発見することはできないのです。それを人々は、宗教に求めていったのです。ところが宗教もすでに末法と化しているため、安住の世界を探し求めても心というものがハッキリとつかみ得ず、私たちはその本質的なものをキャッチすることができなくなってきたのであります。また現代社会において、資本家と労働者がより反目して争っている。これは現代の物価の不安定も、その原因はどこにあるのか、それは労使双方にあるといえます。

 人間は心を失ってしまい、神の子としてこの地上界に出て、己の魂を磨き、神意の仏国土を作る目的を忘れてしまったのです。斗争と破壊は万物の霊長である人間のなすべき行為ではないのです。人間はすべて話し合いによる調和、己自身の心をお互いに譲りあい、そして己自身に足ることを知った生活をすることがまず大事なのです。心を見失っているために、私利私欲に走り、人間がいつの間にか動物以下になり下がっております。

 あの猛獣たちは自分の腹がいっぱいになっていたら、決して他の動物を襲いません。人間は自分の腹がいっぱいになっても、欲望の虜(とりこ)となり、あくことを知らない行為を繰り返している。これが本当の人間として、神の子として、なすべき行為でしょうか。

 太陽は熱・光のエネルギーをすべて平等に与えているはずです。人間はみな平等なのです。だから皆さまは、自分の生まれた環境は自分が選んだということを忘れてはならないのです。なぜ人間はこのような経済的な苦しみをするのであろうか、なぜ病気をするのだろうか、という皆さま自身が疑問を持った時に、私たちはそれを人のせいにしてはならないのです。自分が貧乏の環境の中から、いかに心を豊かにしていくかと考えるべきで、このようなものによって自分の心まで、貧乏にしてはならないのです。例え人間が、人生を渡って行くところの肉体舟が欠陥車であろうとも、その船頭さんである魂まで欠陥車にしてはならないということを、しっかりと自覚しなければならないのであります。

 こうなった時に、私たちの心こそすべての根本である。そしてこの心を永遠に我々は進化させ、そして過去、現在、何億万年も転生輪廻して来たところの改善されてきた姿は、今皆さまの思っていること、行っている姿をよく見れば、皆さま自身の過去は、すべては今の自分に集約されているのだと知ることです。

 私たちはこのように魂の偉大性を知り、物質経済の中にあっては足ることを知り、お互いに己というものを中心にせず、大自然界は大調和の中に助け合って生きているということを知ったならば、余っているものは人々に布施し、足らない人たちに愛と慈悲を与え、お互いに平等である人間同志の心と心とのふれ合いによって、この社会を築いて行くことが、神の子として私たちの一番重大な使命なのであります。

 この地球も大宇宙体から見たならば、小さな細胞にしか過ぎません。この大宇宙体は神の体であり、そして大宇宙体を支配しているものは、大宇宙の意識であり、これこそ本当の神なのです。

 これを私たちは知らずに、あらゆる時に神様を祭ります。皆さまがこの目で、この体で、その神とふれ合い、話し合う能力を持っているならば神と認めることです。私たちはそのような神とは即座に自由自在に話し、彼らの実体をつかむことができるから真実を持っているのです。神は罰などは与えないのです。

 皆さまが自分の可愛い子供たちや、兄弟たちが不幸になることを親として望みますか、愛と慈悲に満ちている神が人間を不幸にすると思いますか。 

 罰は皆さま自身が、神理を悟らずに己の心に嘘の生活をした時に、嘘の行為をした時に、己自身の心の曇りによって神の光をさえぎって、その結果が罰となる原因を作って行くのです。そのようなことを考えた時に、病気をしても、すぐに医者へ行って注射をうてばすみやかに治ってしまうと思ってはいけません。その前にまずじっくりと、自分はこのような病気になぜなったのか、そのなった原因を追求していった時に、必ずその中には悪の根っ子があるはずです。それから医者に見て貰っても遅くはありません。

 病気も一つの反省のチャンスなのです。我々はこのようなことをよく知り、毎日毎日の生活に対して、貧乏をしたからといって、自分の心まで貧乏にしたり、体が悪いからといって、自分の心まで欠陥車にしてはいけないのです。

 私たちの魂というものは、今生だけがすべてではないのです。永遠の生命の中に私たちは転生輪廻を繰り返し、あの世に帰り、この地球上に出る時に、皆さんは肉体という舟を頂き、またこの地上界を去る時には、親から頂いた肉体は地上界へ置いて帰らなければならないのです。そしてまた新しい肉体を持って、永遠の転生輪廻を続け、この地上界においては、太陽の熱・光のエネルギーで大自然の万物万生は育(はぐ)くまれ、皆さんの肉体を保存する事ができるのです。

 一方においては、神の光はすべての万物に平等に与えられて、慈悲と愛の中に、私たちは存在しているということを知ったならば、今の一秒一秒の人生に対する価値というものが判るでしょう。皆さまが何億、何千万年も転生輪廻して来て、自分自身が作った心の曇りを修正すること、これが私たちの地上界に生まれて来た目的なのです。

 そして私たちが魂を磨くと共に、神の体である地上界を、万物の霊長である人間が心と心の調和によって、平和なユートピアを作っていった時に、皆さまはこの地上界の、偉大なる卒業者として、あの世で迎えられるのです。

 私たちはやがてあの世に帰ります。自分自身の一生はすべて意識に記録されており、その記録された、思ったこと行ったことを、自分に嘘のつけない善なる己自身が裁くのです。皆さまは、自分の心に嘘がつけないように、その善なる神の証(あかし)の己の心が、なして来た己自身を裁くのです。その時に皆さま自身がなし終えなかったならば執着となり、いったんは地獄界に堕ちて、神の子として自覚するまで地獄で厳しい修行をするのです。自分が神の子であると悟ったならば、皆さまの心の曇りは晴れて、あの世にも照されているところの神の光を受けるのです。

 このように私たちが八正道を、中道の神理を通して、毎日毎日の生活に実践をして、お互いに人々と助け合った人生を歩んで行くことが大事だということです。



 - 完 -





2017.02.11(土曜日) UP

園頭先生が制定に尽力された【建国記念日】に