高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







         実 在 と 現 象

      
 - 釈尊の仏教は実在主義であった -


 鹿児島市の中央を甲突川が流れている。この川のほとりで西郷隆盛、大久保利通の明治の元勲や東郷平八郎、大山巌の日露戦争時の大将等が成長された。小学生の頃、この甲突川のほとりを歩きながら、自分もこのような偉人になりたいという夢を抱いたものである。その頃見た甲突川は、小学生で身体が小さかったから広い川だったと思った。大人になった今見るとほんの小さな川である。
 甲突川の川幅は今も昔も変わりはないが、自分が大きくなったので小さく見えるようになったのである。子供の頃、衣替えの季節になると母が、「またこんなに小さくなって昨年買ったばかりなのにもう今年は着れない」とよくいったものである。小学校を卒業する頃までは私は、シャツや洋服などは年が経つとだんだん小さくなるものだと思っていた。シャツや洋服は小さくなるのではなくて、自分の身体が大きくなったから相対的に着れないように小さくなったのであると、現実を現実として正しく知るまでにはそれ相当の時間が必要であった。
 それと同じように、最初は大きく感じられていたものが、だんだん小さく見えてくるのはそれだけ自分の心が大きく成長したからである。
 初対面の時大きく見えていた人が、何回も逢っているうちに小さく見えてくるという人もあれば、最初は小さく見えていた人が逢うたびに大きく見えてくるという人もある。それはその人の身体の大きさを抜きにしてその人の心の大きさがそう感じさせるのである。

 私が見習士官で入隊している時に、昭和12年7月7日に支那事変が勃発して、直ちに鹿児島の連隊も北支に出動ということになり、留守部隊を編成するために召集があった。その時私の中隊長になった人は、直木三十五著「南国太平記」の主役、益満休之助の直孫で男爵の益満大尉であった。益満休之助という人は西郷さんの許可を得て明治維新を完成するために江戸の博徒を全部官軍側に味方させるために大活躍した人で、益満大尉「わしの爺さんは家の中でも着物の裾をからげて、手のひらで尻をぴしゃぴしゃ叩きながら歩く人であった」など話していられた。日露戦争後、大山元帥は那須に別荘をつくられてそこで暮らされた。子供の頃、大山元帥の家によく遊びに行ったが大山元帥は無口な人で、時に「おい、うまかか」といわれるだけだった。大山元帥という人は身体はそんなに大きい人ではなかったが、逢えば逢う程、大きく見える人であったということを話されたことがあった。

 雰囲気の力というものがどんなものであるかを知るには、名人名優という人達の舞台を見るとよくわかる。下手な人の芝居や踊りは、舞台の空間が大きく広く見えてその人物は小さく見えるが、名人名優という人は体は小さくても、その人の身体が舞台一杯にひろがって見えるから不思議である。
 どんな立派なことをいっていても人物が小さく感じられる人もあるが、そう大きな話もしないのに人物が大きく感じられる人がある。

 昭和48年5月であった。高橋信次先生と大阪で一緒になった時、「園頭さん、僕は相手の人が僕にどんな嫌な話をしても、その時は自分の心を宇宙大にするから、相手は僕の手のひらに乗ってしまうから、どんなことを言われても腹が立たないね」と言われた事があった。

 あなた方は今までいろいろな人を知りいろいろな話を聞いてこられたに違いない。その時に「自分の意識、心を宇宙大に拡大すれば相手は自分の手のひらに乗って小さく見える」と言うような話をした人が一人でもあったであろうか。誰もいい得なかったようなこういう事を言われたというそのことだけでも驚かなければならないのである。皆さんがこれと同じような話を聞かれたとするならば、「西遊記」中で孫悟空が、大空一杯暴れ廻って宇宙の果てまで行ったが気がついてみたら、それはお釈迦さまの手のひらの中を暴れていたのであったという話であると思う。
 その話を私は聞いた時、「さすがに高橋信次先生はすばらしい、意識を宇宙大に拡大すると相手は手のひらに乗るという心境はどんな心境なのであろうか」と感心したものであった。

 この3月のインド仏跡巡拝の目的はもっと心を大きくしたいということであった。禅定を続けながらクシナガラへ行った。釈尊の涅槃像の前で「お釈迦さまはいよいよ亡くなられる時に、一体何を思われたのであろうか」と、お釈迦さまと一つ心になりたいと感じていた時にパッとわかってきたのが相手と対決している時に自分の意識を宇宙大に拡大すという方法であった。高橋信次先生にその話を聞いてからそれが自分のものとなるのに私は7年を要した。「求めよさらば開かれん」であって、何事も得られるには時が必要なのである。今すぐ得られないないからといって、むつかしいと思って捨ててしまったり、また、自分にはとても出来ないと自己限定し自己劣等感に陥って求める心を捨ててしまってはならないのである。
 肉体は肉体としてそこにそのまま存在しながら意識は肉体の制約を超えて大きくなると、今までわからなかった世界がわかるようになり腹は一切立たなくなってくるのである。宗教の世界では自然に腹が立たなくなってくるのであるが、道徳の世界では意識を大きくしないままで知性で腹を立てることはいけないと思い、理性で腹を立てそうになる自分を抑制して腹を立てないような振りをするということになるから心の中に大きなストレスをつくってしまう。いわゆる道徳的という正義感の強い人達がよく病気をするのは心の中に抵抗(ストレス)をつくってしまうからである。そこが宗教の世界と道徳の世界の違うところである。


1.不幸であるという人達は観念的に夢を追っている

 夢を追っているということは現実を直視していない即ち観念の遊戯をしているということである。
 私が高橋信次先生に帰依して暫くして、今は亡くなった母の叔父の所に行った時のことである。
 「お前が生まれた時、お前の父は女と一緒に台湾に逃げようとしていた。お前が生まれても居所がわからなくなりみんなで手分けして探した。台湾行きの船に乗ろうとしている所をわしが見つけて連れて帰って来たのだった」という話をしてくれたことがあった。
 もしその時、父がそのまま台湾へ行ってしまっていたら私は一生私生児として終わらなければならなかった訳である。そうなっていたら私は幹部候補生試験も受けることは出来ず勿論将校になることも出来ず、私の人生は大きく変わっていた訳である。「もし、そうなっていなかったら」とか、「もし、あゝであったら」とか、想像の世界ではいろいろに想像することが出来るが、それは観念的に単に頭の中で描かれた夢にしか過ぎないのであって現実ではない。私の人生の現実は、その瞬間に父が見つかって鹿児島に連れ戻され、父は私を認知して私は私生児ではなくなって庶子となり、そうして軍隊へ行って将校になることが出来たという事実でしかない。もしもという仮定を許さない現実のみがあったのであり、その現実の中で私は魂を磨いてきたのである。
 不幸になっているという人の心の中には、いつも現実の苦しさから逃げ出そうとする逃避の心がある。


2.千石イエスの女たち

 国分寺に本拠を置いていたイエスの方舟の集団は行方をくらませて2年振りに熱海で捕まった。7月7日RKB毎日08:30「女達はなぜ千石イエスに・・・・・・」という番組で女達の言い分を聞いていた。夫と子供を捨てた女、家を飛び出した女達は皆「ただ仲良くしたかった」とだけ言っていた。
 俵萌子さんは、「私は女の駆け込み寺みたいな仕事をしている。世の中にはどうしても仲良く出来ない夫婦がいる。そういう人達を保護してその後の生活が出来るように最後まで面倒を見ている。あなた達はそこへ逃げ込んで仲良くしたいというだけでこれから先をどうするかと言う事は全く考えていない。独りよがりであなた達の考え方には社会性がない」と言っていた。

 全くその通りである。

 親子の関係、夫婦の関係等一切の人間関係をなくして生きようとすれば生きることだけは出来る。実際に全てを捨てて孤独の生活をしている人もあるであろう。そういう人達はただ単に肉体的に一生を喰って生きればいいという考え方をしているのであって、この人生は魂を磨くものであるということを忘れている。また今生での結果が来世に輪廻するのであるから今生で解決できずまた今生で作り出した業は、来世でまた体験しなければならないのであるから、今生でのいろいろな問題から逃避してみたって永遠に逃避を続ける訳にはゆかないのであることを考えたら、今生だけのことを考えて自分に都合のいい逃避生活を続けることは出来ないということに気がつかなければならないのである。


3.信仰にも逃避してはならない

 現実を改善しようとする努力を放棄して、この人生にあきらめをつけて信仰するというのはそれは逃避である。「あきらめさせる」というという信仰は正しい信仰ではない。多くの信仰者の中には、家庭にいろいろな問題を抱えていても、自分の心を変えようともせず、家庭の人間関係を改善しようともせず、心が苦しければ苦しいほど信仰に夢中になって、信仰という場で心を慰めて一時心を解放するという人達がある。そんな信仰は一生続けてみても問題の解決にはならない。

 家が面白くないから、夫婦の間が面白くないからといって、そこを逃げ出してお互いに似たり寄ったりの境遇に同情しあって仲良くしようというのは人生の厳しさから逃れようとする甘えである。千石イエスという人物は、イエスと名乗っていながら聖書のことはなんにも知らなかったということであるが、正法を知らない指導者達は、甘えで求めてくるものを純粋な信仰だと思って受け入れて、結果的には完全な人生の逃避者にしてしまうのである。念仏やお題目を唱えさせる宗教もそうであるし、教祖という個人を崇拝させる宗教もそうである。


4.正法は人生をどのように解決するか

 お釈迦さまが説かれた八正道こそは、人生の全ての問題を解決する道である。正法によって解決できない問題はない。

 ある時、次のような手紙が来た。あなたならこれをどのように解決されるであろうか。
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 「前略、先生に思い切って何度となくご相談したかったのですが、書こうとするとすぐ涙が溢れてしまい、なかなか書けませんでしたが、本日思い切ってペンを取りました次第です。
 結婚して24年です。気性の激しい、欲望を充たすためには手段を選ばないそんな主人ですが、反面気の小さな情の厚いところに私はひかれたのかも知れません。結婚して子供を育てるのと、酒を飲んで少ししか給料を入れてくれないそのやりくりに精一杯で、子供を捨てるわけには行かないと意地で頑張ってきました。結婚17年目に○○市に出て家を求め(借金で)ホッとしたところに突然主人が「好きな女がいるからその女に子供を生ませる。その子供は私に育てさせてその女はこの家から働きに出させると言い出しました。びっくりしたのです。中三の娘の高校受験を眼前にして、毎晩のように酒飲みに明け暮れ、深夜主人の友人が送ってくれると、私にその友人と俺の前で関係しろというのです。その友人の人を玄関まで送って部屋に帰るとなぜ関係してこなかったかと怒るのです。そのような日が約3年続きました。その後、主人は飲んで帰ってきては私に浮気しろとせめるのです。そうしているうちに娘の家出です。娘が男と夜逃げしたのです。娘の問題でごたごたしている間はおとなしそうにしていたのがまた突然「若さを保つために若い女がほしい家庭は壊さないから」と言い出したのです。いい年をしていて服装容姿と派手さを加え、まるで不良青年なみでございます。
 ある日突然、ある人妻の人が私に泣いて訴えて来られたのです。「お宅の先生(ご主人は学校の先生である)が、わしは家内と別れるから、あなたはご主人と別れて私と一緒になってくれと泣いて頼まれたのです」と。彼女との関係は去年の夏からこの春まで続きました。やれやれと思っていると今度はPTAのご婦人のお宅に入り浸りの日が訪れたのです。そこはご主人もあり子供さんも3人もあるのですが、主人は学校帰りにその家に寄って日が暗くならないと家に帰って来ないのです。私が苦しい余りに信仰を求めていろいろ会合に出ると、「そこで知り合った男といつでも関係してきていいよ」と言うのです。
 私は48才になりましたこんな動物みたいな人と暮らすのはもうご免です。いつまでも主人の犠牲になりたくはありません。どこの学校にいても、女の先生と問題を起こさなければPTAのご夫人と関係が出来て、それがばれてその学校にいられなくなるということの繰り返しで、今は教育委員会で学校には置けないということになり教育主事をしております。まだ40台であったら女一人生きてゆく道を探されると思います。50になったらだめだと思いますので分かれるなら今のうちだと思います。私はどうしたらいいでしょうか教えて下さい。
                                 27日   ○ ○ ○ ○ ○
 園頭先生へ
  申し添えますが、私は結婚2日目、初夜に主人に性病を移され、それが原因で4回手術をしています。病気も  一度ではないのです。
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 新聞雑誌等の人生問題担当者や婦人運動家達は、人権じゅうりんも甚だしい、女性侮辱である。即刻離婚して自分ひとりで生きていきなさいと言う指導しかしないであろう。こういう人が家を飛び出して千石イエスの下に走ったとしたら、地獄から逃れたみたいでほっと救われた気持ちになるであろう。しかしそれは逃避であって解決にはなっていない。道徳的という人達は心を考えずにうわべの形だけで解決しようとする。
 正法は心の面から解決してゆくのである。人間は何のためにこの世に生まれて来たのかという人生の原点に立って一切を解決して行くのである。逃避した人の心の中には安らぎはない。たとえどんなに自分を正当化する理由があろうとも、「夫を捨てた」「子供を捨てた」という心の暗さ、悔いは最後まで残る筈である。正法の基準は真の心の安らかさである。一見、表面上はどんなに穏やかに見えていても心の内面に穏やかでない暗さ、悲しさ、さびしさが潜んでいるとしたらそれは本当の正しい解決ではない。
 では一体、正法ではどんな解決方法を取るのであるかそれを書く前にはっきり言って置きたい事がある。


5.想念は正しく使わないと幸福にならぬ

 不幸だという人は想念の正しい使い方がわかっていないのである。誰しもが自分は不幸になりたいと思って生活している人は一人もないのに、むしろ、幸福になりたいと思って生活をしているのに、出てきた結果は不幸という結果であってどうしてこうなったのかわからないという人が一杯いる。そういう人達は想念の正しい使い方を知らなかったのである。
 小学校の先生達は、生徒に作文を書かせるとその家族の状況が実によくわかると言っていられる。次の文もその一例であるがこの作文によって考えてみよう。

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 親のけんかはわからない    小学校4年   ○ ○ ○ ○

 夕食の時、お父さんがたくあんをつまみました。そうしたら、たくあんが三つつながって上ってきました。
「何だってこんなたくあんの切りようをするんだ」
「だって、あんなへこんだまな板で切れば、つながるの、当たり前ですよ」
「そんなまな板捨てて、新しいのを買ったらどうだ」
 そうしたらお母さんが、
「だいたいあなた、いくら給料をもらってくると思っていらっしゃるんですか」と言って、喧嘩になりました。お母さんがとうとう泣き出してしまいました。
「今から15年前のあの柳の木の下で、あなたと逢いさえしなければたくあんが三つつながっているということでしかられることもなかったのに」
 そうしたら、お父さんも
「俺もそうだ」と言いました。
 柳の木の下とたくあんと、どういうつながりがあるのか僕にはさっぱり分からないが親のケンカほど分からないものはない」
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 皆さんはこの作文を見て何を考えられたであろうか。いろいろな角度からの見方があるであろうが私が言いたいのはこのお母さんのものの考え方の中に架空の夢があるということである。その愛が、たくあんが三つつながっているという何でもないことを夫婦喧嘩にまで発展させてしまっているという現実である。
 この夫婦だって、人並みに仲良く幸福に暮らしたい、夫婦仲良くしたいということは常日頃から思っていられたに違いない。それがどしてこういうことになったのか。
「まな板を新しいのを買え」と言われたら、「じゃあそうしましょう」と素直に言えば喧嘩にならず、子供達に不安な思いをさせることもなかったのである。
 どうして素直に「そうしましょう」と言えなかったのか、それは夫に対する潜在的な不満があったからである。その潜在的な不満はどこから生まれて来たのか。それはこのお母さんの現実逃避的な夢からである。
「あの柳の木の下で、あなたと逢ったばかりに・・・・・・」という言葉の裏に隠されている心は何であるかというと、「もし、そういうことがなくて、この夫とでない別な人と結婚していたら・・・・・・」という架空の観念的な夢がある。「もし、別な男の人と結婚していたら」という仮定の上に立ってどんなに幸福な状態を想像してみても、それは全くの夢であってその夢が現実となることは全くないし、そんな夢を追っている限り、夫との現実を失敗である、不幸である、と思う思いだけがつのってゆくことになる。


6.プラスの想念とマイナスの想念

 マイナスの想念というのは、思えば思うほど自分を不幸にする想念であり、プラスの想念とは、思うことによって自分が幸福になる想念である。
 心のエネルギーは誰でも同じように与えられている。それを幸福になるプラスの方向に働かせるか、不幸になるようにマイナスの方向に働かせるかを決定するのは自分である。

 砂漠の砂地にはまり込んだ自動車は、いくらエンジンをかけても車輪は空転するだけで益々深みにはまってゆくだけである。そこから抜け出そうと思っていくらエンジンをかけても無駄なことである。

 我々が心を働かせるならば、少しでも自分の人生がプラスになるように働かせなければ損である。思ってもどうにもならないことを、思えば何とかなるように錯覚して一生懸命に思ってみてもどうにもならないことはどうにもならないのである。ところが現実を直視して勇気を持って現実を改善しようとせず、心の中で逃避して観念的な夢を追う人は心のエネルギーを空転させて現実を益々不幸にしてしまうのである。

 例えば
  * 女に生まれて損をした、男に生まれればよかった。
  * もっと美人(美男子)に生まれればよかった。
  * もっと金持ちの家に生まれればよかった。
  * もっと背が高く生まれればよかった。
  * もっと頭がよければよかった。
  * もっと別な女(男)の人と結婚すればよかった。

 等々考えていくら心のエネルギーを使ってみても現実はどうとも変えることは出来ないし、思えば思うほど不幸だという感情が強くなってゆくだけである。
 女の人が「男に生まれればよかった」といくら思ったからといっても女の人が男になることは絶対にできないし、この夫(妻)とでなく別な人と結婚していたらと心の中でいくら考えて架空の幸福な夢を描いてみたって、目の前にいるのは現実に結婚した夫(妻)でしかない。

 私がかって夫婦が不調和であった時がやはり、私は心の中で妻以外の女性を心の中で描いていたのであった。それは現実逃避であることに気づいて、頭がどうであろうと、家柄がどうであろうと、育ちがどうであろうと、そういう現象的なことにとらわれてはならない。愛とは心と心、魂と魂との一体感である。魂だけが実在であるということに気づいて、その実在である魂と、その魂の乗りものとして現象的に現われている現実の妻の全てを愛しなければならないのであることに気づいて、心の中の観念的な架空の夢をなくした時に夫婦が調和したのであった。そうした現実の努力の上に魂は磨かれ成長して大きく豊かになってゆくのである。観念的な現実に即した行為を伴わない夢は心のエネルギーの無駄使いであって、その架空の想像の夢がどんなに壮大であっても、その夢によって魂が大きく成長することはないのである。
 「大いなる夢を描け」と言っている宗教家があるが、現実とはならない観念的な夢を描かせることは人々の心のエネルギーを浪費させることになる。
 あなたが幸福になるためには、現実逃避の心をなくして現実生活の上に調和を実現しなければならないのである。



7.日本人の心理的特性

 釈尊は「諸行無常」と「煩悩に執着してはならない」ことを説かれた。形に現われている現象はまさしく無常である。片時として一定の姿をとどめることはない。自分のものだと思っている肉体もやがて朽ち果てて灰となる。日本人はこの「諸行無常」という言葉から「この世ははかないものである」という、悲しい淋しい感情を生み出してしまった。そういう考え方をしてしまったのは般若心経の中にある「色即是空 空即是色」の空を一切は空に帰する、なくなるのであると解釈してしまったことによる。もっとも空を無に帰することであると最初に解釈したのは竜樹菩薩であった。この竜樹菩薩の誤った解釈が日本に伝わってきて日本人の「はかない」という感情を作り出した。桜の花を見て「美しい」と思う人よりも「やがて散りゆくはかなきもの」と感ずる人の方が奥床しく上品な高等な文化人であるというような風潮を作り出した。

 中国から伝わってきた仏教は無霊魂論、一切は空に帰するというのであったから、日本仏教はこの世限りの生命と見て霊魂は永遠に存在することを認めなかった。

 例えば茶道の心得として使われる「一期一会」という言葉がある。
 「人生は無常である。今日は主人となり客となって茶の手前を楽しむことが出来ても、この茶会が終わって別れると、明日はどちらかが死ぬとも限らない生命であるこの茶会がお互いにこれっきりの機会であるかも知れない。今生でたった一回きりのこの機会を大事にしなければいけない」という思いを持って、主人はお客の後ろ姿が見えなくなるまでこの機会を持つことが出来たことを感謝するというのが「一期一会」の心得であるとされている。
 ここにも人生のはかなさを泌々と心の奥で味わうという、はかなさを楽しむ心がある。外国人にない日本人だけの心理的な特性である所の悲しさを悲しむ、寂しさを寂しがる、はかなさをはかなむという感情は「諸行無常」がつくり出したものである。この「諸行無常」はまた「あきらめ」の感情を生み出した。
 「あきらめ」の感情の中にあるものは、人間の運命は既に生まれてくる前に決められているのであって(こういう考え方を宿命論という)、どんなに努力してもどうにもなるものでもない。それはもはや忍従して諦めて従うより外はないという、人生を改善しようという努力を完全に放棄した無気力な姿勢である。このような心を生み出したのが武士による士農工商の封建支配体制であった。こうした「はかなさ」と「あきらめ」の上に生まれて来たのが法然、親鸞上人の念仏信仰であったが念仏信仰がまた「はかなさ」と「あきらめ」を増幅してしまって現在に至っている。景気のいい時には威勢の良かった人が、ひとたび挫折すると、とたんに意気阻喪(そそう)して自殺すというのも「あきらめ」の感情からである。そこには、運命は人間がどんなに努力してもどうにもならないものだという考えがある。もっともこの「あきらめ」の感情は、いつどこで戦いが始まって討死するかも知れないという鎌倉時代以後の武家政治によっても培われた。武士は一歩家を出ると夕方には死骸になって帰るかも知れないという、とにかく毎日毎日が死を予期し覚悟することなしには生きられなかった社会体制もまた「あきらめ」の感情を生み出した。

 しかし、現在はもう封建的な武家政治時代ではない。一つの時代の中で、その時代に適応する為につくり出された信仰や道徳は、時代が変わったら変わることが当然なのであるが、現在の日本人の心情の中には、未だに封建時代につくられた信仰や道徳が流れている。

 親不孝の息子が出来ると、どうしてそうなったのか原因も知ろうともしなければ、何とかしなければならないと思うことはあっても、現実にはこれが運命だと諦めて何もしようとしない親。
 嫁と姑との不調和があると、これも運命だと諦めて、身体は息子夫婦と一緒に暮らしていても、心の世界で逃避して、心の中で自分だけの世界をこしらえて、そこに逃げ込んで孤独を楽しんでいる悲しい年寄り。
 不貞の夫に諦めて忍従している悲しい妻。

 「後生の一大事を願え」という浄土真宗はみ仏の名において苦しみを強制し、現実改善への努力を失わしめてしまった。
 「あきらめ」は信仰の救いとは全く正反対の心情である。東西本願寺の坊さん達が説いていることは一時の気休めであって信仰による救いではない。日本人の心の中に流れている所の武家政治と諸行無常感によってつくり上げられた「はかなさ」「あきらめ」の感情が正しく整理されない間は日本人は正しい信仰を持つことは出来ない。
 これはまた生長の家の信仰では「現実を見ず実相を見よ」という教えにも現れている。私が生長の家の本部講師をしている時、色々な改善意見を出した。現実に改善しなければならない問題が一杯あるのに、「園頭先生、あなたは現象を見るからいけない。実相を見なさい。生長の家は実相を見る教えである」といって現実の間違いを改革し改善しようとすることは悪いことであるという結論になってしまっていた。だから生長の家の中には累積された色々な問題が一杯あるはずである。
 それはしかし生長の家だけでなく、どこの宗教団体にもあることだと思っている。


8.諸行無常だから「ありがたい

 
諸行無常を「はかない」と考えて「あきらめ」ているのは、本当の諸行無常の意味が解っていないからである。諸行無常ということは「因縁所生」「因縁生起」と併せて考えなければならないのである。結果として現れてくるのは、原因があるからであるというのが因縁の法則である。

 幸福という結果が現われてくるのは幸福になる心の原因があったからであり、不幸という結果が現われてくるのは不幸になるような心の原因があったということなのであるから、幸福である人は、益々幸福になるような心の持ち方をすればいいし、不幸である人は、不幸になるような心の持ち方をやめて、幸福になる心の持ち方をすればよいのである。
 この世界は変化無常であるから楽しいのである。不幸だという人は心の持ち方によって自分の運命を幸福につくりかえることが出来るというのであるから、不幸だという人は何も自分の運命をはかなんで悲しく諦める必要はないのである。「よーし」と心を定めて、幸福になるように自分の運命を変える努力をすればよいのである。
 
この世が変化無常でなくて、生まれてきたら、もはや一生背負ってきた運命は変えることは出来ない宿命の世界であったら、努力とか精進とか、ということはもはや何の価値もないということになり、これほど味気ない人生はないことになる。世の中の進歩向上ということもないことになる。

 私が信仰を求めてお寺の門を潜った時、坊さんは念仏を唱えながら「この世は無常なものだ、あきらめて念仏を唱えれば救われる」と言われた。私は人一倍向上心が強かったから何時の場合でも現状に満足できなかった。環境も変えることも望んだが自分の人格、人間性を向上しようという努力もした。

 
諸行無常だからこそ運命は変えられるのである。諸行無常で次々と心の通りに変ってゆく世界であるからこの世は楽しくありがたいのである。

 この地球と、この地上界につくられた物質は、人間が魂を磨くための素材としてつくられたのであって、我々は地球というこの環境の上に、心を表現する素材としてつくられた肉体と物質を材料として、如何にして人間は神の子であるという真実を表現してゆくか、その表現の仕方の如何によって魂は大きく成長してゆくのであるから、そこに我々の精進の道があるのである。
 八正道の中の、正しく語るということも、正しく仕事をする、正しく生活する、正しく精進する、正しく念ずるということも、全て我々の日常生活を正しくせよという教えであって、日常生活から遊離した観念の世界で空想の夢を見よということはどこにも言ってはいられないのである。
 お釈迦さまが説かれたのはこの肉体を持った諸行無常の世界の中で、如何に自分の魂を表現して自分の魂を大きく豊かにしてゆくかという道なのであって現実逃避の教えではないのである。



9.肉体は魂を磨く道具である

 色々な道具にはそれぞれ持ち主がいる。肉体は自分の持ち物であって肉体が自分ではない。真の自分とは肉体を動かしている自分の魂である。日本仏教が「あきらめ」の無常感を説いてきたのはこの肉体を人間だと思う錯覚から生まれて来たものである。

 蓮如上人の「あしたには紅顔ありてゆうべには白骨となれる身なり、あわれというもなかなかおろかなり」という白骨のご文章は、もっとも日本人の無常感を端的に現わしている。灰になってお終いになるのは肉体という物質であって人間そのものではない。

 
この人生は、肉体という道具を使って如何にして魂を磨くかという一つの舞台である。一つの舞台での表現が終われば、また次の舞台に登場して魂の表現をするのである。
 心の広く大きな人は、舞台全体を自分の魂の表現の場として舞台全体に広く大きく表現するが、心の狭い小さい人は、広い舞台の上の片隅で小さくしか自分を表現しない。


 
その人の性格、ものの考え方は、その人の心の大小の現れである。地球のどこかで悩み苦しむ人があったら、その人の悩み苦しみを自分の悩み苦しみとして感ずることが出来るという人は、全人類と自分とは一体だという大きな愛の心を持っている人であり、隣の人が悩み苦しんでいても何とも思わないという人は狭い心の持ち主であるということである。
 心の広い人は、時間の流れに(したが)って昔から現在へと歴史的なものの見方、考え方をするが、心の狭い人は、歴史的なものの見方、考え方が出来ない。目先のことしか考える力がない。
憑依された人も歴史的な見方、考え方が出来ない。初めと、中頃と、終わりと、言う事が違うという教祖は歴史的な見方、考え方の出来ない心の小さな人であるか、または憑依された人である。そういう人の言っていることは、今言っていることがこの次には簡単にどう変わるか分からないから非常に危険である。
 神理は永遠不滅なのであるから、教義がくるくる変わるという宗教ははっきり言ってニセモノである。


10.ある教師夫人の手紙

 「
4.正法は人生をどのように解決するか」の所で「正法は一体これをどう指導するのか」ということである教師夫人の手紙を載せておいた。異常な現象があるとすぐ憑依霊のせいではと考える人達がある。そういう人達はすぐ「憑依霊を取除けばよくなる」と考える。しかし憑依霊だけを取除いてもよくならないのである。憑依霊を取除いてもその人の心が治らない限りまた憑依霊は憑いてしまうからである。憑依霊を取るという方法は根本的な解決にはならないので、憑依霊を呼び込んでしまったその原因である心を治さないと根本的によくなるということにはならないのである。だから私はその心をどうしたら治せるか、心をどうしたらよくする事が出来るかということに指導の重点を置いているのである。しかし、憑依霊を取るという事をする事もある。それはあくまでも一時の方便である。憑依霊のために心身ともに苦しめられている人は、その苦しみのために冷静に正しく物を考える力がない。そういう人にいくら正法の話をしてみても絶対に耳に入らない。そういう場合に憑依霊を一時取除いて、その人を心身ともにラクにさせて、正法を聴く心の余裕を与える場合にすることがある。

 この教師夫人の手紙のように、夫は自分が浮気するだけでなく妻にも浮気を進める。という人に対して霊能に片寄った考え方をする人達はそれは憑依霊のせいであるというであろう。しかし、この問題は憑依霊のせいではない。性に関する心理的なコンプレックスである。

 我々が人を見る場合、過去が立派であったという人はそれはそのまま賛嘆すればよいが、過去に失敗した、罪を犯したという人があったとしたらその人の過去の失敗や罪によって現在のその人を評価してはならないのである。
愛とは相手の欠点を暖かく真綿で包んでその傷に触れず、その人の本当の魂を見つめてゆくことである。どんな人もみな神の子である。
 過去の失敗によって現在のその人を悪い人だと見てはならないように、自分自身についても過去に失敗したからといって何時までも自分を罪人だと思ってはならないのである。人の罪を赦すと同時に自分自身の罪も自分で赦さなければならないのである。

 過去にどうあったかと言う事によってその人を評価することはやめなければならない。その人が現在どうあるかということを大事にしなければならないのである。

 私はその教師夫人に逢って次のような話をした。

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 「あなたはこんなひどい主人はいないと思っていられるでしょうが、ご主人に浮気をさせているのはあなたなのです。結婚初夜の晩にご主人に性病を移されたあなたの悲しみがどんなものであったか、男の私でも想像できます。そのことでご主人はあなたに大きな負い目を感じてしまわれたし、妻に性病を移したという罪悪感を持ってしまわれた訳です。
 あなたはそれ以来、ご主人を拒否してしまわれた。妻に拒否されてしまった男はどこかに掃け口を見つけることになります。金があれば金で女を買うでしょう。金がないとなれば自分達の行為を自分達で正当化する理由をつけてどこかで発散することになります。
 悪いと知りつつ自分を正当化しようとすることがどんな辛いものであるか。女に弱みを見せたくない男は虚勢を張るものです。どんなに愛する努力をしても妻がその努力に対して喜びの表現をしてくれない場合、男は、自分には妻を愛する力がない、
自分は妻を愛する資格はないと思うのです。愛するが故に別れたくないと思っている夫は、自分の行為が妻を喜ばせることが出来ないならば、妻の喜びのために妻が喜ぶ自分以外の男性を妻に提供しよう、そういう機会をつくってやろうと思うのです。酔ったご主人を送って来られたその友人と関係せよと迫られたということは実はご主人があなたを心から愛していられるその愛の傾倒した表現なのです。普通の人は表面だけを見て心の奥にどういう心が働いているかを知りません。
 夫が自分の代わりに妻を満足させてくれる男を選ぶという場合、その男は自分の分身として自分でも好感を持つことが出来る男性を選ぶのです。
 自分の血も肉体も汚されたという悲しみと怒りとがあなたの心の中にはあるでしょう。
実は夫を赦さないあなたの心があなたの家庭を暗くし、娘が男の人と家出したというその原因も実はあなた自身がつくってしまったのです。四回も手術して自分の身体はずたずたになってしまったと思っていられるでしょう。
しかし二人も立派な子供さんが生まれていられるということは、既にその病気は治っているということではないでしょうか。
 
我々はこの肉体を使い、この地球という環境で魂を偉大に成長させるために生まれて来たのです。死んだ時に一番最初にあの世の入口で聞かれることは、「あなたは、どれだけ人を愛してきましたか」と言う事なのです。愛の行為こそが私達の魂を偉大に成長させるのです。この肉体は、愛の行為を実践することによって魂を成長させるための道具なのです。肉体をどんなに清潔に保ったとしても、心が暗かったら地獄行きです。この肉体がどんなに性病菌によってずたずたに汚されて灰になったとしても、自分をご主人の前に完全に投げ出されることによってご主人の心が満たされ、ご主人のそういう行為がなくなり、ご主人の心が安らかに満たされたとしたら、その方が人生の勝利です。あなたが自分の全てをご主人の前に投げ出されれば、そこから家庭の中に明るさが甦り、娘さんの問題も全部解決します」
 「しかし、先生、私の身体はもう主人を受け入れることは出来ないのです。身体が固くなってしまっているのです」
 「それはあなたの夫を赦さない
心の固さが肉体の固さとなっているので、赦す心になれば肉体は柔らかくなります。我々は魂を磨くためにお互いに相手を選んで生まれてくるのです。肉体はどこでどういう方法で朽ちて灰になってもいいのです。魂が救われて魂が生まれてくる時よりもひと廻り大きく成長してゆけばそれで人生の目的を達したことになるのです。

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 書けばこれだけのことになるが、色々やり取りがあって私達は三時間位話をした。最初は、悪いのは主人です。私は悪くないのですといって、とてもそんなことは出来ないと言っていられたその夫人も、
この諸行無常の世界は、神の子の実在である魂をどのように表現するかというその場所であることを知られ、愛とは、相手のためにどこまで自分を投げ出せるかという事であるということがよくわかり、
 「では、言われた通りやってみます」と明るい顔で帰って行かれた。

 新聞などの人生相談担当者は、心の表面だけを見て常識的な解決しかしない。そういう人達がこのような問題を扱ったとしたら、「すぐ別れなさい」としか言わないであろう。
常識的な解決をしても、魂が成長しなければその指導は失敗である。


11.三界は画師の如し

 
画家がどういう画を描くかは画家の心の中にある。同じ風景を描いても、画く画家の心によって一つ一つ画の味わいが違ってくる。

 この大宇宙は神が創造された。神が創造された地球というキャンバスの上に、肉体という絵筆を持って、どういう人生を描き出すかは、一人一人の心による。どういう人生が現れてきても、それは全て自分自身の責任であって人の責任ではない。自分の運命を人のせいにしている間は運命はよくならない。全て自分の責任だということが分かって努力する時、運命は変わってゆくのである。変えられない運命は一つもない。他力信仰は自分の運命を他に頼って良くしようとするのであるから正しい信仰ではない。信仰は自分でしなければならない。
自分が力を出した時、自分の魂が向上し、魂が向上した結果として良い運命が現れてくるのである。


 一ヵ月目に来た手紙には次のように書いてあった。

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 「お教えを頂いてから一ヶ月余り、あれから全ての物の見方考え方がすっかり変わり、今まで事ある毎に抱いていた疑問も、次々と解かれて行くのが不思議です。今、私の周りの物全てが甦って来るような息吹を感じます。抜けるように青く澄んだ大空を眺めていると、先生との出逢いがこんなにも偉大で私にとってかけがえのない大事なものであったことかと日増しに感じております。
 夫婦の道に教科書というものがあったらと永い間自問自答してきましたが、高橋信次先生がお示しになった”正法”という立派な教科書があったことが身に沁みてはっきりと分かりましたこの私の喜びをご想像下さい。
 振り返るとこの一ヶ月、私自身、生活のペースがすっかり変わってしまいました。変えようとして変えたのではないのです。ごく自然に・・・・・・。
 主人に対して嫌悪感を抱いていたのは事実です。いつも身体が苦痛なので診察に行くと「全然異常なし」とのこと、でも腰が抜けるように痛かったのです。二十年余り続いていた痛さがウソのように消えてしまいました。奇跡といえば奇跡かも知れません。肉の身に囚われないということを感じ取っていたせいでしょうか」

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 完全に夫婦の間は調和し、家出していた娘さんも「お母さん、私が悪かった、許して」と帰って来られて、夫となり妻となり、親となり子となって良かったと今は光明の幸せな生活をしていられるのである。

 
我々の人生の目的は、どんな環境をも魂の栄養として、何事にも動じない安らかな心を持つことである。現実に逃避することも、心の中で夢をつくって観念的に逃避することも、その心を裏返しにすれば、真正面から現実の問題に取組む勇気を持たない、弱い自分、卑怯な自分を自分で認めている事になる。自分の潜在意識の中で自分の弱さを認めていたのではいつまで経っても強くなれない。

 我々の背後には神の大いなる生命力がある。謙虚な明るい心を持つ時、神の大生命力は我々の心を通して神自身の力がそこに現れる。いづれにしても神が実在するということを素直に信ずることが信仰の入門であり、またそれが全てでありあなたが神を信ずる心の如何によって現象は左右されるのである。



 - 終わり -



月刊誌 正法25・26号 (1980.9.10月) より

2012.08.06 UP


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