正法誌 No.165 1992年 5月号 より
高橋信次先生の言葉
【 間違った信仰への警告 】
心の指針 はしがき より
現代の仏教、キリスト教の神理は、ながい歴史的な過程のなかに埋没してしまったといってもいいすぎではありません。それは時の権力者や、宗教家たちの智と意によって解釈され、学問、哲学と化し、人びとの心から遊離してしまったからです。本来、仏教もキリスト教も、人びとの心から」遊離するようなそんなむずかしいものではありません。なぜなら、教えそのものは、人間とはこうしたものだということを、誰にもわかりやすく説いているものにほかならないからです。知情意の情とはどういうものかといいますと、情とは心です。心があってはじめて、知は智慧となり、意は大我となるのです。その情が不在となり、仏教もキリスト教も智と意で勝手に解釈され、自分の都合のいいように書き改められたものですから、いよいよもって、民衆の心から離れていったわけです。
もっとも、それにはそれだけの理由があります。人間は、五官や、六根に左右されるように一面においてできているからです。うまいものを食べたい、いい家に住みたい、偉くなりたい、金を儲けたい、といった自己保存の念が社会生活を営むことによってますます強くなっていったからです。闘争と破壊---その原因をたずねれば、みんなこうした欲望にふりまわされたところにあります。ところが、こうした欲望や本能というものは、人間の生活がこの世だけと自ら限定してしまうところに根本的な理由があったといえましょう。手にふれるもの、眼に見えるもの、耳で聴くものなど感覚の世界にしか人間は、これを認識することができないために、人は現世に執着を持つようになってしまったのです。
しかし、人間は死んでも来世に生きつづけていることを知れば、人びとの人生観はかわるはずです。すなわち、あの世は厳然としてあるのであり、あの世こそ本当の人間の住む世界であり、この世は人間修行の場であり、そうして人間はあの世とこの世の転生輪廻をくり返すことによって、魂の浄化、仏性である己の本性に目覚めるものなのです。苦しみ悲しみの原因は、神性仏性の己自身の「心」から離れた想念行為の結果であり、その苦しみから解放されるには己の心を直視し、心そのものの実体を認識する必要があります。
本書は、そうした意味で「心」とは何か、「正法」とはどういうものなのか、「人間」とはいかなる存在かを概念的ではありますが、そのポイントをしぼって書いたものです。本書を手にされた読者は、本書の真意をつかみ、調和のとれた生活と、平和な社会を築くための心の糧とされんことを願ってやみません。
昭和48年11月吉日 高橋信次
心の指針 心と大自然
裏山の斜面の残雪も消え、黒土の表面に、フキノトウが顔を出していた。春の匂いがのどかにただよっています。
昨年の秋、友人からいただいた大きな庭石を入れたとき、掘りかえされたはずのフキの根がまだ残っていたようでした。傘をひろげたようなフキの葉が、今年も庭の片隅を飾ってくれるかと思うと、その生命力の強さに私はおどろきました。
数日前まで、霜柱の立っていた庭です。その冷えた土の中で今までじっと辛抱して、耐えて来たのです。不平もいわず、黙々と、時の来るのを待ちつづけてきたのです。
私は、まだぬくもりも浅い黒土のなかから、春の陽ざしを求めてゆらめいているフキノトウに心をひかれました。
あと一週間もすれば、小さなつぼみも緑の葉をひろげるでありましょう。
庭石に腰をおろし、大自然の摂理と人生について思索をめぐらしてゆくと、この両者の間には垣根はなく、自然は人間の生き方を身をもって教えていると思われてきます。
1968年3月、私は、人間とはいったい何者なのか、そして人間はいったい、何のために生まれ、なぜ仕事をし、苦しみを背負い、老いて死んでゆくのであろうか、という問題について、様々な角度から追及していたころのことを思い出していました。
ふと斜め右に目を向けると、黒土が妙に盛り上がりながら、芝生のある方向に進んで行きます。もぐらの移動でした。都会ではみられぬのどかな風景です。
空にはひばりが鳴き、雀がさえずっています。
澄んだ空気と、緑と、赤い太陽の下に自分を置くと、いかにも大自然に包まれ、生かされている己を発見して、喧噪の都会では味わえぬ感覚を覚えます。
自然のこうした美しい環境というものは、太陽の熱・光のエネルギーによって育まれる。太陽の偉大さに、いまさらながら脱帽せざるを得ません。
私たちの肉体舟は、その環境に適応して保存されるようにつくられています。
寒い冬は、その寒さに耐えられるように、皮膚はちぢみ、体内温度をコントロールし、反対に暑くなれば、皮膚は膨張し、毛穴から汗を出し、放熱作用をつづけています。
内臓諸器官は常に活動を続け、人体という安定された小宇宙を維持しています。
肉体の諸機能を静かにふりかえりながら、ながめてみると、そこには、〝 神秘 〟という以外、いいようのない偉大な働きを想像することができます。
すなわち、大自然の環境をつくり出している眼に見えない力、全能のエネルギーこそ、神の心の現れでなくて何といえるでしょうか。
そうして、その心の現れこそ、慈悲であり、愛の姿といえるでしょう。
ところで、その心について私たちは、これをどこまで理解しているでしょう。おそらく、心とはこうだと、はっきり答えられる人は少ないのではないでしょうか。
あの人は精神状態が悪いとか、心の広い人だと簡単にいうけれども、では精神とは、心は、となると説明に窮します。
万物が生命と同居してる事実は誰も否定できません。
物理学では、物質がエネルギーと同居している事実を証明し、エネルギーとは仕事を為し得る能力であるとしています。
そうしてその結果、物質はエネルギーであり、エネルギーは物質であるとさえいうことが出来るのです。
目に見られるちがいは、物質という集中された次元と、拡散されたエネルギーの次元の差だけであり、しかも両者は常に併存してるということがいえましょう。
また、物質は不変であり、エネルギーは不滅であるという事実も実証されています。
たとえば、密閉したコップの中にマッチ棒を入れて燃焼させても、全体の重さは変わりませんし、マッチ棒はコップ内の酸素によって燃え、炭素や炭酸ガスに変化しても、全体の重さの変化はおきないということなのです。
私たちの肉体も大自然の中で存在している以上、大自然の法則を無視することは出来ないでしょう。
生老病死という掟を誰も破ることは出来ない事実を知れば、自明の理といえます。
形あるものはいつの日か崩れ去る。しかし肉体も他の物質と同じように、次元の異なった何者かと同居してることになるでしょう。
これを、魂、あるいは意識と名づけてみてもいいでしょう。ちょうど、物質がエネルギーと共存しているようにです。
肉体舟は肉体細胞諸器官の生命活動により安定していますが、舟の責任者は五体を支配する船頭さんである魂・意識の活動によって、生活を営んでいるといえましょう。
肉体舟の欠陥は、五体の各諸器官と船頭さんである意識の相互関係がアンバランスになったときに起こるのです。
私たちの記憶も、既刊の著書の中でたびたびふれたように、頭脳がそれをするのではなく、魂・意識が記憶しているのです。
つまり、肉体舟と意識・魂という次元の異なった世界のものが不二一体となって、生命活動をしている、といえるでしょう。
永遠の生命とは、この世とあの世を超えて、いっさいの記憶を持ちながら生き続けている魂・意識の自分であるわけです。
肉体の生死にとらわれると、死はすべての終わりを意味しますが、肉体を離れた自分を認識し、体験すると、そこに、死のないことに気づきます。ただ、生きている間にこのような体験を持つ者は、ホンの一部にかぎられているため、想像は出来ても、信ずるところまでは、なかなか、いかないようです。
しかし、信じる信じないにかかわらず、人間は、肉体が滅びても死ぬことはないし、死はあの世への誕生といってもいいのです。
私たちは旅行をするときに、いろいろな乗り物を使います。飛行機で飛んだり、自動車に乗ったり、電車を利用したりして目的地に着きます。乗り物はそれぞれちがっていますが、乗っている自分自身は少しも変わらないのです。
魂の永遠の生命、つまり転生輪廻もこれと同じで、自分の過去世は中国で、インドで、あるいは日本人として、生まれ変わって生き続けていますが、自分自身は少しも変わっていないのです。
過去世の記憶をよみがえらす人は非常に少ない。ほとんどの人は現在の生活だけが絶対であると思っています。ましてや未来について語る人は絶無に近い。そのために、無意味な人生を送ってしまっているのです。
過去世の記憶の断絶は、一つには現世は修行の場であり、もう一つは次元の相違がそれをさせているといえます。過去世の記憶がオギァと生まれてすぐにわかってしまうならば、この世に生まれた意義は少なくなります。
もう一つは、ある一定の年令に達しても、なおかつそうした記憶が浮かんでこないというのは、自分の心の中に次元差をつくっているためなのです。次元差とは断絶という壁であり、スモッグです。
そのスモッグは、私たちの思うこと、行うことの、片寄った生活行為がつくり出したものです。
私はその事実を知ったのです。
私は幼い頃から生命の神秘に疑問を持ち、自然科学を通して、精神のあり方について、追及して来ました。追究するたびにさまざまな体験が積まれ、体験を通して、生命のナゾが明らかになって来たからです。
これらについては拙著、『心の発見』神理篇、科学篇、現証篇、それに『心の原点』を参考にしていただければ、ご理解願えると思います。
ともかく私は、こうした体験の中から、人間は魂という意識を持って生きつづける永遠の生命である、ということを知り、限られた短い肉体人生に与えられた己の役割に、全力を挙げてゆきたいと考えるようになったのです。
魂について、さらに明らかになった点は、魂を動かしているものは心であり、心は意識の中心に存在するということでした。
私たちが生活の場の中で、さまざまな行為を指示するものは、意識の中心である心であり、心以外のものは何もないということです。
もっとも私たちの肉体舟は、植物性神経の働きで心臓や内臓器官が動いており、肉体舟全体の行動は、魂の中心である心が支配しています。したがって、心臓や内臓は心とは関係がないとみる人もいるかも知れませんが、心の動きは内臓諸器官に大きな影響を与えています。
植物性神経、つまり自律神経は神から与えられたエネルギーを吸収しながら活動していますが、また、心の波動を強く受けて動いています。
この点については拙著『心の原点』を参考にされるといっそう理解が深まるでしょう。
病気の80%は心因性なのです。
怒ったり、悲しんだり、愚痴ったり、こうした自己保存が重なると、肉体のさまざまな障害が現れ、病気になってゆきます。
心が片寄ると、自分だけの問題なら病気となって現れますが、対外的に影響を与える場合は、事業不振、家庭不和、公害、災害などに発展してゆきます。
物質文明が発達するにしたがって、人間は普遍的な自分自身の心を失い、物質文明の虜になってしまいます。
物質文明は誰のためにあるのか、文明のためか、人間のためなのか・・・・・・。
人間はいつのまにか主客を転倒し、文明に奉仕する人間になり下がっています。愚かというほかありません。
なぜこうなるか、理由はほかでもない「足ることを忘れた欲望」の追求にあるからです。
欲望のためには手段を選ばず、すべてに自己中心的な考えが根底にあるので、世の混乱はいつになっても治まらぬというのが、現実でありましょう。
大自然を見ると、私たちの眼前にひらかれている姿は、法のルールにしたがって、動物も植物も鉱物、も互いに調和されています。
自然は、正しい循環の法、ルールを示し、足ることを知った中道の神理を教えています。
動物は酸素を吸って炭酸ガスを吐き、植物は炭酸ガスを求めて酸素を吐きます。動物は植物を求め、植物は動物の排泄物を栄養源にして育ってゆく。両者の相互共存。これは天の摂理です。
肉食動物は草食動物をやたらと殺しません。腹がいっぱいになれば、目の前の獲物も見送ってしまう。彼らは足ることを知り、自然の環境によって生かされています。したがって、彼らの生活は、人間が踏み込んで荒らさぬかぎり、半永久的に維持されてゆきましょう。
人間はこうしたルールを忘れ、欲望充足に明け暮れています。
そのため、大気は汚染され、河川や大洋までが、工業排水でよごれ、動、植物の生存ばかりか、人間の生存すらおぼつかぬような状態をつくり出しています。
これらは等しく、足ることを忘れた利益追求の人間の在り方に問題があり、今や人類は、大きな壁に突き当たっている、といえるでしょう。
結果は原因なくしてあり得ないし、現実の現象に対して私たちは、まずその原因を取り除くことからはじめねばなりません。
つまり、行為をつくっている心の在り方を正す必要があるでしょう。
拙著『心の原点』では、諸相の根源はどこにあるか、そして人間の在り方、生きる目的、苦しみの原因などについて、つまびらかにしたつもりです。本書を一読されれば、大自然と人間の関係を、ひと目で見渡すことが可能と思います。
ともかく私たちは、まず、自分にウソのいえぬ己の心に忠実になることを心がけねばなりません。
そうして、自己保存、自我我欲という心の公害を取り除かねばなりません。
心の公害は、他人は取り除いてくれません。何となれば、自分の肉体舟の支配者は他人でなくて自分だからです。心の王国の支配者は己であるという自覚を持つ必要があるでしょう。
自分を含めて、自分の周囲で起こったさまざまな諸現象の原因は、他人ではなくて自分にあることを悟るべきです。
今日の社会の混乱と公害問題に人びとが悩むのも、もとはといえば、個人個人の心の公害から端を発していることを知るべきです。
原因と結果の法則は崩すことは出来ません。しかし、この法則を知って調和と明るい世界、環境をつくろうとするなら、この法則の偉大さに気づき、人生の目的は期せずして達成されることでしょう。
1968年7月、心と行いについて、私の心の窓が開かれたとき、私はこうした問題について多くのことを知りました。
私たちの心の中につくり出されたさまざまな心の曇りを除いてゆき、平和な人生を送ることが出来たならば、人びとは人生の偉大な価値を自ら悟ることが出来るでしょう。
庭石に腰をおろし、人生の不安から解放された自分自身を、フキノトウをながめながら、私はしみじみ思うのでした。
園頭広周 先生 解 説
21世紀はホンモノの時代になります。ホンモノの時代とは、人間が大自然と調和して生きる時代ということです。
大自然と調和した宗教
大自然と調和した教育
大自然と調和した政治
大自然と調和した科学、等々
ですから、食べる物も着る物も、住居も、われわれの生きることの一切が大自然とマッチしたというよりは、われわれは大自然をそのまま生きる、そのまま生かすという時代となるということです。
20世紀は、人間が自然を征服できるという発想で開かれた世紀でした。それが今、自然破壊といわれている現象です。
20世紀は、大自然に反した宗教、教育、政治、科学等の時代でしたから、見た目にはいろいろ進歩しているように見えていても人間の心の中には安らぎがなく虚(むな)しさがあるのです。
いくら信仰していても心に安らぎがないのは、それは大自然にそむいた間違った信仰をしているからです。だから本当の信仰をするには、大自然に目を向ける、人体の神秘さに驚くということから始めなければならないのです。ですから高橋信次先生は、
「神を知りたかったら大自然を見なさい。自分の身体を見なさい」
といっていられました。ですからこの号には皆さんの心を大自然に向けることについて書いていられることを紹介しました。
幸福になるには、いま与えられている神、大自然の恵みに、先祖、父母、周囲の人々の恩恵に、そうして、いま生きている肉体に感謝することから始めなければならないのに、最近の宗教はそういうことを教えていませんし、特に霊能力を煽り立てる宗教は絶対にそういうことをやってはいません。
不幸だと思っている人達は、自分が不幸の原因を持っているとは気づかずに、他の人が自分を不幸にしていると考えますから、他の人に対して攻撃的になります。
不幸な人を幸福にしなければなりませんが、幸福感を持ってする信仰が正しい信仰であり、正法会は、常に何らかの点において幸福感を持っている人達の集まりにしなければいけないのです。
うわさや中傷を流して会を混乱させている人達があるのは、そういう人達は皆自分の心の中に不幸だという意識を強く持っている人達です。自分の心の中が空虚であるから、いくら正法の話を聞いても自分の心の中の空虚さを満たすことができないと、少し変わったことをいう人があると、そっちの方へ移ってゆくのです。
今まで「自分は不幸だ」と思いつづけてきた人が運命を転換しようと思う時、まず一番最初にしなければならないことは「今ある幸せに気付いて感謝する」ということからです。
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※ 69ページ 「 宗教の正しさを判断する三十条の基準 」・・・
・・・を良く読まれ誤りのない正しい信仰をされることを願っています。
2014.08.15 UP
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